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病弱令嬢と浮気して悲劇のヒーロー気取りですか? そういうことなら、私に一途な幼馴染と幸せになりたいと思います!

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/10/02

 向かいの席に用意した紅茶は、とうに冷めきっていた。

 卵のサンドウィッチも、パンの縁が乾いて少し反りはじめている。


 ロゼリア・ブランシュヴェールは、さっき届いたばかりの手紙にもう一度だけ目を落とした。


『ロゼリア、本当にごめん。ルナがまた発作を起こして、僕がそばにいないと薬を飲んでくれないんだ。お茶会はまた今度にしよう。君なら分かってくれるよね?』


 ──君なら分かってくれるよね?

 締めくくりのその一文は前回もらった手紙とまったく同じだった。


 手紙の差し出し主はフェリクス・クリーンレイド。

 クリーンレイド侯爵家の嫡男で、ロゼリアの婚約者だ。困っている人を放っておけない性分で、王子様のようだと社交の場ではすこぶる評判がいい。


 そんな彼が何より放っておけないのが、幼馴染のルナ・メンセルバス伯爵令嬢だった。生まれつき体が弱くよく発作を起こすのだとか。

 そのたびにフェリクスは駆けつけていた。それが例え、ロゼリアの誕生日であっても。


 ロゼリアはサンドウィッチを一口だけ食べて、残りに覆いをかけた。

 控えていた侍女のクレアが口を開きかけたのを、「急なご用事ですって」と笑って遮り席を立つ。


 足は自然と庭の奥へ向いていた。

 そこには、亡くなった母が大切にしていた温室がある。


 ガラス戸を開けると湿った土と柑橘の匂いがした。

 鉢植えのレモンの木の近くで寝そべっていた青年が、本の上から顔をのぞかせる。


「……よう」


 シリル・ラグディスタル。

 ラグディスタル伯爵家の跡取りで、ロゼリアとは物心がつく前からの仲だ。


 癖のある焦げ茶の髪の下で、深い緑の目がちらりとロゼリアの顔を見る。


「また、すっぽかされた?」


「そんな言い方しないで。急なご用事なの」


「へえ」


 シリルは起き上がり棚からカップを二つ取り出す。


「今月はこれで三回目だ」


「フェリクス様はお優しい方だから、放っておけないんだよ」


「優しい、ね」


 シリルはロゼリアの前にミルクティーが入ったカップを置いた。


「その優しさ、一回でもお前のほうを向いたことあった?」


 ロゼリアは答えられなかった。

 シリルもそれ以上は言わなかった。代わりに、ロゼリアの頭にぽんと手を置く。


 昔から、何かあるたびにこうされてきた。背丈にこれだけ差がついた今も、この手をどけてほしいと思ったことは一度もない。




 §




 数日後、ロゼリアはクリーンレイド侯爵家の別邸を訪ねた。


 父から預かった書類を届けるためだ。使いを出せば済む用事だったけれど、少しでも彼の顔を見る口実が欲しかった。


 郊外の苗屋へ行くというシリルが、ついでに馬車で送ってくれた。


「帰りに拾ってく。門のとこで待ってろよ」


「うん、ありがと」


 取り次ぎの使用人によれば、フェリクスは二階の客間にいるという。案内を申し出られたが断った。もう何度も来ている屋敷だ。間取り図は頭に入っている。


 客間の扉は半分ほど開いていた。


「フェリクス様、父から書類を──」


 そう声をかけながら扉に手をかけたロゼリアは、次の瞬間、ぴたりと動きを止めた。


 長椅子の上でフェリクスがルナを抱き寄せていたのだ。



 しかも二人の唇が重なっていた。



 書類の束が滑り落ちる。

 その音に、フェリクスが弾かれたように顔を上げた。ルナの肩を押しやって立ち上がり、両手を前に突き出す。


「ち、違うんだ、ロゼリア! ルナが発作のあとで怯えてて、落ち着かせようとしただけで……本当に、それだけなんだ! 誤解しないでくれ!」


 フェリクスは何か言っていた。けれど途中から耳に入らなくなった。


「ろ、ロゼリア、僕は──」


 フェリクスが一歩近づいてきた瞬間、足が勝手に動いていた。

 背を向けて走った。呼び止める使用人の脇をすり抜けて、門の外へ。


 通りの角を曲がったところで、息が続かなくなった。

 塀にもたれて両手で顔を覆う。泣くものかと奥歯を噛みしめたのに、涙は指のあいだから勝手にこぼれていった。


 どれくらいそうしていたのかわからない。

 不意に蹄の音が近づいてきて、ロゼリアは顔を上げた。


「……ロゼリア?」


 馬車の窓から顔を出したシリルから表情がスッと消える。


「何があった」


「フェリクス様が、ルナ様と……」


 声がかすれた。


「キス、してた」


 シリルは膝に抱えていた苗の鉢を隣に置く。

 馬車から降りると、クリーンレイド侯爵家の別邸がある方角へと歩き出した。


「ちょっとシリル、どこ行くつもり?」


「あいつのとこ」


「待って、だめ! だめだよ!」


 袖をつかもうとした手は、空を切った。

 シリルは門をくぐり、目を丸くする使用人たちには見向きもせず階段を上っていく。ロゼリアは追いかけるので精一杯だった。


 客間の扉は半分開いたままだった。

 中からフェリクスの声が聞こえてくる。


「大丈夫だよ、ルナ。ロゼリアには僕からちゃんと話すから。あの子なら分かってくれる。今までだってずっとそうだったんだ」


 シリルが扉を押し開ける。

 フェリクスが振り向き、ルナがその背中に身を隠す。


「シリル? どうして君が……」


「分かってくれる、ですか」


 シリルは、今しがた聞こえた言葉をそのままなぞった。


「その分かってくれる子なら、さっき角のとこで泣いてましたよ」


 フェリクスの頬が引きつった。


「ロゼリアの幼馴染だからって口を挟んでいい話じゃない。これはクリーンレイド家とブランシュヴェール家の問題だ」


「では他の場所を口を開きましょうか。次期侯爵様が真っ昼間によそのご令嬢と何をしてたか。会話のネタに出せばさぞ喜ばれるでしょうね」


「脅すつもりか。伯爵家の分際で」


「ええ、たかが伯爵家の跡取りです。失くして困るものなんて大して持ってません」


 シリルは後ろにいたロゼリアの腕を引いて、自分の隣に立たせた。


「だから、はっきり言っときます。こいつのこと、要らないんなら俺にください!」


 フェリクスは目を瞬かせ、口をパクつかせる。

 けれどシリルと目が合うなり、そのまま口を閉じた。


「帰ろう、ロゼリア」


 手を取られた。握ってくるシリルの指が、かすかに震えている。


 怒っているのだと、ロゼリアは思った。


 表で待っていた馬車に乗り込む。扉が閉まった途端、シリルは座席に沈み込んで息を吐いた。


「あー……すっげえ手ぇ震えた。慣れないことはするもんじゃないな」


 シリルが単に緊張していただけだと理解して、ロゼリアはふと我に返る。


「ど、どうするの! あんなこと言って、おじ様の耳に入ったら……!」


「二、三発は殴られるだろうな」


「分かってるなら、どうして」


「ロゼリアが泣いてたから」


 その一言には有無を言わせない迫力があった。

 シリルは窓の外に目をやったまま座席の鉢を膝に抱え直した。


 しばらく無言のまま馬車に揺られる二人。

 窓の外が橙色に染まりはじめたころ、ロゼリアはようやく口を開いた。


「ねえ。シリルがフェリクス様に言ってたことだけど……」


「ん?」


「あれ、どういう意味?」


「言ったとおりの意味だけど」


 ロゼリアは、きょとんとシリルを見つめた。


 ──こいつのこと、要らないんなら俺にください。


 あの声が頭の中で蘇る。とくんと鼓動が鳴った。

 シリルは窓のほうを向いたまま、膝の鉢の土をしきりに指でならしていた。


「でも、私……フェリクス様の婚約者、なんだよ」


「わかってる。でも、あんなやつより俺の方がロゼリアを幸せにできる……と思う」


 声音はいつもと変わらない。だがシリルの耳は真っ赤に染まっていた。


 膝の上で握りしめていた手を、ロゼリアはゆっくりとほどく。


「そっか。シリルが私を幸せにしてくれるんだ」


 ぽつりと呟いた言葉は驚くほどすんなりと心に落ちた。

 フェリクスの婚約者という立場に、囚われすぎていたのかもしれない。


「フェリクス様との婚約、解消してもらうね。帰ったらお父様に話してみる」


 シリルが窓から目を離した。


「だから、さっきの返事はそれがちゃんと終わってからにさせて。婚約者のままで答えるのはずるい気がするし」


「ずっと待ってたんだ。あと何日か延びたって、どうってことない」


 ──ずっとっていつから?

 そう聞き返すより先に、シリルはまた窓のほうへ顔を戻してしまった。


 鉢の土をならす指が、さっきよりも忙しく動いていた。




 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽




 ブランシュヴェール家から婚約解消の申し入れ状が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。

 しかしフェリクスに焦りの色は一つもなかった。どうせ一時の気の迷いだ。花でも贈って一言謝れば、ロゼリアは笑って許してくれる。


 夕方、フェリクスは父の書斎に呼ばれた。

 父は机の向こうから立ち上がると、無言でフェリクスの頬を打った。


 机の上には、紐のほどけた封筒の山があった。


「申し入れ状と一緒にこれが入っていた」


 宛名の筆跡は見間違えようがなかった。全部、フェリクスの字だ。


 父は一通を手に取り、最後の行を声に出した。


「『君なら分かってくれるよね』」


 次の一通を開く。


「『君なら分かってくれるよね』」


 三通目は、開きもせずに放り出した。


「これらはロゼリア嬢との約束を断る手紙だ。それも全て同じ一文で終わっている。……お前はこれを、何とも思わずに書いていたのか」


「い、いえ。ですが、その、ルナの容体が……」


「言い訳に耳を貸す気はない。しばらく社交の場に顔を出すな。これ以上、クリーンレイドの名を汚すことは許さん」


 父はそう言ってフェリクスを書斎から追い出した。


 自室に戻っても、打たれた頬はまだ熱かった。

 フェリスクの脳裏によぎったのは、ルナに会いたいという思いだった。


 あの子だけは自分を責めたりしない。

 だってルナは自分がいなければ、薬ひとつ飲めない子なのだから。


 翌朝。メンセルバス家を訪ねると、ルナは庭にいた。

 知らない若い男に手を引かれて、花壇のあいだの小道をゆっくりと歩いている。ときどき顔を上げては、男と何か言葉を交わして笑う。


 その頬には朱の色がさしていた。

 男が門を出ていくのを見届けてから、フェリクスはルナの前に出た。


「る、ルナ……今の男は」


「あ、フェリクス様! 見ていらしゃったんですか? お恥ずかしい……」


「今のは誰だって聞いてるんだ!」


「え、えっと……アレン様です。スワンヴェール家の。……春ごろから、何度もお手紙をいただいていて」


「手紙だって? じゃあ、あの日のことはどうなるんだ。僕たちは——」


「……ごめんなさい」


 ルナは視線を斜め下に逸らすと、頭を下げた。


「あの日は発作のあとで、ひとりになるのが怖かったんです。だからその、あのとき手を握ってくれたのが誰でも、きっと同じことをしていました」


「誰でも……? ま、待ってくれ! 僕は、ずっと君のために……!」


「お医者様から少しずつ歩くように言われていたんです。でもフェリクス様は、私が立とうとするたびに『無理しちゃだめだ』って止めてこられました」


 ルナは、男が出ていった門のほうへ目を向けた。


「アレン様は、転ばないように隣を歩いてくださるんです。だから私、今日はここまで歩いてこられた。私、フェリクス様と隣にいたらダメになってしまうと思うんです。だから、ごめんなさい」


 小さく礼をして、ルナは屋敷へ戻っていった。

 支える腕がなくても、その足取りはもう揺らがなかった。


 ひとり庭に残されて、フェリクスは唇を噛んだ。

 残る望みはひとつだけだ。


 ロゼリア。彼女なら、話せばきっと分かってくれる。




 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽




 申し入れから五日後、婚約の解消は正式に認められた。

 その日の午後、ロゼリアはシリルに誘われて王都の秋の市へ出かけた。


 屋台で買った林檎パイは、かじるとサクリと音を立てた。


「ん、おいしい」


「ほんと幸せそうに食うよな」


 隣でシリルが笑った。

 呆れているのか甘やかしているのか、どっちつかずの顔だ。


「シリルも食べる?」


 かじっていない側を指で小さくちぎって、口元へ差し出す。

 シリルは一瞬、目を丸くする。


「……人前で何してんだよ」


 ぼやきながらも、身をかがめてくる。

 そうして彼が口にしたのは、ロゼリアが差し出した欠片ではなかった。もう片方の手に持っていたパイの、ロゼリアがかじった跡の残っているところだった。


 唇が、指先をかすめていった。


 ロゼリアは、パイを持ったまま固まった。

 同じカップで紅茶を飲んだことも、ひとつのスプーンでプディングを分けたことも、数えきれないほどある。今さら何ということもないはずだ。


 なのにちぎった欠片を持つ手が、行き場をなくして宙に浮いている。


 シリルは手の甲で口元を隠し、そっぽを向いて咀嚼している。

 二人の間に居た堪れない空気が漂った、そのときだった。



「ロゼリア!」



 人混みを押し分けて、誰かがこちらへ向かってきた。

 フェリクスだと気づくまで少し時間がかかった。金の髪は乱れたままで、目の下に濃い隈がある。上着のボタンはひとつ掛け違えていた。


「よかった、やっと会えた。屋敷に何度行っても、門の中に入れてもらえなくて」


 フェリクスはロゼリアの腕をつかむ。


「僕が悪かった。全部、僕が悪かった! ルナには、ほかに好きな男がいたんだ。僕はずっとあの子のために尽くしてきたのに、全部間違ってた! ……僕にはもう君しかいない。僕の話を聞いてくれるのはロゼリアしかいないんだ! 君なら、僕を分かってくれるだろ!?」


 腕をつかむ指に力がこもっていた。

 ロゼリアは、その手を見下ろした。


「フェリクス様」


 シリルが隣にいるからだろうか。不思議と声は震えなかった。


「私、もう分かって差し上げるつもりはありません」


 フェリクスが息を呑んだ。


「婚約の解消も取り消しません。……手を、離していただけますか」


 フェリクスの指は、離れるどころかさらに強く食い込んだ。

 その手首を、横から伸びてきた手がつかんだ。


「離せって言われてますよ」


 シリルだった。

 口調は穏やかなのに、フェリクスの手首をつかむ指の関節が白く浮いている。


「まだ話があるなら、俺が聞きますけど」


 フェリクスは二人を見比べ、何か言いかけて唇を噛む。それから背を向けて、人混みの中に逃げていった。


 腕には、まだフェリクスの指の感触が残っていた。

 ロゼリアがそこを押さえていると、シリルが無言でその手をすくい取った。


 そのまま、ゆっくりと歩きだす。前を行く背中を見上げながら、ロゼリアは唇を結んだ。


 もう、フェリクスの婚約者ではない。返事を待たせる理由はなくなった。

 それなのに、いざとなると喉が詰まる。


 かわりに出てきたのは、馬車で聞けなかった問いだった。


「シリル。……『ずっと』っていつからなの?」


「それ、聞く?」


「うん。だって私、あれからずっとシリルのことしか考えてなかったんだもん」


 シリルの足が止まった。

 振り返った顔は、耳どころか首筋まで赤かった。


「あ、ち、違うの! 今のは冗談で、その……っ」


「冗談なの?」


「そ、そういうわけでもない、けど……」


 ロゼリアも顔を真っ赤にしながら、尻すぼみに言う。


「いつからって聞かれると難しいな。でも、自分でも覚えてないくらい前からずっと、俺はロゼリアが好きだよ。それは自信を持っていえる」


 翡翠の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。


「だから、そういうこと言われると期待しちゃうんだけど」


 ロゼリアの頭が真っ白になった。

 シリルは幼馴染で、友達で、たまにお兄ちゃんみたいで、でも兄ではなくて。


 元をたどれば他人で、だから、つまり……。


 ぐるぐる考えているうちに頭が追いつかなくなったのか、口が勝手に動いていた。


「……ど、どうぞ?」


 シリルは空いているほうの手で顔の半分を覆って、重ための息を吐いた。


「はあ。お前、意味分かって言ってる?」


「わ、分かってる! ……と思う」


「途中で自信無くすなよ」


 シリルが前を向いて歩き出し、ロゼリアは半歩遅れてついていく。


 ロゼリアは、絡めた指にきゅっと力をこめた。


「……私のこと幸せにしてくれるんだよね?」


「おう、任せろ」


 前を向いたまま、シリルが同じ強さで握り返してくる。


 ロゼリアは吹き出すように笑った。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
ルナにもざまぁがないとスカッとしない
僕がそばにいないと薬を飲んでくれないんだ 犬とか猫かな??
凄いなこのルナとか言う阿婆擦れ フェリクスがざまぁされるのは当然として、コイツが無傷なのが納得いかない 発作が起こるたび何でフェリクス呼んでたの?医者呼べよ。(フェリクスが勝手に来るなら使用人に発作が…
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