3「白い点」前半
2話の前に先に3話より投稿します。
シベリアは遠目に見ればただの白い点だった。
長い航行で昼夜がわからなくなった俺は、未知の天体を眺めている内に目的地を見失った。
気がついた時にはもう、
ぶつかるんじゃないかしらという所まで迫っていて、
はじめてシベリアというのが何者なのかと理解した。
トラス構造の骨格に居住ブロックと何かのタンクが括り付けられている。
その上端側にアンテナや観測機器がまとめられ、下層側に“はしけ”代わりの鉄板と細長いアーム。
下端にソーラーパネルを兼ねたガス捕集膜と圧縮機、噴射機が並んでいる。
居住ブロックの外壁は一部がペンキで雑に塗り直され、上から『シベリア』と書き変えてある。
ただそれだけだった。
「よう、やっと申請していた補充要員が来たか。」
顔いっぱいに髭を生した中年男性がはしけに立っていた。
くたびれてはいるものの、手入れの行き届いた黄色い電熱服。
カピタンの階級章が光っている。
「あー…大尉殿ですか?直々の出迎えありがとうございます。」
「ああ、階級は大尉だが、ここじゃ俺は熊公って呼ばれてるんだ。」
「熊、公?」
「あっはっは、まあそう呼ぶやつは1人しかいないが。」
ーー妙な哀愁を感じるな。
堂々とした佇まいの男が肩をすくめて呟く姿は滑稽でもある。
「はあ、まあ熊さんですね。ジャックジョンソン3等軍曹です。JJと呼んでくれたら。」
「オッケーだ。JJ、早速だが荷物を運ぶのを手伝ってもらうぞ。
じきに加速の時間だ。さっさとやっちまおう。」
「了解です。」
シャトルの連中は始終無言で、さっさと荷物を降ろすと離陸準備にかかっていた。
長居は無用、とでも言いたげにそそくさと立ち去る。
荷物運びの1人だけは、同情の眼差しで俺を見つめていた。
「頑張れよ……。生きて帰ったら、ウォッカを奢ってやる。生きて帰れたらな。」
そう言う心持ちになるのも、わからなくはない。
ここの景色は何というか。
「気味が悪いだろう。なあに3日もあれば飽き飽きするさ。要は慣れだ。今日は快晴だな。」
熊さんはそう言うと、手信号でシャトルへ発信許可を出した。
「……快晴?」
ーー快晴。
巨大な重力レンズによって湾曲した景色が、どこを向いても視界に触った。
吸い寄せられる視線には、見えない闇が、引き延ばされるように垂れ落ちて、つまりそれが、ブラックホールなのだと認識するしかなかった。
なんとなく、その暗がりの中に、落ち続けるような感覚がして、ぽたりと落ちる汗が、それが錯覚ではないと囁いた。
JJは武者震いして、あくまで武者震いだと言って聞かせ、荷物を取りに翻ってみせた。
緑とオレンジのオーロラのような輝きが、始終蠢いていて、奪われまいとしっかり握ったはずの距離感を、どこかで落としてしまった。
その迫り来るうねりが、ちっぽけな基地を丸ごと飲み尽くそうとして、呼吸を忘れていた肺を、心臓がどしんと叩いた。
衝撃で我に帰ると、それはもうどこにも見当たらず、暑いとも寒いとも言えない生温かなガスが、電熱服の表面を撫でながら、はだけぬように仕舞った臆病を、そっとあざ笑っていた。
その風上はるか遠く。
遠くだと思われるオーロラの彼方に、
潰れた梅干しのような2連の赤色矮星が、
脈打ちながらガスの渦を吸ったり吐いたりしていた。
俺は、『快晴』の語義にいささか疑問を呈しながら、熊さんに向き直る。
ーー三日経とうがだめな気がする。
熊さんは俺に気がつくと、
今や豆粒大になったシャトルを横目に流し、フッと姿勢を正して言った。
「…さあ、さっさとやっちまおう。珍しく仕事が山積みなんだ。
まずはお前を紹介してやらなくちゃならん。」
「了解です。」
「ああ!そっちじゃねえ。こっちだ。」
表側に見えていた、『シベリア』の記銘近くのエアロックではないらしい。
この『シベリア(Siberia)』の綴りは、前半は殴り書きのように雑で、後半にかけてはスペースが狭まり、ついには文字が重なり合うほど適当だった。
下地に塗った塗料も薄すぎて、
透けて見えた『DY』が失敗したDIYを連想させる。
ーー思考まで脇道にそれたな。
大人しく熊さんに続くと、もう一つ、建屋の裏側にもエアロックがあって、近道になっていた。
エアロックからはすぐ居住ブロックに繋がった。
「ここが食堂だ。メシはここで取る。
この先が操縦室と…、メインエアロックだが今は倉庫になっている。」
運んだ荷物はここにしまうようだ。
なるほど、近道というより、そもそもあそこしか出入口がないんだ。
とどのつまり、
メインエアロックはブッ壊れ、
今や倉庫に大変身、
なんとも素敵な模様替え。
ーー少なくともDY(dead yard)じゃないだけマシか。
「……逆に考えろ。お前さんが来た時点でもう倉庫だったんだ。」
精神構造のDIYができれば、
はじめからそう思えるそうだ。
「続けるぞ。
逆のあっちに手洗いで、
手洗いの向かいが今潜ったエアロックだな。」
どうやら今使われているのは、もともとサブエアロックだったようだ。
「その先の方が部屋になっている。
お前の部屋は右のいちばん奥だ。おっ?」
「熊さん、おはようございます。ありゃ?新人さんですか?」
「おう、オブライエン伍長。紹介しよう。
ジャック・ジョンソン3等軍曹だ。一応上官だな。」
「JJでいい。君がここでは先任だ。
まあ同年代のよしみ、タメで行こうや。」
「あはあ、話がわかる人で助かるなぁ。
僕はアーサー・ナビダブ・オブライエン。何とでも呼んでくれて構わないよ。」
「それと、JJ、一応。……艦隊全体もなんだが、
特にここじゃあ他人の過去は詮索しないのがルールだ。一応、確認な。」
「……ああ…、こんな所ですからね。」
「ま、そういうことだ。
あともう1人お前の部屋の隣にも一名いるにはいるんだが……、気にしなくていい。どうせ顔なんて合わせることはない。」
「あはあ、彼、引きこもりだからねえ。
僕が言うのもなんだけど、
一度も部屋から出たところ見たことがないんだよねぇ。」
「俺だって数えるくらいしか見たことがない。
まあ時々、奇声が聞こえるかもしれんが、基本的には無害だから今のうちに慣れておけ。」
「……奇声?」
ーーそれは、なんだ。敵か?
フッと三人の息遣いが一致した瞬間、手・足・体幹と慣性の法則に従っていた加速度に制動力が作用し、それが個々人の間に何らかの力学的エネルギーを生じさせた。
それぞれの相対速度が限りなくゼロに近づく中、互い同士の首は立ち上がり続け、ついに重心の均衡点で静止した。
驚愕と疑心が混じり合った顔を覗き合うと、目と目だけが左右へ動いていて、視線が交わった意図と、行き違いになった意味を求め、彷徨い続けていたが、やがて視点が一番視界の広い収束点に固定され、すべての動きが消失した。
ーーぶッ
オブライエンが苦笑した。
先ほどまで感じていた、見えない熱量の高まりはいつの間にか消失していて、変わって軽やかな雰囲気が俺たちを包んだ。
「ブフッ……ま、そうのち気にならなくなるよ、きっと。荷物を置いておいでよ。
熊さんそろそろ朝ごはんじゃない?」
「……あ〜、そうだな。よし、今日の点呼は終了。じゃあ10分後に朝メシとしよう。」
「あはあ、じゃあ僕コーヒー淹れます。
ところで、今日は何か新しいメニューが届きましたか?」
「ああ、望み薄だがな、一応確認してみるか……」
俺はエアロック前を抜けて、手洗いの位置を確認し、右奥端の扉を開けた。
殺風景な部屋だ。
窓は無く、ベルト付きの折りたたみ寝台が一つ。
壁に埋め込まれた据え付けロッカーと手元灯。
筆記台。
非常用の携帯酸素瓶と頭巾。
それだけだった。
時折、カリカリと、何か掻くような、あるいは擦るような音が聞こえるが……気のせいかもしれない。
もともと大した荷物もない。
俺はすぐ食堂に戻った。
「これがメシだ。」
そう言って熊さんがくれたのはレトルトパウチされた肌色の四角いプラ容器だった。
「残念ながらメニューはそれしかない。そこのレンジで温めたたから多少はマシだろう。
次からは箱から取って自分でやってくれ。」
「あはあ、あんまり動じないね。もうちょっとリアクションがあると楽しみにしてたのに。」
「いや、まあ。一応、最悪じゃあない味のやつだからな。
緑色は最悪だった。」
「うわ〜、あれは嫌な思い出だなぁ〜。カビ臭い上に青臭い。
……あれ?……あれは…、1週間続いたんですっけ?」
「やめろ、思い出したくない。黙って食え。」
「うへへ…、僕はね。実はね、サボタージュでここに送られてきたんだけど、あれは僕でも色々考えちゃったよ。
それでどうしたと思う?」
「…1週間は最悪だな。」
なるほど、考えたくもない。
今日という日は肌色の容器に感謝の念を感じた。
ペリッと蓋を剥がすと、無造作に転がったスプーンフォーク、灰色の固形ペーストと端に添えられた茶透明なゲル状の物体が出てくる。
「固形物が食えるだけ、マシなもんだ。完全に無重力だったら、ずっと液体ペーストだったかもしれん。」
液体ペースト、もはや語る必要はないだろう。
ベクトルが多少違うだけだ。
「うへえ、それもやだなぁ。ああ、そうそう。
我慢の限界で気がついたら、重力に従って投げ捨てた。」
ーーオブライエンはブラックホールを指差す。
「……なるほど、それで?」
「しばらく液体ペーストさ。」
「それも笑えないね。」
「あはあ、のどは通過できたよ。そのまま“下”まで通過したけど。」
「黙って食え。コーヒーと合わせると多少は食えるぞ。」
「ヘェ〜」
……確かにどこまでも苦いコーヒーで味覚を麻痺させると、何も感じずに飲み込める。
だが今日のメニューでそれをやるにはもったいなすぎた。
茶透明のゲルはあんずジャムだ。
シベリアでの日課は3日も経たず、すぐに覚えられた。あとはそれをひたすら繰り返すだけだ。
起床、点呼、朝食(メニューは一つ)
点検を終えたら、必要に応じ、下流に流された基地を加速させる。恒星や天体を観測したり、保守作業に従事する。
昼食(朝と同じ)、小休止
低重力でなまった体を鍛える。
掃除、物品補充や在庫管理。
夕食(昼に同じ)、自由時間、消灯
就寝または輪番で夜警
問題はそこではなかった。
「えっ?まさかほんとに寝てなかったの?」
「う〜ん、まあな。」
「あはあ、すごいクマだね。夜警なんて言ったって、する事ないじゃん。
早めに起きたら日報に『異常なし』って書いて、あとはコーヒーの支度でいいんだよ?熊さんだってそうしてるし。」
「いや、そりゃあ、わかってらよ。」
「うん?……あ〜、昨晩はやけにエキサイトしてたもんねぇ。」
奥の方でのそのそと、気怠そうな気配が動き出した。
「お〜う……お前ら起きてたのか。」
「あはあ、熊さん。おはようございます。昨晩はお疲れ様でした。」
「ぉはよーございます!熊さん。」
「おう。全く、信じられん。ふぁ〜」
ーー最近、例のカリカリという音がだんだんと、だが確実に大きくなっていた。
もちろん、慣れろと言われた手前いつもなら無視して寝ようと試みる。
多少の無理は承知、それでもなんとかなるもんだ。
だが昨日はいつもと様子が違った。
『んぎぃいいいいいい!』
『イ“ィ”ーーー!わからない!』
『何故だ!わからない!わからない!わからないぃいいいいいいー!?』
『おい、バカヤロウ!うるせえぞ!』
『イ“イ“イ“ギィーーー!?』
ガンガンガンガンガンガンガン!
『やめろ!トム!みんな寝てんだ!』
ガンガンガガンガンガンガガン!
熊さんは自室から戸口まで出て来たようだ。
『おい!わからんやつだ!トムジョン、開けろ!』
ガチャガチャガチャガチャガチャ!
ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン
ガンガンガンガンガンガンガンガン
「ぁ〜あ…。全く。どうなっているんだ。
信じられん……まったく、」
思い出したくないことを思い出させてしまったのか。
熊さんはぶつぶつ唸りながらトイレに篭ってしまった。
(うぉぉ……うぅむ……、んほっ)
「しまった!先を越されたよ……。」
「コーヒーでも飲むか?気が紛れるかも。」
(……はあぁ、古いコーヒーがまずかったか?あっ……)
「あはあ、それは朝食にとっておきたいかな。
きっと逆効果だし、限界までガマンすると出られなくなっちゃうよ。」
「ああ、朝食なんだがよ、……その。言い出すタイミングが見つからなくって。
……そうか、それで寝れなかったのか。」
(……ぅおぉ、これは朝食の分か……)
「あはあ、メニューの事?いつもと一緒じゃない。
飽きたのなら、味変のコツ教えるよ?」
「…いや、昨日確認したんだ。俺たちゃ触っちゃいない、
ピン更の箱だ。開けられた形跡があってな、
1番上の段が無くなってたんだけど。」
「確かに変……だけど、それが?」
(……う〜変だな、まだありそうなのに……)
「……問題はそこじゃないんだ。
箱にはちゃんと『肌色』って描いてあるんだ。間違いない。」
「……えっ?」
オブライエンは肌色を失った。
「……ああ、そんな……そんな…。」
「……ああ、ぜんぶ……全部だ…。」
(……ああ、来るぞ……来るッ…!)
「『緑』とすり替えられていたんだ!」
「……しばらく僕もトイレに篭り切りになりそう。」
ズズズ、ズゾーッ、ガコンッ!
「あーっ!気分爽快。待たせたな!メシにしようや!」
ーー朝食は、もう誰も言葉を発さなかった。
『緑』を前にした男が3人。日に日に増していた、カリカリという音を気に留める者もいない。
「今日は、磁気嵐だ……」
ぽつり、熊さんは呟くと、
重いスプーンを持ち上げた。
誰も反論しなかった。
残る二人も、それを見て、
やっと使い方を思い出せたようにスプーンを持ち上げる。
シベリアが、
悠久の沈黙を破る。
ミシミシと、あざ笑うような音を立て、
腹いっぱいのガスを噴きながら加速していった。
虚に囚われぬよう。
「あはぁ……ごめんね。長々と……。」
オブライエンが青ざめた顔で手洗いから出てきた。
「いや、俺はまだ大丈夫。」
多分、俺の胃袋はオブライエンより丈夫なのだろう。
「グゥ〜、カッ…、グゥ〜……」
熊さんはトラブル続きがこたえたのだろう。
雑誌を頭からかぶって昼寝している。
ーーあるいは『緑』の昼飯に備えているのか。
いつの間にかカリカリという音は止んでいた。
「ふぅ……、それで?JJは何しているの?」
オブライエンがコーヒーを手に、俺に尋ねた。
「オブライエン、それがあまりする事がないんだ。今も手持ち無沙汰でね。」
「フムン、それはあまりよくない。趣味でも何でも……」
オブライエンはコーヒーカップを顔の前で止め、ピタリと動かなくなった。
ーーああ、なるほど。
磁気嵐もなく、機械は静か。
戦い(食事)を終えたつかの間の休息。
無音、たったそれだけ。
でもなんてすばらしいひと時。
オブライエンは満足そうに深呼吸すると、慎重にコーヒーを口に含んだ。
ーーフーッ………ゴクリッ
「あはあ、ようやく口の中がサッパリした……ともかく手慰みになるものを見つけた方がいい。」
「……その心は?」
唐突に、例のカリカリという音が始まる。異質で、執拗な、執念のような何かを感じる響きを増して。
熊さんが苦虫を噛み潰したように唸った。
オブライエンはピクリと震えたコーヒーカップを誤魔化すように回すと、クイッと音の方向を指差した。
「あはあ、気が変になるでしょ?」
「ああ、そういう……。」
確かに、今でさえ耐えるだけの生活に限界を感じている。
何か気を紛らわせるものが必要だった。
「とは言え、俺は……見てくれどうりのアナログ人間でね。手を動かす以外に芸がないんだ。」
「あはあ、手を動かすのが好き。いいじゃない。それで?」
「いやだから、何も浮かばないんだ。」
「そう?手を動かすってのはつまり、建設的で健康的な未来志向に感じるけどね。」
一呼吸おいてオブライエンは続ける。
「それに……アナログっていうのは、究極のデジタルなんだ。僕には、難しすぎる。」
「高尚な考えなんだな……。」
「あはあ、僕が高尚なもんかぁ。僕はサボりたい人間なんだ。
何でもロボットがしてくれたらいいのにって思っているよ。」
「ふぅん。何でも、ロボットか…。」
「おや。その様子だと、何か閃いた?」
「いや、いまいち…、いんや。いけそうだ。いけるかもしれない。」
「あはあ、試しに聞こうか。」
「ああ、ロボットのガラクタがそこら辺にあったろう?」
「倉庫にもあったし、どこか外にもあったね。」
「ああ、とにかくそれでニコイチ、三コ一にしたら、外の作業をここから遠隔でさせるんだ。」
「あはあ、悪くないアイデアだね。可能性は感じるよ。」
「オブライエン、ふざけた事言ってねぇで、お前も手伝うんだよ。当たり前じゃねえか、制御プログラムの事は俺にはどうにもならん。」
「あはあ、えっ!?」
「なに鳩が豆くらった顔してるんだ。何でもロボットにさせるんだろ?ロマンがあるじゃねえか。」
「あはあ……、僕は結果だけ欲しいんだよね。過程なんてのは別にいらないんだけど。」
「ばぁか、言い出しっぺはお前さんだろうが。」
ーー自分の部屋で使いもしないプログラムいじって満足か?
「おままごとなんてやめて、お前も一緒にするんだよ。」
「ま、ままごとっ!?僕だってそりゃ……今は確かにそうだけどいつかは…ああ違う違う。そういう話じゃなくて……そう!僕は遊んで暮らしたいの!」
「今が遊んで暮らすチャンスじゃねえか?ええ?」
ーーそうだろ、オブライエン?
自分の作ったプログラムでロボットを動かす。
ロボットに作業は全部やらせる。
そしたらコーヒー片手に次のプログラムで遊べばいいじゃねえか?
「どうよお前さん。ホントの実力を示してやったらどうなんだ。」
「あ、あはあ、……あ!でもやっぱり熊さんの許可がいると思う。……うん、そうそう……はい、論破!」
「へぶしっ!あー、お前らほどほどにしろよ。むにゃ……」
聞いていたのか、熊さんはそれだけ言うとまたグーグーと寝息を立て出した。
「おらよ!許可が出たぞ。日頃の行いって大事だな、アーサー・ナ〜……?」
「…ナビダブ」
「ナビダブ・オブライエン君!今日からお前は燃える男のアー君(Ardent Arthur)よ。」
「あはあ、…クソッ!……暇にかまけてたら、好奇心は猫を殺す。
……まあ暇だからいいかぁ。」
この日から俺たちの宇宙作業ロボット作りがスタートした。
まず、材料は腐るほどあった。腐っているのを除いても、一台でっち上げるくらいにはなった。
むしろ昼飯の『緑』の方がよっぽど腐っていやがる。
だがまあ、とにかくやる事ができたんだ。気を紛らわすには十分。
苦いコーヒーに溶かし込んで飲み干したらあとは胃袋に任せよう。
時々ビクビクと引きつけて痙攣してやがるが……。
喉の方で痙攣したら飲み込む事だってできやしねえんだ。
コラテラルダメージだって言うだろ?諦めろ。
諦めたら、あとはあの執拗なカリカリ音をかき消すように、一気にやっちまおうか。
作業の音に文句あるなら出てきてみろって言うんだ。
ト〜ム…?
「トムジョンって熊さん言ってたな。」
へい、トム?そっちが始めたんだ。俺ぁやるよぉ?めちゃくちゃやったるよぉ?
作業中にふとアーサー・ナ〜?
…なんちゃら・オブライエン君ことアー君が
「ナビダブだ。」
あんでもいいじゃんか。
アー君が不思議な話をしてくれる。
「ねぇ、JJ。ブラックホールの方に、白い点があるのを知っているかい?」
「白い点?さあな?」
「まあ、暇はさせないからさ……。そのブラックホールの方は基本的になーにも見えないんだけど。」
ーー空間が澄んでて、視程が良ければブラックホールの中程に小さな白い点が見える時がある。
しばらく見えない時があっても、必ずまた同じ場所で観測できる。
妙じゃないか?
ブラックホールってのは、全てを飲み込んじまうんだ。それこそ光さえも……。
なのにその白い点はいつも変化がない。変わらず、ずっと、そこにあるように思える。
ーー見つけれたら、君の感想を聞きたいな。
「……覚えてたらな。」
「覚えているさ。覚えていなくても、ここでは話になる事なんて、数えるくらいもない。……絶対に思い出せるよ。」
そう言ってアー君は何でもない風に作業に戻った。
「お前ら、消灯だ。片付けたら寝るんだぞ。俺が夜警だが…お前たちを信じて先に寝るよ。」
「「お疲れ様でーす。」」
熊さんはそう言うとさっさと自室に引っこんだ。
俺たちも倉庫に荷物を片付けると、建屋の電気を落とす。
「ふぁ〜慣れない事は疲れるなぁ。僕も今日は早く寝るよ。」
アー君も本当に疲れたのか、ふらふらと物にぶつかりながら部屋へ入って行った。
ふと食堂の窓の外を見やるとブラックホールの重力レンズの淵が見えた。
もちろんブラックホールの中になんて何も見えるはずがないのだが。
「ま、何もないわな。」
そもそも食堂の歪んで汚れた窓越しに見えるはずがない。俺もさっさと自室に引き取った。
今日は珍しく、あの気に触る音がしない……。
「うーん。またか。」
あきらめたアー君がコントローラを置く。
「しょうがない、回収して問題点を洗い出そうか。」
俺たちは、それから外に出られない生活が一週間続いていた。まさか宇宙にいるのに、大嵐で缶詰めになるとは誰も思うまい。
ーーシベリアを除いては。
二連赤色矮星の間で小さなつむじ風が吹いていた。それは、小さな綿菓子の綿雲を集めるように、ガスの薄絹をまとっていた。
それが徐々に大きくなると、今度は軸のずれた回転ゴマのように二つの恒星を行ったり来たりしていた。
いつの間にか、巨大な竜巻の雲海を形成したそれは、貪欲に恒星の表面を舐めつくし、糸の切れた凧のように勢いよく飛び出した。
最初にあれを見た誰かが、ヴェスタリオーラ(Vestariola)衣を纏うもの。と呼んだらしい。
以来、連星系から飛び出した竜巻のことをそう呼ぶようになったそうだ。正式決定の日、タイフーン推しとハリケーン推しが仲良く握手しながら靴を踏みつけ合っていた。
しかし、見た目には美しいそれは、いったん巻き込まれてしまうと、ひたすら迷惑なだけの代物だった。
『クソのヴェスタ』とは一度でも聞いたことがあるだろう。要はクソデカいガス雲を伴った磁気嵐だ。
二連赤色矮星とブラックホールに挟まれた回廊は、『緑』に当たった人間が、ちょうど便所に駆け込む通り道と同義だった。
シベリアは、『上から入って下から出る』くらいに、予定調和のように巻き込まれた。
居住ブロックからは一歩も出れず、構造物は常にミシミシギシギシ。
しょっちゅう光る稲光が、点けてもいない電気を明滅させると、休みもできず、かといってする事もない。
俺たちはすがるようにロボット作りに夢中になった。あの熊さんでさえ、最期には配線を手伝っていた。
半端な集中力で、ただ何かをしていることが目標に成り下がっていたので、正直なところどうやって作ったのかさえ覚えちゃいない。
あとで数えたら七日目の夜半を超えたあたり、ようやく嵐が過ぎ去った。静かになった食堂で俺とアー君、そして熊さん。
三人顔を見合わせると、誰ともなく解散し、俺は例のカリカリ音さえ感じる前に眠りに落ちた。夜中に誰か個室から出たような気配もしたが、多分気のせいだろう。
朝起きて確認したら、ロボットを倉庫に置いたつもりが、食堂に転がしたままにしていたようだ。
記憶は曖昧だが、ひとまず形にはなっていた。そういうわけで荒天一過、格好のテスト日和だった。
そういうわけで、宇宙作業ロボットV1(仮)はやっつけ仕事の割にうまくいっていたのだが、途中から暗礁に乗り上げていた。
通信指令が思ったより近距離で届かなくなってしまう。何度も指令を送り直す内にエラーで停止してしまう。
絶えず吹き付ける磁気風、ガスが帯びる静電気、建屋のシールド内からの通信、ノイズの酷い古いモーター、原因は色々考えられる。
「けど1番はやっぱりアンテナかな。」
もともと大した物がなかった中でも、低利得すぎるアンテナが悪さをしていそうだった。
「じゃあ今日は俺が回収に行こう。」
外にも出れず、身体がすっかり鈍った俺は、これ幸いと電熱服に着替え、エアロックを潜ってロボットを回収しに向かう。
「とはいえ、階段も越えられないんじゃな。」
エアロックから出ると、数歩先の階段のふもとでロボットが行き倒れていた。
「ああ、何だろな。マーシーの野郎を思い出すぜ。」
やつは電熱服に感電して死んだ。
ーーまったくバカだね。ちゃんと電熱服を整備しとかないからだ。
一回電装品を外したら、ペラッペラの純正コードは捨てちまって、新しいのに変えないと。ビニールテープで巻くだけでもいい。
それと電装品はそれぞれしっかり養生しとくんだ。通信機から電熱線まで、大電力を食うんだから……
とはいえ整備要綱にそんな事は書いていないから、誰かに聞くか、見て盗むか、自習自得するしかない。
まあとにかく、
このロボットの倒れ方ときたら、
やっこさんの亡くなり方にそっくりときている。
ーー嫌な思い出だったね。
俺たちゃそんな思い出の人形劇がやりたかったんじゃあないのだが、まあ死人が出てないだけ喜劇じゃないか。
ーー思い出…か……。
そんな喜劇の悲劇的行き倒れを担いで、ふと何か思い出す事があったかな?と考える。
「ああ、白い点……」
ブラックホールの白い点。
こんだけ天気が良けりゃひょっとしたら見えるかもしれないな。
ロボットのバカ!ポンコツ!何でこんないい条件で行き倒れているんだよ。
「全く」
目を凝らしてみても、真っ黒い穴しか見えやしない。やっぱりヨタ話ってのはヨタ話。このロボットみたいなくだらない話だったな。あいやロボットは階段をくだれなかったんだが…。
「………」
ーーあれ…か?
確かに、ブラックホールの中程、よーく見ないとわからない。
暗いが、多分白い何か……点のような物がある。
ーーその白い点はいつも変化がない。変わらず、ずっと、そこにあるように思える。
「チッ、……アー君、さてはお前、楽しんでやがるな?」
「よせやい縁起でもねえ。第一だからなんだって言うんだ。ただのゴミかなんかだろうが。」
それに俺は今日初めて見たんだ。俺は俺についてるこの2つの目ん玉様しか信じちゃいねえ。
エアロックを潜る前にチラッと一瞥する。
「ああ、嘘じゃねえ。確かに見える。」
「あはあ、見えたのかい?」
何だかとても嬉しそうに目を輝かせるアー君に腹が立つ。
「それで……、どうたった?」
「どうもこうもねえ。何かが見えたってだけだ。」
「何か?」
「白い点だよ。……ええ?それ以上何がわかるって言うんだ。」
「うししし……知りたい?」
ーーゴクリッ
「……いや、もうなんだっていいだろう。ゴミとかクズとか流れ弾だとか、宇宙にゃそう言った類の物がゴマンとあるじゃねえか。」
「あはあ、JJ。君はロマンがないなぁ。ついでに言うと考える頭もない。」
「知らねえよ。俺は手を動かす以外芸がないって言ったじゃねえか。」
「あはあ、つまんないなぁ、君ってこうリアクション薄いよね。」
「だから何なんだよ……。」
「うーん、僕も気になったから調べたんだよね。」
「答えを知ってたなら、勿体ぶらずに教えろって言うんだ。」
「そんな事言ったってねえ、JJってどうせ自分の見たことしか信じないタイプでしょ?」
「そうだよ」
「あはあ、もう、つまんないなぁ。じゃあ言うけど、昔この基地で居住ブロック拡張工事中に事故があったんだってさ。で、1人行方不明者が出て、今でもその行方がわからない。」
「それがあの白い点だっていうのか?」
「うふ、たぶんねぇ…。」
「何だ、拍子抜けた。てっきり事象の地平線の向こうからどうのとか、説明のつかない話かと思ったら、要はあのあたりぶらぶらしているってだけの話じゃねえか。」
「あはあ、ずっとあそこに漂っているって言うのも、説明がつかないよ?ブラックホールに引かれていくはずなのに。」
「……それは。そうだな。まあともかくその行方不明者かどうかもわからんって話だ。目ん玉に映る何かがあそこにある。それだけじゃねえの。」
「お前ら、消灯だ。下らん話はやめて寝るんだ。」
「あはあ、熊さんはどう思う?」
「俺は……、いや、話したくない。とにかく、さっさと寝ろよ?明日のコーヒー当番、オブライエンだぞ?じゃあな。」
熊さんはどこかよそよそしく話を切り上げると、そそくさと寝に行ってしまった。
アー君は肩をすくめ舌を出す。
「熊さんは話してくれないんだよね。」
「……とにかく!片付けて寝よう。」
その晩、例の奇声の主が隣で何かをささやいていた。
「……呼んでいる……」
「……飛んでいかないと……」
「……確かめなければ……」
「あはあ、おはようJJ。すごいクマだねぇ……?寝れたのかい?…うふ…」
「ああ〜……、アー君。残念ながら君が思ってるのと違う。コーヒーをくれよ。」
露骨に嬉しそうだったアー君は少しがっかりしたようだったが、それでもまだ興味を失わずにコーヒーを出してくれた。
「あはあ、じゃあなにが君をそんなに苦しめたのかな?」
「まったく、隣のブツブツだよ。もっとも途中から考え事をしてたら寝れなくなっちまったんだがよ。」
「それは大変。うふ。…災難だったねぇ。でも考え事って何だろう?教えてほしいなぁ?」
アー君は他人の不幸が楽しくて仕方がないのだろう。今度は身を乗り出して話を聞いてくる。
「アイデアが浮かんだんだ。電熱服だ。ロボットに電熱服のパーツをくっつける。」
「……へー…。」
アー君は本格的に興味を失ったのか。席に座ると天井を眺めてぼーっとし始めた。
「まずはアンテナとトランスポンダだ。通信強度が上がるし、正確な位置情報が掴めるようになる。」
「……うーん…。」
一応聞いてはいるようだったが、アー君は眠そうだった。眠いのに昨日の反応に興味があって早起きしたのかもしれない。
「まあ、聞けや。お前さんには、ここからが大事なとこなんだ。……電熱服には小さなアポジモータがついてる。そいつも移設するんだ。」
「………うん?」
アー君がピクリと動いた。
「アポジモータもあくまで緊急用で長くは持たんが、それは人の重さがあるからだ。ロボットにそこまでの質量はない。だろ?」
「……うーん。うん……。」
アー君は目を閉じて静かに計算しているようだった。
「って事はだ、通信強度はバッチリ。位置情報も掴める。推進能力も申し分ない。」
「いや、魅力的な案だけど……、余分な……電熱服なんてないし、熊さんの許可も取らないと。……ふぁ〜っ!……」
目を閉じたままアー君はできない理由探しモードに突入しているようだった。と言うか真面目に寝そうになっている。
「電熱服?使ってないのがあるじゃねえか。あとで元に戻せればいいんだ。……引きこもりのだよ。」
「ふぅん。」
「お“う”、お“前“ら”、モゴモゴモゴぺッ!…プハァ…、ほどほどにしろよ…。」
「許可は出た」
ーーガチャン!
アー君は椅子から転げ落ちた。
それからも単調な日々は変わらない。例のカリカリという音や奇声は相変わらずだ。
『緑』ばかり食べているせいか、アー君は少し痩せた。
ーーそしてあの白い点。
船外作業に出ると、吸い寄せられるように、ピタリと目に入る。暗闇の中ただ一点、俺たちを観察しているようにも感じる。あるいはあれは俺たちを呼んでいるのだろうか?それとも本当に人の成れの果てなのか。
やめよう。なんにしろタチの悪い話だ。
俺は雑念を払うように、倉庫からトムジョンの電熱服を引っ張り出してパーツをロボットに移植した。
ーー宇宙作業ロボットV2
通信強度の増したロボットは船外作業を難なくこなした。
大体の作業は居住ブロックから出なくて良くなるので、熊さんも喜んでいた。
電熱服を着たり脱いだりというのも結構手間なのだ。
そして今日は最後のロマンを叶えるため、ロボットをシベリアの外周に沿って宇宙遊泳させていた。
「テストは良好…、反応もいい。」
「アポジモータの燃料もまだまだある。電力も十分。」
(これは……本当に行けるかもしれないね。)
(そうだな。この分には大丈夫だろうあ。)
ーー我々若い2人の秘密プロジェクト。「白い点を観測せよ」までもう少しだろう。俺もまったく興味がないわけじゃあないが、やる気のないアー君のエサにしたら見事に食いついた。
「もう一周させたら、一旦着地させてチェックしてみよう。」
「そうだな。あれ?…」
ここにきて急にロボットとの通信状況が悪くなったようだ。
「まあ、大丈夫だろう。回復を待とう。」
アー君のアイデアで、通信状況が悪くなった場合、自動で一旦シベリアとの相対速度をゼロにして待機するようにプログラムが組まれた。これでロストの心配はほぼ無い。
「……お前ら、大変だ。予報が外れた。大シケになるかもしれん!」
熊さんが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「え!このタイミングで!?」
「そんな、今朝まで大丈夫だったのに!」
「とにかく、今テストしているんだろ?呼び戻せるのか?」
「それが、通信状況が悪くなっちゃって。おおっと!」
何かの構造体がミシミシと音を出してシベリア全体が地震のように震える。
「こりゃいかん。とりあえず何かに捕まっておけ。」
熊さんはそれだけ言うと、何かに捕まるわけでもなく、ひょいとコーヒーカップを持ち上げて、まるで宝石箱のように大切に抱えた。
「あはあ、これはガス雲が通ったかな?」
「……まずいッ、ロボットがブラックホールに流されてる。」
「えっ!…どこ?見えないよ。」
「トランスポンダもロストだ。クソ!もう取り返せないのか?」
「JJ、諦めるのは早いんじゃないかな。
いったんは嵐が過ぎるのを待とう。プログラムで自動復帰するようにしてあるんだ。」
「アー君。でも、予想外の嵐だ。この間の“クソのヴェスタ”みたいに長くなったら…。」
「あはあ、まあまあ。もし夜まで続きそうなら、夜警の僕が見張っとくから。
朝起きたら、案外あの白い点に近付いているかもよ?あっ……」
アー君が慌てて口を押さえる。
「……なんだ、お前さんら。そんな事考えていたのか?まったく。」
熊さんは揺れる居住ブロックの中を器用にかき分けると、椅子に座ってまだ無事だった古いコーヒーをすする。
「ふぅ〜。」
髭をもじゃもじゃいじりながら目をつぶった熊さんはポツリとつぶやいた。
「……あれは居住ブロックだ。」
「熊さん?居住ブロックは俺たちのいる所じゃないですか。」
「ああ、だからあの白い点は増設するはずだった居住ブロックなんだ。」
「あはあ、事故があったのは本当だったんですねぇ?」
「オブライエン、お前は立ち会ってないから気楽かもしれんがな……。ま、お前は立ち会っていてもお気楽かもな。」
「あはあ、ひどい。」
「まあ、ともかく事故はあった。それで……1名、行方不明者が出ちまった。ちょうど建設作業中、あの居住ブロックの中で作業してたはずだ。あの時も予想外の磁気嵐だった。」
………なるほど、通信もトランスポンダもロスト。記録装置も役立たず。酸素も尽きて、どこに行ったかわからずじまい。
「捜索を打ち切ってからしばらくして、あの白い点が現れた。
何度目かの嵐の後に、唐突に。
望遠で見れば、確かにあの時の居住ブロックだ。だがなぜ今になって現れたのか、ずっとあそこに留まっているのか、てんでわからん。」
「俺には何か未練でもあったのかと思えてな。」
しばらくの沈黙が続いたが、熊さんは窓を見やりながら言った。
「お、少し落ち着いてきたな。ヒヤヒヤしたが、やっ、と………」
「あはあ、今日はよくね、む………」
「なんだ?いったいなん、だ………」
ーー窓の外に黒い人影が立っていた。
感想評価お待ちしています。