第六話
草薙家のリビングに、楓と相田と琢馬は集まった。楓と琢馬は元クラスメイトであり、両者は驚いたが、しかしそれよりも涼子の様態の方が楓を驚愕させた。
「姉さんが吸血鬼に噛まれた、ですって? それは何かの冗談でなければ、相手の吸血鬼はいったいどれほど強いの。相田さん」
「はい。今は涼子お嬢様の無事を祈るばかりですが、必ずや首魁を見つけ出し、滅してごらんにいれましょう。ですが、私が現場に駆けつけたときには、もう犯人は去った後のようでした。藤堂様、よろしければ犯人のことを教えてください」
丁寧な言葉とは裏腹に、相田の声には脅迫的な音色が滲んでいた。
「奴の名前はエーテリンデ。そう名乗っていた。強いってこと以外、俺には何もわからない。俺も奴に血を吸われて吸血鬼になった。俺以外にも被害者はいるが、大抵は太陽の光で崩れ去った。俺は襲われた場所と運がよかった」
「吸血鬼の血は、人間の身体に馴染むまで時間がかかります。また、年月を増すたびに力が強くなりますから、成り立ての吸血鬼では、太陽の光を浴びたら一瞬で蒸発してしまうでしょう」
「……そう。それなら、私は日光に触れてはいけないのかしらね。不便なことだわ」
階段の上から、ゆっくりと降りてくる涼子。顔色は悪く、血色は白く、そしてなにより、瞳が赤かった。しかし、それでも闇に墜ちきったわけではなかった。
今は朝の五時。夏の夜から朝に変わろうとする時間帯。彼女の身体に流れる退魔師の血が勝ったのだ。
「お嬢様……! お身体は大丈夫なのですか」
「観ての通りよ。最悪だわ。でも、生きてる。父さん達よりも、若かったからかしらね」
自嘲めいた響きには、なによりも悔しさがにじみ出ていた。
怪異に後れを取ったこと。その事実が、涼子の自尊心を深く傷つけた。
「旦那様方よりも、涼子お嬢様の血は何倍もお強いのです」
島田が涼子の側に控えていた。涼子のぐらつく身体をサポートしている。
「姉さん……よかった」
「そうね。とりあえず、このまま死ぬってことはなさそうだわ」
「吸血鬼になったわけでもなさそうだ。なんというか、俺や奴とは感じる気質が違う」
「吸血鬼は鼻が利くって本当なのね。それで、あなたは一体何者? あの吸血鬼とどういう関係なのかしら。どうやら、わたくしの妹と知り合いのようだけれど」
「彼は私のクラスメイト……だったわ。一ヶ月前までは」
「その後の俺は失踪扱いだろうな。奴に噛まれた後は。いまではこのように、吸血鬼だ。奴の名前はエーテリンデ。すさまじく強い。なぜかわからないが、俺のことを愛し子とか呼んで出会ったら戦っている。奴が俺のことをどう考えているか知らないが、俺にとって奴は宿敵だ」
「あなたも人の血を吸うのかしら」
ぎらりと睨み付ける。
「いや、直接吸ったことはまだない。輸血パックを吸っている」
「藤堂……あなた、藤堂病院の関係者かしら」
「実家さ。あんたらも知ってるだろう、そこの総合病院さ。草薙とは血の繋がりがあるって話だったが、本当だったんだな」
「病院の御曹司って訳ね」
「この屋敷に比べたらうちなんて小さいもんだよ。玖渚がこの家のお嬢様だった方が俺にとっちゃ驚きだ」
無用の混乱を避けるため、今まで楓は外では玖渚の姓を使っていた。
「玖渚楓あらため草薙楓です。今後ともよろしく」
「ああ、よろしくな」
「相田、エーテリンデという名に聞き覚えは?」
一通り情報交換がすんだところで、涼子は相田に水を向けた。
「あります。拙いですね。とびっきりの真祖ですよ、その名前は」
真祖とは、生まれながらにして吸血鬼である怪異のことだ。後天的な吸血鬼に比べ、積み重ねた年数が圧倒的に異なる。
真祖は闇の落とし子である。親はなく、ただ人を害する怪異として、猛威を振るう。
そして、エーテリンデ。それは、千年を生きた吸血鬼の名前であった。
「かのドラキュラよりも古い血筋なのね。そんな大物が何をしに日本なんかにきたのかしら。迷惑だわ」
「より迷惑なことに、聖教会からの刺客が彼女を狙っています。詳細は掴んでいませんが、エーテリンデを仕留めようというのですから、並大抵の戦力ではないでしょう」
「その刺客はわたくしたち……わたくしと、藤堂さんを狙う?」
「ほぼ間違いないでしょう。また、昨今のリビングデッドの件は、おそらく彼らの所行でしょうね。彼らの纏う気質が、この津島全体を覆っています。草薙の気質と呼応しているようで、異界化が普段よりさらに進んでいます」
「もともとこの地は物騒だというのに、さらに、ですって? 昨今のお化け騒ぎも仕方ないわね」
「このままではまずいことになるかもしれません」
相田の言葉に、楓が反応した。異界。それは変身ブローチに深く関係していた。
そもそも変身ブローチは、異界を正常な世界に戻すためのものであった。
異界化した世界で人間は生きていけない。五年前、闇の襲撃で楓は多くの仲間を失っている。それは、異界の生物たちの、混沌の賜物であった。
「それで、エーテリンデを倒せば、問題はすべて解決するのかしら」
「難しいですね。吸血鬼となった者は、当然吸血鬼のままです。ずっと吸血鬼がいる土地となれば、異界化は避けられないでしょう」
「おい、マジか。俺はずっと吸血鬼のままかよ」
「あなたの面倒は草薙家がみます。一カ所にとどまれないなら、全国津々浦々を旅しなさい。行く先々で仕事を与えますから」
「草薙家の手駒になれということですね」
相田が合いの手を入れる。
「就職の面倒をみた、といって頂戴。どのみち、藤堂さんには人権など適用されないわ。わたくしと一緒で“人でなし”仲間ね。そうだわ、吸血鬼治療の件で、あなたのところの病院と草薙家で協力し合いましょう」
「ありがたいやら、悲しいやらだぜ」
◇
次の日の夜。日中は穏やかだった涼子の状態が、急変する。自室で冷や汗をかき、身もだえする。滾る、血。
――ああ、血がほしい。特に若い女の血が。楓の血なら、なんとおいしいことでしょうか。若さと力が凝縮されていそうだわ。
考えて、その思考に愕然とする。退魔の血を意識し、吸血鬼の思考を追い出す。
「まさか、この衝動を藤堂さんも味わっているのかしら」
だとしたら危険どころの話ではない。それに、エーテリンデ。もし彼女もこのような衝動があったら? 無差別に人を襲ってもおかしくはなかった。
メイドを呼びつける。
「島田、藤堂さんを呼んで頂戴。確か昨日から屋敷に逗留していたわよね」
「は、はい。でも大丈夫ですかお嬢様。ひどい有様ですよ」
「いいから。これを何とかするために呼ぶのよ」
ぱたぱたと足音をさせながら走り去る島田。聴覚も鋭敏になっているようだ。
やがて、扉がノックされる。
「どうぞ。開いていてよ」
「ああ、どうも。具合が悪いんだってな」
「ええ、最悪だわ」
「輸血パックを持ってきた。必要なければいいと思っていたが、やっぱりな」
「あなたの血を飲むのはどうなのかしら」
「それは冗談か?」
「ええ、冗談よ。輸血パックを頂戴」
実際、吸血鬼が吸血鬼の血を吸うとどうなるのかわかったものではなかった。
最悪の場合、吸われた方の存在が消滅する危険性がある。では交互に吸い合ったら?
お互いが恋人のように抱き合い、首筋に牙を突き立て――そんな妄想をしたのは、涼子にとって生まれて初めてだった。当然と言えば当然だが。
「ん、どうかしたか?」
「……いえ、なんでもないわ。調子が悪いだけ。あなたはそういうことはないのかしら」
「俺は特にないな。血を飲めば気分も良くなるんじゃないか?」
「そう。それじゃあ、ありがたく頂くわ」
パックにストローを指して、血を吸う。涼子は、自分が蚊になったような気分であった。
「それじゃあな。こんな時間に、男を部屋に呼ぶもんじゃないぜ」
「馬鹿なことを言わないで頂戴」
扉が閉められる。月明かりが照らす部屋の中、輸血パックを空にする涼子。
血の滾りは収まったものの、今度は吸血鬼としての血と退魔師としての血が喧嘩を始める。吸われた当時のように、熱に浮かされて浅い呼吸を繰り返す。
どうやら今夜、朝まで寝ることはできないようだった。