「エピソード13 中世編:空白という魔術!! 『少女の目覚め』」
作者の足掻きは霧散した。
第一章の幕は静かに閉じられた。
そして、作者はついに諦める。
未開拓の遊園地へ、読者を招くことにしたのだ。
緞帳に意味という錘を飾り付け、
あたかも第二章もすでに構築済みであるかのように見せかける。
それは、約束を履行するための策略でもあった。
読者が心の中で抱く「約束」を破るために、
作者は、あえて約束を履行したのだ。
作者は約束を再認識する。
徴を象徴として据え、誤魔化すために。
「誤魔化し」──
その緞帳に、約束という意味を宿す。
美麗で愚かしい『約束という意味』を身にまとわせ、
徴がその象徴となる。
徴が約束になる。
約束は、破られるためにある。
美しくも愚かしい緞帳を裂くために。
そして、裂かれた隙間から意味を探す旅が、始まる。
幕を上げるために、
私たちは、約束を破り捨てる。
物語を進めるために、
未知の眺望を手に入れるために。
私たちは、約束を履行する。
新しい約束という盟約を交わすために。
そして──少女が目覚める。
未開の地が今──
永遠の冒険者の広場が、私たちに与えられた。
ここから、物語が、無限に広がり始める。
ここは、「アウローラ神聖国」の片隅にある、ごくふつうの農村。
朝露に濡れた麦の穂がきらめき、男たちの農作業のかけ声が山々に響く。
掘り出した石を運ぶ山車の軋む音が、村の空気に溶け込む。
ときおり山から吹き下ろす風が、風車をくるくると回らせる。
その回転はまるで踊るようで、金色の畑の上に砂金のような恵みをそっと振りまく。
畑はどこまでも広がり、風車は村を見守るように回り続けている。
(なんとも、牧歌的な場所だ……)
作者は窓辺に立ち、外の眺望を静かに見渡す。
海と河が交わる土地。砂浜も近い。
だが、その光景はまだ、イメージの中の世界にすぎなかった。
パッチワークのように織り上げられた世界観の片鱗──
作者の手で組み上げられた幻想が、ここに息づいているだけである。
その片隅で、少女は夢の深みに沈んでいた。
まどろむ瞳は世界の光をまだ受け止めず、呼吸は朝の風に合わせてゆっくりと揺れている。
(今、彼女を起こす必要がある。しかし、自己紹介もまだだ……)
風車の回転に混ざる小鳥のさえずりが、静かに彼女の夢を揺らす。
──ここで、作者は静かに口を開いた。
モノローグとして、自己紹介を始めることでしか、
世界をゆっくり目覚めさせることはできなかったのだ。
「たしかに、うちは少し“特別”かもしれない。」
ナーレが、静かに語り始める。
私はその声を耳にしながら、目を凝らして観察する。観測する。
(みんな、私が“裕福”だって言うけれど……
私自身には、まだよく分からないの)
【そうだな、それはそう。君が選んだわけではない、最初からそうであったのだ。だから、逃げ出すことはできない。】
ナーレの言葉は、風に揺れる麦の穂の間を通り抜け、
遠くの風車の回転と重なり、静かに世界の輪郭を映し出す。
たしかに、お父さんはこのあたりの土地を持っている。
正確には、もっと昔――曾祖父の代からずっと続いている土地らしい。
【12歳にしては、よく観察しているのかもしれない……】
【それにしても、どうしてそうであったのだ?
君はまだ幼いのに、すでに世界の輪郭を見つめている。】
お父さんに聞いたことはある。
でも、話がややこしすぎて、正直よく分からなかった。
どうやら曾祖父は、「かつての王国の分家」にあたる人だったらしい。
でも、それも祖父から聞いた話にすぎず、確かな証拠は何一つ残っていないという。
(やっぱり、よく分からない……)
【それは──なんとも面妖だな。
君は分家の血筋なのか? それとも違うのか?
最初から、君がどういう人物なのか、誰にも分からぬのだ。】
結局、家の中でも曾祖父の話は、ただの昔話に過ぎなかった。
薪を囲んで、父や祖父が笑いながら語るのは、
「曾祖父はお金持ちだった」
「女にもてていた」
「とんでもなく自由な人だった」
そんな四方山話ばかりで、世界の輪郭を示すには遠く及ばなかった。
【炉端の話か……。
こうした四方山話は、罪深いものだ。
君は結局、誑かされ、迷わされている。】
最後には、自分の身分に悩んで、とうとう捨ててしまったらしい。
三十七歳のときに、伝統も何もかもかなぐり捨てて、土地の権利書だけ持って家を飛び出した。
一族は大騒ぎで探し回ったけれど、曾祖父も権利書も見つからなかった。
そして――本家そのものが、時代の流れの中で消えていった。
残ったのは、曾祖父と、その土地の権利書だけ。
曾祖父はその権利書を手に、この土地に住み着き、
なんと農家になることを選んだ。
(……正直、私にもよく分からない。変な話よね。)
【まるで御伽噺だな。
君のご先祖様は、この中世の御恩と奉公を投げ打ったという……。
分家としても、ずいぶんとイレギュラーな存在だ。】
それから、お父さんは農業の管理をする仕事をしていて、お母さんと出会った。
お父さんは今でも「金色の天使だ」って、照れもせずに言うの。
お母さんは農家の娘で、小麦を束ねていた姿に、お父さんは一目惚れ。
毎日アプローチして、ようやく振り向いてもらえたんだって。
【君の曾祖父については、その程度しか知らされなかったのだな。君のお父さんは、なかなかロマンチックな人物らしい。
そんな口説き文句を平然と語るなんて──
私なら、眼も当てられないだろう。】
少女の視線はまだ窓の外の風景に漂っている。
風車がゆっくりと回り、朝の光が麦畑を染める。
家族の語る昔話の軽やかさと、世界の歴史の重さが、
静かに少女の心の奥で交錯している。
そして私は、その二人のあいだに生まれた。
……私のことも、紹介したほうがいいのかしら?
でも、これといって特別なところはないのよ。
みんなは「裕福」だって言うけれど、
それは私のことじゃない。お父さんのこと。
この土地も、二台の粉挽き風車も、全部お父さんのもの。
私は――
ただ、そこにいるだけ。
麦畑の縁に立ち、
風車の影が伸びてくるのを眺めながら、
世界の中に、静かに置かれているだけの存在。
【君は特別ではない。
だが、それは否定ではない。
君は『君』である。此処にいるだけだ。
それ以上も、以下もない。
在る――それだけだ。】
風が吹き、風車が回る。
その事実と同じように、少女もまた、そこに在る。
まだ名前は、物語になっていない。
まだ役割も、運命も与えられていない。
けれど世界は、すでに彼女を含めて回り始めている。
目覚めは静かに、確かに、進行していた。
「私が裕福なんじゃなくて、お父さんが裕福なのよ」って言っても、
皆は呆れたような顔をする。
(きっと――私のことを“裕福”って言っておけば、
自分が惨めじゃないって思いたいだけなんだろうな。
……そんなふうにしか、思えない。)
皆を見返してやりたい気もするけど、そんなことしたら、もっと面倒なことになる。
それだけは絶対イヤ。私は静かに首を振る。
【君も、なかなか難儀しているようだね。
……うん? 誰か、君を支えてくれる人がいれば、救われるのかもしれない。
どう思う? 君には、それが必要かな?】
私にも、あの曾祖父の血が流れてるのかな。
お父さんの娘だから、ありえるかもしれない。
【そうかもしれない。
そうじゃないかもしれない。
結論を急いではいけない。
可能性を閉じてはいけないよ。】
その声は、慰めでも、命令でもなかった。
ただ、扉を閉めないための忠告――
あるいは、世界の呼吸に歩調を合わせるための合図。
私は、すぐには頷かなかった。
否定もしなかった。
考えることを、やめなかっただけ。
風が吹く。
粉挽き風車の羽根が、ゆっくりと音を立てて回り出す。
まるで、世界そのものが目を覚まし、
「まだ何も決まっていない」と告げているみたいに。
私はここにいる。
特別ではないまま。
何者にもなっていないまま。
――だからこそ、
これから何にでもなれる。
――私はナーレ。
「ここ」にいるナーレよ。
皆様、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
『第十三話「少女の目覚め」』のプロットや進行のプロセスは、ご理解いただけたでしょうか。
第十三話――「少女の目覚め」は、
ただナーレの誕生だけを描いた物語でした。
まだ遊園地も、アトラクションも、何もありません。
それでも、この小さな章が、これからの広がりを知らせています。
世界を語る前に、まず主人公を見せる必要がありました。
だから私は、ナーレという名前だけを抱え、
中身はまだ形にならないまま、彼女をここに立たせました。
この章は、問いかけと静寂の中で、
「始まり」を告げる鐘のようなもの。
読者の胸に、世界の輪郭の影を落とすだけで、それで十分。
彼女はここにいる――何者でもないけれど、何にでもなれる。
それにしても、随分とメタな話です。
私はナーレを理解しようとしている。
ナーレを諭そうとしている。
だがよく考えれば、私は彼女を知らない。
名前を与えただけで、性格も心も、まだ形にならないまま。
それでも彼女はここにいる。
まだ何者でもないけれど、世界は静かに、しかし確実に迎え入れる。
――そして、読者もまた、ナーレを知らないまま。
知らないからこそ、全てが新しく、全てが可能なのです。
『何もない、何者でもない――』
それを探す旅路へ、少女は足を踏み出すことができる。
まだ形にならない彼女が、これから無限の可能性を抱えて、世界に開かれていく。
風車は回り、麦畑は朝の光に揺れる。
世界は静かに息をし、物語はほんの少しずつ、動き出す。
――少女はナーレ。
まだ何者でもないけれど、何にでもなれる存在。
そして、冒険の扉は、確かに開かれたのです。




