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悪女の最後の手紙

作者: 新川さとし
掲載日:2026/01/31

プロローグ


 それから長い時が過ぎた。


 洗礼式が終わったばかりの王宮は、何かとバタバタしている。しかし、老境の王妃が自ら名付けた離宮・水仙宮は、喧噪とは無縁だった。


 この国では、必ず「選ばれる」少女がいる。


 それを知る者は、いつも、静かだった……



「王妃様。今年、最初のマリーゴールドが届きました」

「あ……り、が……」

「めっそうもありません」


 食事を取る力も喪った王妃を、老侍女は心配している。

 

 言葉も出せぬ王妃に、老侍女は目一杯努力して笑顔を浮かべて見せる。


 窓辺に鉢植えを置こうとした時、立ち止まった。


「地震ですね」


 わずかに揺れている。


「これなら被害もなさそうです」

「……増えるわ」

 

 いつになく声が出た。


 窓から落ちぬようにという示唆だと受け止めた老侍女。


「あちらのテーブルに置きましょうか」


 王妃の返答がない。

 視線が、窓の外に向かっていた。


 威容を誇る、王国の象徴――ヴェスヴィオ山。


「王妃様?」


 ただ、山だけを見ている。


 もはや、力も残ってない王妃が「もうすぐよ」と、声なき声を唇の中で呟いていたのを誰も知らなかった。




◆届かぬ手紙


 公爵家の家中は、皆、ステファニーを愛していた。


 だから、侍女は「本日のお手紙は、以上です」と申し訳なさそうだ。


 クライン殿下のものはなかった。 


『もう、一ヶ月ね』


 洗礼式が終わってから、殿下からの手紙が届かない。


 それまでは、走り書きのような手紙であっても、毎日、届いていたのに。


 確かに殿下はお忙しいのだろう。


 取るに足らない手紙であっても、私と殿下とを繋ぐ証だった。


 窓から見えるヴェスヴィオ山の雄大な山容が霞んでいた。


 その時、床が、わずかにキシりと鳴った。


 気のせいかと思うほどの揺れ。


 この国では珍しいことでもない。


 侍女たちも「またかしら」と笑っていた。


 けれど、漠然たる不安が、そうさせたのだろうか。


 洗礼式の日の「違和感」を思い出してしまった。


 一人一人、神官の前で跪き、神の加護を願い、祈りを捧げる儀式は、十五を迎える貴族の子女の義務だ。


 もちろん、私も祈りを捧げた。


 あの時に見かけた、少女のことが頭から離れなかった。


「クラプラ・フォン・エルデンハイム」


 男爵家の娘。


 人を引きつける、明るい明るい美しさを持った少女だ。


 彼女は、なぜかクライン殿下にエスコートされて出ていった。


 いつになく大勢の護衛に囲まれた殿下には、婚約者である私ですら近づくことが出来なかった。


 あの時の殿下の背中の違和感。


それが何であったのか確かめる術もなく、私は入学準備をしなければならなかった。


 楽しみにしていた学園生活が始まる。


 けれども、そこから、すべてが変わるなんて想像もしなかった。



◆王子の腕にいた少女


 王国学園の入学式は準公式の場だ。


 婚約者として、私はクライン殿下と登校するはずだった。


 しかしエスコートの手紙は届かず、私は、自家の馬車で送られた。


 異例中の異例。


 一人、校舎に入ろうとした時だった。


 王家の馬車が到着した。


 慣例通り、私も背筋を伸ばし、微笑みを作った…… 次の瞬間、凍り付いた。


 殿下の腕に、令嬢がエスコートされていたからだ。


 クラプラ様だった。


 ドレスを纏い、楽しそうに殿下の腕に手を添えている。しかし、私に気づくと、殿下の腕をためらいもなく離して、小走りに近づいてきた。


 空にでも溶け込んでいくような、突き抜けた笑顔。


「ステファニー様ですよね? 初めまして」


 軽やかな声だ。


「これから、一緒ですね。仲良くしてくださいませ」

「こちらこそ」


 私は笑顔を浮かべられていただろうか?


 クラプラ様の鈴の音のように澄み渡る声。

 悪意も遠慮も、見当たらない。


 ただその日、婚約者として、ひと言も会話がなかったこと。


 そして、帰りも王家の馬車に乗り込んだクラプラ様の姿があったこと。


 それだけが事実だった。



 ◆


 ああ、やっぱり。


 彼女は、とても素敵な人だった。


 真っ直ぐで、誠実そう。

 こんな人が、王子様の隣にいるべきよ。


 それなのに、ごめんね、と心の中で呟く。

 声に出したら、きっと泣いてしまうから。


 私は、あと少しだけ、この日常を借りる。


 それくらいの、わがままは、許されるはずだと信じた。



 ◆



 殿下は、最後まで私を見なかった。


 立ち尽くす私に、友人たちが近寄ってくる。


「ステファニー様?」


 声をかけられた瞬間、足元が、ぐらりと揺れた。


 大きい。


 誰かが悲鳴を上げ、誰かが支え合う。


 私はとっさに壁に掴まるようにして、身体を支えた。


 揺れはすぐに収まり、皆は「また地震ね」と笑い合った。


 私だけ、壁にもたれかかったまま。あの光景を思い出していた。


 クライン殿下の腕に、親しげに絡んだクラプラ様の手だ。


 胸の奥で、何かがひび割れる音がした気がした。


 この時、私はまだ何も知らなかった――知るのは、ずっと先の話だ。



◆どうせなら、楽しく


 クライン殿下とクラプラ様は常に一緒。


 廊下でも、講堂でも、庭園でも。


 彼女が立ち止まれば殿下も止まり、彼女が笑えば殿下も困ったように笑う。


 最初からそう決まっていたみたいに。


「今日は街に出かけましょう」


 そう言って、殿下の腕を引いた。人目などまるで気にしていない様子だった。


「しかし、午後も授業が」

「いいじゃない」


 サボれば良い、と言わんばかり。殿下は一瞬、私の方を見た。


 ちくりと胸が痛んだ。


「ステファニー様も一緒にどうですか?」

「え?」

「三人の方が楽しいでしょ?」


 屈託のない笑顔。

 本当に、悪意がないように見えるから、余計に困る。


「どうせなら、楽しく過ごしたいわ」


『どうせなら、何なの?』


 殿下の視線が「拒むな」と告げている気がした。私は曖昧に頷くしかなかった。


 クラプラ様は満足そうに笑い、殿下の腕を引いて歩き出す。

 その背中を見つめながら、私は思った。


 この人は、何も奪っているつもりがないのだ、と。



 ◆


 昨日も楽しかったな。


 いろいろなお店に入って、三人でおしゃべりをして。


 さすがね。嫌な顔をちっとも見せないんだもの。


 昨日の思い出を反芻しながら、誰もいなくなった回廊で、ふと立ち止まった。


 よかった。楽しんでるよ、私! だって、残りは、ほんの少しなんだもん。


 私は、最後まで笑っていたい。


 恨まれても、わがままだと言われても、それが一番なのだから。


「ごめんね」


 誰にも聞こえない声で呟いて、もう一度、笑顔になる。


 振り返れば、クライン殿下が待っていた。


 期限付きの、借り物の日常が、まだ、続いている。



 ◆



 それは、誰が見ても「やりすぎ」だった。


 たとえ婚約者であっても顰蹙を買う、べったりとした距離感。

 

 まして「婚約者の前」の距離ではなかった。


 誰もが、白い目で彼女を見ていたのに、一切、気にしてないらしい。


「ねえ、街に行きましょう?」


 今週三度目だった。


「またか」


 殿下が困ったように呟くと、彼女は首を傾げる。


「学園の外も楽しいんですもの。いいでしょ? あ、ステファニー様も、ぜひ、ご一緒に」


 殿下は、一瞬、困った表情を浮かべながら、言った。


「クラプラ嬢も、こう言っている。ぜひ、来てくれ」


 拒めないことを、彼女は最初から知っているようだった。


 見せつけるつもりだと言わんばかりに、出かける時に誘われるのは、私。


「学園ばかりじゃ息が詰まるでしょ? たまには外の空気を吸わなくちゃ」


 当然のようにクライン殿下の腕を取って先に歩き出す彼女。


 私は一瞬ためらったが、拒むことは不可能。


 結局、行くしかない。


 街に人出が多いためか、護衛たちも多い気がした。


 揺れの不安を抱えながら、人々は笑い、店を開き、日常を保とうとしている。


「ほら、見て。お菓子屋さん」

「あぁ」


 殿下は苦笑しながら、彼女に引きずられていく。


 クラプラ様が足を止めた。


「きれ~い!」


 花屋だった。


 色とりどりの花が並び、甘い香りが溢れていた。


「綺麗なお嬢さん方、お好きな花は?」


 店主が朗らかに声をかける。


 クラプラ様は店先に並ぶ花を、ひとつひとつ、ゆっくりと眺めた。


 いつもの無邪気さよりも、少し静かな彼女は、ふと、首を傾げた。


「マリーゴールドは、まだなの?」

「来月にならないと出て来ないなぁ」

「そうなんだ…… あら、こっちもキレイね」

「これは、ナツズイセンって言ってね、いつもの年よりも早く咲いてくれたんだよ」

「へぇ~」


 しかし、大きな瞳をクルッとさせた後、クラプラ様はイタズラっぽく言った。


「でも、花言葉は『悲しい思い出』とか『遠くの友を想う』でしょ? 寂しいのはいやだわ。楽しくなくっちゃ!」

「いやいや、かなわないなぁ」


 殿下が横から口を挟んだ。


「好きな花を買って良いぞ」


 私にはわかる。それは冷たさを含んだ声だ。


 この「デート」を淡々と終わらせたいという意志が込められていた。

 だとしたら、殿下は、クラプラ様との逢瀬を楽しんでないの?


 わからない。


 けれども、その時、私は確かに聞いた。


「見たかったな」 


 何気ない独り言だった。


「え?」


 思わず聞き返すと、クラプラ様は笑みを見せた。


「なんでもないわ」


 パッと殿下の腕を取った。


「ねえ、クライン様ぁ。あのナツズイセンを買っていきましょうよ」

「さっき、嫌だと言わなかったか?」

「だって、きっと、私のために早く咲いてくれたんだもの」


 殿下は一瞬、首をかしげ、しかし、肯いて見せた。


「わかった。他に買いたいものは?」


 私は、少し離れた場所から、その会話を眺めていた。


 彼女が最初に口にした花が、なぜか、胸から離れなかった。


「マリーゴールド」


 その意味を、私は、まだ知らなかった。


 次の日、殿下は講義を欠席した。




◆悪女という名



 ぽかりと空いた席を見つめることが多くなった。


 一方で、ウワサばかりが集まってくる。


「恋人つなぎで歩いていた」

「殿下の青い瞳に合わせた髪飾りを付けていた」

「殿下と一緒に、ドレスを買っていた」


『ドレスを買いに行ったのね』


 せめてもの救いなのだろうか?


 王宮御用達の店なら、半年かけて仕立てるのが普通だ。私も、入学前に殿下に贈っていただいた秋物のドレスは仕立ている最中だ。


 もっとも、この調子では、それを受け取る日が来るのか疑問だけれども……


 お昼も二人は特別だった。


 王族専用の個室で二人きり(護衛と侍女は一緒だけど)で食事をしている。


 かと言って、私が排除されてないのが不思議。


 顔を合わせてしまえば、必ず「一緒に食べましょうよ!」と誘ってくださる。むしろ、その気まずさが怖くて、顔を合わせないように逃げ回らねばならなかった。


 そして、ダンスの授業。


 高位貴族の場合、幼い頃から家庭教師が付いている。だから、見本を兼ねて、決まっているはずの婚約者と、ただ楽しめばいい時間だ。


 私も、本来なら殿下とゆっくり踊っていれば良いはずだった。


 けれど、クラプラ様は当然のように言った。


「クライン様ぁ、私、ダンスは苦手で。だから教えてくださいませ」

「しかし……」


 困り顔で私の方をチラリと見る殿下。でも、すぐ横で笑顔のクラプラ様は、なぜか自信満々で断言する。


「大丈夫よ、ステファニー様。ちょっとお借りするだけですから!」


 その言葉を、もう何度聞いただろう。


 殿下は、何も言わなかった。そして、私の方を見なかった。


 音楽が流れ、二人が向かい合う。


 クラプラ様は確かに不慣れで、何度も足をもつれさせ、殿下に支えられていた。


「きゃっ、ごめんなさい」

「気をつけて」


 支える距離が近い。


 周囲の視線が、私に集まる。


 同情と好奇。そして、嘲笑。


「婚約者なのに」

「殿下は、既に心変わりだとか」


 心をえぐってくる声なき声に、唇を噛みしめて耐えるだけ。


 さらに数日後。


 王城からの招待だった。


「地震が治まることを祈念して」


 聞いたことがない名目のパーティーだ。


 やはり、殿下からのエスコートの申し出は来なかった。


 代わりに、会場で見たのは、殿下の隣に立つ彼女だ。


 正装の殿下と、殿下の瞳の色と同じ青いドレス姿を纏ったクラプラ様。


 二人を挟んで国王陛下と王妃様が立つ。


 これでは、まるでクラプラ様のために開かれたパーティーとしか思えない。


 ファーストダンスが始まる。


 殿下は、マナーとして同席しているクラプラ様にファーストダンスを申し込む。


 儀礼のお辞儀をしたクラプラ様から聞こえてきたのは、楽しくてたまらない、と思える、はしゃぐ声だ。


「こういうの初めてなの。緊張しちゃう」


 殿下の袖を嬉しげに掴む。


 王妃様は悲壮な顔をなさって、殿下たちを見、私に視線を送ってきた。


 ご聡明といわれるその瞳は、もの言いたげに見えたけれど、何も言わなかった。


 国王陛下の表情は、悲痛にすら感じるものだった。


 私とクラプラ様を比べるかのように…… 


 けれど、最後は、私から視線を逸らした。


 ――誰も、止めないのね。


 私だけが、場違いな存在になっていく。


 学園では、クラプラ様は「悪女」と言われている。でも、それが何だというのだろう。


 私と殿下の関係は、もう、普通ではなくなっているのを、認めるべき時だった。


 その夜。


 部屋に戻った途端、足元が大きく揺れた。


 テーブルが動き、陶器が派手に床に落ちて割れる。


 侍女の悲鳴。


「だんだん、ひどくなってない?」


 そう呟いた瞬間、なぜか、クラプラ様の顔が浮かんでしまう。


 これは「ただの地震」じゃない。


 理由も、原因も、わからないけれど、確信だけがあった。


『もう、限界ね』


 翌日、私は、珍しくお一人でいらっしゃる殿下を呼び止めた。


 人気のない回廊。


「クライン殿下」


 声が震える。


「この婚約を、続けることはできません」


 殿下の目が、大きく見開かれた。


「ステファニー、それは、困る」

「もう耐えられないのです」


 言葉を選ぶ余裕はなかった。


「理由も説明されず、人前で立場を奪われ、婚約者として扱われることも……」


 声が、途切れる。


「これ以上は、無理です」


 沈黙。


 その時だった。


「だ~め」


 柔らかな声が割り込んだ。


 振り返ると、そこにクラプラ様が立っていた。


「あと、一ヶ月、ううん、もっと短いかな」


 笑顔の中で、真剣な目が私を見つめる。


「お願い。あと少しだけ我慢してほしいの」


 これまでのどんな時よりも、切実な瞳だ。


「時が来たら――」


 彼女は、くすりと笑った。


 不思議なほど透明な笑顔に驚かされる。まるで、冬の日の青空のように突き抜けた、爽快な笑顔。


 私は、言葉をなくして、ただ見つめるだけだった。


「その時、悪女は消えるの。だから、許してね」


 意味が、わからなかった。


 問い返す前に、クラプラ様は踵を返し、静かに去っていった。慌てて、殿下と、そして取り巻く護衛たちが追いかけた。


 その背中を見つめながら、私は思う。


 この人は、本当に、ただの「ワガママ放題の悪女」なのだろうか、と。


 その日、帰宅した私は何も言わず自室へと入った。


 理由を説明する気力もなかった。


 侍女たちは戸惑いながらも、私の顔を見て何も言わなかった。


 鏡に映る自分は、ひどく疲れて見えた。


 泣いたわけでもないのに、目の奥が熱い。


 私は、逃げたのだろうか。


 そう思おうとして、やめた。


 これ以上、あの場所に立ち続けることができなかっただけ。


 翌日から、邸は静まり返った。


 学園からの使者も、王城からの招待も、すべて断った。

 揺れは、確実に強くなっていた。街では、崩れる家も出てきたらしい。


 国の象徴ヴェスヴィオ山は、あちこちの裂け目からマグマが流れ出したと、立ち入り禁止となっている。


 この世の終わりだ! 

 山が噴火する!

 この国は海に沈む!


 そんなデマが飛び交う街。


 富裕な商人たちは、いち早く脱出し始めたらしい。だが貴族たちは、居続けることこそ義務だと、誰一人として王都を離れない。


 私だけではなく、誰もが息を潜めるようにして邸に閉じこもる貴族が続出していた。


 私が邸に籠もって三日目の夜。


 控えめな、ノックの音がした。


「誰?」

「私だ」

「クライン殿下!」


 胸が跳ねた。


 扉の向こうに立っていた殿下は、外套を深く被る忍びの姿。護衛の姿はない。


「どうして……」

「忍んで来た」


 その声音は、いつになく硬かった。


 部屋に通すと、殿下はしばらく立ったまま、言葉を探している。


 やがて、観念したように息を吐く。


「私は、君に言えなかったことがある」


 心臓が、嫌な音を立てる。


「クラプラのことだ」


 その名前を聞いた瞬間、床が、ぐらりと揺れた。


 今までとは、違う。


 家具が軋み、天井の飾りが激しく揺れる。


 思わず、テーブルに手をつきながら、時を惜しむように、殿下の言葉が続く。


「陛下の…… 父の許可を得て、話しに来た」


 殿下の顔色は悪い。


「今までの行動は――すべて王命を受けてのもの」


 その言葉は、重かった。


「理由は知らされていない。ただ――」


 殿下は、苦しそうに眉を寄せる。


 まるでそらんじるように宙に視線を向けたまま、殿下は言葉を並べた。


「彼女の望みは、すべて叶えよ」

「彼女の機嫌を損なうことは許されない」

「彼女の意志を何よりも優先せよ」


 淡々と告げられる言葉が、胸に突き刺さる。


 揺れがようやく治まった。殿下は私の目の前に立った。


「そして…… それを誰にも話してはならない。それが王命だ」

「だから、何も言えなかったのですか」


 問いかける声は、自分でも驚くほど静かだった。


「だから、君を悲しませた。許してくれとは言えないが、すまなかった」


 殿下は、言葉を詰まらせた。


 その瞬間。


 ――どん、と。


 邸全体が、下から突き上げられた。


 悲鳴が上がり、廊下で何かが倒れる音がする。

 壁に細い亀裂が走った。


「これは!」

「ただ事じゃない。この揺れだと被害が……」


 揺れは、何度も、何度も繰り返された。掴まらなければ立っていられない。


 片手で机に掴まりながら、殿下は私を庇うように抱きしめてくれた。


 初めての抱擁が、こんな形なんて。


「陛下は、もう少しだと仰ってる。心配だろうけど、もう少しだけ耐えてくれ」


 そう言い残すと、私の返事も聞かずに飛び出していった。


 被害が出ていれば、殿下は民を守る先頭に立たねばならない。王族にとって、何よりも優先すべきは「国」なのだから。


 まるで、大地が怒りを溜め込んでいるかのように繰り返す大揺れ。


 私は、はっきりと理解した。


 ――もう、後戻りはできない。


 私が邸に籠もったことも。

 殿下が王命を明かしたことも。


 すべてが、何か大きな流れの一つの形なのだ。


 そして、その中心にいるのは、私でも、王子でもない。


 クラプラという、笑顔の少女なのだと。


その日の夜、私は決めた。

――すべてがわかるまで、邸から出ない。


 理由を説明する気力もなかった。

 侍女たちは戸惑いながらも、私の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。


 鏡に映る自分は、ひどく疲れて見えた。

 泣いたわけでもないのに、目の奥が熱い。


 私は、逃げたのだろうか。


 そう思おうとして、やめた。

 これ以上、あの場所に立ち続けることができなかっただけだ。


 翌日から、邸は静まり返った。


 窓の外では、時折、地面が低く唸る。


 揺れは、確実に強くなっていた。


◆止まらない、ひび



 それからの二週間、王国にとっての悪夢だった。


 揺れは、もはや日常のすべてとなっていた。


 邸が悲鳴を上げる。


 家具は固定されても食器が飛び出し、扉がバタバタと開け放たれる。


 壁に亀裂が走り、壊れる家も出始めた。


 眠れぬ夜を過ごし、後片付けに追われた。


 ヴェスヴィオ山のあちこちから、絶えず黒い煙が上がり、夜ともなれば、溢れてくるマグマの光が見えていた。


 王都では、祈祷が繰り返され、神殿は人で溢れ返っていた。


 殿下は、何度かメモのような手紙を寄越してくれたけれど「必ず」という意味のない約束。ただ、それだけ。


 私は、返事を書く意味を見つけられなかった。


 揺れる床に座り込み、ただ、耐える。


 そして、ある朝。


 目を覚ました瞬間、違和感に気づく。

 最近は、寝ても覚めても感じていた微かな振動がない。


 耳を澄ませても、地鳴りは、どこにもなかった。


 窓を開ける。


 空は、異様なほどに澄み切っていた。


 不思議と、あの日、回廊で見たクラプラ様の透明な笑顔を思い出した。


 なぜだろう?


「お嬢様、お山の煙が!」


 侍女の嬉しげな声。


 ヴェスヴィオ山の噴煙が、消えていたのだ。


 その日の正午。


 国王の布告が、王都に響き渡った。


『大地の精霊のご加護により、我が国を脅かしていた地震は、完全に収まった』


 人々は、歓声を上げた。


 抱き合い、涙を流し、安堵した。


 ――けれど。


 私の胸に、冷たい予感が走る。


「あまりにも、唐突すぎるわ」


 この終わり方には、きっと、何か意味がある。


 その夕方。


 一通の手紙が、クライン殿下から届いた。


 震える手で封を切る。


 そこに書かれていたのは、

 私の想像を、はるかに超える真実だった。


 ――クラプラ様が、消えた。



◆手紙


 ステファニーへ。


 この手紙を書いている今、君にどんな言葉を選べばいいのか、わからない。


 だが、隠し続けることは、もうできない。


 今日、父上から、すべてを知らされた。

 それは、王族だけが代々引き継いできた、この国の真実だった。


 フィッシャー王国は、だいたい八十年に一度、必ず破局的な噴火に見舞われる。


 それを防ぐ方法は、ただ一つ。


 王家の秘事として受け継がれてきた。


 ――「大地の精霊の加護を授かった乙女」が、自らの意志で、火口に身を捧げること。




「そうだったんだ」


 私は声を上げていた。


 洗礼式の本当の意味がわかってしまった。


 そして、洗礼式の後、クラプラ様がクライン殿下とともにいた意味が。


 王族と一緒にいれば、護衛がついても不思議はない。


 けれども、クラプラ様にとって、あれは「護衛」なんかじゃなかった……


 加護を授かった瞬間から、クラプラ様は、ずっと監視されていた。


 そして、なぜ、彼女の望みが、すべて許されていたのか。


 すべては、このためだった。


 私は、王宮で開かれた「祈念の夜会」で見せた、王妃様と陛下の顔がわかった気がした……


 殿下の手紙に目を戻した。


 今回、加護を授かったのが、クラプラ・フォン・エルデンハイムだった。


 最初は彼女も混乱したらしい。しかし、結局、自分が、国を救うために死ぬ運命を受け入れてくれた。


 だからこそ、王は私に命じた。

 彼女の意志が折れぬよう、誰よりも優先せよ、と。


 私は、命令に従った。


 理由も知らずに。


 その結果、君を深く傷つけた。


 ……許されるとは、思っていない。


 今日、朝日が昇る前に、クラプラは火口に身を投げた。


 その事実を、私は、彼女がいなくなってから知らされた。


 王子として。

 男として。

 私は、あまりにも無力だった。


 どうか、知ってほしい。


 彼女は、決して悪女ではなかった。

 君から奪うために、笑っていたのではない。


 彼女は、いつも言っていた。


 「どうせ短いなら、楽しく生きたい」


 ただ、それだけだった。


 そして最後まで、君のことを案じていた。


 彼女が君に残した手紙を同封した。


 読むかどうかは、君に任せる。


 フィッシャー王国王子 クライン・レオンハルト・アルヴァレスト・フィッシャー




クラプラからのメッセージ


 ステファニー様へ。


 突然の手紙で、ごめんなさい。

 でも、きっと直接は言えないと思って、殿下にお願いしました。

 あなたは、強い人ね。優しくて、真っ直ぐで。

 だからきっと、私のことを許せなかったと思う。


 それでいいの。


 私は、あなたに嫌われる覚悟で、あの場所に立っていたのだから。


 でもね……


 あなたの日常を、少しだけ借りたことは、後悔していないわ。


 好きな服を着て、学園を歩いて、王子様と並んで、あなたと話せた。


 それだけで、私は、十分に幸せだった。


 あなたは、クライン殿下と結ばれる。だから、もう未来を知っているはずよ。


 どうか、自分を責めないで。王子様を責めないで。


 誰も、悪くないの。


 この国が、そういう国だっただけなのだから。


 あなたは、生きて。


 私は、ちゃんと楽しかったから。


 クラプラ




◆エピローグ 未来は、ここに


――窓辺のマリーゴールド――

(ステファニー側)



 数日後、一人で街に出た。


 あの日と同じ花屋の前で、足を止める。


「マリーゴールドは、ありますか?」


 店主は、少し驚いた顔をしてから頷いた。


「ええ。ちょうど、出始めたところですよ」


 鮮やかな橙色の花が、そこにあった。


 マリーゴールド。


 その花言葉を、私はもう知っている。


 未来への希望。


 それは、彼女が持つことを許されなかったもの。


 だから、あの日、マリーゴールドは「まだ」なのだと、彼女は知っていたのだ。


 私は鉢植えを抱えて屋敷に戻った。


 窓辺に置くと、柔らかな光が花弁を照らす。


 遠くに見えるヴェスヴィオ山が、静かに眠っている。


「……ありがとう」


 誰にともなく、そう呟いた。


 彼女が守ったこの国で、私は、生きていく。


 未来を、背負って。


 窓辺のマリーゴールドは、今日も、静かに咲いていた。




――火口のマリーゴールド――

(クラプラ側)


 夜の火口は、静かだった。


 秘密を守るため、王様と王妃様、限られた影の護衛たちも、途中までしか付いてこない。


「あ、王子様は、最後まで知らされてなかったって、書いておくの忘れてたわ」


 ……ふふ。


 そのくらい、いいよね。あの二人なら、きっと何でも話せる。信じ合えるだろうから。


 静かだった。


 私が山に入ってから、地震も、赤い光も、轟音も消えている。


 私を待っているんだね。


 ただ、深く、暗い山を登る。


 これが、私の居場所。


 祈りを捧げるべき台座は、火口へと突き出されていた。

 ここには、花を飾る場所なんて、どこにもない。


「……怖くないわ」


 小さく呟く。本当は、怖い。でも、それ以上に、満たされている。


 だって、私の人生には、ちゃんと笑った記憶があるから。


 最後に思い浮かぶのは、怒った顔のステファニーと、困った顔の王子様。


 あの花は、きっと、窓辺が似合う。未来の場所に咲く花だから。


「ありがとう」


 誰にともなく言って、一歩、踏み出した。


 大地は、その瞬間、静かに息を吐いた。



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