病弱令嬢と浮気して悲劇のヒーロー気取りですか? そういうことなら、私に一途な幼馴染と幸せになりたいと思います!
向かいの席に用意した紅茶は、とうに冷めきっていた。
卵のサンドウィッチも、パンの縁が乾いて少し反りはじめている。
ロゼリア・ブランシュヴェールは、さっき届いたばかりの手紙にもう一度だけ目を落とした。
『ロゼリア、本当にごめん。ルナがまた発作を起こして、僕がそばにいないと薬を飲んでくれないんだ。お茶会はまた今度にしよう。君なら分かってくれるよね?』
──君なら分かってくれるよね?
締めくくりのその一文は前回もらった手紙とまったく同じだった。
手紙の差し出し主はフェリクス・クリーンレイド。
クリーンレイド侯爵家の嫡男で、ロゼリアの婚約者だ。困っている人を放っておけない性分で、王子様のようだと社交の場ではすこぶる評判がいい。
そんな彼が何より放っておけないのが、幼馴染のルナ・メンセルバス伯爵令嬢だった。生まれつき体が弱くよく発作を起こすのだとか。
そのたびにフェリクスは駆けつけていた。それが例え、ロゼリアの誕生日であっても。
ロゼリアはサンドウィッチを一口だけ食べて、残りに覆いをかけた。
控えていた侍女のクレアが口を開きかけたのを、「急なご用事ですって」と笑って遮り席を立つ。
足は自然と庭の奥へ向いていた。
そこには、亡くなった母が大切にしていた温室がある。
ガラス戸を開けると湿った土と柑橘の匂いがした。
鉢植えのレモンの木の近くで寝そべっていた青年が、本の上から顔をのぞかせる。
「……よう」
シリル・ラグディスタル。
ラグディスタル伯爵家の跡取りで、ロゼリアとは物心がつく前からの仲だ。
癖のある焦げ茶の髪の下で、深い緑の目がちらりとロゼリアの顔を見る。
「また、すっぽかされた?」
「そんな言い方しないで。急なご用事なの」
「へえ」
シリルは起き上がり棚からカップを二つ取り出す。
「今月はこれで三回目だ」
「フェリクス様はお優しい方だから、放っておけないんだよ」
「優しい、ね」
シリルはロゼリアの前にミルクティーが入ったカップを置いた。
「その優しさ、一回でもお前のほうを向いたことあった?」
ロゼリアは答えられなかった。
シリルもそれ以上は言わなかった。代わりに、ロゼリアの頭にぽんと手を置く。
昔から、何かあるたびにこうされてきた。背丈にこれだけ差がついた今も、この手をどけてほしいと思ったことは一度もない。
§
数日後、ロゼリアはクリーンレイド侯爵家の別邸を訪ねた。
父から預かった書類を届けるためだ。使いを出せば済む用事だったけれど、少しでも彼の顔を見る口実が欲しかった。
郊外の苗屋へ行くというシリルが、ついでに馬車で送ってくれた。
「帰りに拾ってく。門のとこで待ってろよ」
「うん、ありがと」
取り次ぎの使用人によれば、フェリクスは二階の客間にいるという。案内を申し出られたが断った。もう何度も来ている屋敷だ。間取り図は頭に入っている。
客間の扉は半分ほど開いていた。
「フェリクス様、父から書類を──」
そう声をかけながら扉に手をかけたロゼリアは、次の瞬間、ぴたりと動きを止めた。
長椅子の上でフェリクスがルナを抱き寄せていたのだ。
しかも二人の唇が重なっていた。
書類の束が滑り落ちる。
その音に、フェリクスが弾かれたように顔を上げた。ルナの肩を押しやって立ち上がり、両手を前に突き出す。
「ち、違うんだ、ロゼリア! ルナが発作のあとで怯えてて、落ち着かせようとしただけで……本当に、それだけなんだ! 誤解しないでくれ!」
フェリクスは何か言っていた。けれど途中から耳に入らなくなった。
「ろ、ロゼリア、僕は──」
フェリクスが一歩近づいてきた瞬間、足が勝手に動いていた。
背を向けて走った。呼び止める使用人の脇をすり抜けて、門の外へ。
通りの角を曲がったところで、息が続かなくなった。
塀にもたれて両手で顔を覆う。泣くものかと奥歯を噛みしめたのに、涙は指のあいだから勝手にこぼれていった。
どれくらいそうしていたのかわからない。
不意に蹄の音が近づいてきて、ロゼリアは顔を上げた。
「……ロゼリア?」
馬車の窓から顔を出したシリルから表情がスッと消える。
「何があった」
「フェリクス様が、ルナ様と……」
声がかすれた。
「キス、してた」
シリルは膝に抱えていた苗の鉢を隣に置く。
馬車から降りると、クリーンレイド侯爵家の別邸がある方角へと歩き出した。
「ちょっとシリル、どこ行くつもり?」
「あいつのとこ」
「待って、だめ! だめだよ!」
袖をつかもうとした手は、空を切った。
シリルは門をくぐり、目を丸くする使用人たちには見向きもせず階段を上っていく。ロゼリアは追いかけるので精一杯だった。
客間の扉は半分開いたままだった。
中からフェリクスの声が聞こえてくる。
「大丈夫だよ、ルナ。ロゼリアには僕からちゃんと話すから。あの子なら分かってくれる。今までだってずっとそうだったんだ」
シリルが扉を押し開ける。
フェリクスが振り向き、ルナがその背中に身を隠す。
「シリル? どうして君が……」
「分かってくれる、ですか」
シリルは、今しがた聞こえた言葉をそのままなぞった。
「その分かってくれる子なら、さっき角のとこで泣いてましたよ」
フェリクスの頬が引きつった。
「ロゼリアの幼馴染だからって口を挟んでいい話じゃない。これはクリーンレイド家とブランシュヴェール家の問題だ」
「では他の場所を口を開きましょうか。次期侯爵様が真っ昼間によそのご令嬢と何をしてたか。会話のネタに出せばさぞ喜ばれるでしょうね」
「脅すつもりか。伯爵家の分際で」
「ええ、たかが伯爵家の跡取りです。失くして困るものなんて大して持ってません」
シリルは後ろにいたロゼリアの腕を引いて、自分の隣に立たせた。
「だから、はっきり言っときます。こいつのこと、要らないんなら俺にください!」
フェリクスは目を瞬かせ、口をパクつかせる。
けれどシリルと目が合うなり、そのまま口を閉じた。
「帰ろう、ロゼリア」
手を取られた。握ってくるシリルの指が、かすかに震えている。
怒っているのだと、ロゼリアは思った。
表で待っていた馬車に乗り込む。扉が閉まった途端、シリルは座席に沈み込んで息を吐いた。
「あー……すっげえ手ぇ震えた。慣れないことはするもんじゃないな」
シリルが単に緊張していただけだと理解して、ロゼリアはふと我に返る。
「ど、どうするの! あんなこと言って、おじ様の耳に入ったら……!」
「二、三発は殴られるだろうな」
「分かってるなら、どうして」
「ロゼリアが泣いてたから」
その一言には有無を言わせない迫力があった。
シリルは窓の外に目をやったまま座席の鉢を膝に抱え直した。
しばらく無言のまま馬車に揺られる二人。
窓の外が橙色に染まりはじめたころ、ロゼリアはようやく口を開いた。
「ねえ。シリルがフェリクス様に言ってたことだけど……」
「ん?」
「あれ、どういう意味?」
「言ったとおりの意味だけど」
ロゼリアは、きょとんとシリルを見つめた。
──こいつのこと、要らないんなら俺にください。
あの声が頭の中で蘇る。とくんと鼓動が鳴った。
シリルは窓のほうを向いたまま、膝の鉢の土をしきりに指でならしていた。
「でも、私……フェリクス様の婚約者、なんだよ」
「わかってる。でも、あんなやつより俺の方がロゼリアを幸せにできる……と思う」
声音はいつもと変わらない。だがシリルの耳は真っ赤に染まっていた。
膝の上で握りしめていた手を、ロゼリアはゆっくりとほどく。
「そっか。シリルが私を幸せにしてくれるんだ」
ぽつりと呟いた言葉は驚くほどすんなりと心に落ちた。
フェリクスの婚約者という立場に、囚われすぎていたのかもしれない。
「フェリクス様との婚約、解消してもらうね。帰ったらお父様に話してみる」
シリルが窓から目を離した。
「だから、さっきの返事はそれがちゃんと終わってからにさせて。婚約者のままで答えるのはずるい気がするし」
「ずっと待ってたんだ。あと何日か延びたって、どうってことない」
──ずっとっていつから?
そう聞き返すより先に、シリルはまた窓のほうへ顔を戻してしまった。
鉢の土をならす指が、さっきよりも忙しく動いていた。
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ブランシュヴェール家から婚約解消の申し入れ状が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。
しかしフェリクスに焦りの色は一つもなかった。どうせ一時の気の迷いだ。花でも贈って一言謝れば、ロゼリアは笑って許してくれる。
夕方、フェリクスは父の書斎に呼ばれた。
父は机の向こうから立ち上がると、無言でフェリクスの頬を打った。
机の上には、紐のほどけた封筒の山があった。
「申し入れ状と一緒にこれが入っていた」
宛名の筆跡は見間違えようがなかった。全部、フェリクスの字だ。
父は一通を手に取り、最後の行を声に出した。
「『君なら分かってくれるよね』」
次の一通を開く。
「『君なら分かってくれるよね』」
三通目は、開きもせずに放り出した。
「これらはロゼリア嬢との約束を断る手紙だ。それも全て同じ一文で終わっている。……お前はこれを、何とも思わずに書いていたのか」
「い、いえ。ですが、その、ルナの容体が……」
「言い訳に耳を貸す気はない。しばらく社交の場に顔を出すな。これ以上、クリーンレイドの名を汚すことは許さん」
父はそう言ってフェリクスを書斎から追い出した。
自室に戻っても、打たれた頬はまだ熱かった。
フェリスクの脳裏によぎったのは、ルナに会いたいという思いだった。
あの子だけは自分を責めたりしない。
だってルナは自分がいなければ、薬ひとつ飲めない子なのだから。
翌朝。メンセルバス家を訪ねると、ルナは庭にいた。
知らない若い男に手を引かれて、花壇のあいだの小道をゆっくりと歩いている。ときどき顔を上げては、男と何か言葉を交わして笑う。
その頬には朱の色がさしていた。
男が門を出ていくのを見届けてから、フェリクスはルナの前に出た。
「る、ルナ……今の男は」
「あ、フェリクス様! 見ていらしゃったんですか? お恥ずかしい……」
「今のは誰だって聞いてるんだ!」
「え、えっと……アレン様です。スワンヴェール家の。……春ごろから、何度もお手紙をいただいていて」
「手紙だって? じゃあ、あの日のことはどうなるんだ。僕たちは——」
「……ごめんなさい」
ルナは視線を斜め下に逸らすと、頭を下げた。
「あの日は発作のあとで、ひとりになるのが怖かったんです。だからその、あのとき手を握ってくれたのが誰でも、きっと同じことをしていました」
「誰でも……? ま、待ってくれ! 僕は、ずっと君のために……!」
「お医者様から少しずつ歩くように言われていたんです。でもフェリクス様は、私が立とうとするたびに『無理しちゃだめだ』って止めてこられました」
ルナは、男が出ていった門のほうへ目を向けた。
「アレン様は、転ばないように隣を歩いてくださるんです。だから私、今日はここまで歩いてこられた。私、フェリクス様と隣にいたらダメになってしまうと思うんです。だから、ごめんなさい」
小さく礼をして、ルナは屋敷へ戻っていった。
支える腕がなくても、その足取りはもう揺らがなかった。
ひとり庭に残されて、フェリクスは唇を噛んだ。
残る望みはひとつだけだ。
ロゼリア。彼女なら、話せばきっと分かってくれる。
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
申し入れから五日後、婚約の解消は正式に認められた。
その日の午後、ロゼリアはシリルに誘われて王都の秋の市へ出かけた。
屋台で買った林檎パイは、かじるとサクリと音を立てた。
「ん、おいしい」
「ほんと幸せそうに食うよな」
隣でシリルが笑った。
呆れているのか甘やかしているのか、どっちつかずの顔だ。
「シリルも食べる?」
かじっていない側を指で小さくちぎって、口元へ差し出す。
シリルは一瞬、目を丸くする。
「……人前で何してんだよ」
ぼやきながらも、身をかがめてくる。
そうして彼が口にしたのは、ロゼリアが差し出した欠片ではなかった。もう片方の手に持っていたパイの、ロゼリアがかじった跡の残っているところだった。
唇が、指先をかすめていった。
ロゼリアは、パイを持ったまま固まった。
同じカップで紅茶を飲んだことも、ひとつのスプーンでプディングを分けたことも、数えきれないほどある。今さら何ということもないはずだ。
なのにちぎった欠片を持つ手が、行き場をなくして宙に浮いている。
シリルは手の甲で口元を隠し、そっぽを向いて咀嚼している。
二人の間に居た堪れない空気が漂った、そのときだった。
「ロゼリア!」
人混みを押し分けて、誰かがこちらへ向かってきた。
フェリクスだと気づくまで少し時間がかかった。金の髪は乱れたままで、目の下に濃い隈がある。上着のボタンはひとつ掛け違えていた。
「よかった、やっと会えた。屋敷に何度行っても、門の中に入れてもらえなくて」
フェリクスはロゼリアの腕をつかむ。
「僕が悪かった。全部、僕が悪かった! ルナには、ほかに好きな男がいたんだ。僕はずっとあの子のために尽くしてきたのに、全部間違ってた! ……僕にはもう君しかいない。僕の話を聞いてくれるのはロゼリアしかいないんだ! 君なら、僕を分かってくれるだろ!?」
腕をつかむ指に力がこもっていた。
ロゼリアは、その手を見下ろした。
「フェリクス様」
シリルが隣にいるからだろうか。不思議と声は震えなかった。
「私、もう分かって差し上げるつもりはありません」
フェリクスが息を呑んだ。
「婚約の解消も取り消しません。……手を、離していただけますか」
フェリクスの指は、離れるどころかさらに強く食い込んだ。
その手首を、横から伸びてきた手がつかんだ。
「離せって言われてますよ」
シリルだった。
口調は穏やかなのに、フェリクスの手首をつかむ指の関節が白く浮いている。
「まだ話があるなら、俺が聞きますけど」
フェリクスは二人を見比べ、何か言いかけて唇を噛む。それから背を向けて、人混みの中に逃げていった。
腕には、まだフェリクスの指の感触が残っていた。
ロゼリアがそこを押さえていると、シリルが無言でその手をすくい取った。
そのまま、ゆっくりと歩きだす。前を行く背中を見上げながら、ロゼリアは唇を結んだ。
もう、フェリクスの婚約者ではない。返事を待たせる理由はなくなった。
それなのに、いざとなると喉が詰まる。
かわりに出てきたのは、馬車で聞けなかった問いだった。
「シリル。……『ずっと』っていつからなの?」
「それ、聞く?」
「うん。だって私、あれからずっとシリルのことしか考えてなかったんだもん」
シリルの足が止まった。
振り返った顔は、耳どころか首筋まで赤かった。
「あ、ち、違うの! 今のは冗談で、その……っ」
「冗談なの?」
「そ、そういうわけでもない、けど……」
ロゼリアも顔を真っ赤にしながら、尻すぼみに言う。
「いつからって聞かれると難しいな。でも、自分でも覚えてないくらい前からずっと、俺はロゼリアが好きだよ。それは自信を持っていえる」
翡翠の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
「だから、そういうこと言われると期待しちゃうんだけど」
ロゼリアの頭が真っ白になった。
シリルは幼馴染で、友達で、たまにお兄ちゃんみたいで、でも兄ではなくて。
元をたどれば他人で、だから、つまり……。
ぐるぐる考えているうちに頭が追いつかなくなったのか、口が勝手に動いていた。
「……ど、どうぞ?」
シリルは空いているほうの手で顔の半分を覆って、重ための息を吐いた。
「はあ。お前、意味分かって言ってる?」
「わ、分かってる! ……と思う」
「途中で自信無くすなよ」
シリルが前を向いて歩き出し、ロゼリアは半歩遅れてついていく。
ロゼリアは、絡めた指にきゅっと力をこめた。
「……私のこと幸せにしてくれるんだよね?」
「おう、任せろ」
前を向いたまま、シリルが同じ強さで握り返してくる。
ロゼリアは吹き出すように笑った。
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