おまんご
義理の妹に赤ちゃんが生まれたというので妻の実家を訪れることになった。
だが、正直気が重い。
というのも、妻の実家はちょっと変なのだ。
うまく口では言い表せないのだが、なんというか独特の世界観というかハウスルールがあって、悪く言えば新興宗教っぽい感じ。
妻とは見合い結婚だったのだが、すこぶる美人だったのと二回目のデートで寝てしまったことの責任を取る形でスピード入籍となったこともあり、妻の家族のおかしな点に気付けたのは結婚後しばらくしてからだった。
妻の実家は田舎の旧家で、門から玄関まで5分は歩く。しかもその5分が、まるで山の中の神社を思わせる石階段なのだ。
石段によろける妻を横で支えながら階段を登る。
妻の「ありがとう」と微笑むその顔はやはり美人だ。しかし、彼女がこうもよろけるのには秘密があった。
そう。
彼女との初めての夜。彼女は頑なに靴下を脱がなかったことを、僕はそんなに気にはしなかった。というかそれよりももっと上の、露になった部分に気も血も集中していたため、全く気付かなかったのだ。
おかしなことに、僕が妻の靴下の内側を見たのは、結婚して二週間以上経ってからだった。
纏足。
かつて中国で女性に対して行われていた風習。幼児期より足に布を巻きつけ、足が大きくならないよう整形する不自然な美学。
当時は足が小さいほうが美しいという価値観があったらしいが、それ以外にも、歩きにくくなることから家の中に縛り付けるためと、その特殊な足を支えるために局部の筋肉が発達して……いわゆる名器になるというそんな理由があり、一時期は纏足でなければ嫁の貰い手がないとまで言われた時代もあったのだとか。
あの時の衝撃を、僕はいまでも忘れない。
一緒に風呂に入ることを拒み続ける妻にはナイショで脱衣所の扉をそっと開けた僕の目の前に、彼女の脱いだ靴下が……人間の足の形のまま、在ったことを。
彼女はきっと気付かれまいと気を張っていたのだろう。僕はすぐに見つかってしまった。
泣きながら「離縁なさらないでください」と訴える彼女を抱きしめた僕は、彼女の足の真実を受け入れた。
彼女に惚れていたし、その足は彼女自身のせいじゃない。
というか、これは彼女の個性だ。人とは違うことを恥じる妻がとてつもなく愛おしく感じられて、彼女のその足に僕は何度も口付けた。
実際、彼女はよくできた女性だった。
料理も美味いし、その足で家事もそつなくこなす。しかも伝説に違わぬ通り、彼女との夜は素晴らしい快楽であったし。
妻を支えながら、長い石段を登りきった。
一応、貨物専用の斜行エレベーターがどこかにあるらしいのだが、人間はこの石段を登らないと妻の実家へ出入りはできないとのこと。
登りきると標高が高いせいか空気が変わる。涼しいのだ。不思議と汗もひく。
ここを訪れるのは二度目だが、どうもこの不自然さには慣れない。自分の領域ではないということを、常に突きつけられているような疎外感。その半面、言葉には言い表せない懐かしさのようなものも感じもする。
「やあ、よく来てくれたね」
立派なお屋敷の玄関に、和装の義父が待ち構えていた。
お見合いには同席していなかったし、結婚式の時に会ったきり。その式も、僕のごくごく身内を招いてここのお屋敷の中で執り行った。
僕が妻の纏足のことを知ってからは初めて顔を合わせる……この人が、妻に纏足を指示した人。
この人は常にこのお屋敷と共に居て、この世界の一部であるかのよう。
なんというか、一時代以上前の人間にすら感じる。
先ほど感じた疎外感がまたじわじわと蘇ってくる。
「どうしたのかね?」
「あ、こ、このたびは、お孫さ」
ぐいっと妻が僕の肘をひく。そして僕にお辞儀をうながしながら自らも深々と頭をさげ、
「おまんごさま、おめでとうございます」
確かにそう言った。
おまんごさま? お孫さんってこと?
「うむ。とうとうおまんごさまがいらっしゃったのだよ」
やっぱりおまんごさまと言っている。なまっているのかな? 方言?
だけどそのことに言及できる空気ではなかった。
「ささ、こちらへ。仕度はできている」
義父の言葉に導かれるまま、妻と僕は屋敷の中へと通される。
長い廊下を、妻を支えながら義父のあとについていった。
廊下のあちらこちらには、どこか大陸を思わせる飾りがついてはいるものの、なんとなく神社の中を歩いているようなおごそかな気持ちになる。
やがて、注連縄のついた襖の前で立ち止まる。
注連縄?
家の中だよね?
だが、声を出してよさそうな雰囲気ではない。
せめて妻の表情を確かめようと横を見ると、いつの間にか義母もそばに居た。
いつの間に。
背中に冷たいものを感じながらも義父の指示に従う僕達。僕と妻はその襖の前、つまり廊下部分に正座させられたのだ。
義理の父母はその襖の両脇に控え、「では」という掛け声のあと、襖を静かに開いてゆく。
妻がまた僕の膝をたたく。
察した僕は、妻にあわせて深々と頭をさげた。
「おまんごさま、おめでとうございます」
「おあげください」
義母の声のあと、妻の動く気配にあわせ僕も頭をあげる。
その襖の向こう側は和式なのに何もかも真っ白い部屋で、その中央に真っ赤な着物を着た義妹が、真っ白い布を大事そうに抱えて座っていた。
布の中であろう赤ちゃんの顔は見えない。ただ、義妹の表情はなんだかやつれているようにも見える。着物の赤が、義妹の顔の白さを余計に際立たせているせいかな。
その時、この部屋の違和感の正体に気付いた。
違和感、それは白。
畳が白いのだ。あれは何で作られているんだろう?
それだけじゃない。義妹の顔、あれって白粉を塗っているのだろうか。唇には紅もひかず、とにかく何もかもが白い。
義妹と一瞬、目が合った。
その時の義妹の表情がとても辛そうで……そう、纏足がバレたときの妻の表情に似ていて、胸が締め付けられた。
これって「お祝いごと」なんだよね?
そんな疑問が湧いたのと同時だった。襖は閉じられ、視界から義妹は消えた。
後味の悪い気持ちがもやもやと僕の中に広がってゆく。
義母に案内されて廊下を戻る時もずっと、お祝いとは程遠い異様な雰囲気に僕は呑まれたままだった。
「あの」
ふと、義母が僕の顔をのぞきこんでいた。妙に距離が近い……いつの間に。
「は、はい!」
その目が、あまりにも感情のこもっていない目で、僕はトリハダが立つのを感じた。
「今日は泊まってらっしゃいますね?」
トリハダのせいか、声を出そうとしても出てこない。のどが異常に渇いている。
どうしてこうも、この人たちのペースに合わせられてしまうんだろうか。嫌悪感が「僕」を侵食してゆきそうで、またそのことが新しい嫌悪感をも産みそうで。
キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。
呪いの言葉のように、一つの言葉だけが僕の中を勝手にぐるぐると回る。もういっそ……。
「いえ、明日は早くから仕事なので」
僕の変わりに妻が答えた。
妻の手が、僕の手首にそっと触れて気付く。僕の手が小刻みに震えていたことに。
「すみません。仕事、休めないものですから」
と、妻にあわせて何度も頭を下げる。
義母は特に表情も変えずに「そう」とだけつぶやいた。
屋敷の中に居た時に感じた不安は、玄関から出るまでずっと僕にまとわり続けた。
何かに見張られているような気配。時々、視線を感じる方向をチラ見してみるが、もちろんそこには何もない。
ストレスが溜まってゆく。
「では、また」
玄関を出たところでまた頭を下げ、僕らはこのお屋敷を無事に脱出した。
そう、本当に「脱出」だ。
お屋敷の外へ一歩踏み出しただけで、なぜか「戻ってこれた」という安堵感が胸いっぱいに広がる。いや、本当にいままで違う世界に居たのかもしれない。
ともあれ長居は無用だ。妻の手を取り、少し足早に石段を降りはじめた。
無事に石段を降りきると黒塗りの外車が待っていた。駅まで送ってくれるという。
帰り道、その運転手とこの車は、石段を降りた横にある小さな屋敷に住んでいるのだといういらない情報を教えられる。
妻は終始笑顔で、だが無言でその話を聞いていた。
電車をいくつか乗り継ぎ、ようやく家に帰ってきた。
「帰ってきた」という言葉が、今はなんだかとてもしっくりくる。
いつものように妻が靴を脱ぐのを手伝うと、靴を脱いだ彼女は俺にしがみついてきた。様子が変だ。
声を押し殺して肩を震わせる妻を僕は静かに抱きしめた。
ひとしきり泣いて落ち着いたあと、彼女は唐突に言い出した。
「あなたに謝らなければならないことがあります」
泊まらないで帰ってきたことかな、などと軽く考えていた僕には、その後語られた彼女の言葉はあまりにも重かった。
彼女はまず、これからする話を聞いてあなたが私と離縁したいと言うのであれば仕方ありません、と頭をさげた。
離縁という言葉に驚いている僕の耳に続けて入ってきたのは、彼女が子を成せる体ではない、ということだった。
彼女の家はとある特殊な家系で、できるだけ血縁で家をつなぐ、ということを代々してきたのだという。それも非公式に。
彼女もそうやって、一族の子を無理やり孕まされた。だが「運良く」……これは彼女の言葉だが……流産し、子を成す力を失ったのだと。
目の前で語られる彼女の人生の話が、あまりにもリアルからかけ離れていて、僕はただ黙って聞いているだけだった。
彼女の妹が孕んだのはそういう「一族の子」であり、満願の満を宛てて「御満子さま」というのだそうだ。
もしも流産で体を痛めなかったら、あそこに幽閉されていたのは自分だったと妻がもらしたとき、僕はあのお屋敷の異常な空気に改めて不快感を感じた。
「ねぇ、義妹の旦那さん、居なかったよね?」
妻はうつむいたまま、悲しそうに首を左右に振るだけだった。
妻の流産、子どもを産めない体。そして、そのきっかけとなった相手。ぐるぐると頭の中をどす黒いものが回る。
「もしも」
僕の言葉に、妻がびくっと反応する。
「もしも離婚するって言ったら、君はどうするんだ?」
腹も立っていたし、それ以上にどうしょうもない苛立ちや嫉妬もあった。
すると妻は答えずに、よろけながら台所へと向かう。
僕の見ている前で包丁を取り出して刃を自分に向けて突き刺……そうとする手から無理やり包丁を奪った。なんとか間に合った。
「お、おい!」
「あの家に戻るくらいならいっそ死んでしまいたいです」
僕は妻を抱きしめた。彼女が悪いわけじゃないんだ。
そう。
妻は自殺なんかしちゃダメなんだ。
狂った世界に生まれ育った妻は、その歪んだ世界の中で必死に「まとも」に生きようともがいていた。
あの世界から連れ出してくれる人間であれば、別に僕でなくともよかったのだと思う。
ただ僕は、妻に惚れてしまっていた。
二回目のデートの時に、ラーメン屋に連れて行った時の彼女の笑顔にやられたんだ。
その後、僕たちは引っ越しをした。
僕も妻も二度と、妻の実家を訪れることはなかった。
僕達は、僕達を誰も知ることのない街へと引っ越し、そして、僕はとうとう想いを遂げた。
僕を愛する妻の愛は永遠の中に結晶した。
僕は妻を急いで実家へと持ち帰り、冷たい箱に仕舞いこんだ。
僕のコレクションはこれで5体目。僕の父さんにはまだ敵わないけれど、父さんのコレクションの中には纏足はない。やがては質も量も追い抜いてみせるさ。
だけどそろそろ後継ぎは必要だ。
次の妻は、コレクションする前に子どもを産ませないと。
(完)