パチモンの笑顔 (1)
琳華と梢はお互いに顔を見合わせ、もう一度図面を覗き込む。
「小梢、赤いシミもだけれどこの紙……少し柑橘の匂いがしない?」
くんくん、と図面の匂いを確かめる琳華は梢にも同じように確かめさせた。
「確かに。図面はどのお部屋にも置いてあるみたいなのですがこの寄宿楼を含めた各棟や宮の配置も持ち歩くような難しい感じではなくて」
「そうね。覚えられないほどじゃないし、多分行ってはいけない場所には門番や衛兵が必ずいて引き留めると思う」
丁寧に折られた図面の外側には一枚の懸紙に『周琳華』と筆書きが施され、中にも図面をまとめておく少し糊付けされた帯状の紙が一枚、輪になるように掛けられていた。つまりは秀女一人一人に名指しで同じ物が行きわたっていることになる。
琳華は「お行儀が悪いけれど」と言いつつも更に懸紙や帯の匂いを確認する。
「やっぱり、いい匂いがするのは帯の方だわ」
「それってもしかして」
「ええ。私たちなら分かるやり方で誰かが何かを伝えようとしている」
とりあえずお湯が冷めてしまわないように梢は茶の支度をし始めるが琳華は椅子から立つと部屋の隅の古びた卓にあった燭台を持ってくる。そして梢が探索の際に炊事場で分けて貰って来たと言う火を付ける為の火種が仕込まれている手の平ほどの細身の竹筒から蝋燭に火を灯した。
「小梢、見て」
糊付けされていた紙の帯など誰もが破ってすぐに捨ててしまう。
しかし貴族の娘でありながらも兄たちと野山を駆け、梢とも元気に遊んでいた琳華はそれがとても重要な紙の帯だと見抜いた。
蝋燭の火の上、焼け焦げないくらいに離して端から紙の帯を炙ればすぐに茶色い文字が浮かび上がる。筆で記された茶色い小さな丸印の横には時刻が記されており、まるでその時間帯に誰かが――内通者がいるかのようだった。
「図面と共に配られている大まかな時間割の別紙にもあるように、日が暮れてからは朝まで自由な時間。なんならそれくらいしか自由がないけれどこの隠し文字の時刻……」
お茶を差し出す梢にも琳華は帯を見せ、浮かび上がっている茶色い文字を読ませる。そしてもう一度、図面に記されている赤い点と帯にある茶色い点や文字を照らし合わせてみればどうやら自分たちがいる角部屋にも誰かが通過するかもしれないような時刻の記述があった。
「等間隔に並んだ三つの点は凄い時間ですね。真夜中で……でも時刻を追うと各外廊下に沿うように全体をぐるりと回っているようですね」
「そんな時間に外を出歩けるのは」
男性の警備兵しかいない。
この朱王朝時代、後宮では慣例であった宦官の制度を徐々に廃止しており、厳しい審査を受けて合格した男性の武官が夜警をしていると父親から聞いていた。その目印として白い組紐で出来た飾り結びが通行手形の代わりに彼らの腰に提げられていると言う。
それぞれの部隊によって結びの形も違い、隊長格など高位の者の場合は翡翠の玉や玉石が目立つように付けられて……そんな話も父親から聞いていた琳華は梢にも教えながら一先ずお茶を口にする。
「多分この炙り出しの細工は父上の差し金……いえ、ご指示だと思う。わたくしと小梢が柑橘の匂いに気が付くことを前提にして」
「子供の頃にこうして遊んだことが無ければ気がつきませんよね」
「ええ。それにこの書かれている時間帯の警備兵の中に父上、あるいは兄上と通じている方が必ず混じっている、と」
これは推測よりも確信に近い。
そしてこの仕掛けが施された紙帯のこと――貴族の娘がいくら幼いころとは言え火を使った遊びの経験があると知っているのは家族しかいない。
通いで手習いを教えている琳華はただの一度もそんな危ない遊びをしたなどと子供たちから聞いたり、見たりもしていなかった。やはり自分たちが少々特殊な育ち方をしたのを知っている人物たちがこの役目の随所に関わっていることを知る。
(でも、この胸のどきどきとした感覚は何なのかしら。不安とは違う、色々な思いが混ざったような複雑な感じ……)
これから自分は本当に皇子の為に後宮内で調査をしなければならないのだと琳華は身をもって知る。見た目はおしとやかな貴族の娘を装いながらも裏では後宮、皇子に向けられる黒い影の正体を探らなければならない。
「そう言えば父上は宗駿皇子様に仕えている親衛隊長様にも話が通してある、と仰っていたのだけど」
「外の感じだと女官様や宮女の方々ばかりで男性にはあまり会えそうにないような気がしますがまさしく、女人の園でございますね」
「わたくしも同意見よ。見回りの兵はあくまでも兄上が勤めているような部署の方々で許可された人数も多くはない。皇子様の警護を専門にされている方とそう易々と会えるとは」
うーんと細い眉根を寄せて琳華と梢は悩んでしまう。
とりあえず紙の帯は誰にも見せられないので覚えたら燃やすなりして処分をしなくてはならない。
「父上も今は事務職の官僚とは言え元は武官。親衛隊長様とも何かしらのご縁があるのかもしれないわね」
紙の帯を卓に置いた琳華がさっそく今夜にでも散策ついでに印のついている場所に赴いてみようか、と梢と話を始めた時だった。
部屋の扉がとんとん、と軽やかに叩かれる。
咄嗟に梢が腰を上げ、出入り口の方に向かうと「どちら様でしょうか」と問いかける。宿舎楼に逗留する秀女たちを世話する後宮の宮女ならば先に名乗る筈だがそれが無い。
「周琳華様のお部屋でお間違えないでしょうか」
次いで出て来た言葉は「伯家の侍女に御座います」との言葉。
扉の前にはすぐに部屋の中が見えてしまわないように一枚の衝立があり、梢はその横から顔を覗かせて琳華に扉を開けても良いか視線で問いかける。そして浅く頷いた主人を確認してから部屋の扉を開けた。
「お休み中のところ申し訳ございません。私、伯家の侍女で御座います」
平身低頭のその侍女は改めて身分を名乗ると部屋の奥に琳華がいることを確認するかのような視線の巡らし方をしたので梢は琳華を隠すように衝立の前に胸を張って立ちはだかった。一介の使用人として不躾な、と心の中で憤慨しつつも伯家の侍女に用件は何かと問いただす。
「これから各自、居室にてお夕食かと存じますがその後に秀女の皆様でお話しがしたい、と主人が申しておりまして琳華様にも是非に」
使いだけを寄越した急な伺いは梢の可愛い顔をきゅっときつくさせる。
「申し訳ありませんがそう言ったお誘いは……いえ、少々お待ちください。主人に伺ってきます」
衝立の前からくるりと踵を返した梢は琳華の元へ行くと状況を説明する。
「伯家……伯丹辰様ね。父上のお話によるとうちより格下だった気がするけれど」
「お嬢様、どうしましょう」
梢の視線は卓の上にある案内図と機密とも言える警備時刻が記されている紙の帯に向けられる。
「断れそうだったら断って貰っていいかしら。なんかこう、儚い感じで」
「承知いたしました。この梢にお任せくださいませ」
力強く頷く梢は「追い返してきます」とまた扉の方へと向かった。




