冥エンド:つながれた小指
入社2年目を越えると仕事が増える。たったそれだけの理由だけど、たったそれだけで時間がなくなる。小説に関わる時間が減る。考える時間が減るってことはそれだけ新しい世界を生み出すことが困難になる。
ただ、それとこれとは関係なく、約束は約束。自分から言い出した以上は果たさなくてはいけない。
と、いうわけで冥エンド。恐らく作成までに一番時間がかかった作品に仕上がりました。
忘れている人も初めての人も、読む機会があればお楽しみあれ♪ 覚えている人はありがとう。貴方にこの物語を捧げます。
あと、田山歴史は元気です。死んでません。たぶん(笑)
注1:ここから先の物語は完全なるアナザーストーリーです。ありえたかもしれない未来、マルチエンディング等が嫌いな方はご遠慮ください
注2:時間の経過、人間関係、周囲の環境の変化などによって人の考え方なんてものは簡単に変わります。20歳越えても成長します。嫌いなものだって数年経ったら食べられるようになってしまうかもしれません。よって、『●●の性格がかなり違うんですけどぉぉぉぉぉ!』 というツッコミは却下です。そういうものとしてお楽しみください。
注3:Aランクエンドです。最終話より4年後の話になります。
エンディング条件。
・本編における黒霧冥の因縁の排除。なお、この条件に関しては高倉天弧の力が及ぶ範囲内の出来事なので自動排除可とする。
・黒霧冥の究極メイドフラグ成立(執事スミスとの対決に敗北し生存すること)。
・オーレリア救出作戦失敗(四人揃わないと自動失敗というか発生しない)。
・上記作戦失敗による双剣の一時継承。
・好感度に関しては本編参照のこと。見れば分かると思うが、天弧−冥に関しては天井知らずにバカスカ上がるので今回は度外視とする。
・あとは……まぁ、高校編で舞さんとのフラグを立てないように頑張るべし。
以上を踏まえて、ご覧下さい。
Aランクエンディング・冥編:つながれた小指。
野を越え山越え谷越えて、七つの海を越えた先、黄金郷のその向こう。
世界の彼方のその先に、ぽつんと城が一つだけ。
どこの誰にも見つからぬ。理想の果てのその先に、お城はひっそり建っている。
だってそうだろう。全ての人がその前に足を止める。野で平穏に屈し、山を登れずに諦め、谷を越えられず挫折し、海の暮らしも悪くないと言い聞かせる。
黄金郷を見つけた者もその先の道程などに興味は持たない。
だから誰にも見つからぬ。そこは一つの理想郷。猫が愛する白き城。
その名も名高きダイにゃんこキャッスルである。
電車を乗り継いで3時間。腰が痛くなった頃に到着した駅は改札と切符売り場が一つあるだけの無人駅だった。
「よいしょっと」
荷物を電車から降ろして、私は一息ついて歩き出す。
手荷物はトランクが一つだけ。迎えはあるはずだけど、あくまで極秘裏に。今回のミッションは私の命を賭けるに値する、それはそれは重要な任務なのだ。
「しっかし……なんていうか、本当になんにもないわねここは」
周囲に広がるのは田んぼやら畑やら……田んぼやら畑やら。あ、民家発見。
私が今いるのはドがつくほどの田舎で、便利さや過ごしやすさといったものからかけ離れた、ごくごく普通の農村だった。
「うーん……見渡す限りの緑一色ってのもなかなかオツなもんね」
もちろん駅にタクシーが停泊しているわけもなく、周囲に宿泊施設のようなものがあるはずもなく、それどころか道路標識すらもほとんどない。道はおせじにも広いとは言えず、普通乗用車よりも原付バイクの方が多いという有様だった。
少なくとも、私はここじゃ生活できない。せめてネットができる環境か近くにコンビニがないとかなりきつそうだ。
……うん、あいつがいたら間違いなく苦笑してやがることだろう。忌々しい。
と、私が妹の彼氏の憎たらしい笑顔を思い出していた、その時。
「やっほー、まーいちゃーん!」
馴れ馴れしいというか腹立たしい、旧友の声が響いた。
声の方向に振り向いて、私は思わず口元を引きつらせる。
煌びやかな色彩の和服に、艶やかな黒髪を後ろで結い上げた美少女。瞳は大きく顔立ちは細く、羨ましくなるくらいに仕草が色っぽい。正確には私と同じ20歳だから美女と形容すべきかもしれないけど、精神年齢と見た目を重視してあえて美少女と呼ぼう。
彼女の名前は刻灯由宇理。見た目だけなら完全無欠の日本系和服美女。
あいつが好みそうな強くて弱い女。
まぁ、それはともかく。……私は、その時信じられないモノを目にしていた。
「由宇理。あんたの乗っているそれはなに? リサイクル原料かなんか?」
「あたしの車ッスよ。去年中古で買ったんスけど、これがなかなかいい走りを見せてくれるんだよねぇ」
車。自家用車。愛車。ぐるりと思考を一回転させて、私は思わず頭を抱える。
バンパーは修復不可能なまでに陥没し、ドアは開くのか開かないのか分からないくらいの半壊状態。屋根はなぜか根こそぎ吹き飛び、鼓膜を破壊するかのような嫌なエンジン音が鳴り響く。タイヤのサイズが微妙に違うのか、走る度に奇妙な振動を起こしているあたりが、その物質がまごうことなき廃棄物であることを物語っている。
いや……えっと、なんていうか。
私は車好きでもなんでもないし、走ればなんでもいいやと思ってるケド、いくらなんでもこりゃねーだろという有様だった。
「由宇理。とりあえず、ドライバーチェンジ。私が運転するから」
「ふ、さすがは舞。あたしの愛車を速攻で運転したくなるだなんて素晴らしい。狐なんて思い切り顔をしかめながらあからさまに舌打ちとかしやがるんスよ」
「……まぁ、とりあえず鍵貸して」
狐と呼ばれた彼の気持ちは痛いほど良く分かったが、あえてここは口には出さない。
廃車寸前の車を見れば分かる。恐らく、由宇理は凶悪なまでに車の運転が下手だ。機嫌を損ねて『あたしが運転するッス』などと言い出された点で、確実かつ濃厚な死が待ち受けていることだろう。
由宇理から鍵を受け取って、私は運転席に座る。
外見とは裏腹にキーを差し込んでひねると、やっぱり嫌な音を立ててエンジンが始動。幸いなことにクラッチの操作が面倒なマニュアル車ではなく、普通のオートマ車だったので車の運転は簡単だ。ブレーキを踏んでギアをドライブへ。
と、アクセルを踏み込んでから、奇妙な違和感に気づいた。
「……あの、由宇理?」
「なに?」
「なんていうか、その、ブレーキがスカスカするんだけど?」
「ああ、ブレーキはぶっ壊れてるから静かにぶつけて止めるのがコツッス」
「いやああああああああああああああああああああっ!?」
ありえない言葉を聞いて、私は思わず叫んでいた。
その時には、スピードメーターの数字は既に時速60キロを指していた。
死を覚悟した時速60キロを通り過ぎ、ようやく時速10キロになった時点で、私は安堵の溜息を吐いた。
時速10キロというのは下手をすると自転車にも追い抜かれてしまう速度だけど、命に比べれば自転車に追い抜かれようが、そんなものは屁でもない。
「ずいぶんと安全運転なんスねぇ。ちょっち驚いちゃった」
「……八つ裂きにしてやろうかしら、このアマ」
「あっはっは、相変わらず冗談が上手いねぇ、舞ちゃんは」
朗らかに笑われ、私は思わず由宇理の首を絞めそうになったけど、理性を総動員してなんとか自分を押さえつけた。
今、由宇理を殺すのは簡単だけど、それをやってしまうとのどかな田舎で一人ぼっちという最悪の事態に陥ってしまう。由宇理の案内に従って車を走らせてきたけれど、森に入って抜けた時点で私の方向感覚は完全に失われている。元来た道がどこかも、ここがどこかも分からない。
「あのさ、由宇理。一応確認しておきたいんだけど本当にこっちでいいの?」
「道筋としてはちょっとずれてるッスけど、買い物とかしなきゃいけない場合はこの道が一番近いんスよ。舞ちゃんだって再会の記念にお酒くらいは飲むでしょ?」
「んー……お酒は一応持ってきたけど」
「ほぅ。私なんて最近は飲まないとやってらんないッスよ」
「なんか嫌なコトでもあったの?」
「いや……なんつーか、最近ちょっと色々と悩み事があって」
「へ?」
由宇理が悩み事とは珍しい。雪でも降るんだろうか?
と、私が失礼なことを思っていると、いきなり某怪盗三世のテーマソングが大音量で鳴り響いた。
一瞬音に反応して携帯電話に手を伸ばしそうになったけど、ふとあることを思いついて手を止める。
30分ほど前に確認したけど、このド田舎では携帯電話なんて使えないはず。コンビニはないわ、今も見渡す限りの田んぼと民家がぽつぽつあるだけという文明から遠く離れた異空間。もちろん、異空間なのだから携帯電話はいつでも圏外だ。
その異空間の中で、由宇理はポーチから携帯電話を取り出した。
「はーい、こちら由宇理。……って、香純ッスか? ああ……まぁ、わりと退屈だけど悪くはないッスよ。え? 早く帰って来い? いやぁ、まだちょっと色々あるしもう少し……へいへい、りょーかい。来週には一旦戻るから。うん。あー……じゃ、とりあえず切るわ。うん。はーい。じゃあ、そっちはよろしく。ばーい」
端で聞いてても普通の会話だったけれど、由宇理は携帯電話を切ると同時に思い切り溜息を吐いた。
「うー……やっぱり帰らなきゃいかんのか。面倒ッスねぇ」
「わりと楽しそうみたいだったけど、不満でもあるの?」
「んー、まぁちょい説明が難しいんだけど、あたしは今とある芸術家の家に居候させてもらってるんスよ。今の電話の相手は、その芸術家の恋人ッス」
「……なんか複雑そうね。芸術家って確か友樹の妹さんでしょ?」
「そうッスよ。あたしにメイド服を無理矢理着せようとしたりするのが玉に瑕だけど、それ以外はわりと普通の人ッス」
「メイド服を無理矢理着せようとする人類は普通とは呼ばないわ!」
「ちなみに、厄介なのはどっちかっていうと恋人の方で、私がメイド服を着ているとなんだか嫌なコトを思い出しちゃうらしく、すぐに騎士剣で刺しに来るんスよね」
「刃傷沙汰どころの話じゃないわよそれは!」
どうして私の周囲の人間はロクな人生送ってないんだろうか?
ちなみに私は違う。違うったら違う。今回のだって大学が夏休みに入ったから、妹とその彼氏であるスットコな男がどうしているかをちょっと見に来ただけだ。
「……ねぇ、由宇理。狐と冥ちゃん、今どうしてる?」
「仲良くしてるッスよ。時折喧嘩もしてるけどじゃれあいの範疇ッスね。ま、メイドとご主人様で彼氏と彼女なんだから、その程度は問題ない。問題があるとすれば……城の住人に対してちっとも優しくないことくらいッスね」
「城の住人?」
「ま、見てのお楽しみってことで」
由宇理はそう言って苦笑した。
なんのことだかよく分からなかったけど、私はとりあえず口元を緩める。
仲良く楽しくやっているのなら、それで十全だ。
風は心地よく、風景は穏やか。車は砂利道をガタゴトと揺れながら進んでいく。
さて、それじゃあ久しぶりの里帰りといきましょうか。
外から見ればそれなりに広い邸宅。塀にぐるっと囲まれた日本家屋と道場と温泉。縁側と門のあたりには、今日も日向ぼっこの猫でごった返している。
そこが今の僕の家。青い猫に無理矢理押し付けられた、その名も高きダイにゃんこキャッスル。唯一にして無二の、猫の城である。
畳敷きの道場で、僕は彼女と向かい合っていた。城と同じように青い猫が僕に押し付けた少女で、名前を氷雨影文という。
「いつでも来ていいよ、氷雨ちゃん」
「……分かっています」
氷雨ちゃんは目を細めて、僕を見つめている。
漆黒の髪をうっかり冥に切らせてしまったせいでおかっぱにまとめられた彼女は、見た目は10人中5人くらいが美少女と言うだろう顔立ちをしているが、目が鋭すぎるのと、生真面目が行き過ぎているせいで、どうにもお堅い印象を受ける女の子だ。
胴着と袴という、ちょっとした格闘をするにはちょうどいい服装の彼女は、摺り足でジリジリと間合いを詰めてくる。
言うまでもないことだけど、単純な身体能力では僕は彼女に敵わない。
それでも、彼女は僕に負け続けている。
僕は眼帯をつけたままのハンデ付きなのに、負け続けている。
「氷雨ちゃん」
「なんでしょうか?」
「もういいや」
「え?」
その一瞬で十分すぎた。
僕はあっさりと間合いを詰めて、氷雨ちゃんの腕を取って引っ張る。
「ひゃんっ!?」
引っ張ると同時に、彼女の足を払って転ばせた。
人を投げて転がすのは難しい。力を加えれば反射的に抵抗するし、抵抗している人間を倒すというのは困難を極める。それを覆すのが、技術というものだ。
彼女は人になってから日が浅い。そして、経験値では圧倒的に僕の方が上だ。
「なんつーか……ね。一言でも二言でも言いたい気分だけど」
「……どうぞご自由に」
「はっはーっ! 僕とまともに闘り合おうなんざ100億年早いんだよアホ猫が! 大体、中学生程度の体格の女の子が、まともにやって20歳成年男子に勝てるとでも思ったのかっつう話だよ? アレか、この師匠を越えなきゃ私はお役目を果たせないとかそんな感じ? 自分は特別意識丸出しでちょーみっともねぇ! おまけに僕ごときにこんなに簡単に負けちゃってあーもう笑うしかねーよ、ひゃーっはっはっはっァ!!」
「どこの悪役だアンタはあああああああああああああああああああ!」
懐かしい声と共に、僕の後頭部に衝撃が走る。咄嗟に手を伸ばして受身を取りながら地面を転がったおかげでダメージは少なかったケド、下手をすれば死んでいる。
と、そこで不意に気づく。この一撃は高校時代によく食らっていたものにそっくりだった。
「むぅ、この蹴りの速度と的確な一撃は……もしかして、舞か?」
「残念ながらその通りよ、この馬鹿男! 本当はこっそり様子見るつもりだったけど、いくらなんでも虐待を見過ごすほど、私は人間捨ててねーのよ!」
「虐待とは失礼な。これは度の過ぎた悪ふざけだ」
「自覚があるぶん悪質じゃない!」
ごもっともな言葉だった。
まぁ、虐待に見えても仕方がないのかもしれないが、一応こちらにも言い分ってもんがあるわけで。
僕はゆっくりと息を吐いて立ち上がり、まだ倒れている氷雨ちゃんを見つめる。
「氷雨ちゃん。一応言っておくけど、やりたくないならやらない方がましだ」
「………………」
「反論がないようなら今日はこれでお終い。汗流しておいで」
「……はい、師匠」
氷雨ちゃんはぐったりとうなだれながら立ち上がり、唇をきつく噛み締めて道場を出て行った。とてもとても悔しそうだったけど、僕からはなにも言えない。
氷雨ちゃんから目を離して舞に視線を戻すと、やっぱりというか案の定というか、舞はとても怒っているようだった。
「で……一応聞いておくけど、遺言はある?」
「冥ともっといちゃらぶしたかった」
「……前々から思ってたケド、テンは本当に開き直ると羞恥心とかそのあたりの大事なことを全部無視するのよね。……ったく」
舞はゆっくりと溜息を吐いて、僕を真っ直ぐに見つめた。
「久しぶり。元気だった?」
「うん。そっちも息災みたいでなによりだ」
少しばかり懐かしくなって、僕は口元をつり上げて笑った。
舞はいつも通りに僕を睨みつけるだけだった。
「それで……テン。冥ちゃんが来る前に聞いておきたいんだけど、アンタ今なにやってるの? 京子さんも美里さんも、テンが急にいなくなって心配してたんだから」
「別に失踪ってわけでもないんだけどね。まぁ……なんていうか、せっかく冥とずっと一緒にいるって誓ったわけだから、今まではできなかったことをやってやろうと思って」
「今まではできなかったこと?」
「そう。……あの人がいて、みんながいた時にはできなかったこと」
原点回帰にも程度ってもんがあるけれど、僕はそれがやりたかった。
下らなくて楽しくもない。それでも、冥がやりたいことと僕がやりたいことは重なっていて、ずっと一緒にいたいという願いも同じだった。
だから……この城を引き受けた。
代行だけど、あの青い猫の役目を請け負った。
「今の僕は、メイドという名の可愛い妖精を笑顔で騙す極悪人。猫の城の主にして正義の代行者さ」
馬鹿馬鹿しいほど大げさな名乗りを上げて、僕はいつものように笑った。
テンに案内された部屋はそこそこ広い畳敷きの客間で、よく手入れが行き届いているのか埃一つ落ちていなかった。
トランクを下ろして、私はぼんやりと窓から外を見つめる。
緑ばかりの、面白くはないけどのどかな風景が広がっていた。
「正義の味方……ね」
あいつらしいと言えば確かにらしい。
妹の彼氏である高倉天弧という男は、子猫の皮を被ったエイリアンのような男で、基本的には誰にでも優しそうに振舞っているくせに誰よりも厳しい。もちろん女の子にも容赦がない。例外なのは家族と、冥ちゃんと、私を含めた昔の友達くらいだろう。
ひねくれ過ぎて一周して捻れながら真っ直ぐになったような男なのだ。
「なんか、妹にものすごい貧乏くじを引かせてしまった気分」
正義の味方。正義を守る人。
テンにとっての正義とは、恐らく自分の好みに合わない全てと、冥ちゃんと、あとは女子供に害を成す全部だろう。
あの氷雨ちゃんと呼ばれていた女の子にどんな事情があってここにいるのかはいまいち分からないけど、多分それもテンの好みに合わないことなんだろうと思う。
「ホント……毎度毎度面倒なことしてるわよね、あいつも」
ゆっくりと息を吸って吐いて、私は外の景色から目を逸らす。
さてと、極秘任務も失敗に終わったところだし、それならそれでプランを変更。なんと言ってもここには体の疲れに良く効く温泉があるらしい。
途中で立ち寄った店で買ったタオルセットを手に、私は部屋を後にする。
と、廊下に出ると、なぜかそこには毛並みの青い可愛い猫がいた。
「にゃあ」
まるで挨拶するように一声鳴いて、猫は私の顔をじっと見つめる。
むぅ……可愛い。可愛いけどここは撫でてはいけない。人間というか全ての生き物がそうであるように、頭の上に手の平をかざすようなことは攻撃を意味する。
とりあえず、威嚇しないように「にゃあ」と返して手を振っておいた。
「にゃーん」
「はいはい、私は今からお風呂に行くから、また後でね」
足にすり寄ってくる猫を適当にいなしながら、私は歩き出す。
しかし……最初に見た時から思っていたけれど、この家には猫が多い。門のところにもたくさんいたし、縁側のあたりなんて猫でごった返していた。
……近くにキウイかマタタビの木でもあるんだろうか?
「ん?」
考え事をしていた私は、不意に足を止めた。
窓からは縁側が見える。縁側は相変わらずたくさんの猫が丸まって眠っていた。
そんな中で一人だけ起きているのは柱にもたれかかったままあぐらをかいてハードカバーの分厚い本を読んでいるテンで、あぐらをかいている彼の足にしがみつくように、猫の顔がプリントされた甚平を来た女の子が幸せそうに眠っていた。
言うまでもなく、女の子は私の妹だったわけで。
「……ま、私の目も節穴じゃなかった、かな」
自然と口元が緩む。
昔、幸せになりたいと祈った時期があった。
たくさんの人を殺して、手を真っ赤に汚して、心を磨耗させて、それでも生きようとした。生きる資格なんてとっくのとうに失っていたことは分かっていたけれど、それでも生きようとした。誰も殺したくないから誰かを殺して、血で血を洗って生き続けようと足掻き続けた。私も冥ちゃんも、誰かを殺して生きてきた。
そんな時に、私たちはそいつに出会った。見るからにお人好しなそいつを利用してやろうと私は近づいた。いざとなったら殺してお金を奪って逃げてやるくらいのことは思いながら、同情を引くように――取り入った。
馬鹿馬鹿しいことに、そいつはそんなこと全部お見通しだった。
生き抜くために選択肢がないなら、別に誰を殺してもいいだろうとそいつは言った。
責任を背負うのは自分自身なのだから、なにをしてもいいのだと。
甘くもなんともない厳然たる事実。人を殺した痛みと重みも背負っていけばいいとそいつは言い放った。
重みに耐え切れなければ、死ぬだけだというのに。
自業自得の繰り返し。一歩でも踏み外せば地獄に落ちるサーキット。自殺するように回路を回し、邪道も正道もお構いなしに、破綻していることを自覚しながら、そいつは歩き続けて走り続けた。自分の大切なものに引導を渡しても、生き続けた。
誰よりも優しく強く在るために。
誰かのために、生きていた。
「……さて、と」
感傷に浸るのはここまでにしておこう。私には色々とやることがある。
まずは温泉に入る。それから夕飯の天ぷらを食べて、高校の思い出話に花を咲かせたりなんかしながら、今のことを話そう。京子さんはなぜか日本酒とか本格的に作ってるし、美里さんは意味不明にも私と同じ大学生なんてやってるし、陸は色々と追い詰められてるし、章吾さんはまぁ色々と楽しそうな日々を送っているみたいだし、虎子も楽しそうだし、委員長こと恵子だってそうだ。
楽しかった日々と楽しくなりそうな日々に、想いを馳せるのも悪くはない。
「まぁ……その前にちょっとだけやりたいことができたみたいだけど、ね」
人の気配がしたので振り返ると、そこには胴着姿の可愛らしい女の子がいた。
テンには氷雨ちゃんと呼ばれていた女の子。どういう経緯でここにいるのか、どういう女の子なのかも私は知らない。はっきり言ってしまえば私には一切関係ない。友達の知り合いの女の子程度の間柄でしかない。
それでも……口出ししたくなるのは、性分か因果か。
私が振り返ると、彼女は何事もなかったかのようににっこりと笑った。
「こんにちは、お客様。先程は見苦しい所を見せてしまい申し訳ありません。私の名前は氷雨影文。この城にて奉公を行っている黒猫です」
「こんにちは。私の名前は黒霧舞。大学生よ」
「ダイガクセイ?」
「ただの肩書きで世間的にも意味はないことよ。あんまり気にしないで」
うーん……どうやら、色々とものを知らない子らしい。世俗に疎いというか、知りたがりというか。昔の冥ちゃんにちょっと似ているかもしれない。
……あることないこと吹き込んだら楽しそうだけど、テンに怒られそうだ。
「それで、氷雨ちゃんは私になにか用事があるのかしら?」
「え? いえ、挨拶に伺っただけで特別な用事はないんですけど……」
「ふぅん?」
私は目を細めて彼女を見つめる。
彼女は、丸い目をこっちに向けるだけだった。
仕方なく……流儀ではないけれど、私は自分から切り込むことにした。
「ねぇ、氷雨ちゃん。ちょっと聞いていいかしら?」
「なんでしょうか?」
「やりたくないならやらない方がましって、どういうこと?」
「………………」
案の定、氷雨ちゃんは黙ってしまった。
まぁ、話したくないことだとは予想がついていた。最初から予想ができていた。
彼女がテンと向かい合っている時には、もう分かっていた。
「話したくないなら話したくないでいいわ。これはただの私の見解。私はね、やりたくないならやらない方がましなんて思えない。世の中ね、やりたくないことでもやっている人の方がたくさんいる。自分の責任で、自分の仕事で、だから自分が果たさなければならないって思って、歯を食いしばって、精一杯やっている。……私はね、そういうのでもいいと思うの。逃げ出さず、強がっていてもいいと思うの」
「……知ったような口ぶりですね」
「知らないからこそ知ったように喋れるのよ」
私は口元を緩めて、パタパタと手を振った。
「知らないから無責任なことが言える。知ってしまえば責任を負う。知っていてなお無責任なことが言える人間は死んだ方がましなタイプの人間だから相手にしなくてもいい。……私は、そこまで愚かなつもりはないわよ」
「………………」
氷雨ちゃんは目を伏せる。眉間に皺を寄せて考えているようだった。
やがて――彼女は、口を開いた。
「私たち氷雨一族は代々ある血筋の人間を見張っています。その人間たちは本来は人間ではありませんでした。猫が彼等と出あった時、彼等は人の戦神でした。アヤカシを殺すために生まれた一族でした。殺すために生まれたのに一匹の猫又を助けてしまいました。自分の命を犠牲にして、氷雨一族を助けてくれたのです」
それは、よくある話だった。
助けてくれたから恩義を返す。ただそれだけのいい話だった。
役目を背負う者の心を無視した、都合のいい話だった。
「父様もお祖父様も、先祖代々に渡り私たちは彼等に仕えて恩義を返してきました。彼等が暴走すれば身を挺して護ってきました。それは私たちの誇りです。何事にも換え難い、私たちが守ってきた……誇りなのです」
「……そうやって、自分に言い聞かせようとした?」
「っ!?」
先回りした私の言葉に、氷雨ちゃんはとても驚いていた。
ホント……なんていうか、テンが放っておけなくなるのも頷けるってもんだ。
この子、事情は違うけどウチの妹にそっくりなんだもの。
「お家の事情とか、誇りとかそういうもので自分を納得させようとしてるみたいだけど、それじゃあ氷雨ちゃんは納得できないでしょう? 今の状態で氷雨ちゃんは彼等を守り切れると思う?」
「…………いえ、できないと思います」
「やりたくないことをやっている連中だって、多少なりとも自分なりに納得やけじめをつけて仕事をやってるもんよ。逆を返せば、納得しなきゃ人は仕事なんてできない」
大人だって子供だってみんなそうだ。友達がいなきゃ学校に行かないし、お金がもらえなきゃ仕事になんて行かない。逆を返せば、理由と覚悟と納得さえあれば人間は地獄の中だろうとも不敵な笑顔を浮かべて生きられる。
そう――氷雨ちゃんに必要なのは納得だけだ。
ほんの少し考えて、私は口元を緩める。二番煎じだけど、これはこれで悪くない。
「そうね。……いっそのこと、キャラクターを偽ってみるのも悪くないわ」
「へ?」
「たとえばそうね……鎖かたびらに草鞋に覆面。そんな奴がある日高笑いと共に『お主を守りに来たでござる』とか言い出したら氷雨ちゃんならどう思う?」
「……えっと、帰れって言うと思います」
「でしょ? そこまで阿呆っぽい奴を側に置いておく理由なんてこれっぽっちもないし、逆に守って欲しいとも思わない。……でもね、もしも、もしもそいつがとんでもないお人好しで、無理矢理家に居座る忍者を追い返すこともできず、捨てられている猫をうっかり拾っちゃうような奴なら……それは、守る価値のある奴だと思わない?」
「………………」
無茶苦茶な言葉を、氷雨ちゃんは唖然としながら聞いていた。
まぁ……昔私がやっていたことの焼き直しで二番煎じだけど、妹がこの方法で可愛くなった上に彼氏まで作っちゃったんだから、あながち間違った方法でもないと思う。
私は口元を緩めて、氷雨ちゃんの頭をポンと叩いた。
「ま、重責とか責任とか家の事情とか誇りとか、とりあえずそういうのは置いて、まずは氷雨ちゃんが納得できるように、好きにやればいいと思うわよ」
「……好きに、ですか?」
「うん。だってそっちの方が楽しいでしょ? やっぱり楽しいのが一番よ」
「………………」
嫌々だろうとなんだろうと、途中で楽しくなれば問題ない。
一度きりの人生だ。多少は楽しくなければ罰が当たるってもんだろうし。
うん、そうだ。この子にはもう少しばかりその辺のことを徹底的に叩き込んでやらなくてはならないだろう。
私は氷雨ちゃんの肩をがしっと掴んで、にやりと笑う。
「まぁ、色々と言いたいこともあるし、甘ったれた根性を叩き直す上でも裸の付き合いってのは欠かせないと思うわけよ。……というわけで、ちょっと温泉まで付き合いなさい。背中くらいなら流してあげるから」
「え、えっと……実は私お風呂はちょっと苦手で」
「うん、分かった分かった。おねーさんに全部任せておきなさい」
「ちょっ!? なんですかこれっ! ゆ、指一本動かせないんですけど!」
「技術としてはあんまり大したことない黒霧流拘束術だから心配しないで。ちゃんと後で解いてあげるから」
「にゃあああああああああああああああああああああっ!!」
私にズルズルと引きずられるまま、氷雨ちゃんはちょっと涙ぐんでいた。
さて、お風呂の友も見つかったところで、日常の疲れを癒しに行きましょうか。
既に日は落ちて周囲は真っ暗。昼間は猫でごった返すこのお城も、今は僕の他には冥も含めて4人しかいない。もっとも、普段は4人な上に氷雨ちゃんはあまり話したがりではないので、由宇理がしゃべりまくる食卓なのだけど。
ちなみに由宇理はちょっと買出しに出かけているので今はいない。代わりに冥の話し相手をしているのは舞だった。
「へぇ、京子さんってお酒造ってるんですか?」
「うんうん。なんだか急にはまり始めたらしいのよね。あ、ちなみにチーフは大学生やってて……私と同じ学年だわ」
「相変わらずチャレンジャーですね。チーフは」
舞の話を聞いているのは、僕のメイドこと黒霧冥。黒縁の眼鏡に黒いワンピースに白のエプロンドレスというオーソドックスなメイド服にヘッドドレスと袖にはカフスという、まさしく『メイド』と呼ばれるにふさわしいいでたち。
僕の彼女というか伴侶というか……まぁ、そういう大事な存在。
ちなみにメイド服は僕の趣味ではなく彼女の趣味なので、勘違いしてはいけない。
……和服とか着てくれないんだよなぁ。
そんなことを思いながらも、包丁を動かす手は止まらない。
この辺は子供の頃からの習性のようなもので、もう目をつぶっててもオムレツくらいなら作れるんじゃねーかと思う今日この頃。
というわけで、今日の夕飯は農家からのおすそ分けがあった山菜の天ぷらと、これまた近所の農家からおすそ分けのあった鶏の胸肉を使った唐揚げと真っ白いご飯と豆腐とワカメの味噌汁で、材料が新鮮なおかげか僕のように適当に料理を作ってしまう人間でもかなり美味しく作れてしまう。
その鶏さんが今朝まで存命だったことはもちろん承知の上だけど、それでも美味しいのだから仕方ない。
命を美味しくいただこう。それが、生き行く者の責任ってもんだ。
そうこうしている間に唐揚げと天ぷらが完成。気がついてみると油ものばっかりのような気がしないでもないけど、そこは素材の新鮮さで補ってもらうとしよう。
食卓におかずを運ぶと、舞はちょっと嬉しそうに口元を緩めた。
「お、相変わらず美味しそうなもん作るわねアンタ」
「唯一の取り得みたいなもんだからね。あ、天ぷらの方はお茶漬けにしてちょいと醤油足らしても美味しくいただけるから」
「冥ちゃんにご飯とか作ってもらわないの? メイドなのに」
「ウチの食卓は基本的に交代制になっているのです。明日は私が作りますよ」
冥はにこやかにそう語っていたが、ご主人様に作ってもらったご飯の方が美味しいというよく分からない理由で決して台所に立とうとしないことはあえて言うまい。
家事もきっちりこなすし、とてもよく働いているし、料理を作らせればかなり美味しいものを作ってくれるのだけど、なぜか作ろうとしない。
前に一度聞いたことがあったけど、その時は『誰かに作ってもらった料理の方が100倍くらい美味しいので』とかなんとか。
気持ちは分からないでもないけど、果たしてそれはメイドとしてどうなんだろうと思う今日この頃。。
「じゃ、そういうことでいただきます」
「いただきます」
「いただきまーす」
「…………いただきます」
珍しくご飯の前にお風呂に入った氷雨ちゃんは、なんだかぐったりしていたがそれでも食欲はあるのか、脱力しながらも唐揚げに箸を伸ばしていた。
僕も負けずにふきの天ぷらに箸を伸ばすと、不意に舞が口を開く。
「ねぇ、テン。こっちの近況の方はさっき話した通りなんだけど、そっちはなんか変わったこととかあった? 私が聞いて面白い話とか」
「面白い話ねぇ……」
はて、なにか面白い話なんてあっただろうか。
みんなと連絡を取り合っていないわけでもなく、親友どもともちょくちょく遊びに行ったりもする。かといって冥を放っておくこともなく、わりと生活の方は楽しい。
なにから話したものかと少しばかり悩んでいると、不意に冥が口を開いた。
「ほら、ご主人様。最近とてもめでたいことがあったでしょう?」
「めでたいこと?」
「赤ちゃんができたじゃないですか」
にこにこと、冥はとても嬉しそうに笑いながら言った。
うん、そうだね。確かに最近子猫が生まれた……でも、ちょっと待て。
そのタイミングでその言葉は確実に誤解をぐぇ。
言い訳無用とばかりに、いつの間にか僕の首に細い糸が巻きついている。
舞の方を見ると、見る者を凍りつかせる恐ろしい笑顔を浮かべていた。
「はーい、みんな集合〜♪ 黒霧舞ちゃんのKILLING TIME、はっじまっるよ〜♪」
「……ちょ、待って。身に覚えはまだないっていうか」
「嘘を吐きなさい、ハゲ男。20歳男子がメイドとか側に置いて手ェ出さないわけないでしょうが。むしろそっちが自然よ」
舞はきっぱりと言い放った。容赦もなにもあったもんじゃない。
昔とは正反対だが、それ故に舞はさらに苛烈に僕を締め上げる。
「それとも……アンタまさかこんなに可愛い子が側にいるにも関わらず、まだキスしかしてませんとか、そーゆーふざけたコトを言うんじゃないでしょうね?」
「い、いやぁ、そんなコトはないですよ?」
まぢだ。舞の目はまるで笑っていない。もしもここで『いや、別にそーゆーのは24歳くらいからでよくね?』などと下手なコトを言えば僕の首が飛ぶ。
既に話がすり替わっているけれど、舞はそんなことはまるで気にしないだろう。むしろ彼氏彼女になって4年も経つのになにやってんだお前はと言われた後で、見るも無残な残虐極まりない方法で殺されそうだ。
「で、冥ちゃん。テンはこう言っているけど実際のところはどうなの?」
「んー……普段は物腰柔らかく、僕のメイドとかほざいているわりに独占欲は薄く、むしろ人に尽くすことを是としているようなきもーいご主人様です」
「女々しいにも程度ってもんがあると思わないかしら?、ねぇ、テン?」
放っておいてください。自分でもはっきりと自覚しておりますとも。あと、さりげなくきもーいって言うな。20歳でも普通に傷つくわ、その暴言は。
が、僕の心の中の葛藤を他所に、冥はグラスに注がれた透明な液体を一息で飲み干して、思い切り、深々と、溜息を吐いた。
「お風呂上りとか平気で上半身裸だったりしますし。料理をしている時の背中とか……なんていうか、確実に狙ってますよね。生殺し過ぎです。一体私にどうしろっていうんですか! もういっそ押し倒せとっ!?」
「冥。なんか酒臭いんだけど、今飲んでるそれって日本酒じゃ……」
「京子さんからのお土産よ。『面白そうだから持って行け』って、言われたから」
言いながら、舞はにやりと悪魔的に笑う。
「あらかじめ言っておくけど、冥ちゃんはもうアンタのもので、アンタはもう冥ちゃんのものだからね。テンが冥ちゃんを泣かすんだったら殺しに来るけど、それ以外はなにをしてても構わない。ただ……甥っ子か姪っ子の顔を早く見たいとは思ってるわけよ♪」
「……その前に自分の彼氏とか探した方がいいんじゃ」
「それはそれ! これはこれ!」
うっわ、断言しやがったよこの女。
なんというか……相変わらずというか、冥とは逆のベクトルでいい女だなぁ。このままじゃ嫁の貰い手がなさそうなのが唯一の欠点だ。
「テン、あんたなんか失礼なこと考えてない?」
「あっはっは、気のせいだよ。あと、舞が飲んでるそれってお酒じゃないか?」
「大学生なんか飲まないとやってられないっつーのよ! あははははは!」
「お姉ちゃんばっかりずーるーい! 私もごひゅじんはまとべたべたするー!」
やたらハイテンションな笑い声を上げながら、舞はなぜか僕の首を絞めにかかり、冥は僕に抱きつくふりをして腰を砕きにかかる。
舞に首を絞められ、冥に体を揺さぶられ、薄れ行く意識の中で僕は硬く心に誓う。
この城では酒は断固禁止にしよう。持ち込みも禁止にしよう、と。
もしも、守らねばならないものがあるのなら、それは命を賭して守る価値のあるものにするべきだろう。そうでなければ無制限に守り続けることになる。志は磨耗する。心も魂も、削りつくされて終わり果てる。
猫たちは家に帰り、縁側には僕と冥だけ。冥は僕の膝を枕にぐっすりと眠っており、舞は邪魔をしちゃ悪いからと早々に眠りについた。
街灯すら設置されていない田舎の夜は、とても静かではっきり言って怖い。それでも気候はちょうど良くて、空を見上げれば空に浮かんだ月と星がとても綺麗。
猪とか熊とか出た時は、マタギ(狩りをする人。季節になるとお肉を調達してくる)のおっさんにうっかり惚れそうになってしまったくらいにやばかった。
「だからまぁ……この場にいられるのは都会っ子じゃ無理なんだよ、駄眼鏡」
「……相変わらずだね、高倉。君も昔は眼鏡だったくせに。……っていうか、なんで今は眼帯なのさ?」
「浮気して女に刺されたんだよ」
「……嘘だね」
「……嘘だけどさ」
正面の闇夜から姿を現すのは黒い人影。
黒縁眼鏡に黒のコート。上から下まで全部真っ黒で、顔と手足は細く目は垂れ目。口元はいつも真っ直ぐ。性格は生真面目に加えて努力家。己に油断せず、才能を磨くことに躊躇せず、ただ前だけ見据えている馬鹿男。
脇見ばかりの僕とは対照的な……元3馬鹿の一人。
「久しぶり、キツネ。元気にしてた?」
「元気さ。元気すぎて恋心と一緒に右目を落としてきちまったくらいには、な」
「あっはっは、浮気じゃなくてそういうことならいつか絶対にやると思った」
「死なすぞ、クソ眼鏡」
軽やかに笑われて、僕は口元を引きつらせる。
相変わらずのイタチっぷりだ。おまけに計算高くて女の子にもてるくせに距離感を取るのが絶妙に上手いという変態性能。あまりのむかつきっぷりに意味もなくインネンをつけて殴りかかっていた昔が懐かしい。
「で、俺の人生の路傍の石がなんの用だ? どーせ女がらみだと思うけど」
「ある意味正解だね、それは。……ここに、僕らの家族が養生してるって聞いてね。会いに来たんだよ」
「残念だが、会わせるわけにはいかねぇな。どーせお前のことだからちゃんと言わないと納得しないと思うから言っちまうけどさ、今の彼女はとても動けるような状態じゃない。喋れるような状態でもない。多分、弱ってるところをを家族に見られたくもないだろうさ。せめて5年後にまた来い」
「キミならそう言うだろうと思ったよ、親友」
「お前ならそう言うだろうと思ったよ、悪友」
そいつは笑い、俺は笑う。三日月に照らされたそいつの笑顔はとても綺麗で、多分俺はそんな笑顔など歯牙にもかけない獰猛な笑みを浮かべている。
苦しい時や辛い時ほどそいつは綺麗に笑うのだ。
いつも通りと、割り切って。
「相変わらずだ。相変わらず君は楽しそうだな、キツネ。はっきり言えば、僕はそんな君に嫉妬していたし羨んでいたし恨んでいた。計算馬鹿で他人に甘えることすらできない僕には……本当に君が妬ましかったよ」
「お前こそ変わらない。いつもすかした顔をしながら当たり前のように茨道を歩く。誰かを助けて誰かを殺さず、当たり前のように一番苦しい道を歩んでいる。俺はお前になんかなりたくなかったし羨ましいとも思わない。……ただ、綺麗だと思うだけだ」
泥まみれが美しい。血だらけが綺麗だ。苦笑だらけの人生に乾杯。
誇るといい。その醜い生き様は……まるで日本刀の刀身を思わせるほどに、鋭利で鋭く可憐で儚い。
それはただ、鋼の意志を持った男の生き様だから。
「っていうかさ、なんで膝にメイドとか乗せてるの? それはなんつーか人としてありえん。どんな勝ち組? どんなことすればそんなことになるの? 久しぶりに会った早々で言うのも失礼かと思ったケドやっぱり言わせてもらう。ありえん」
「年上の女性に甘くしまくって右目抉られるとこうなる。お前こそ、話に聞いたところによると、なんだか女で色々と苦労してるそうじゃねーか。着物がやたら似合う黒髪の妹さんは元気か? 今度写真くれ」
「……キツネ、本当に君は変わらないな」
「色々変わってるさ。3分で食べられるカップなヌードル程度のマイナーチェンジだけどな。知ってるか? あの即席麺は具とか麺とか少しずつ改良してるんだぜ」
口元を緩めながら、僕はメイドを起こさないように膝から頭をどかす。冥は酒に弱いし、客人ではなく交渉人としてやってきた親友を再起不能にしたくない一心で一服盛っておいたからしばらく起きることはないだろう。
少し痺れた足をほぐすように伸ばしてから、拳を前に出し正眼に構えた。
「さて……それじゃあ、城のルールには従ってもらおうか親友。俺を倒さない限り彼女に会わせるわけにはいかん。筋を通したけりゃ力を示せ」
「……あんまりそういうのは好きじゃないんだけどね」
イタチの眼鏡は口元を緩めて、ポケットからあるものを取り出した。
紐のついた五円玉だった。
「暴力沙汰は苦手だから……僕の流儀でやらせてもらうよ、キツネ」
「いや、五円玉でどうするんだよ? まさか催眠術……で、も?」
「残念ながら……これは催眠術じゃない」
イタチが苦笑したのを見た。それが最後だった。
「ただの追体験さ。他の誰かの自分のね」
あれ? おかしいな……なんか、ふわふわするぞ。
………………あれ?
ある日、猫が落ちてきた。
自由落下の果てに僕らの前に落ちてきた青い猫は、ボロ雑巾によく似ていた。
放って置くのも後味が悪いので介抱すると、その猫は苦笑しながらこう言った。
「ありがとうと言っておこう、物好きな人間」
とりあえず、その猫が素直じゃないことはよく分かった。
その青い猫の怪我はかなりの重傷で、少なくとも10年ほどは治療に専念しなければならないような状態だった。体だけじゃなく神格気孔が損傷しているとかなんとか、よく分からない話だったけど、とにかく重傷なのには変わらない。
猫は少し悩んでから、僕らにこんな話を持ちかけた。
「なぁ、物好きな人間。理想郷に行きたくはないか?」
面倒だしその話の流れだと戻れなくなりそうだから嫌だと言うと、猫は猫らしくふてぶてしく尾を振りながら僕の目を見据えた。
「空気を読め、青年」
猫にたしなめられてしまった。ちょっと人間として情けない。
結局面倒というほどのことでもなく、戻れないこともないので、僕はいくつかの条件と引き換えに、青い猫から理想郷を譲り受けることにした。
もっとも、その理想郷に面倒なことが転がり込んでくると気づいたのは、城に住み始めてからのことだったけど。
漆黒に包まれた次の瞬間には、僕は別の場所にいた。
理想と夢と現実と。その狭間に僕はいる。
ある世界では、僕は舞さんと一緒にいた。二人で飽きるまで騒いでいた。
ある世界では、僕は京子さんと一緒にいた。結婚式だった。
ある世界では、僕は美里さんと一緒にいた。新婚みたいだった。
ある世界では、僕は友達と一緒にいた。みんながそこにいた。
ある世界では、僕はバイトをしていた。それは純然たる過去の話。
選ばなかった世界。選んだ世界。量子力学だかなんだかでは、あらゆる可能性は選択された瞬間に『全ての可能性が選択される』という結果を持つ。僕はそういう学問を学んではいないけれど、きっと……そういう選択をした僕もいるってことだろう。
量子力学なんて眉唾ものだから全然さっぱり全くこれっぽっちも信じちゃいないが。
「で……あの人と一緒にいる世界はないってことは」
僕一人では、その世界を選ぶことはできない。
誰かの助けがなければ、その世界が存在することもない。
そもそも……今ここでこうして冥を選んだ僕に、それを見る資格はない。
未練を残して明日を繋ぐ。
残した未練は心の痛み。痛みのぶんだけ人はきっと強くなれる。
たくさんの世界を見て、それぞれの世界がそんなに悪くないことを確信して、僕はゆっくりと立ち上がる。
懐かしい夢を見た。みんなと笑い合った夢を見た。もう過去のことだったけどあまりにも楽しくて名残惜しくて……それでも、僕は屋敷から外に出た。
「さて……と」
「行くんですか?」
「うん。なかなか悪くない夢だったけど、僕の現実は外にある」
振り返りはしない。そこにいるのは、僕が求めるメイドではない。
それでも、振り返ったら、そこには僕が追い求めた誰かがいるはずだった。
だから振り向かない。未練は残すが振り返りはしない。
「なんでもありの世界で……それでも貴女のいる世界はどこにもなかった」
「ええ。でも、私がここにいるってことは、きっと誰かが坊ちゃんを助けてくれたってことなんですよ。たくさんの人が助けてくれた……そう、思います」
「そうだね」
口元を緩める。前を見据える。
「それじゃあ、行って来る。いつも通りに」
「行ってらっしゃい。いつも通りに、貴方らしく」
一度も振り返らず、俺は後ろに居る誰かに向かって手を振った。
どこかで見たような屋敷の門をくぐって外に出る。まるで4年前のように楽しい場所。みんなが笑顔でいられた場所を離れて、僕は歩き続ける。
やがて、辿り着いたのは約束の場所。
田舎臭くて古びた屋敷。温泉と道場と家屋があるだけの、ちょっと大きな日本屋敷。
門を守るのはお人好しの猫たちで、日向ぼっこをしながら欠伸をしている。
庭を回ると縁側には子猫や雌猫たちが平和を楽しんでいる。
その猫たちに囲まれながら、彼女は僕の方に振り返って、満面の笑顔で迎えた。
「お帰りなさい、ご主人様」
そんな世界を選んでみた。
そんな世界を望んでいた。
望んで叶った世界には、いつも通りに彼女がいる。
だから僕は、いつも通りに笑って、いつも通りの返事を返す。
「ただいま」
ホント、お人好しっつーかなんつーか、汚いものを見過ぎたそいつの夢は、本人の願望通りに綺麗だったっていうかこれじゃあ精神攻撃とか意味なくね? と突っ込みたくなったけど、30秒ほど見ない間にボロボロになっていたのでやめておいた。
冥は起きていない。少し寝苦しそうにしているだけだ。
上から下までボロボロになったイタチは、首だけを動かして笑った。
「あのさ、キツネ……。この家には忍者でもいるのかい? なんかこう……鎖帷子に草鞋を履いて背中に忍者刀を背負った女の子に『うるさいでござる』って言われて殺されそうになったんだけど」
「いや、なにその不審人物? そんな変態とお友達になった記憶はないけど……それより大丈夫か? なんかもう立って歩くのも辛そうだけど」
「ごめん、立つことすら無理」
「……やれやれ」
仕方なく、肩を貸してやるとイタチはフラフラしながらも立ち上がった。
口元に浮かんでいるのは、いつも通りに苦笑だった。
「あはは……やっぱり慣れないことはするもんじゃないね」
「全く持ってその通りだ。荒事は俺と友樹が担当。お前は影で逃げる算段とか立てておいてくれりゃいいんだよ。んで、バレンタインの本命チョコは友樹が30個でお前が1個。俺は0個で義理が少々ってのがお約束だろうが」
「……正直、僕にはその少々が死ぬほど羨ましかったけどね」
「馬鹿言え。俺にはお前の1個の方が断然羨ましかったね」
「まぁ……あれだね」
「どっちもどっちってところだ。気にすんな」
俺は笑う。同類相憐れむというやつかもしれなかったけど、それでも笑う。
イタチ眼鏡はいつも通りの苦笑を浮かべて口を開く。
「ねぇ、キツネ。君はなんかやりたいことってある?」
「守りたい女もやりたいこともある。今は幸せだよ」
「……そっか」
「ああ、そうだよ。お前はどうなんだ?」
「……僕は、よく……分からない」
イタチ眼鏡は、ようやく小学校の頃と同じように不器用に笑った。
似合わない苦笑よりも、そっちの方が似合っているとは言わなかった。
「どうしたらいいのか分からない。どの道を選べばいいのか分からない。誰も悲しませたくないし辛い思いもさせたくない。……でも、僕にしか助けられない人がいる」
「………………」
それはどこかで聞いた話。誰もが笑えない切羽詰った物語。
それでも……俺だけは、どこの誰もが笑えない物語を笑い飛ばしてやる。
「駄眼鏡。一つだけ言っておくぞ」
「え?」
「うろたえるな。前を向け。お前がやりたいことはなんだ? お前がやらなければならないことはなんだ? 願っているだけじゃ始まらない。迷っているだけじゃ始まらない。願いも迷いも必要だが……始めるためには振り切らなきゃいけない」
「…………キツネ」
「好きなコトをやれ。ケツは持ってやる。お前は俺の親友だからな」
当たり前のことを言い切って、俺はにやりと笑う。
無責任な言葉なのは重々承知している。それでも、言わなければならなかった。高倉天弧は誰かの味方。青い猫が抱いた正義の代行者なのだ。
友達の決断を助けることは……俺が俺であるために、当然のことだから。
俺が真っ直ぐに親友を見据えると、イタチは目を伏せて口元を緩めた。
小学校の頃のような、綺麗でもなんでもない微苦笑。それでも、多分そいつにはその笑顔が一番似合っていた。
「ありがとう、キツネ。存分に利用させてもらう」
「おう、自由にしろ。その代わりお前の妹の着物姿の写真寄越せ」
「嫌だね。全然趣味じゃない同級生の写真ならいいけど」
「ハ、八方美人のお前がそこまで言うとは、実に楽しみだ」
俺は笑ってイタチ眼鏡も笑う。
自分たちを誇るかのように、小学校の時のように、笑い続けた。
二泊三日の里帰りはあっという間に終了した。
途中で眼鏡の黒い人やら、帰ってきた由宇理やら、由宇理を追いかけてきた香純ちゃんやら、まぁ色々な人が訪れて結局それなりに騒がしくなってしまったけど、あの屋敷にいた頃と似たように、楽しく笑い合える日々だった。
少しばかり名残惜しくなるくらいには、楽しかった。
……と、まぁそんなことを思ってしまうのも、行きと帰りで安全性が違いすぎるせいかあるいは単純に寂しいせいか。その辺はちょっとばかり微妙だったけど。
駅前で車を降りて、私は背伸びをしてから口を開く。
「ねぇ、テン。とりあえず次に来た時は頼むから由宇理じゃなくてアンタが迎えに来てくれない? あの車はさすがに怖すぎるわ」
「そうする。まさかあんなボロ車で人を迎えに行くなんて暴挙に出るとは思わなかったんだよ。由宇理の奴、二人乗りくらいなら楽勝なでっかいバイクも持ってるから」
「………………」
最初からそれで迎えに来いと、後で言っておこう。
後部座席から見る田舎の風景は、来た時と全く同じように見える。それでもこの三日で分かったことは、なにもないように見えるのどかな田舎であっても実際にやっていることは都会と変わらず、むしろ田舎の方が下手すると忙しいってことだった。
みんな……忙しくも楽しそうではあったけど。
と、私が感慨にふけっていると、冥ちゃんが口を開いた。
「姉さん、また遊びに来てくださいね。姉さんならいつでも歓迎しますから」
「うん。……今度はみんなで来るわね」
当てにならない口約束は、きっと当然のように確約になってしまうだろう。
今度は雪が降る頃に、みんなと一緒にお酒でも飲みながらってのも、悪くない。
「じゃ、そろそろ時間だし行くわ。乗り遅れるともう一泊しなきゃならないし」
「はい、姉さん」
「道中気をつけてね、舞」
「はいはい。じゃ、行ってきます」
『行ってらっしゃい』
二人の声に送られて、私は駅に向かって歩き出す。
販売機で切符を買って、少しくたびれた椅子に腰掛けて、一日に二本しか来ない電車を待つ。その電車に乗って半日もすれば、私は私の居場所に戻ることになるだろう。
と、その時だった。
「あれ? 黒霧さんも今日帰りですか?」
「あ、どうも。イタチさん」
待合室に顔を覗かせたのは、眼鏡と黒い衣装が印象的な人。テンの昔の知り合いだか親友だかで、そういえばずっとイタチさんと呼んでいたせいで本名の方は聞いていない。
彼は綺麗な笑顔を浮かべながら、私の隣に座って口を開く。
「や、ちょっと友人に会いに来ただけだったのに思わず長居しちゃいました」
「楽しかったから、ですよね?」
「……まぁ、そうですね」
「テンはそういう場所を作るのが上手いですよね。私が昔勤めていた職場もあいつが取り仕切ってたんですけど……やっぱり、楽しかったです」
楽しかった思い出。楽しかった過去。みんながいたあの時。
戻りたいとも思う。戻れないとも思う。戻っちゃいけないんだとも、思う。
それでも――思うことがあるとすれば。
「でもね、それじゃあ駄目なんですよ、きっと」
「え?」
「私が楽しかったのは、きっとテンが頑張っていたから。私は自分のことだけで手一杯だった。だから、これからは私が頑張らなきゃいけないんです」
そう、私は私のけじめをつけるために、これから頑張らなきゃならない。
まずは次のことを考えよう。次は京子さんと美里さん、あとは手が空いていたら章吾さんや陸を連れてくるのもいいかもしれない。もちろんお酒は持参で、みんなでわいわい騒ぎながら、またあの時のように笑い合うのだ。
そこにはもちろん――あのばか女もいなきゃ駄目だ。
土下座でもなんでもして、絶対に連れてきてやる。
と、私がそう心に誓っていると、イタチさんは口元を緩めた。さっきまでの綺麗な笑顔じゃなくて、ごくごく自然な笑い方だった。
「あはは……なるほど。キツネやあのメイドの子が入れ込むわけだ」
「へ?」
「いやぁ、黒霧さんって面白い人なんだなって思って」
イタチさんはそう言って、本当に嬉しそうに笑った。
彼がなにを言いたいのかよく分からなかったけど、私はとりあえず暴言らしきものを吐かれたのはよく分かったので、頬を引きつらせて微笑んだ。
「イタチさんも面白いですよね。なんか、テンと似たような部分があります」
「あっはっは、あいつと一緒にされるとは心外だな。今すぐ訂正してください」
「嫌です。なんかイタチさんってなんか挙動が胡散臭いし。ぶっちゃけて言いますと、いっぱいいっぱいで生きてる感じがなんかちょっとアレですよね。長所が指が細くてせくしぃな所しかありませんし」
「あっはっはっはっは……女の子をぐーでしばきたいと思ったのは初めてだ」
「いえいえ、こっちも男の子を蹴り飛ばしたいと思ったのはテン以来ですよ」
あっという間に空気がギッチギチに悪くなる。
私は笑い、イタチさんも笑う。不自然さなどどこにもなく、そこにあるのは悪意と殺意くらいなもんだ。
さて……それじゃあ、テンにそっくりで意地っ張りな男をからかいながら。
名残惜しみながら、私の現実に帰りましょう。
氷雨ちゃんの様子がおかしくなったのは、おおよそ2日ほど前のことだった。
目が鋭くなった。ござる口調になった。それまでは使っていなかった奇妙な術を躊躇なく使うようになったし、修行にも力が入っている。服装は鎖帷子に草鞋に背中に忍者刀というわけの分からないいでたちだったけど、そんな彼女は容赦なく強かった。
『師匠、私の実力は既に貴方を越えているでござる。しかし、料理等の技術面で学ばなければならないことがあまりに多すぎるので、今後はそのあたりをご指導のほどを。……そして、ここにいる間は貴方たちは私が守るでござる』
僕をボコボコにした後、彼女はそう言って道場を出て行った。
手も足も出ませんでした。
ござる口調の忍者に手も足も出ないってのはある意味自然かもしれないけど。
「あー……」
舞の奴、一体全体彼女になにを吹き込んだんだろう?
忍者なら音速で走れとか、手裏剣は必殺必中だとか、忍者たる者忍法程度使えなくてどーするとか、弱みがあるんだったら徹底的に責めるとか、守りたい奴は自分で選べとか、選べなくて気に食わないなら土壇場で裏切ればいいとか、そういう外道なことを吹き込んだような気がしてならない。
もーちょっと師匠気分でいたかったんだけどなぁ……残念。
「やっぱり、姉さんを呼んで正解だったじゃないですか」
「ま……そうなんだけど、さ」
いつの間にそこにいたのか、倒れた僕の顔を覗き込んでいるのは、自称僕のメイドこと黒霧冥だった。
氷を入れたビニール袋を僕の頬に当てながら、彼女はにっこりと笑う。
「大体、ご主人様に荒事は向いていないんですから、無理しなくてもいいんですよ」
「そうだけどね。……ハードルは高くもなく低くもなくが理想的だから少しは鍛えておかないと。楽々越えられても、困るからね」
「弟子想いですね」
「師匠に似たのさ」
僕はゆっくりと体を起こし、しばらくはメイドにされるがままに傷を冷やしてもらっていた。
真っ直ぐにメイドの目を見る。冥は少しだけ微笑んで口を開いた。
「どうしました?」
「ん……ああ、なんでもない。可愛いなって思っただけ」
「おだてても着物は着ませんよ?」
「知ってるよ」
冥の頬に触れながら、僕は口元を緩める。
ちゅーでもしようかと思ったけど、昼間なので自重した。
代わりといっちゃなんだけど、冥の背中に右手を回して抱き締める。
左手は、冥の手を握った。
「……冥」
「なんですか?」
「僕は君が好きだ」
「……知ってます」
冥は僕の手を握り返して、囁くように言った。
「私も、貴方が好きですよ。ご主人様」
Aランクエンディング・冥編:つながれた小指 END
Aランクエンディング・京子編:バックスクリーン直撃弾 に続く
次回は京子エンド。四ヶ月は開かないと思うけど、気長にお待ちください♪