第九話 第三章 異界
津島の地全体を覆う気質が、臭気を纏ったものに変貌していた。
異界化だ。今や昼でさえ悪鬼羅刹が跳梁跋扈してもおかしくはない。そうなっていないのは、草薙家の退魔師陣が怪異を封じ、なんとか均衡を保っているからである。それすら、時間稼ぎに過ぎなかった。
草薙楓にとって、五年前の記憶を思い起こさせる空気だった。
――草薙楓、十二歳の春。
彼女は、何の変哲もない少女だった。とびきり聡明で、大人びた印象を窺わせるところはあったが、怪異の存在を知らず、玖渚家の一員として日常を送っていた。
ある日、楓は友達の家から帰るとき、道に迷ってしまった。
時刻は逢魔が時。トワイライトに彩られた街。見慣れた風景の筈なのに、全く知らない別の街に見えた。
人を惑わす怪異、幻妖の仕業であった。
行けども行けども人ひとり見つからず、楓は途方に暮れていたところ、ある男に声をかけられる。その男こそ、楓の持つブローチの制作者であった。
怪異を持って怪異を制す研究をしていた男は、ブローチを楓に渡すことで、幻妖を打ち破らせる。
男にはそういった怪異に対する才能がなく、また、楓は天才的であった。
楓とて草薙家の直系である。
日本中を探しても、彼女を超える才を持つ者は少なかっただろう。それこそ、彼女の姉、涼子を除いて他になかった。
楓には、もともと怪異を封じる才能があった。だが、姉と違い、練り上げた力を外に出力する能力に欠けていた。それこそが、楓が玖渚の家に出された理由であった。
男には仲間がいた。それぞれ怪異の研究をするため、そういった話に事欠かない津島の地を訪れていた者達だ。
草薙家から見れば、彼らの持つ技術、情報は児戯であり、素人に毛が生えた程度、といいう認識だった。それは間違っていなかった。
だが、男の完成させたブローチだけは違った。
ブローチに使われた石は、それだけで怪異とならないのが不思議なほどの力が込められていた。それは、男の家宝である宝石を加工した代物だった。
封印石。かつて吸血鬼の親玉を封じていた代物だと男は自慢げに言った。では封じられた吸血鬼はどこへ行ったのかというと、詳しくは知らないが、ときの当主と友好を結び、自由の身になったと言う。
男は元華族であった。現在は没落して一般人となってはいたが、もしかしたら草薙の一族に連なる者だったのかもしれない。今の楓にはそれはわからない。
楓がブローチを持って魔法少女として怪異を討伐することにより、世界はより良い方向へと向かった。
そして、季節は梅雨が明け、夏休みが始まったくらいのとある日。
世界が、ひっくり返った。
異界が現実を浸食したのだった。
それは『闇』だった。すべてがうねり、怪異の源となっていた。それが、研究者たちを襲撃した。全員、ひとたまりもなかった。
怪異を知るものは怪異に囚われる。楓は囚われ、変身し、戦った。
ブローチの力を最大限に使い、なんとか『闇』が消滅するまで生き残ることに成功した楓。それからも一人で、五年間を戦い続けたのだった
そもそも『闇』が現れた原因は、異界について詳しい人間が増えることによって、異界濃度が極端に増加したためであった。研究所の者は誰もが一度はブローチの力を使い、怪異と戦った経験があった。
そして『闇』は、楓以外の、その存在を知るものを抹殺した後、自ら消え去った。
そして、消えたはずの『闇』が、五年の時を経てふたたびうねり、顕現しようとしていた。
楓にはそれがすぐにわかった。
草薙家周辺は、異界濃度が高すぎるが故に。