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君に会わねば

作者: 雪芳

 テスト勉強に身が入らず、気分転換にファミレスへ立ち寄ったのが偶然の始まりだった。


 問題集に並ぶ英文が暗号にしか感じられなくなってきて、ドリンク片手にしなだれる。ついには睡魔も寄り添い、さぁ意識を手放そうとした瞬間、聞き覚えのある声が俺の鼓膜に滑り込んできた。

 反射的に出入り口を見、問題集で顔を隠す。


 不味い、――母さんだ。


 珍しく今日は厚めの化粧にシックなコートを着込んでいるが、十四年も息子をやっているので一目で分かった。母さんのヒールの音がコツコツと近づく。

 一人でファミレスに行くなんて中学生のくせに生意気ねっ、という叱咤が頭でリフレインする。

 見つかりませんようにと願っていると、俺に気づかなかったのか、母さんは特になにをするでなく俺の後ろにあるテーブル席に座った。ホッと胸をなで下ろす。各テーブル席の間には低い仕切り板があるので、立ち上がりさえしなければ存在を知られることはない。


 しかし、まいったな。これじゃ俺も帰れないじゃん。


 自分の運の悪さに暫し呆れつつ問題集を持ち直すと、「ご無沙汰しています」という男の声。

 誰だろう、やけに渋くて低い。人を不思議と安心させるような包容感のある低温に、自然と背後に意識が伸びる。

「あの子が生まれる前ですから、十四年ぶりですね」

 母さんの返事に、俺はますます耳朶を動かした。あの子とは俺のことだろうか。兄ちゃん二人は共に十五を過ぎている。

「私ずっと、貴方に会いたかったんですよ」


 え?

 母さんの非家庭的な言葉に、心臓をはかれる。まるで古い恋人に使うような……って、恋人!?

「僕もあの夜から気になっていました」

 えええ、あの夜ゥっ!?


 静かな沈黙が漂う。まるでメロドラマのワンシーンのような空気に、俺の思考が凍り付く。

 母さんが浮気をしていた。信じられない事実が喉を強く握りしめる。目眩を感じる。しかし事実は更に爪をたてた。

「私、感謝したくて。……貴方がいなければ、あの子は私のところにはやってきませんでした」


 完全に頭が白くなった。

 疑惑のパズルがカチカチと組まれる。

 十四年前から会ってなくて、母さんは浮気をしていて、男の人がいなければ俺は生まれて――いない?

「どういうことだよッ!」

 理解するより体が動いてしまった。気づくと俺は立ち上がり、二人に怒声を放っていた。

「……春」

 唖然とする母さんを無視して、男を睨みつける。マネキンのように不自然なくらい端正な顔をした三十代くらいの男。

 こいつが俺の?

「うわ〜、中学生なのに大きいね!」


 緊迫した空気をバッサリ断ち切って、男が両手を広げる。あまりにも冗談めいた明るい態度に俺は思わず声を荒げた。

「ふふふざけんなマネキン男ッ」

「ちょっと春、自分の名付け親になんてこと言うの!」

「自分の親に暴言吐いて何が悪いんだよ! 大体なんでこいつが俺の名付け……」

 アレ? 名詞がひとつ多い?

 浅草寺の仁王阿形像よろしく、歌舞伎役者の決めポーズよろしく、ダイナミックに固まる俺。に、男は、やぁやぁ座りたまえと腰をずらして開けたスペースを叩くのだった。


 ――偶然とは、人と人とを奇妙なほど結びつけるものだという。だから時に人はそれを、未知の何かが与えているような気に陥る。

 母曰く、それは運命らしい。


 十四年前、母さんは駅の待合室で座っていた。ちょうど終電が出ていった午後十時。駅は閉められようとしていた。

「どうしよう……」

 溜息が漏れ、空中で白く濁る。待合室を出ると、かつ然たる街は飲み屋の光やビジネスホテルの光しか灯っておらず、雪が舞っている。

 寂しげな六華。お腹の中に俺を抱えた母は殆ど無一文、家出人だった。


 悲壮に我を忘れていると、

「どうかしましたか?」

 ふいに声をかけられた。

 振り向くと男性マネキンが立っていた。よくよく見るとマネキンは人のようだった。

「あの、夕方からずっと待合室におらましたよね。駅ビルで買い物してて……気になってて、その」

 すいません、と男は頭を垂れる。

 母さんはというと、困窮しきった中で暖かく言葉をかけられたことと、多分マリッジブルーってやつね(本人談)から、子供のようにわんわんと泣き出してしまった。


「どどどうしました!? 取りあえず、お腹にお子さんがいるんですよね。冷えちゃダメです。車に乗って下さい、暖かいんで」

 狼狽える男に促され、白い軽自動車の後部座席に腰を沈める。男が言ったとおり、車内は春のように暖かかった。ハンカチを手渡され――何故かクマ柄のハンカチで――溢れる涙を拭いながら、母さんは思考を巡らせた。

 見知らぬ男の車に乗ってしまったけど、大丈夫かしら。

 思い、母さんはだけど不安ではなかった。それほど車内は温風が吹いていて、それは長時間スイッチが入っているようだった。つまり、母さんの身を案じて、熱いくらいに焚いていたのだ。男は上着を着込んだまま、時折様子を伺うように視線を揺らす。大きく澄んだ目に通った鼻筋、陶器のような肌。黄金律の恩恵を受けてどこか人間離れした容貌には、しかし暑さを堪えるような紅潮と薄い汗が滲んでいる。


「もしかして、ずっと暖房をつけてらしたんですか」

「え、まぁ」

「もし私のためでしたら大丈夫ですよ、暑がりなんで」

「そっ、そうですかっ?」

 動揺したのか、エアコンを冷風にまで切り替える。

「あの……、中で」

「そうですね。アハ、アハ」

 暖房がちょうど良い風力に収まると、次に流れたのは重苦しい沈黙だった。母さんの嗚咽と鼻水を啜る音だけが申し訳なさそうに響く。

 男の麗しい顔がフロントガラスに映る。母さんがそれに軽く見ほれていると、意を決したように男は言葉を選び始めた。


「よろしければお宅にお送りしますが」

 ある種当然の気遣いに、だが母さんは首を左右に振った。

「家には帰れないんです」

 想像はしていたのだろう、男は眉を下げて、続ける。

「どうされるおつもりだったんですか。妊娠してらっしゃるんでしょう」

 細身の体に玉がくっついたような腹を抱えて一日中待合室にいるというのはただ事ではない。ここから先のことは予測不可能なのだろう、男の緊張が母さんにも伝わってきた。

 けれども母さんには上手く返すための余裕は無かった。それほどに追いつめられていて、母さんに出来ることと言ったら、見知らぬ優しい男に、事の顛末をチグハグ語ることくらいだった。


「お財布に、入ってた分だけ持って、バスを使いました。お金が許すだけ、遠いところに行きたかったんです。じゃなければ……奪われて、しまうから」

「何を?」

「この子をです」

 母さんは、俺を愛おしそうに撫でる。止まらない涙でちぎられそうな声を懸命に引き寄せ、連ねてく。

「三番目の子、なんです。上に男の子が二人いて。五歳と四歳。この子は、三番目。だから、養子にくれと、言われました」


 俺は思わず、「養子!?」と叫んだ。

 ファミレス全体に響き渡る大声に、客の目がパッと集中する。俺は誤魔化すように「ようしようし……ああ、うん、ようし」と繋ぐ。

「言ってなかったもんね」

 母さんが目を細め、ため息混じりに空中を仰いだ。

「あんたもうちょっとで養子に行くとこだったのよ。二十歳になったら言おうかなって思ってたんだけどね」

 俺の人生はいたって平凡だと思っていたが、意外や意外、生まれる前にそんなひと悶着があったなんて。お母さんとマネキン男の経緯を聞くにいたり、さっきから驚いてばかりだ。そして今の状態と照らし合わせて、なんとも不思議な感覚になっていた。


 最初から家族で、ずっとごくごく普通に家族をしてきたのだと思っていた。だけどけして、そうじゃなかったんだ。

「驚くよね、僕も驚いたよー」

 しみじみと横に座る男が呟く。その横顔は、大衆じみた台詞と裏腹に、どこまでも完璧だ。で、結局、こいつは何をしたんだ? 俺はどうして養子に行かなくてすんだわけ?

 首を傾げていると、母さんが鞄からハンカチを取り出した。クマ柄の、安っぽいハンカチだ。いつも化粧台に置いてあるやつ。

「あ、懐かしい」

 男が身を乗り出すと、

「そうでしょ。あの後結局返せずじまいでしたからね」

 母さんは懐かしそうにハンカチを撫でた。そして目を閉じて、再び“運命”のあの日を、語り始めた――。


「よ、養子ですか!?」

 その日、運命の日。男もまた息子の俺と同じく驚き目をひん剥いた。

「はい。故あって……、姉が、私の姉なんですけど、子供が……」

「いらっしゃらないんですね」

 母さんは男の目を見て、深く、深く頷いた。

「小さい頃に、大きな病気をしたんです。両親や親戚が、夫の両親を説得してて、夫も、押しに弱い人だから……だけど私、私、わがままだって分かってます! 嫌なんです、この子を手放したくない――」

 燃えるような眼球に滂沱と涙が流れてゆく。双眼にハンカチを押しつけて母さんは号泣する。朝からずっと泣き続け、枯れることはない。

 そんな母さんを心配したのか、男は何かを差し出した。見上げると、ビニール袋に入ったおにぎりとポンジュースの缶だった。


「赤ちゃんが疲れちゃいますよ。どうぞ。おにぎりは昼ご飯の残りですけど。ジュースは実家からたくさん送られてきたんで、いくらでも飲んで大丈夫ですから」

 感謝を述べつつ、母さんはおにぎりとポンジュースを同時に頬張った。実はとても空腹だった。おにぎりの絶妙な塩味とポンジュースの甘酸っぱさが涙で痺れた舌を揉みほぐす。


 駅の電気は完全に落とされ、窓の外には闇に浮かぶ粉雪だけがある。ひどく冷めきった光景は、母さんの心象を表しているようで、冬というより海底に似ていた。

「僕は、」

 男が呟く。

「貴女は間違っていないと思います」

 母さんは耳を疑いながら、男をフロントごしで見据えた。真摯で柔らかな男の眼差し。胸にある素直な驚き。

「何人いたって、子どもは子どもでしょ。貴女の。だったら、貴女には子どもを育てる権利がある。申し分ないくらい、愛情だってあるんだから」


 ずっと非難されてきた。姉への深い愛情から両親の執拗な懇願は重く、それに親戚の同情もあいなって、針のむしろに座る思いをしてきた。

 姉夫婦は長年不妊を責められてきたために守ってはくれず、友人に相談すると一人くらい良いじゃないと言われた。

 家に住まわせて貰っているという義理からか、夫さえ両親に肯定的だったのに。


 たった一言で母さんの肩に掛かっていた重圧がふっと軽くなる。見知らぬ、通りすがりの男の一言が、だが母さんにとっては何よりの救いだった。

 自分の気持ちを知っている誰かがいる、母さんは心から感謝した。そして、帰ろうとようやく思えた。

 このままフラフラしていても、この子のためにはならない。もしこの子が堕ちるようなことがあったら、私はそれこそ生きてゆかれないだろう。


 ――帰ろう。


「だから、このままじゃ良いとは思えません。家の電話番号を教えて下さい」

 母さんが諦念した瞬間、男はズバッとそれを遮った。男が凛々しく眉をあげる。

「え……あの、え」

「ついでに旦那さんの名前も!」

 やたら綺麗な顔から放たれる妙な気迫。ついつい押されてしまう。母さんはポロッと、

「××―××××の、雅之です」

「××―××××の、雅之めッ!」


 男は威勢良く扉を開けると外へ飛び出した。車の後方、かなり遠い位置にぽつねんと佇む駅の公衆電話に駆け込み、受話器をあげる。

 何やら話している様子。胎教に悪そうな状況を、だが藁にもすがる思いの母さんはついつい希望を抱き見守ってしまった。もしかしてあの人だったら夫を説得できるかもしれない、なんて妙な期待が自然と湧くのだ。

 数分後、男は受話器を親の敵のように放り投げると、車に戻ってきた。寒そうに歯をカチカチとさせながら運転席に座り、

「雅之さんだけ、来ます。とても心配されてましたよ」

 マネキンよろしく、微笑んだのだった。


 ――母曰く、運命の瞬間。


 結論から言おう。

 俺の家は父さん、母さん、兄ちゃん二人、俺の五人家族だ。

 祖父ちゃん祖母ちゃんとは駆け落ちをきっかけに、勘当されたという。

 年の離れた、小さな従妹もいるんだ。


 問題集に並ぶ英文が暗号にしか感じられなくなってきて、ポンジュース片手にしなだれる。

 ついには睡魔も寄り添い、さぁ意識を手放そうとした瞬間、聞き覚えのある声が鼓膜に滑り込んできた。


『DJジャックフロストプレゼンツ、ミュージックトゥナイト』

 男の俺でもグッと来るダンディな声が携帯電話のラジオ機能から流れる。思わずパッと覚醒して、俺はラジオを手繰り寄せた。

『今日のテーマは会いたい人。早速、お葉書を紹介しよう。――ジャックフロストさん、こんばんは。私は十四年前に、とてもすてきな体験をしました』


 俺は耳を澄ませる。人の心を不思議と解してしまう、大きく暖かい手に包まれるような安心感を与えてしまう、鷹揚とした語り口。体の染み渡る柔和な振動。

 筆無精な母さんが、不思議な使命感に駆られ生まれて初めて葉書に書いた、俺の出生秘話。へんてこな男と会い、母さんの運命が変わった話を聞く。

 それはとても嘘っぽいくらいの、都合の良い、本当の話。


『――そして先日、息子と二人で会うことが出来ました。……うん、幸せそうなこの家族ために、今日はたくさんの歌を用意しました。テーマは、会いたい人。君には、会いたい人がいますか? 願わくば、その人と君の糸が、離れていても繋がっていますように……』


 西洋かぶれのDJネームと知的な声で誤魔化してるけど、俺と母さんは知っている。このDJがマネキンに似ていて、そのくせ人間くさくて、とても世話焼きなことを。そしてその名前を。

 あの夜、泣きじゃくる母さんの手に握られたハンカチは今、俺のポケットにいつも仕舞ってある。クマ柄に、赤い刺繍で名前が縫われたハンカチ。


 春って、いうんだ。



2007年作成。

ラジオのおおにしたかあきにハマった頃に。

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