第八話
夜道を三人が歩いていた。涼子、楓、琢馬だ。相田は情報担当である。聖教会からの使者について、全力で調べているはずだった。
「姉さん、本当に大丈夫なの。わたしたちに任せてもいいのに」
「そうして今度は楓まで血を吸われるのかしら。ダメよ。それに、今は調子がいいの。血が馴染んだのかしらね」
「血も飲んだしな。輸血パックだけど。
……それにしても、静かすぎるな」
「藤堂さんも気付いていましたか」
静まりかえった世界に、かすかな違和感があった。虫の音の一つも聞こえず、昼の熱で腐った水と植物の匂いもしない。夏だというのに、冬のように清浄であった。
「これはおそらく聖教会の気質だわ。多分、近くにいる。わたしたちを狙っているのかしら」
「わたくしたちの標的はエーテリンデだけだというのに、面倒なことね」
緊張が三人を包む。吸血鬼の気質と草薙の気質で、それぞれエーテリンデと聖教会を探る。
エーテリンデの行方は全くわからなかったが、聖教会の方はすぐにわかった。近くで気配を殺し、三人を襲う機会を窺っていた男がいたのだ。
「聖教会の方、わたくしたちはあなた方と戦うつもりはありません。よろしければ同盟を組むか、せめて不可侵条約を結びたいのですけれど」
涼子だけが男の正確な位置を把握していた。隠行を見破られた男は、この状況で笑っていた。獲物を見つけた獰猛な笑みだった。
カソックに身を包んだ、三十代半ばほどの男だった。
眼鏡の奥に、ぎらぎらとした輝きの瞳。西洋系の顔立ちに、茶色の短髪。
男が口を開いた。
「同盟? 化け物相手にそのようなことができるものか。俺が貴様らに出来るのはただひとつ、安息を与えることだけだ」
「わたくしたちは人間だわ。少なくとも、魂までは墜ちていない」
「わたしは正真正銘の人間です」
「俺は確かに吸血鬼だが、人を襲ったことなんて一度もない。血を吸うのだって輸血パックだ。それでもあんたは、俺たちを化け物と呼ぶのか」
「当然だ。神を冒涜する異端者ども。父と子と聖霊の御名において、貴様らを処刑してやろう。灰は灰に。塵は塵にだ。せめて死後の安息は願ってやる」
「あなた一人でわたしたち三人と戦うのですか?」
「その通りだ。なにかおかしいかね」
「いいえ、ただ少し、無謀だな、と思いまして。わたしだったら、相手が群れているところに一人で立ち向かうなんて、とてもじゃないけどできませんから」
「嘗めるなよ。貴様らごとき三人束になろうと、何ほどのこともないわ」
「隠れていたのにか」
「貴様らを尾行すれば、エーテリンデが現れるだろう。まとめて始末しようと思っていただけだ」
「日本語がお上手ね。だというのに、こちらの言葉は通じていないのかしら。つまり、あなた、死にたいのかしら?」
「良く回る口だ。すぐに閉じさせてやる」
舌戦は終わった。男から濃厚な殺気が立ちのぼる。
「ハンス・クレシテャン。貴様らを地獄に送る者の名前だ。あの世で悪魔どもに伝えるがいい、次は貴様だとな」
「草薙涼子よ。その台詞、そっくりそのままお返しします」
「藤堂琢馬だ。あんたほど人の話を聞かない奴はエーテリンデくらいだぜ」
「草薙楓。チェンジ、マジカルメイプル」
楓の変身。それが引き金となり、ハンスと三人の戦いが始まった。
真っ先に前に出たのは楓。生成した刀を突き出す。
刺突に魔力が込められ、実際の刀身よりもリーチの伸びた見えない一撃だ。しかし、ハンスには届かなかった。ひらひらと舞う紙によって迎撃された。
聖書の断片を聖別したものだった。
「フレイム、エアロ、アース、ライトニング! 彼の者を打ち据えろ!」
楓は周囲に光弾を生成し、手数で押し込もうとする。だが、すべて叩き落とされた。
ハンスの周囲に幾片もの紙が舞い、手振りによって自在に動かされていた。
「超能力者!」
「神に授け賜った奇跡の力だ。サイキック呼ばわりは許さんぞ」
言いながら、銀のナイフを投擲。躱す方向に曲がり、楓はすんでの所で刺し貫かれそうになる。
ナイフの刀身を、琢馬が掴んだ。煙を上げ、手を焼かれながらも力を込める。
「痛てえっ」
ナイフの刃が砕け、使い物にならなくなる。
「参ります」
涼子が仕掛けた。紙による結界を打ち砕く多重結界。右手で短刀を鋭く何度も振るい、左手で振るった数と同じだけの銃弾を撃つ。紙と相殺しあい、ハンスの守りが砕けた。
「今だわ!」
「破ァッ!」
再度、楓が斬り込んだ。神速の歩法で距離を詰め、上段から刃を振るう。
ハンスは右手に幾重もの紙を持ち、斬撃と重ねて防いだ。反対方向から琢馬が拳を振るう。左手で払い、蹴りによるカウンター。琢馬が吹き飛ばされる。その後を涼子が詰める。両手に短刀を持ち、斬りかかる。
ハンスの腕に切り傷ができる。
「ちぃっ! 小賢しい!」
その傷はすぐさま塞がった。
リジェネレイト。
これもまた、ハンスの言う神の奇跡であった。
「呪われよ、血! 主人に害なす蛇と化せ!」
舞った血に、涼子は呪を叩き込み、ハンスに戻るよう命じた。
だが、強烈な信仰心によって解呪された。
「そのような下賤な呪法、俺には効かぬわ!」
――狂信。己の信仰のみに身を捧げるがゆえ、他の呪いを受けないハンスの特性だった。
ハンスの気合いが高まる。何か仕掛けてくることは明白だった。三人は身構える。
そして、攻撃が来た。
「父と子と聖霊の御名において!」
ハンスが十字を切る。聖印により、吸血鬼の気質を持つ涼子と琢馬は、全身を貫かれたような衝撃を感じた。そして楓でさえ、魔法少女であるが故に、魔と判断され、両者ほどではないが少なからずダメージを負った。
拳を繰り出し、聖書の紙片を振るい、追撃するハンス。
三人は同時に吹き飛ばされ、傷を負った。
さらなる追撃として、三本の銀のナイフをハンスが投じる。それぞれ正確に、三人に向かって飛んでいく。
とっさの判断で柄を掴み、投げ返す楓。倒れながらも銃弾で撃ち落とす涼子。琢馬は躱せなかったが、急所に当たるのは防いだ。銀による傷のため回復が遅いが、戦えないほどの負傷ではない。
この魔人のような男に対して、涼子達もまた人間の範疇ではなかった。
「疾ッ」
「破ッ」
投げ返した一本を追って、涼子と楓は姿勢を崩しながらも刃を振るった。空間を渡る斬撃により、加速する銀のナイフ。
予想外の速度に、ハンスは対応が遅れた。突き刺さる。
「ぬぅっ!」
ハンスは深々と刺さったナイフを抜くが、すぐには傷が塞がらない。それだけ鋭い一撃だった。
どちらも傷を負っている。ハンスは、三人がかりで、五分と五分であった。
「どうかしら、まだ、わたくしたちと戦うと言うの? わたくしたちもあなたも、これ以上戦っても、メリットが少ないわ」
「一時休戦、ということにできないか。せめて、エーテリンデを倒すまでは」
ハンスの目前に、刃が三つ突きつけられる。涼子と、楓の獲物だ。ハンスは斬首される直前のようだった。だが、いつでも抜け出せる状態だった。
「化け物め、化け物どもめ。こうも俺を虚仮にしやがるか」
「なんでそうなるんだよ」
「俺は貴様らの敵だ。今は引くが、いずれ必ずやその首を叩き落とす」
「逃がすとでも?」
楓はここでこの男を仕留めようと考えていた。だが、涼子は相手が逃げたとき、追うつもりはなかった。
相手が人間だから、というだけの理由ではない。
聖教会の規模にくらべ、草薙の一族は小さい。
下手にハンスを仕留め、聖教会そのものを敵に回すのは得策ではなかった。それよりも、交渉の余地を残しておくべきだった。
交渉ごとは相田の受け持ちである。涼子は相田に、全幅の信頼を寄せていた。また、相手側の交渉人も、ハンスのような猪武者である筈がない、と涼子は踏んでいた。
「楓、ここは逃がしなさい。わたくしに考えがあるわ」
「姉さん。この人は危険です。できれば、ここで排除しておきたいところです。たとえ犠牲を払おうとも」
「確かにこの男は、オオカミのように執拗で、凶暴でしょう。でも、何事にもやりようというものがあるわ」
「……姉さんがそう言うなら」
警戒しつつ、刀を納める楓。
「貴様ら、俺を嘗めているのか」
「いいえ、最大の敬意を払っていると言って頂戴。あなたとこれ以上交戦すれば、お互い取り返しの付かない傷を負うことになると評価しているのよ。いいから早く消えなさい」
「悔しいが、俺も一人で貴様らを殺し尽くすことはできん。こんなことは初めてだ」
「追って教会から連絡があるでしょう。わたくしたちに手を出さぬよう、とね。こちらのネゴシエイターは優秀だわ」
「よかろう。今は何よりもエーテリンデが重要だ。だが、隙を見せたら貴様らも始末する。。そして、化け物ども、貴様らが人を襲ったら即座に縊り殺してやる。忘れるなよ」
「親切にどうも」
こうして、聖教会の使者と草薙の、一度目の邂逅は終わった。
◇
あれから三人は屋敷に戻り、休んだ。
そして深夜二時。涼子だけが、夜の街を歩いている。その瞳は赤く、獲物を探しているかのようだった。
「貴様、俺の言ったことを忘れたのか」
風がはためき、ハンスが涼子の前に立ちふさがる。
一人で歩いていることを言っているのか、それとも人を襲うなと言ったことを言っているのか。しかし、涼子はこの瞬間こそを狙っていた。
尋常ではない速度で間合いを詰め、涼子はハンスの首を掴んだ。そのまま大地に縫い付ける。
その速度は人外――吸血鬼の力に違いなかった。
「貴様……!」
「勘違いしないで。わたくしはあなたを殺そうとか、そんなことを考えているわけではないわ。ただ、思い上がりを正そうとしているだけよ」
「先ほどは手加減をしていたとでも」
「この力、妹の前で使うわけにはいかないでしょう? 姉が正真正銘の化け物になったなんて、酷だわ」
言いながら、莫大な規模の結界を編んでいた。草薙の血もまた、先の戦いではまるで使っていなかった。
涼子の戦いは、まるっきり手を抜いたものだったのだ。
「……俺をどうするつもりだ」
「動物に言うことをきかせるコツは、相手よりも圧倒的に強いことを知らしめることだと言うわね。あなたもその口?」
「貴様あ!」
「わたくしからあなたへの要求は」
しん、と静まりかえった中、涼子の声はよく響いた。
「エーテリンデを倒すことに協力しなさい。いい、協力よ。不可侵だとか、中途半端なことではないわ。わたくしたちもあなた方のために動きます。ですから、あなた方もそのようにしてください」
「……わかった」
「そう。話が早くて何よりだわ。無用な暴力は嫌いですもの」
涼子が手を離す。地面に倒れていたハンスは、目の前の女を改めて観て、圧倒された。
闇を融かしたかのような黒髪に、煌々と冴える意志の強い瞳。まっすぐな鼻梁から、微笑を湛えた口。草薙の衣装も、一般人が着ればどうということもない普通の服であるが、涼子が着ればそれは完全なるオーダーメイドとなって栄える。スレンダーな身体を包む、黒衣。
――なんという美しさ、気高さか。
それはハンスの生涯で初めての、畏怖であった。
薄い三日月の下で、吸血鬼の血を解放した涼子は、もはや人ではなかった。
吸血鬼の持つ特性――カリスマが、本人のもともと持っていた性質と混じり合っていた。
◇
屋敷に帰ると、涼子は倒れ伏した。短い時間とはいえ、吸血鬼の血と退魔の血を同時に行使したことの代償だった。
血が、混じり合って肉体に溶け込むように――完全な吸血鬼“草薙京子”になるように、体内をコントロールする。もはやエーテリンデの血脈は根付き、そうする以外に血を押さえる方法はなかった。
半人半妖のダンピィル。最高の器に最高のワインを垂らして出来上がったそれが、今の草薙涼子だった。
いずれ完全に血を支配し、代価なくエーテリンデの力と草薙の力を同時に行使できるようになるだろう。
しかしそれこそが問題であった。
妖かしは、そこに存在するだけで周囲の世界を異界へと作り替える。まさに今、ここ津島の地で起こっている世界の異界化現象が、それを正すはずの管理者本人が怪異と化すことによって、加速の一途をたどっていた。
それはもう、誰にも止められないほどに。