「エピソード10: 現代編:主人公の分祀分裂!! 『分子分裂する夏枝』」
作者はチャンスを逃さなかった。
兄が風呂に入ってしまうという、痛恨の事態。
――ならば。
待っている間に、サブ連載を進めるか。
メインストーリーの案が、どうにも出ないのだから。
ちょっと縄梯子を上っておくれよ夏枝。
私は一寸、「花を摘んでくる」
その間に転生を終えてくれ給え。
作者は夏枝に、
ひとつのチャンスを与えた。
帆船は、動きを止めている。
――今が、登攀の好機だ。
夏枝はズイズイと縄梯子を登り、
そのまま甲板へと躍り出た。
そこには、ピンクと淡い黒を帯びたカンテラの光の下、
独楽のようにくるくると回るカロンちゃんの姿があった。
幽かな、妖艶な光の中。
ピンクと黒のグラデーションを切り取った衣服が、彼女の輪郭を際立たせている。
カロンちゃんは、明らかに歓喜していた。
ニカニカと嘲笑を混じえた声。
値踏みするような、燠のごとき双眸が夏枝を捉えて離さない。
「あはは♪ 久しぶりに金貨を持ってる人~♪
おじさんって、やっぱり“持ってる”人?」
そう言いながら、彼女はちょこちょこと距離を詰めてくる。
カロンちゃんは年齢的に、ティーンよりも幼い。
背丈も低く、夏枝の半分ほど――それが妥当だった。
不意に、カロンちゃんがガシッと抱きついてくる。
視線を落とすと、彼女の頭頂が、ちょうど夏枝の臍のあたりにあった。
ようやく夏枝は、
彼女の髪が薄闇の中で淡いピンク色を帯びていることに気づいた。
声の調子からして、少女であるのは確かだった。
コロコロとした響きを持つ声質で、悪戯好きながらも、どこか慈悲深さを感じさせる。
ただ、彼女の肌は、この闇と同じか――それ以上に黒い。
異様なまでに神性を帯び、妖艶であるがゆえに、漆黒よりもなお深い色をしていた。
作者には、このカロンちゃんがあまりに黒く、正直よく見えなかった。
そこで、輪郭が伝わるよう、彼女を一歩近づけ――その存在を、直接夏枝に突きつけることにした。
「まだ、強調できるところがあるでしょう?」
そう言わんばかりに、彼女はやたらと距離を詰めてくる。
闇の中でもはっきりと分かる体躯の起伏を、否応なく意識させられた。
――正確に言えば。
彼女は「メスガキ」気質ゆえに、ただ挑発しているだけなのだ。
彼女が強調してくるのは、それくらいしかない。
服と、目と、口――それ以外は闇に溶け、まるで宙に浮いているかのようにすら見えた。
(どこかで見たような要素ばかりだ──
肉体があるだけ、まだマシなのかもしれない)
作者は、このカロンちゃんを許した。
あまりにセンシティブな情報ではあるが――
相手が神である以上、そういうことにしたのである。
彼女は、感極まったかのように彼への抱擁を解いた。
そして――再びカンテラの光の中で、妖艶な踊りを披露する。
それは、まるで歓喜そのもののようだった。
静けさと妖艶さの中で、独楽はひとりでに静止した。
カロンは、そろそろビジネスモードへと切り替わる。
それまで陽気と歓喜を響かせていた彼女が、ふいに俺へ視線を向ける。
「あのね♪ おじさんは、どこまで行きたいの?」
(さて──
どうやって、この神を出し抜いてやろうか)
もちろん、金貨は一枚しかない。
(この金貨の効力は分からない。
だが――フルベットするしかないのだ)
波音が響く中、冥界のど真ん中でゲームが始まった。
もはや、幸運の女神に祈ることすらできない。
冥界において、明快な神がまかり通る世界だ。
ならば――見えない双眸を持つ天使に、運命を預けるしかない。
彼女がじっと見つめる中、かすかに回転音が鳴り始めた。
バタン、バタン――回転動力である車輪が、未来を占うルーレットを密かに回している。
その天板に描かれたベットサインへ、
金貨を置く――今が、その時だ。
********
「ねぇ? おじさん、金貨持ってるって言ったよね〜♪」
そう言って、彼女は彼をじっと見つめる。
次の瞬間、スッと腕に絡みついてきた。
――もう、二度と逃がさない。
金貨を、早う寄越せ――その一念が、形を取っていた。
彼は思わず後ずさりし、
一連の動作の勢いに押されて、受け身の姿勢を取った。
「ねぇ、早くちょうだい〜♪」
彼女は、強調しすぎと言わんばかりに距離を詰め、
腕に重みを預けてくる。
その始終、指を開いては閉じる――
まるで獲物を品定めする癖のような仕草を繰り返し、
妖艶さと蠱惑的な気配だけを、執拗にまとわせていた。
その瞳は、燠火のようなピンクと黒の熱を宿して――
俺の全身を、絶えず値踏みしているかのようだった。
(分かりきっている。
下手に出た瞬間――終わりだ)
彼は警戒しながら、背後をちらりと振り返った。
右舷甲板の縄梯子から登ってきた以上、夏枝はいま、船上にいる。
一連の動作の勢いに押され、受け身の姿勢を取った夏枝は、
そのまま船上――甲板の先端に追い込まれていた。
背後にあるのは、一本の柵と――
カンテラの明かりに浮かび上がる、黒い水だけだった。
水底は一切の光を通さず、
ただ、闇を湛えた水が静かに淀んでいる。
彼は「ステュクス」という言葉から、記憶の糸を手繰り寄せた。
――どうやら彼は、『神曲』を読み込んでいたか、あるいはギリシア神話の素養があったらしい。
──そうだ。
ここは、死後の世界へ至る中継地点。
ステュクス河だ。
(つまり、終点は“辺獄”……
地獄の、最果て)
ダンテの『神曲』では、
地獄と天国には明確な階層がある。
七つの〈P〉を授かり、
地獄には十の獄界、天には十の神界が設けられている。
天の頂点には創造神がいる――だとか、そんな話。
彼は、最初からまるで信じていなかった。
(眉唾だと思ってたのに)
ついさっきまで、彼の目の前でその「神」は、だらしなく寝そべっていた。
だが今、そいつ――いや、“彼女”が目を覚まし、彼の前に立っている。
「おじさん、大丈夫?
すっごい汗かいてるよ?」
彼女のキャハキャハとした笑い声が、
彼を現実へと引き戻した。
「ねぇ、観念してちょうだい?」
そう言いながら彼女は、
指を一本ずつ、ゆっくりと開いては閉じ、
そのまま片手を――彼の前へ差し出した。
(さて……困ったな。
こうなったら――取り敢えず、正直に話すしかない)
――作者は、この土壇場で、潔く諦めた。
一瞬、時間を確かめる。
夏枝も、同じ行動を取った。
「金貨は渡す……でも、一枚しかない。どこまで行ける?」
彼女の反応を探るため、
彼は懐中時計を確認するふりをして、そう告げた。
「え〜、一枚だけ? うーん、そこそこ遠い場所なら行けるかな?
でもね、ジルお姉ちゃんからは“辺獄まで連れてけ”って言われてるんだけど……」
(なるほど……一枚でも、どうやらルールは存在するようだ。
そして、カロンというこの少女は――ジルの配下らしい……)
彼女はふっと視線を暗闇に向け、思案している様子だ。
(彼女の思考を止めさせるな。
質問を重ねろ――止まった瞬間、こちらの負けだ)
取り敢えず、ジルの部下という時点で、
あの出まかせ裁判長の息がかかっているのは明白だった。
「裁判長が言ってたよ。
――“罰を浄罪するために神として働くなら、
辺獄行きは免除してやろう”ってさ」
一拍、置いて。
「……心当たり、ある?」
彼女の思考を止めないよう、情報は小出しにする。
金貨と、俺自身の価値が釣り合うこと――
祈るしか、なかった。
「ふ〜ん……おじさん、つまり“派遣社員”ってこと?」
(ビンゴだ!!
ついに、彼女がこちらの情報に乗った)
「まあ、そんなところだろうな」
――彼は、何の疑いもなく、その情報に乗った。
「じゃあ金貨一枚でも大丈夫かも。
──おじさん、会社のこと、あんまり聞かされてないでしょ?」
彼女は少し呆れたように俺を見た。
(どうやら――彼女には情報が直接渡っていないらしい。
命令は、一体どの経路で流れているんだ?)
「そういえば、自己紹介してなかったね。
あたし、カロン。カロンちゃんって呼んでいいよ♪ おじさん」
ピンク色の舌が、ぺろりと唇から覗いた
(社員と分かるや否や、いきなり自己紹介をする。
彼女……挨拶には挨拶、か。
ふむ、これは『古事記伝』にも書かれている通りだな。)
「俺は夏枝 重。よろしく頼む」
片足を引いて、俺は軽く頭を下げた。
「うちの会社はね、現世で死んだ魂に仕事を斡旋してるの。
だから、“派遣管理会社”ってわけ」
(な、なんだって……!?
死んだ魂に仕事を斡旋、だと!?)
「でも普通の派遣とは違うの。
重罪を背負った魂は辺獄送りになるから、
その場合は金貨が三枚必要なの」
(急にカロンちゃんは、まるでギリシャ神話のカロンのように、
業務ルールを矢継ぎ早に説明してきた。
情報量が多すぎる!!)
彼女は説明を続けながら、
まるで「分かった? おじさん?」とでも言いたげに、彼を値踏みしていた。
「でも、おじさん、持ってるのは一枚だけでしょ?」
「……それで、俺は神様みたいなことをする、って?」
何とも……二人とも、話がかみ合っていない。
「ラケシスおばさんが言ってたんでしょ?
じゃあ、そうなんじゃない?」
その一言で、彼の常識が音を立てて崩れる。
(ラケシスはギリシャ神話……運命の女神まで、役員なのか!?)
当たり前だ。人間の常識は、超次元には通じない。
それでも彼女は、彼の動揺など意に介さず、淡々と説明を続ける。
「金貨一枚だと、複数ある次元のうちの一つ……
つまり“平行世界の異世界”に転生できるの」
「ただし、今の時間か、その世界の“過去”にしか行けないんだけどね」
(なんだ、そのルール!?)
作者は、この三枚ルールを逆説的に利用し、
一枚や二枚で移動階層を段階的に踏む方法へと昇華させた。
「平行世界の異世界に転生できる」
成程、つまり河を遡っていくのか?
作者は、本当にアホなのかもしれない。
作者はステュクスとアケローンを逆行しろと言い始めた。「枝分かれする支流から、奔流へ逝け!!」ということらしい。
最高に頓珍漢で頓痴気ぶりに拍車をかけて、
狂気が宿った。
遡ることに失敗したら、セカンドライフは用意されていない。
つまり――真面目に死ぬのだ。
彼女は黒く澱んだ水底を指差す。
「本流に流されちゃうと、河底に堆積して──
永遠の渇望と絶望で溺れることになるわ」
その瞳が、一瞬だけ彼を悲しげに見た。
ほう……本当に死ぬらしい。
なんとも甘美な響きだ。
夏枝とは違い、作者はこの瞬間を心から楽しんでいる。
しかし、疑問が湧いた。
行先は選択可能なのか――それとも、否か?
「……行き先って、選べるのか?」
思わず口に出した疑問。
「いいえ。金貨に書かれてるの。
だから、それを見なきゃ連れて行けないの」
彼女は再び、手のひらを差し出した。
(金貨が駄賃──金貨自体が水先案内人だ。
失えば、セカンドオピニオンさえ逃げ出すほどの危険が待つ。)
どうやら、作者は本気で片道切符しか用意していないらしい。
回数は、三回まで──
私たちは、選択の瞬間に立たされていた。
「片道切符、三回までの――『ワン・チャンス』」
ついに、夏枝は決断を下した。
「分かった、カロン。頼むよ。
行き先はわからないけど……安全に連れてってくれ」
彼は胸ポケットから金貨を取り出し、差し出した。
この瞬間、夏枝は分子粒子ソリッドを通り抜けることになった。
魂は分子となり、極小の穴を縫うようにして進む。
――まるで「シュレディンガー方程式」の実験場にいるかのように。
その始まりがナーレであることを、彼はまだ知らなかった。
帆船が逆巻いて、河を逆行し始める。
本当に本当に、彼の望んだ事が実行された。
時間が逆巻く。
現在ではない!
火口に向かって……
過去の並行世界へ旅立つ準備が出来た。
逆巻く願いを載せて。
「お・じ・さ・ん、カロンちゃんって呼んでいいんだよ?特別に♪」
金貨を歯で軽く噛み、彼の腕を再び抱き寄せる。
(古の決まり通り、金貨を噛ませる。
本当か否かを確かめる──生と死の味を)
「特別? それってどういう……」
その言葉を聞いた瞬間、彼は運命が仕組まれていたことを悟る。
あまりに、作者は意地悪だった。
全てが計算ずく。
そして、作者は――完全に「あちら側」だった。
「だって!
ラケシスおばさんがわざわざ金貨を渡したの、
こんなどうしようもないクズ人間のおじさんなんて――
千二百年ぶりなんだもん♪」
そう言うやいなや、彼女は掴んでいた彼の腕を引き寄せ、自分の腕に絡めた。
これで──契約は完了した。
登場人物たちは、その言葉の意味を考え続けた。
だが、今は答えが出ない。
その示唆を理解する前提知識が、まるでなかったのだ。
ただ、作者が命ある神を誕生させたことだけは確かだった。
唯一――『カロンちゃん』という彼女の存在感だけが、
異様な面妖さを切り取るかのように配置されている。
その事実――その事だけが、真実だった!!
──その彼女の言葉が、
後の登場人物たちに長く苦悩をもたらすことになるとは、
この時点で、誰一人知る由もなかった。
作者は、一章を駆け抜けた。
その勢いを保ったまま、第二章へと物語を進める。
ナーレの世界――
平行世界であり、過去の世界。
中世5世紀のアイルランドを舞台に、ステージがせり上がった。
(ナーレ!──ナーレ、早く起きなさい!
教会寺院の開院に間に合わないわよ!)
聴いたこともない声が聞こえる。
誰だろう……。
(遠くからお母さんの声が聞こえてくる。)
ぽかぽかとした朝の光の中、
お母さんの声に混じって、朝を告げる精霊たちが甲高く啼いていた。
此処はどこだ?、私はだれだ?
(うぅ~ん……あと五分だけ……
私はベッドの上でゴロゴロと転がり、掛け布団を頭までかぶり直す。)
「ナーレ!──ナーレ、早く起きなさい!」
お母さんは帳とばりを勢いよく引っ張り、私の全身を揺さぶってくる。
あぁ──煩いぞ!?
何なんだよ!!
(ああ、わかったってば、お母さん! 起きるよ!
私は掴んでいた帳を放し──
「いった!」と、ドスンという音と共に、お母さんが強く尻をさすっていた。
「ナーレ! 開院まで三十分しかないわよ?
早くご飯を食べて、行ってらっしゃい♪」
お母さんの声に促されて、私はようやく体を起こした。新しい朝がやってくる。何も変わらない一日。
私は窓際に立ち、昇りゆく朝日を見つめながら、そう思った。
皆様、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
『第十話「分子分裂する夏枝」』のプロットや進行のプロセスは、ご理解いただけたでしょうか。
本当に、本当にお疲れ様でした。
夏枝という世界史は終了となります。
───いえ、何でもありません。
少し、感傷に浸っていただけです。
これからはオマケストーリーの解説になりますが……
ぶっちゃけ、飛ばしても問題ありません。
だって、オミットストーリーですからね。
価値なんて、ほとんどありません。
貴方の時間の無駄です。
でも――?
暇つぶしに見たいなら?
「見ればいいんじゃない?」
『第11話 「夏枝追葬譚 ―導入編―」』
見たいですか?
じゃあ、見てもいいですよ?




