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3「白い点」後半

改行などで修正するかもしれません。

ーー窓の外に黒い人影が立っていた。



ガリガリに痩せた胴体。


ヒョロリと細長い手足。


髪もヒゲも伸び切っている。


その虚な目の淵に、歪んだ星々の神秘が見て取れた。


ーーあの引きこもり、例のカリカリ音と奇声の主、トムジョン。


「いつの間にエアロックを抜けたんだ?」


「あいつの電熱服はパーツを取り外したままだ!」


「待て!トムジョン!そいつは壊れている!」


彼は窓からこちらを見つめると、


何かをつぶやいていた。


おーは、ついに見ーーーー。

いまーーーーーーーーる。


やつは、まるで、


トムはさも水泳選手が飛び込み台に立つように、

慣れた仕草で手摺に足をかけた。


どこへ向かおうというのか、


白鳥が美しく、寝かせた首をもたげ、その両翼を広げたように、ゆっくりと姿勢を正す。


誰がお前を呼んでいる?トムジョン。


彼は優雅に翔び立つと、

まるでそこには最初からいなかったように、

虚空の彼方へ消えていった。


「トムめ!あいつは電熱服よりタチが悪い。」


「あ、ああ、エアロックがあかないよぉ。」


慌てたアー君は磁気嵐で使えないボタンを必死に操作していた。


「アー君、どいてくれ!俺がやる!」


ーーそもそも手順からして違うんだ。


まずは開け晒された外扉を操作する。壁面に埋め込まれたトレーディングリールを回すと、扉は音もなく閉まった。


と同時にもう一つのリールで外扉のホイールを必死に回す。


シューっという音が徐々に大きくなり、気圧差がゼロになればこちらの扉のホイールを目一杯回転させできた隙間にアー君と俺の身体を滑り込ませる。


今度は内側のホイールをぶん回して、シューっという音がしなくなるまで待つと、外の扉のホイールを半ば叩きつけるように捻り開ける。


トムはどこにもいない。


そこにいた形跡もない。


ブラックホールの端から端まで探したが、例の白い点以外には何も見つけることができない。


「あ!」


唐突にアー君が間抜けた声をあげた。


「どうした!?」


「ロボットのコントローラ持ってきちゃった。あはっ。」


「………。」


「あはあ、そんなに拍子抜けなくてもいいじゃないか。グッドニュースだよ?」


「何が?」


「ロボットの通信が回復したみたいだ。」

そう言ってアー君がコントローラのモニタに写る2連星を見せてくれた。


「そうか……。いや、そうだ。ロボットが近ければトムジョンを救出できるかも。」


俺は窓の外をぼんやり見つめる熊さんにコンコンと窓を叩いて合図する。


熊さんははじめギョッとしてこちらを見つめていたが、どうやら意図を理解してくれたらしい。


ハンディカムを耳に当て、熊さんがチャンネルを開いた。


「もしもし?聞こえるかJJ?」


「熊さん、感度良好。頼みがある。」


「……なんだ?まったく。こっちはまだ事情が飲めてないんだ。」


「ロボットのトランスポンダの位置を見てくれないか?」


「トランスポンダァ?どこにあるんだそりゃ?」


「どうも恒星の方を向いてはいるんだが、どっちの方に、どれくらい離れているのか知りたいんだ。机の上に置いてあるはずだ。」


「おお、コレか?コイツの見方なんてわからんぞ?窓越しに見えるか?」


「ありがとう、場所がわかれば。ひょっとしたら、トムジョンの近くにいるかもしれない。」


「ふうむ……。まあ、無理だと思うけどな。恒星が見えてたんだろ?基地は見えてない?ひょっとしてだが、遡上していないかそりゃ?」


「へ?……あ、そうか。」


不思議な話だ。普通、恒星風や磁気嵐っていうのは、恒星側からブラックホールの方へ吹きつける。


だからそっちの方へ流されていないとなると、いったいどういう物理法則が働いたんだ?


「あはあ、変だねえ。でもそれならトムだって遡上しているんじゃないのかなぁ?まだ望みはあると思うよぉ?」


「いや、それはない。」


熊さんはいつになくキッパリと言い切った。


「お前らがエアロックに入っている時も、俺はちゃんとヤツの飛んいくところを見てた。ヤツは確かにブラックホールの方に飛んでった。」


「本当か?」


「ああ、間違いない。」


熊さんは唾を飲み込み、一呼吸置いてから続けた。


「……ただまあ記録装置は嵐で役に立たないんだ。どうやったって証明してやれんがな。」


「そう……、か……。」


「そうだ。お前の態度は殊勝だが……。どの道、俺たちの言うことなんざ聞きもしない、ロクでなしだったんだ。」


ふいにハンディカムにガサゴソという雑音が入る。


……俺には、……わからん、


「ーーッツ、ああ。遅かれ早かれ、いずれこうなっていただろう。……さあ、回収できる方のポンコツだけでも回収しようや。話はそれからでも遅くはない。」


熊さんは、すっかり酸味の混じったコーヒーを飲み干すと、舌打ちしてそう言った。


「了解。」


「あはあ、それで位置情報は掴めたのかい?」


「ああ、そりゃバッチリだ。反時計回りに回れば、基地が見えるはずだ。」


「いようし、それじゃーーギャッ!」


何が起こったのかアー君はコントローラを投げ捨ててしまった。


「おい、おい、おい!」


俺は慌てて身を乗り出し、宙に舞ったコントローラをしっかりキャッチ。宝石箱のように大切に抱える。


「何も投げるこたぁないだろう。うっかり、回収する道具を回収できなくったらどうしようって言うんだ。」


「あー、死ぬかと思ったぁ、もう脅かさないでようぅ……。」


心底びっくりといった表情で、アー君はへなへなとその場にへたり込んでしまった。


「………」


ーーお前さん。さては?……実は怖がりさんだな?


ははぁん、なるほど。

あぁ、それで合点がいくってもんよ。


ワザと白い点を俺に確認させたのも。

怖い話に興味津々なのも。


ピーンッと来たぜ!


コイツは他人を人身御供にして、予防線張っていやがる。へへっ、なかなかどうして、策士様じゃねえか。


いいかい、俺はな。

タネさえ割れりゃ、全然、ぜんぜん驚かないぜ?


「……って、うおッ!」


ーー前言撤回!


認めます怖いですッ

アー君だけじゃないです!

反省しますッ!


コントローラのモニターには、


どこか古めかしい電熱服を着た屍蝋の男が、はっきりと視認できた。


「く、熊さん!?コレ、コレッ!」


「なんだ、まったく、今日はもうこれ以上驚けれんぞ?…」



熊さんは、しかし。


モニターを覗き込んだまま、しばらく、動かなかった。



「……ピーター?……ピーター・ウッド!?」



ーーお前なのか。



電熱服は長い漂流の果てに気密性を失い、骸は体重の6割を揮発させていた。


遺体の回収はつつがなく終わった。

ピーター・ウッドの変わり果てた姿にアー君も俺も思わず目を背けた。


いつか、自分もこうなる日が来るのかもしれない。


ただ熊さんだけは決して彼から目を背けようとはしなかったーー。



「……しばらく、ひとりにしてくれないか。」


遺体を死体袋にしまい、センサーマストのふもとに括りつけたあと、熊さんはポツリと呟いた。


ピーターが熊さんの仲間だったことは、俺とアー君にも、なんとなく察しがついていた。


俺たちは半旗の前で目配せし合い、かける言葉を見つけられずにいた。


だから正直なところ、熊さんがそう言ってくれて、二人ともホッとしていた。


「……それと、お前ら2人はトムジョンの部屋掃除な。」


「エ“エ”ッ!」

「ゲエッ!」


ーーそれとこれとは話が別だ。


「……うるせえ。こっちはトムジョンの失踪をどう言い訳するか考えにゃならんのだ。」


ーー俺の言った通り、お前たちもほどほどにしとけば、ここまでならんかっただろう。


いつになく本気の熊さんの圧力と、ぐうの音も出ない正論に、俺たちはしぶしぶ従うことにした。


「JJ、言い忘れていた事がある。」


「アー君、なんだい、水くせえな。今さら、怖気付いたなんて言うなよ。」


俺たちは掃除道具を手に、トムジョンの部屋の前で呼吸を整えた。


……あくまで呼吸を整えているだけだ。


決して尻込みなんかしていない。

これから始まるビッグプロジェクトに、興奮しているんだ。


「あはぁ…僕、その……不器用なんだ。今回も君のジャマをしてしまうかもよ?」


「へへっ……、そんなこと言ったって逃さないぜ、アー君。俺たちゃ一蓮托生、やるときゃやるんだ。」


俺はそう言い切ると、いつまでも踏ん切りがつかないアー君の代わりに戸を開け放つ。



ーー食いかけの『肌色』。


『緑』はとっくに食われていた。

切り開かれたプラスチックの抜け殻には、かつて一体だった『緑』と『肌色』の残渣が、搾り出された芋虫のように、ねっとりとした泥となって固着していた。


それは顔料として使われたのだろう。壁一面は湿り気と閉塞感を帯びた、理解に苦しむ色彩を放っていた。


天井と床には、永遠に繰り返される数式がびっしりと書き込まれ、その中心には、切り刻まれたスプーンとプラスチックで構築された、形容し難い『何か』が置かれていた。


その『何か』からは、トムの毛髪で編まれた毒蜘蛛の脚のような糸が、パリの目抜き通りのように広げられ、それぞれが幾何学紋様を刻まれた一片の紙と結びついていた。


それら奇妙な作品の合間を縫うように、雑多な生活の痕跡がうず高く堆積し、閉鎖された小部屋に吐き気を催す臭気を充満させていた。


部屋の最奥部。

折りたたみのベットの上には見たこともない書類の束が、今にも崩壊しそうな奇妙なバランスを保っていた。


唯一、片足で立つことができる程度のスペースが残されていたが、それではどうやって休息を取っていたのだろうか。


「あはあ…。」


「うっわ…。」


……軽く目眩を覚える光景だが。


ーー俺は構わすアー君を押し込んでいくことにした。


「……ってさぁ、勇気を示せ!燃える男・アー君の突撃だ!」


「ま、待って!うわ、ウワーッ!?」


ガタン!

アー君は必死に抵抗しようとして、何かを突き飛ばす。


「ヒィーッ!な、なんだこれー!?」


アー君は、跳ね返ってきた物体を見もせずにキャッチ&リリース。


ボトルだ。何かのボトル。

その中身が、低重力をものともせずふわり、まるで銀河に星を散りばめたように広がった。


しまった、水分だーー宇宙空間じゃ最悪に厄介なやつ。



ーーしかも、一回腎臓を経由している!


「ギャーーーッ!」


アー君は顔面を直撃した雫のせいで、完全に正気を失った。

仰け反って後ずさると、


ーーグニュッ!


今度は何かを踏みつけ、滑って宙を舞い、猫のように手足をバタつかせながら着地した。


「……はにゃーん?」


踏みつけたのは、丸められた紙の塊だった。隙間なく文字が敷き詰められ、その上を殴り書きが走り、更に小さく細かい注釈が足されていた。


「ううう……、今度は何だよぅ……。」


アー君は、半分潰れて跳ね上がったそれを手に取ると、何を踏んでしまったのか、不可解な感触を確かめるように、包みを開く。


「あっ!よせ、アー君!やめッーー」



ーーそう。


ちょうどその時だった。


俺は、あり得ないものを目撃する。


銀河の星々だった。


それは例の、“あの液体”の彗星群。

まるで星雲(ネビュラ)のような輝きを放っている。


眼前いっぱいに広がり、何かの神秘を訴えかけていた。


そして、その圧倒的な存在感は、俺をどこか幻想の世界へと誘っていく……。



思考が永遠に繰り返していた。全てがキラキラと輝いて見えた。そして、永遠に思考が見えて、キラキラした思考が繰り返して輝いていた永遠だったキラキラしていた………


宇宙の中に宇宙があって、俺は鏡と鏡の間に閉じ込められた人形のようだった。そのまた外と中にも宇宙があって、俺は鏡を覗きこんだ。そこには俺がいて人形だった。


その人形は何か驚いた顔をして、必死に何かを訴えようとしていた。一方、俺が人形で鏡の外に必死に何かを訴えかけていて、しかし宇宙と鏡は根本的に違っていて、人形は訴えてようとしていて……


しかし俺は、全てが面倒くさくなって、もうどうでもよかった。


思考を手放せば、あるいは、すぐにでも、楽になるのかもしれない。そうだった……すぐにでも……楽になるのかもしれなかった……



ーー高次機能を喪失した俺の頭脳の、さらに奥深く。

普段使うことのない領域に眠っていた『何か』のスイッチが、ハッキリと、カチリという音を立てて作動した。



大脳辺縁系は、全ての高次進行タスクを遮断・一時保留した。


タイムアウトした思考回路は応答不能エラーと判定され、身体制御トークンは辺縁系の直接管理下へと強制移譲される。

直下では、既に辺縁系独自の即応型反射協調制御プロセスが起動している。


視覚チャネルからは、明示的な危機信号がすでに入力されていた。

しかし、上位判断系へ転送された「これは何か?」という誰何プロンプトには応答がなく、タイムアウト。

危機判定フラグが再設定される。


対象物に対する弾道予測プロセスは優先度を引き上げられ、即時処理キューに再配置される。


同時に、既に作動していた脊髄弓反射サブルーチンが上書きされ、

新規信号が漸次的に生成・送付される。


信号を受信した各筋群のフィラメントは、順次収縮フェーズへ移行。

拮抗筋には未だ中途半端な緊張信号が残存していたが、

危機判定フラグは閾値を突破しており、全アラートはスキップ処理に移行していた。


外力により、拮抗筋は許容量を超えた受動伸張を開始。

筋紡錘からは高頻度スパイクが異常検知されたが、制御中枢はスルー処理を選択。

骨格筋群は最大出力を維持し続ける。


それに呼応し、耳介に内蔵された加速度センサが変位情報を再検出。

この信号をトリガーに、効果検証フェーズへと移行。


辺縁系はさらなる調整を要求。

小脳は過去の協調運動ログから最適テンプレートを検索し、再現コードを抽出・送信。


全てのループは正常に作動し、物理タスクは完了。

辺縁系は視覚情報から回避成功スコアを算出し、緊急回避プロトコルの終了処理を実行。


同時に、遮断されていた大脳皮質・新皮質のタスク群がスタックから復帰。

一時メモリ領域から消去されていた文脈情報も逆算処理により再構築されつつある。


状況終了。通常動作モードに復帰。


ーー何か言いかけた言葉がある。


……そうだ、アー君のあの行動は、明らかに迂闊だった。

今、この場で、即座に対応しなければ、それは巡り巡って予測不能な大崩壊を招きかねないのだった。


しかし、声をあげようとした瞬間、俺の背中に妙な痛みが走った。


ーーなぜ?


俺には理解できなかった。

それでも俺は必死に抗い、抗い、抗う。

今、残された最後の力を振り絞ってみる。

だが、無情にも、命令すれば命令するほど、身体からは何の反応も帰ってこない。

警戒せよ!




ーーボロンッ!




「……土?」


何をバカな、宇宙に土などあるものかッ……。

アー君はキョトンとしながら“その物体”を見つめる。


ーーアー君、それはッ……!


そしてーーその中身がとても見覚えのあるものだと気がつく。


ーーそう。


『緑』の破片の一部が、未消化で下されていた。


「……あっ、」


「……ああ、…あああっ…!」


「うッぎゃーーーッ!」


ーーボロボロベチョッ!


「うッわーーーッ!?!?」


その時、何かが堰を切って崩れ落ちたのは覚えている。


悪夢の崩壊が、更なる悪夢を呼んだことも。


「まったく、騒がしいな……。」


ーーこっちは考えなきゃならん事が多すぎるんだ……。


バキッ!ビチャッ!

バサーッ!ベチョッ!


カランカランカラカラ……カタンッ!


何かを繋ぎ止めていた、最後のピースが転がり落ちると、求めていた本当の静寂がやって来た。


「………。」


「……うん、静かになったな。」


ーー後始末は姦しい若者にやってもらえ。


どうしたものか、トムジョンは失踪したが、ピーターは帰ってきた。

もう何もないと思って、前回のシャトルで退役申請を出してしまっている。


正直もう疲れているんだ。全てにうんざりして嫌気がさしている。華やかな軍歴とはかけ離れて久しい。せめてここで静かにとも思っていたが、すでに限界だった。


だが、この不祥事は退役前には痛手だ。どうにかする方法は無いものか。


うーむ……とりあえず行方不明だったピーターを見つけた事から報告しよう。いかにもこっちが大事というニュアンスで仕立て上げる……。


ーーピーター…


なぜ今さらになって……。

トムだけじゃない。俺だって、一生懸命、探し回っていた。


毎日、毎日、変わり映えのない観測ログを見ては、ひょっとしたら、今日こそはと思っていた。


だが、そういう思いとは裏腹に、気がつけばこんな歳を重ねちまっていた。


『もう、だめかもしれない。若くない。俺も、限界だ。』

そう思っていた矢先、お前は突如として現れたんだ。


……そう言えば、昔っから突拍子もないやつだっけ。ではいったい、いつからお前はあそこにいたんだ?


気象レーダーには嵐の時以外、真新しい動きはない。再チェックしたが、危険な飛来物にはちゃんとマーカーがついている。だが、ピーターのいた座標には何も映っていない。


ーーおかしい。


何かが変だった。ピーターは確かにあそこにいた。なのに、レーダーに反応しないなんて、そんなことがあるのだろうか?


ならば映像のログを遡ってみよう。基地周辺を360度監視する定点観測カメラ。


映像では、JJとオブライエンがロボットを操作し、ピーターを回収していた。


逆再生しながらロボットとピーターの動きを追う。一台と一人は一点で止まり、やがて映像が途切れた。


「磁気嵐か……。」


そのまま逆再生を続けると、映像が再び浮かび上がる。ロボットは姿を消していた。だが、


ーーピーターは、変わらずそこにいた。


どういうことだ?映像には確かに存在する。ここでは予想外のことがよく起きるが、今回だけは放置するのも気持ちが収まらない。


だが、レーダーには反応がない……。


「アナログは、究極のデジタル……」


ふと、JJとオブライエンの会話を思い出す。


「そうか、生データをあさってみるか。」


意味と無意味の混沌、価値と無価値の境界線上、人が見るにはあまりに巨大で、人が知るにはあまりに膨大な。


背景ノイズ処理の施されていない、純粋なレーダー波長のデータ。


軽く目眩を覚える光景を想像して、すでに憂鬱だった。


「はぁ〜……、お?」


しかし、あっけないほどに、答えはすぐに見つかった。


生データには、ちゃんとピーターのいた座標に影が写っていた。


もう一度、背景処理された画面を呼び起こすと、ピーターの影はない。


対象にカーソルを合わせ、処理の判定基準をチェックする。


ーー相対速度:基準以下、岩石・人工物の可能性、予測質量:〜50kg、危険度:極低、背景クラッターと同時処理、@緊急加速時のみ障害物として表示


なるほど、最近の観測ログの中には見つからなかった理由がはっきりした。まさしく、コロンブスの卵だった。


ーーだが、どうやってここまで来たんだ?


すべてを知ろうとは思わない。だが、少なくとも、今までいなかったところに出没した理由だけでも知りたい。


ピーターの影を追い、時間をさかのぼる。しかし、あの一週間続いた大嵐の日まで、影は微動だにしない。


データは一時途切れる。その直前のログにたどり着くと、今にも迫り来る大嵐のガス雲が渦巻いていた。


エコーとノイズが酷く判然としないものの、ピーターのいた座標にはまだそれらしい影はない。


嵐の後には影がある。嵐の前には影がない……。


ーー命令:嵐の前後の気象データを参照し、経緯を予測せよ。嵐そのものの観測データはないため、大胆な予測でよい。背景処理未了と完了後の画像を同時に出力せよ。


ーー回答:あくまで予測であるものの、気象状況の推移を補完しタイムラプスでレーダー画像に出力する。任意に背景処理の有無を選択できる。


さっそく背景処理された画像を再生する。


ガスの大きな流れが見て取れるが、それ以外に真新しいものはなかった。


背景処理を切り、もう一度再生。


ノイズが一気に増えたが、時間の流れがあれば、なんとなく判別はできそうだった。


ガスの大きな流れ。その反対側にも半分ほどの反射波が、不規則に動いているのが見て取れた。


画像を止めカーソルを合わる。


ーーガス流体のエコー


再び再生


するとすぐに、突如として、エコーから取り残された影が生じた。


停止、カーソルを合わせる。


ーー相対速度:基準以下、岩石・人工物の可能性、予測質量:〜50kg、危険度:極低、背景クラッターと同時処理、@緊急加速時のみ障害物として表示


「………。」


結局、はっきりとしたことはわからない。もしかしたら予測モデルがシベリアの環境に適合していないのかもしれない。


ーーしかし、あのガス流体のエコーがもし、エコーでないとしたら?


ーー流体が渦巻いて、滝壺のような、抜け出せない空間を作ったとしたらどうなるだろうか?


「……やめよう、全部憶測だ。」


頭をいったん空にして、基地の定点観測カメラの映像をぼんやりと眺める。


ーー映像はあの大嵐の後だった。


JJが行き倒れたロボットを回収していた。帰りがけにふと、何を考えたのか、ブラックホールの方を見つめ、歩みを止めた。


多分、おそらく、例の白い点を探していたのだろうか。


JJは白い点を見つけたのか。

まるで意思を囚われたように、そのまま動かなくなった。



その彼方の後方には相変わらずピーターが写っている。



ーーピーターは、JJの後ろ姿を静かに観察しているように見えた。



「……アー君……無事か?……イタッ!」


「……あはあいてっ!……どうなったの?」


ハッとして、時計を見ると、時間がだいぶ過ぎていた。

まずいな、だいぶ脱線したぞ。

まだ今日は、考えることがあったはずだ。


すっかり冷えたコーヒーをすすりながら思考をもとに戻す。


何の話だった?とりあえず、ピーターは帰ってきて、トムジョン。


ーーそうだトム。


やつの報告は……、そうだな。

最後にさらっと、トムジョンが失踪したと言えばいい。


うん。それがいい。そうしよう。


あいつらとも口裏を合わせれば何とか……。いや合わせるまでもない。


単に事実の報告順序を入れ替えただけだ。かえって口裏を合わせる方が、いらぬ腹を探られかねない。


今のままが一番いい。

というよりも、もはや、それしか方法がない。

せめて退役した後だったら、俺の年金にも響かないというのに。



『…熊さん、俺は本気なんだ。ピーターを探す。』


『やめろ、トム。お前まで居なくなっちまったら、どうするんだ。』


『何言ってるんです。見捨てようって言うんですか?』


『違う、物事には順序がある。そう言っているんだ。』


『熊さん…今なら間に合うかもしれないのに。あんた…案外、薄情なんだな。』


『やめろ、トム!ピーターの居場所もわかってないのに、お前に何ができるって言うんだ?』


『……熊さん、俺は独りでも、やりますよ。』


トムジョン、あの分からず屋のあほうめ。お前みたいなのが、誰とも上手く行くはずがないと思って、最後のよしみをかけたのが失敗だったか。


ーーいや、やめよう。


俺が選んで進んだ道だ。最後まで責任を取って引退するんだ。


「はぁ……、トムジョン。トムジョンか。」


窓の外を眺めれば、あの忌々しいブラックホールが見えた。その中心近くに、白い点が観測できた。今日という日は、いつになく自己主張が激しい。


「あいつは……、何がしたかったんだ。」


あの時、ブラックホール目掛けて飛び立ったトムは、速度を上げて見る見る遠ざかった。


いよいよ豆粒のように小さくなった時、不可解なことが起こった。



トムジョンが。

……あろう事か、進路を変えた。



やつの電熱服にはアポジモータもついていないというのにだ。


一体どういう事だ。


慌てて記録装置をいじったが、磁気嵐のせいでウンともスンとも言いやしない。


もちろんトランスポンダだって、外してロボットにつけているし、そのロボットさえ行方がわからなかったんだ。


すべてはどうしようもない事だ。

だが、俺は見ていた。俺のマーク・ワンは今でも正常だ。間違いはない。


「俺は、見たんだ。」



ーートムジョンは、まるであの白い点に吸い込まれるように、同化して、消えていった。



瓦礫の中からやっとの思いで生還を果たした二人は、しばし放心していた。


「アー君……。」


「……JJ……?」


「もはや、天災の後だな。」


「……あはあ……」


「……アーサー、燃える星の落し子、後にはペンペン草も生えねぇ。(Ardented Arthur the Aftermath)イテテッ……。」


「……なんかひどい。」


トムジョンの部屋は、文字通りの意味で、ミソもクソも一緒だった。


何か遺品でもあれば、とも思っていたが……。


「アー君?……」


「なんだい?……」


「もう全部まとめて捨てちまおうか。」


「あはあ……、いい案だね。……賛成。」



ーーこうして、人類は、一人の天才と、『重力場とガス流の法則式』を、その生きた証とともに失った。



シャトルが来た。

それは、ようやくこちらが発見できたとでも言うように、ゆっくりと近づいてくる。


熊さんはそわそわしていた。


事前の連絡で、そろそろ来る事は知っていたが、あちらもあちらで何やら慌ただしくしており、本当の核心、「ピーターの発見」「トムジョンの失踪」はついに報告できず仕舞いだった。


ーーもはや逃げも隠れもできん。


腹を括るしかあるまい。叱責の一つ二つが何だ。こちとら、シベリアの生活を耐えに耐え抜いたんだ。


逆に文句の一つでも……、いや、よそう。俺はもうすぐ退役するんだ。JJとオブライエンには寝耳に水かもしれないが、とにかく後のことは、後の者がケリをつけてくれ。


JJとアー君も遅れてやってくる。


ーーピーターの亡骸を携えて。



しかし、シャトルの様子はいつもと違った。いつもならば、さっさと荷物だけ下ろすと、「用は済んだ」とばかりに引き揚げていく……。


今日は未だ扉さえ開かない。


「…どうしたんだろう…。おかしいね…。」


「ああ、本当だ、妙だな……。」


若い2人はヒソヒソと何かを話し合っている。


「聞こえているぞ……。」


「ヒェ!…熊さん。脅かさないでくださいよ。」


「バカ…。」


熊さんは腰の後ろ、手信号で合図を送る。


『チャンネル合わせ、1ch、暗号化パターンB』


(…秘匿回線になっていないんだよ。)


(……あぁあ、なるほど!)


(……俺は、隠すこともないと思っていた。)


2人とも相変わらずだった。


オブライエンは頭が回るときは賢いのに、どこか抜けていた。


JJは底抜けにバカだが正直だ。


その若さが眩しくもあり。見ていると、少しだけ、不安になる。


まあ、要はただの老婆心だ。今さら心配したって、どうにもなるものじゃない。


「お二方、大丈夫ですよ。今、扉が開きますので。」


突然、オープンチャンネルから応答があった。

落ち着き払った、冷静な声だ。だが、不思議と安心感を覚えさせる。


(……あはあ、聞こえてたみたい。)


(隠すことはないだろ?)


シャトルの扉がゆっくりと開いた。

中から1人、見慣れない姿の男が出てくる。


(……熊さん、やつは、憲兵だ。)


JJが一段低い腹の下で声を出した。


その男に続き、わらわらと男たちが出てきて、傍に整列する。


皆、同じような装備、同じような顔をしている。違うのは……階級章くらいのものだ。


(……どうやら、そのようだな。)


(ヒェェ〜!僕たち捕まっちゃうの!?)


ーー妙だ。


まだ、連中には何も報告していない。それなのに大仰に憲兵だと?

一体、何がどうなっているんだ……。


例の落ち着き払った声の主は、まず死体袋を見つめ、次に、俺たち三人を見回した。


そして当然のように、静かに問いかけてくる。


「何かあったようですね?まずは、その死体袋からお伺いしましょうか。」


「はぁ……何と申しますか……。ピーター・ウッドです。行方不明のピーター・ウッドを見つけたんです。」


熊さんが、少し探るように、歯切れ悪く答えた。


「……なるほど。」


その男は視線だけを左上にやると、しばらく物思いに耽ったような素振りを見せ。また視線を戻す。


「確かに、随分と古い記録です。ピーター・ウッド元大尉、名誉少佐は行方不明ですね。」


ーーその死体袋の中身が、彼であると?


JJが何も言われずとも察したのか、死体袋の上半分を開けた。


視線はあくまで前を向いている。それは警戒心の表れか、それとも死体を見ないようにしているのか。


男は傍らまで近づくと、屈んでから、ピーター・ウッドの亡骸をまじまじと見つめた。


それから一寸、JJに視線をやる。

目が合ったJJはフイッと熊さんの方へ顎をしゃくり。「俺に聞くな」と言わんばかりに黙り込んだ。


男は一瞬、左の熊さんを視界の隅に置くと、今度は左下のピーターの顔を覗き込む。

今のは「目配せ」ではない。そう納得すると、もう一度熊さんへ首を傾ける。


熊さんは肩をすくめて見せた。


翻ってオブライエンを見ると、

彼は……見たくないとばかりに両手で顔を覆っていた。


男はもう一度だけピーターに向き直ると今度は足元から順に追って、最後はピーターの顔の上で視線を止めた。


「……特徴は一致します。損傷状態から見ても、行方不明になった時期に整合します。間違いないでしょう。」


「それで、こちらからもお聞きしたいのですが。」


熊さんが間髪入れずに質問を挟む。


「なるほど。何でしょうか。お伺いしましょう。」


男は一拍置いてから、立ち上がると静かに答える。


「あの憲兵隊は、一体何用でこちらにおいでになられたのでしょうか。なにせ、いきなりの事ですから……。」


「……ああ、そういう事でしたか。」


男は合点がいったとばかりに、視線を上げて話す。


「これは失礼。まずは自己紹介から、それから順を追って説明しましょうーー皆様の今後に関わることですから…。」



ーー男の名は、エージェント・櫻井


かかる事態に、少佐が派遣された。

あの憲兵隊は全員彼の部下で、選りすぐりの5人が選出された。その5人全員がエージェントである。


「まず、皆様にお伝えしなければならない重要事項から説明しましょう。」


ーーゴクリッ……。


三者三様に息を呑む音が聞こえた。

それぞれの思惑と、疑念が交差し、否が応でも緊張が高まる。


「シベリアは放棄されます。」


「……は。?」


熊さんが堪え切れずに、間の抜けた返事をする。


「……その、まだ耐用年数も残っていますが?」


「ええ、ですが放棄します。これはすでに、上級将校会議でも凛議に回され、正式な決定として下されました。」


「は、はあ……それは、結構な事で。」


「あなたにも個別に伝えなければならない事があります。どちらかといえば、あなたにとってはこちらの方が重要でしょう。」


「は、はぁ、……用件を述べて下さい。」


「では……同じく凛議の結果、あなたの退役願いは棄却されました。」


「……え。?」

「エッ?」

「エッ?」


これには熊さんばかりか、あとの2人も釣られて、間抜けな返事を漏らした。


「えっ、熊さん退役するんですか?」


「あはあ……、初耳……。」


熊さんは、反応しない。のではなく、反応できなかった。もちろん二人には隠していた後ろめたさも感じていたが、それ以上に衝撃だったのは……


「いえ、退役願いは棄却されました。」


「……え。?なんで?」


櫻井エージェントは熊さんを見つめなおすと、飲み込む時間を与えるように沈黙を保つ。


「あ、失礼しました。……理由を伺っても?」


「いいでしょう。……それなりに事情があってのことです。」


ひと呼吸の間を置くと、エージェントは語りだした。


「敵の大規模攻勢が予測されます。それも……」


ーー全面攻勢の可能性があります。


現在、上級将校の間では、「敵戦力が予想以上に充実している」とする見解と、

「起死回生の一撃に過ぎない」とする見解に分かれています。


(そんなクソか大グソかみたいな話、どっちだっていいじゃねぇか。)


(あはあ、JJ、まあまあ。でも全面攻勢だよ?トイレに行ったり来たりし続けるのも大変じゃないか。)


いずれにせよ軍事機密に該当するため、明確なエビデンスの提示はできません。


しかしながら、

攻勢が行われるという一点に関しては、

政府関係者、軍上層部、またマザーAIも、

各々、『確信』をいだいている。そのように解釈していただいて、差し支えありません。


「よって、軍では正面戦力の拡充が喫緊の課題となりました。非効率部門は縮小し、予備役の第二次召集も始まっています。あとは、ーー先ほど述べた通り。お分かりですね?」


櫻井は窮屈そうにヘルメットの縁を指先で確認すると、腕を組み直して反応を待つ。


アー君とJJは、相変わらず秘匿回線でお喋りを続けている。


熊さんは、そういう所が気に入らないとばかりに、うぅむ、と唸った。


「なるほど……。」


(……あはあ、“非効率部門”だって。)


(ケッ、おととい来やがれってんだ。)


「なぜ、今さら……、と言っても仕方ないか。心情はともかく、理屈はわかった。軍の指針も理解できた。それで…」


「この基地は、シベリアはどうするんだ?その……、処置の仕方についてだ。」


「放置」


櫻井は、乾いた舌を一度潤す。そして、わずかに上向く口角を悟られぬように、淡々と続けた。


ーーそのうちブラックホールに飲まれる。


「……というのも検討されましたが、いささか風聞が悪いということで。」


櫻井は軽く視線を滑らせ、三人の理解のほどを静かに測る。


「アナログな時限装置を使います。」


ーー爆破は、我々、つまりシャトルへの二次被害の危険性から却下。


「小規模な発破を行い、推進装置を暴走させブラックホールへ向け加速、同時に不活化処理もできて、一石二鳥。という算段です。」


熊さんが櫻井を見据えて呟いた。


「なるほど……。少しの工夫で最適解を得る。例え気取られても問題ない。……か。」


櫻井はピクリと眉をあげる。

しばし沈黙を挟むと、

やがてーー破顔した。


「ご慧眼、痛み入ります。」


(あはあ、本当にそう思ってるぅ〜?)


(いや、アー君、これ絶対、面倒な作業が控えてるぞ。)


そうなんだけど、そうじゃない。

櫻井は片目を、熊さんは両目を瞑った。



「はぁ〜。」

熊さんは深くため息を吐いて、もう一度目を見開いた。


櫻井は満足そうに笑みを浮かべると、嬉しそうに続けた。


「僭越ながら、皆さまには、ご理解頂けるだろうと考えておりましたので、面倒な作業をお手伝いするために、私の手の届く範囲で人を集めて参りました。」


(憲兵を?)


(それで憲兵なの?)


熊さんが、うぉほん。とわざとらしくせき払いして言った。


「そうじゃあない。本当の狙いは別のところだろう?櫻井少佐殿。」


ーーご明察。


櫻井の目がそう語っていた。


「おおかた、トムジョンが言うことを聞かないだろうから、しょっぴいてやろう。そんな所じゃないか?」


櫻井は片目と口角を吊り上げて、心底楽しそうに言った。


「とんでもない。あくまで保護。彼と皆様の、ご安全のため、です。」


(つまり、しょっぴこうと思ったのか。)


(あはあ、僕には無理だから助かるけどね。)


熊さんは目を瞑り、さらに、んんん!っと、のどを鳴らしながら答えた。


「まあ、あんまり違いはなさそうだが……その、トムジョンなんですがね。」


「ええ、よろしければ部下をやりますので、ご案内願えますか?」


(……だって、どうするんだろ、JJ。)


(知るか。……俺に聞くな。)


櫻井は、おやっ?と目を細める。

熊さんはいよいよ顔に手を当て、深く嘆息しながら言った。


「……ああ、その。なんですかね。トムジョンなんですが。トムは……失踪しました。」



ーーは?



しばし無言のあと、意味を測りかねた櫻井が、気の抜けた声を漏らした。


「失踪?」


憲兵隊がわずかに身じろぎした。


「はい。……その、何せ急な事でしたから、通信でも申し上げようとしましたが、あいにく取り合ってもらえず。」


(すげえ、エージェントが狼狽えるの初めて見た。)


(あはあ、僕も)


「はぁ……、あ、いや、いったい彼に何があったのでしょうか?」


あっけに取られてた櫻井はハッとすると、真面目な顔ぶりに戻った。


「何があったのか、と言われても、正直わかりかねます。何せ部屋から出てきませんでしたので。それこそ、憲兵隊が派遣されるほどには……。」


さらっと皮肉を交え、熊さんはシラを切った。


「しかしながら、ヤツは壊れた電熱服を着てブラックホールへ飛んでいきました。どうしようもない状況でした。」


冷静さを取り戻した櫻井は、鋭い指摘を挟んできた。


「……ふむ。なぜ電熱服が壊れていたと?」


これにはJJがすかさず反応した。


「整備中だったんだ。あの電熱服は誰も手入れしていない。パーツを外して動作確認をしていた。大尉に許可は得てる。」


熊さんは少し驚いたようだったが、JJの話に乗っかることにした。


「……そうだ、俺が許可した。だが迂闊だったかもしれん。」


「そうかな?とにかく俺は、暇だったんだ。察してくれてもいいじゃねえか。」


櫻井はヘルメットの顎に手を当てて考える。


「なるほど……筋は通っていますね。」


ーー動作確認にオマケがついていそうだが。


「なぜ彼が飛び出したか、本当にわかりませんか?」


熊さんは肩をすくめて答えた。


「さあなぁ。俺だって本人に聞きたい。」


「わかりました。では彼の部屋はどうなっています?」


「二人に片付けさせました。衛生的だったかも怪しいんで。放置して閉鎖空間でわからん病原菌が出るのも不味い。」


「確かに、ご懸念はごもっともです。全員の安全を図る処置は適切でしょう。」


視線を一瞬右上にそらし、櫻井は続ける。


「オブライエン伍長、ジョンソン三等軍曹。お二人とも、彼の部屋はどうでした?何か遺言などはありませんでしたか?」


櫻井はアー君をじっと見つめて答えを待つ。


「……あはあ、それがあんまり覚えていなくって……。」


「覚えていない?どういうことでしょうか?」


JJが被せぎみに答えた。


「ああ、部屋に入ったらゴミが崩れて、俺たち二人は生き埋めだ。わかるかい?アー君は頭からしょんべん被って、俺は背中を痛めちまった。」


ーークソの包み紙が遺言状だったら、そいつを拾って懐にしまうんかい?“聖なるクソ”まみれのそいつをよ?


お前さん。

“ヤだね、クソくらえ”さ。

俺はきれい好きなんだ。アー君だって思い出したくない。そう言ってるんだ。おつむのしゃんとしたヤツほど、そういうもんじゃねえのかい?


「JJ…、お前はもうちょっと物言いに慎みを持て。」


意図的に端折っているが、まるっきりウソはついていない。オブライエンから遠ざけるように啖呵を切っていく。

堂々とした物言いに、熊さんはちょっとだけ感心したが、過ぎたるはなお及ばざるが如し。あきれ気味に注意した。


ーー多分、ここに送られてきたのも、そういうことなんだろう……。


「いえ、お怒りも、ごもっともです。オブライエン伍長はどうでしょうか?」


櫻井に見つめられたアー君は居心地が悪そうに答えた。


「あー……、多分そうだった。」


「間違いありませんね?」


「……はい。」


「ありがとうございます。」


櫻井はそれだけ言うと、左に目を流す。憲兵隊は事情を察したのか、各々の役割に従い動き出す。


「大尉のご判断に間違いはなかったと思われます。トーマス・ジョン・林jr.兵長の奇癖については以前にも、報告がありましたし、今回の失踪は脱柵として処理されるでしょう。よろしいですか?」


恐らく、トムの捜索は打ち切られる。そういう予感は薄々あって、覚悟していたし、あえて誰も触れようとはしなかった。


「ありがとうございます。先ほどはお見苦しい所をお見せしました。ご容赦ください。では、処置に移りましょう。」


ーーそれはそうと、


櫻井はちょっとしたイタズラに、爆弾を投げ返すことにした。


(よろしければ、シベリアの面倒くさい作業は、我々もお手伝いさせて頂きます。……これは私からの偽りならざる本心です。)


ーー本当にそう思っていますよ?


「……聞かれてたの?」


「ゲッ、なんかマズいこと言ってたっけ?」


ようやく気がついたオブライエンとJJが狼狽えていた。

熊さんはがっくり肩を落とすと呟いた。


「むしろ聞かれていないと思っていたのか?」


「それと、JJ。お前はオープンチャンネルの方が酷かったぞ。」


「えぇー……熊さんもわかってたの?」


「知ってたら、教えてくれてもいいじゃねえか……。」


「ばぁか。自分でこれくらい気が付け。開けられない鍵なんざ存在しないんだ。」


「あはあ、僕たち憲兵隊に連行されるのかなぁ……。」


「あー、……うわー、いつから聞いてたんだぁー!?」


(さぁ?皆様のご想像にお任せします。)


櫻井は不敵な微笑みを隠さなかったが、決して満たされることのない渇きを胸の奥に仕舞い込んだ。

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