私は道路標識に恋をしている
桜の花びらが舞い散る季節。
私は初めてこの学校へ足を運んだ時のことを思い出す。
確かあの日は雪が降っていたと思う。
坂に設置された「彼」を見つけた。
さび付いて塗装がはがれ、プレートが折れ曲がり、ボロボロになった速度制限40キロを示す道路標識。
初めてそれを目にしたとき、私は恋に落ちた。
「ねぇ……唯。なにボケっと眺めてんの?」
自分の席に着き、校庭を眺めてぼーっとしていると、友達の由香が私の肩を揺らしてきた。
「ちょっと……考え事をね」
「なんの部活に入るのか悩んでるの?」
「ううん……」
悩んでいるのは部活選びではない。
もっと重要で深刻なことだ。
入学式を終え、数日が経って重苦しい空気が次第に緩和され、クラスも少しずつ騒がしくなっていった。
みんなどの部活に入るかで大いに盛り上がっている。
入学したての高校生なんて地に足がついておらず、ワクワクそわそわして落ち着かない。
これが青春なのだなぁと、盛り上がっているクラスメートの様子を眺めつつ、自分が抱えている悩みの大きさに打ちのめされて、一層暗い気分になる。
これが……私の青春なのだろうか?
「ねぇ……なに落ち込んでるの? 話てみ」
「ううん……」
由香は中学からの付き合いで、腐れ縁。
私と同じ陰キャだったはずだが、高校デビューを狙ったのか、ここ数か月で格段に可愛くなっている。
ありていに言えばあか抜けた感じがするのだ。
ブレザーの着こなしも、私とはちょっと違う……気がする。
もっさり陰キャのままの私よりも、数段上のカーストに位置してそうな雰囲気。
これは間違いなく差を付けられるなと確信しつつある。
まぁ……親友とのカースト格差なんて些細な問題、今の悩みと比べたらどうでもよく思える程度なのだが。
「ちょっとどの部活入ろうか悩んでてね。
調べものとかできる部活ないかな?」
「え? 調べもの? 研究会とか?」
「そう……不思議な話とかに詳しそうな人が多そうな部活」
「ははっ、人生捨てる気だな?」
乾いた笑いを漏らしつつ、私を心配そうに見やる由香。
彼岸に魂をお見送りするかのような切ない表情である。
「人生捨てる気はないんだけどね……はぁ」
「さては、部活選びよりよっぽど深刻な悩みを抱えているな?
話す気になったら何でも相談して!
いつでもウェルカムだから!」
そう言ってポンポンと私の肩を叩く由香。
本当にいい親友を持ったよ、私は……。
それからしばらく部活をどうするか悩んだ結果、「ミステリー研究会」なる同好会があるのを知って入部することにした。
変に歓迎されたりしたら嫌だなぁと思いつつ、部室の扉をノックする。
「すみません……あの……」
「入って、どうぞ」
中からはきはきとした男性の声が聞こえる。
扉を開けてみると、髪型をきっちりと七三に分けたメガネのイケメン男子がいた。
他には誰もいないのだが……部員は彼一人なのだろうか?
「あっ、どうも」
「とりあえず座って」
私はへこへこと頭を下げながら、先輩であろう男子生徒が引いてくれたパイプ椅子に腰かける。
部室には本が何冊も並べられているが、特に目を引くようなものは置いていない。
PCやプロジェクターなどの機材もなく、物置にすらなっていない。
「あっ……あの……」
「まずは自己紹介を。僕は部長の来栖。君は?」
「あっ、須藤です。須藤唯って言います」
「すどう君ね……」
来栖先輩は胸ポケットから生徒手帳を取り出し、私の名前をメモする。
なんか几帳面な性格っぽいな、この人。
「一応確認するけど、入部希望?」
「あの……その前に聞きたいことがあって。
この部活って、調べものとかできますか?」
「一応、気になったことについて調べてレポートを書いたり、
文化祭で同人誌を頒布したりはしてるけど……。
君が知りたいこと、気になることは何かもっと、
ピンポイントな事柄の気がするね」
そう言って人差し指でメガネをくいっとする来栖先輩。
……ずばりだった。
「はい……実は……」
「失礼します!」
話そうとしたところで、誰かが部室に入ってきた。
見やると、短髪黒髪のいかにもスポーツマンな見た目の男子生徒。
どこか幼さを残すその顔は、将来絶対にイケメンになるって確信できるくらいに整っている。
どう考えても、この部活には不似合いなキャラの男子だった。
「君も入部希望?」
「いえ……その、勧誘です」
来栖が尋ねると、男子生徒はバツが悪そうに顔を反らす。
こんなところで勧誘?
「えっと、須藤さん……だよね?」
「え? 私? そうですけど……」
「俺、同じクラスの佐伯だけど、分かる?」
「ええっと……」
まだクラスメートの顔も名前も覚えきっていない。
そんな状態で分かる? と尋ねられても、戸惑いしか感じない。
「ごめん……まだ覚えきれてなくて……ははは」
「あのさ、サッカー部のマネージャーにならね?」
「ええっ……?」
いきなりの勧誘に面食らう。
戸惑った私は助けを求めるように来栖先輩へと目を向けると、彼は肩をすくめてやれやれと演技がかった仕草でかぶりを振る。
「君、悪いけどその子はうちの同好会に入部を希望している。
勧誘するにしても、一足遅かったね」
「でも……!」
来栖の言葉に食い下がる佐伯。
なんでそんなに必死なのか。
「あの……なんで私を?」
「いや……その……」
私が尋ねると、顔を真っ赤にしてぷいっとそっぽをむく佐伯。
なんだか様子がおかしいぞ。
「ふむ……佐伯君、少し外で話そうか」
来栖は彼に声をかけて部室の外へと連れて行った。
しばらく何か話し合ったあと、来栖だけが部室へと戻って来る。
「須藤君……もし彼がお願いしたら、
メッセージアプリのIDを交換してくれるかな?」
「え? まぁ……良いですけど」
勧誘されたと思ったら、アプリのID交換?
なんだこの展開?
断る理由もないので(クラスメートだし)私は外へ出て佐伯とIDを交換した。
なにかすごく嬉しそうにしていたけど、なんでだろ?
私にはその理由が分からない。
IDを交換し終えると佐伯はどこかへ行ったので、部室へ戻って本題を切り出す。
「つまり……君は道路標識に恋をしてしまったと?」
机に両肘をついた来栖が、真面目そうな顔でまっすぐにこちらを見ながら言う。
「はい……変ですよね」
私は思わず目をそらしてしまった。
入学試験の日。
私はこの学校へ向かう途中、一本の道路標識を目にした。
取り分けて目を引くような特徴もない。
ところどころサビていたり、塗装が剥げていたりするだけの、どこにでもある速度制限40キロの道路標識。
でも、それ……「彼」を目にした途端、私の心は稲妻に撃たれたように身もだえするほどの衝撃を受けて虜になってしまった。
どくんどくんと高鳴る胸の音。
顔が真夏の日差しに照らされたように熱くなっていく。
あの時の感覚はいまだに忘れられない。
間違いなく恋だと思う。
「いや、変ではないと思う。
割とメジャーな性癖だよ、それ」
「え?」
「対物性愛って言うんだけどね」
「たいぶつせいあい?」
来栖は簡単に説明してくれた。
曰く、世界には人以外のものに恋愛感情を抱く人が一定数いて、対物性愛者と呼ばれる人たちは建造物や車などに恋をするそうだ。
なんでも、エッフェル塔やベルリンの壁と結婚した人もいるとか。
「ううん……世界って広いですね」
「ああ、そうだね。
僕も実際に当事者と出会うとは思わなかった」
「それで……私はどうすればいいんでしょうか?」
「どうするもこうするも……」
来栖は窓の方を見やる。
「気の赴くままに、好きにするしかないさ。
君の気持ちは変えられないだろう。
それは自分でもよく分かっているんじゃないか?」
「はい……そうですね」
来栖の出した結論に、思わず肩を落としてしまう。
分かってはいた。
この問題を簡単に解決できる方法なんてないと。
私自身、私が抱いた感情に驚き戸惑い、正気を疑っている。
何が悲しくて速度制限40キロの道路標識なんかに……。
「問題の解決を急ぐ必要はない。
時間が解決してくれることもあるし……。
それに、今の状況を楽しむことだってできるはずさ」
「楽しむ……ですか?」
「ああ、君は今、物語の主人公のような体験をしているんだ。
めったにできない経験をしているんだよ」
「はぁ……」
確かにそうかもしれないけど、当人である私は全然楽しくないよ。
たとえ物語の主人公になれたとしても、その役割は他の誰かに譲ってしまいたい。
それから数日。
何事もなく毎日が過ぎて行った。
私はミステリー研究会に入部することにした。
毎日、部室へ顔を出しているが、会うのは部長の来栖一人。
他の部員はほぼ幽霊だという。
「せっかく女の子が入部してくれたのに、もったいないよね」
そう言ってほほ笑みながら肩をすくめる来栖。
彼はずっと部室で本を読んでいる。
この来栖という男。
なかなかにイケメンなのだが、スペックもかなり高め。
成績は学年ぶっちぎりで一位。
スポーツも球技大会や体育祭で優秀な成績を収めるなど、文武両道の大活躍をしている。
見た目ががり勉なのに運動もできるということで、女子からの人気も高い。
何気に喧嘩も強いらしく、不良に絡まれているところを助けてもらった女子生徒もいるとか、なんとか。
そんな超絶ハイスペックイケメンを放っておく手は無いと思うのだが、不思議なことに誰もミステリー研究会に入部しようとしない。
というか来栖が断っているみたいだ。
「あのぅ……どうして私は入部できたんでしょうか?」
「愚問だね、君が”本物”だからじゃないか」
「はぁ……」
私が本物。
なにかとても失礼なことを言われたような気がする。
しかしまぁ……確かにその通りかもしれない。
道路標識に恋する女なんて、珍獣もいいところだろう。
「そう言えば……あれから佐伯君とは?」
「たまーにアプリで連絡を取り合うくらいですね。
あっ、この前、二人で遊びに行こうって言われました」
「さっそくデートのお誘いか」
「え? デート?」
確か買いたいものがあるから付き合ってほしいと言われただけだが、それがデートのお誘いになるのだろうか?
「ああ、二人で買い物に行くのなら、それはデートだよ」
「そうですかねぇ……」
いまいち、実感がわかない。
そもそもどうして私のことなんか好きになった。
他にカワイイ女の子なんて沢山いるだろうに。
休日の日。
佐伯と駅で待ち合わせて買い物へ。
約束の時間よりも少し早めに行くと、スマホをせわしなく操作する佐伯の姿を見つける。
声をかけて待たせてしまったことを謝る。
今来たところとテンプレな返事。
「ええっと……とりあえずどこかで何か食べる?」
「ゴメン、今あんまりお腹すいてなくて。
私はいいから佐伯君は何か食べれば?」
「えっ……いや、いいよ。あはは。
じゃぁカラオケかゲーセンでも……」
「えっ……買い物に行くんじゃないの?」
「え? あっ、そうだったね」
食が細い私は昼食の誘いを断った。
何故かカラオケかゲームセンターに誘われるが、それも断る。
買い物に付き合うつもりで来たのだから、そっちの用事を先に済ませるべきだろう。
佐伯と一緒に駅の近くにある高架下のショッピングモールへ。
軽い雑談をしながら靴屋や服屋を一通り見て回りぶらぶらする。
彼は特に何か買いたいわけでもないらしく、目的もなくたださ迷っているような印象を受ける。
ううむ……何がしたいんだ、この男は。
「須藤は何か買いたいものとかないの?」
「私は……特にないかな」
少ないお小遣いでやりくりするには苦労が多いのです。
それに……欲しい物とかあまりないし。
「あっ……」
ふと、雑貨屋に並べられていたスカーフが目につく。
値段もそれほど高くないし、買ってみようかな。
「へぇ……須藤はこういうのが好きなんだ」
「うん? 別に」
「え? じゃぁなんで?」
「それは……」
スカーフを選んでいると、佐伯は不思議そうな、それでいて不安そうな表情をする。
なぜスカーフを買おうと思ったのか。
それは……。
「似合うかなって思って」
「……誰に?」
「秘密」
そう言ってちょっとだけ笑うと、佐伯はますます不安そうになる。
「えっと……須藤さ……」
「唯でいいよ」
「え?」
「だから、呼び捨てでいいよ。
苗字呼びってなんかムズムズする」
「そっか……えっと……唯さ……」
「その前に佐伯君の名前ってなんだったっけ?」
「…………」
割りと失礼な質問をすると、佐伯はちょっとだけ戸惑っていたが、すぐに教えてくれて。
「さっ……サスケ」
「え?」
「サスケだよ」
「本当に?!」
まるで漫画の登場人物のような名前に驚いてしまった。
失礼だったかなと思って謝ろうとすると……。
「ふふっ、唯。今日初めて笑ったよな」
「え⁉ 私、笑ってた⁉ ごっ……ごめん……」
「いいんだよ、ちょっと嬉しかった。
今までずっと退屈そうだったし……」
「ええっ⁉ ごめん……」
別に退屈だとは思っていなかったが、彼にはそう見えたらしい。
ううむ……申し訳ない。
「その……私も名前で呼んだ方がいいかな?」
「いや、苗字呼びでいいよ。
俺のことをその……いや、なんでもない」
「……?」
中途半端なところで彼は言うのを止める。
気になるから最後まで言ってくれ。
佐伯は自分も何か買った方がいいと思ったのか、小さなハンカチを買った。
男の子っぽくないピンクで花柄の奴。
何のために買ったんだろう?
それから適当に駅前をぶらついて、適当な時間に解散になった。
特に食事をしたり、遊んだりすることもなく、時間を潰しただけ。
そんなこんなで、彼との『デート』は終了した。
果たしてデートと言っていいのだろうか?
「やぁ、おはよう。昨日はどうだったかな?」
登校中に来栖が声をかけて来た。
彼はピッカピカの高そうなマウンテンバイクを手で押している。
ちょうど上り坂に差し掛かったところだったので、降りて押した方が疲れないのだろう。
「ええっと……特に何も」
「そうか、進展はなし……と」
手帳を取り出してメモを取る来栖。
生徒手帳ではなく、革張りのケースに収められた立派な奴だ。
どうやら新しく購入したらしい。
「あの、来栖先輩。私のことを実験動物か何かかと思ってません?」
「まさか。でも……興味深い観察対象だとは思ってる」
同じだよ、それ。
思わず突っ込みたくなってしまった。
「そう言えば……君の意中の相手は『彼』なのかな?」
「え? あっ……」
来栖の指さした先には古ぼけた道路標識。
間違いなく、私が恋をしている相手だ。
「……はい」
恥ずかしくなって思わず俯いてしまう。
顔が熱くなっていくのが分かる。
「ふむ、どうやら本当に恋をしているようだね」
「最初からそう言ってるじゃないですか」
「そう言えば……さっきから手に持っている、それ。
彼に渡すつもなんじゃないか?」
来栖は私が手にしている包みを指さす。
中には昨日買ったスカーフが入っている。
「えっと……その……そうなんですけど。
ちょっと勇気がないというか……」
周囲を見渡すと、登校中の生徒の姿がちらほら見える。
人目が気になって仕方ない。
スカーフは『彼』にプレゼントするつもりで買った。
購入するときは何とも思わなかったのに、いざそれを『彼』に渡そうとすると二の足を踏んでしまう。
やはり人の目が気になるのだ。
「大丈夫だよ、誰も気にしてない。
君が思っている以上に、みんな他人のすることに無関心なんだよ。
なにかの冗談だって思うだけさ」
「そうですかね……」
「代わりに僕が渡してきてもいいけど――
それでは意味がないだろう?」
「……はい」
来栖の言う通り、自分でやらねば意味がない。
私は意を決して包みの中からスカーフを取り出す。
そして――
『彼』の前に立ち、スカーフを中ほどの所で巻き付けた。
取れてしまわぬようきつめに結ぶ。
「すごい……似合ってる」
スカーフを身に着けた『彼』はとてもカッコよかった。
何も言わずにただそこにいるだけ。
なのにとっても凛々しくて……!
「やっ! やりました! 私、頑張りました!」
小走りで来栖の元へ向かう。
「ふふっ、頑張ったね。
彼も喜んでくれたんじゃないか?」
来栖は満足そうに微笑んで『彼』を見やる。
本当に喜んでくれたら嬉しいな……。
その日の放課後、図書館で何冊か本を読んでいた。
来栖が教えてくれたのだが、対物性愛について書かれた書籍がいくつかあるそうで、自分と同じ境遇の人たちについて調べようと思ったのだ。
それにしても……よくこんなマニアックな書籍を置いているなと感心してしまう。
うちの学校の司書さんはどういうセンスの持ち主なのだろう?
「おい……唯」
「え? 佐伯くん?」
本を読んでいたら佐伯が声をかけて来た。
「今日の朝、来栖の奴と一緒に登校してたって」
「うん、それがどうかしたの?
たまたま坂のところで一緒になっただけだよ」
「お前が好きなのって、まさか――」
「来栖先輩じゃないよ」
なにか変な勘違いをされたらいやなので、ハッキリと否定しておく。
来栖には一切そういう感情を抱いていない。
「そっ……そうか」
「ねぇ、もしかして私たちが何をしてたか見てた?」
「いや……直接は。でも聞いたんだ。
二人で何か変なことしてるって」
「そっか……」
やっぱり誰かに見られていたのだ。
まぁ、注目を集めるような行為だったし、仕方ないか。
このまま曖昧に受け答えをしても、佐伯を困らせるだけだろう。
ハッキリと私が何を思っているのか伝えねばなるまい。
その方が彼のためになると思う。
「あのね、私。好きな人がいるの」
「……誰?」
「今朝、スカーフを渡した人」
「は?」
「これを読んでくれたら、私の正体が分かると思う」
「え? え?」
呼んでいた本を佐伯に押し付けて、私ははっきりと告げる。
「私は道路標識に恋をしている」
「ええっ……」
そのことをはっきりと告げた時の彼の表情。
困惑とも、軽蔑ともとれる、微妙な顔つき。
きっと、彼は私に興味を無くすだろう。
そう思っていた――
それから佐伯からのアプローチはなくなった。
どうやら彼はあの本を読んで私の正体を知り、恋愛対象とすべき相手でないことに気づいたらしい。
「つまり君は、彼の好意に気づいていたんだね?」
「ええっと、まぁ……。
先輩がデートだっていうから、そうなのかなって思って」
「ちょっと彼が可哀そうだね……ククク」
そう言いながら笑う来栖は、良い性格をしてると思う。
「先輩は私のこと、どう思います?」
「別に特に何も。まぁ……したたかな人だとは思うかな」
「それって軽蔑してるってことですか?」
「そのつもりはないが、あまり良いニュアンスでないことは確かだ」
軽蔑してるのと同じでは?
「それはそうと、最近気になることを聞いてね」
「なんですか?」
「例の彼、新しいものに取り換えられるそうだよ」
「……えっ⁉」
いきなりのことで頭が真っ白になる。
あれだけボロボロだったのだから当然かもしれない。
でも……どうして今なのか!
「そんな……先輩! なんとかできないですか?!」
「無理を言うなよ、学生の僕に何ができるって言うんだ。
あと……これは言うべきか迷ったんだが……
ハッキリと言っておこう。
あの道路標識が新しいものに変わったら、
君は完全に興味を失うだろう」
「……そうでしょうね」
私が好きになったのは『彼』であって、道路標識そのものではない。
取り換えられてしまったら、それはもう別人。
『彼』ではないのだ。
だから……もしそうなったら、私は失恋することになる。
「ベルリンの壁と結婚した女性は、
壁が消失したことで未亡人になったと主張している。
つまり、彼女は壁の残骸や遺構には興味がなく、
社会的な障壁としての役割も含めて『夫』として認識していたようだ。
『彼』が道路標識としての役割を喪失すれば、
君も興味を無くす可能性がある」
来栖の言う通りかもしれない。
『彼』があの場所から移動して道路標識としての役割を失えば、もうそれは『彼』ではなくなるのかも。
「そうなる前に、お別れをしておいた方がいいかと思ってね。
余計なお世話だったかな?」
「いいえ、教えてくれてありがとうございます」
私はぺこりと頭を下げる。
「あの、今までありがとうございました」
「というと?」
「多分、もう少ししたら私は普通の女の子になると思います。
だから……観察対象としての価値はなくなるかと。
この部活に在籍する資格も失うと思います」
「そうか……君はそういう人だったか」
来栖は残念そうにため息をついて、肩をすくめる。
「在籍資格を失うわけではない。
だが、ここにいる意味が無いというのであれば、
引き留める必要性も感じない。
でももし気が向いたらまたここへ来てくれ。
相談相手にはなれると思う」
「ありがとうございます」
私は一礼して部室を後にする。
多分だけど……来栖の所には私のように悩みを抱えた人がやって来て、話を聞いてもらっていたのだろう。
問題が解決すると皆、幽霊部員になっていく。
そんな推測をしてみた。
多分あたっていると思う。
彼は問題を抱えた次の生徒がやって来るまで、一人部室で本を読みふけるのかもしれない。
いつか恩返しがしたいものである。
数日後。
早速、工事が始まった。
周囲をカラーコーンと警戒色のバーで囲まれた『彼』は根元を重機で掘り返されていた。
おそらく、今日中に工事は完了して新しいものと取り換えられるはず。
そうなったら……もう会えない。
分かってはいたけど、やっぱり悲しい。
『彼』が身に着けているスカーフを見ると、涙があふれそうになる。
その日の授業は全く身に入らず、ずっと上の空だった。
由香が気を使って話しかけてくれたけど、から返事でまともに相手すらできなかった。
授業中に窓からぼんやりと空を見上げて、ゆっくりと流れていく雲を眺める。
来栖は私のことを、まるで物語の主人公だと言っていたけど、ドラマチックなことは何も起きなかった。
最後のお別れすらいえず、『彼』がいなくなるのを待つしかない。
明日には新しい標識が当たり前のようにそこにいて、『彼』の代わりに速度制限40キロをドライバーに知らせるのだ。
ずっとそこにいた『彼』のことを気に留めることもなく、人々は変わらぬ日常を謳歌する。
『彼』だけではない。
電柱も、信号も、マンホールも、人々が気づかないうちに別のものに変わっていく。
街は毎日のようにアップデートしているのだ。
古いものを新しいものに取り換えて。
ああ……どうして今日なのだろう。
せめて私が卒業するまで待っていて欲しかった。
そうすればお別れを言うことだって……。
これが失恋。
そう思うと悲しくなって、やりきれなくなって、涙があふれて来た。
ぽたぽたとしたたり落ちる雫がノートにシミを作る。
「おい……須藤、どうした?」
私の様子がおかしくなったことに気づいた教師が声をかける。
途端にクラスの注目が私へと集まった。
まさか失恋して悲しくて泣いているとは言えなくて、どうすればいいか分からずにいると、佐伯が立ち上がって宣言する。
「先生、須藤さんは体調が悪いようなので、
俺が保健室に連れて行きます」
「え? でも……」
「俺が行きます!」
堂々と宣言する佐伯。
彼は私の元へとやって来て、手を引いて教室から連れ出した。
強引だなと思いながらも、注目を浴びて戸惑っていたところを救われたので感謝する。
ありがとうと礼を言おうと思ったら、彼が保健室ではなく正面玄関へ向かっていることに気づいた。
「あの……こっち、保健室じゃない」
「お前はこのままでいいのかよ?」
「えっ……?」
「このまま、『あいつ』と別れていいのかよ?
好きなんだろ、『あいつ』のこと」
佐伯は真っすぐに私の目を見据え、真剣な顔つきで言う。
「なぁ……どうなんだよ。答えてくれよ」
「その前に教えて。
どうして私に構うの?
私なんかのために……」
「唯が好きだからだよ。他に理由なんてない」
彼の言葉に胸をわしづかみにされたような衝撃を受ける。
「どうして? どうして私を?」
「一目惚れだったんだ。
入学式の日に、初めて唯を見た途端に電撃が走って、
それから唯のこと以外考えられなくなった。
夢に見るくらい好きなんだ」
「ええっ……」
まっすぐに自分へと向けられた好意にむず痒さを覚えると同時に、胸の奥が熱くなる。
「変だよな……一目見ただけで好きになるなんて。
色々あったけどさ、でもやっぱり唯のことが好きなんだ。
だから……」
「だから」の後の言葉に何が続くのか。
もしここで付き合って欲しいと言われても、彼の気持ちに応えられるとは思えない。
というか絶対に無理だと思う。
中途半端な気持ちで交際したとしても、うまくいくはずなんてない。
そう思って身構えていると……彼は予想もつかないことを言った。
「だから……唯も自分の『好き』を諦めるなよ」
「えっ……」
「俺も自分の『好き』を諦めない。
だから唯も自分の『好き』を諦めるな。
これから一緒に『あいつ』の所へ行って、
唯の気持ちを伝えよう」
「そんな……佐伯くん……」
彼の言葉に胸がいっぱいになった。
引っ込んでい涙が再びあふれたところで、彼はそっとハンカチを差し出してくれる。
デートの日に買った、花柄のハンカチだ。
「佐伯君……これ……」
「ああ、いつか唯に渡そうと思ってずっと持ってたんだ」
そういって照れくさそうに笑う佐伯。
どういうわけか彼がとても愛おしく思える。
「さぁ、行こうぜ! 早くしないと工事が終わっちまう!」
そう言って彼は私の手を引いて校舎から外へと連れ出す。
胸の高鳴りが抑えられない。
佐伯は原付で通学していた。
用意周到に二人分のヘルメットを用意していた彼は、後ろに乗れという。
これは原付二種で二人乗りオーケーな奴だとか。
それでも、免許を取得して1年は二人乗り禁止だと告げると、なんでそんなこと知ってるのと怪訝そうな顔をする佐伯。
バイクに乗っている兄がいるのだよ!
緊急事態だから細かいことは気にするなと言われ、結局従って後ろに乗ってしまった私はいけない子だ。
不良だ、不良。
授業中であるにも関わらず、仮病を使って学校の外へ抜け出る私は、今まさにとっても悪いことをしているのだ。
そう思うと気持ちが高揚して仕方がない。
深夜にコンビニにスイーツを買いに行くような非日常感がある。
佐伯がバイクを走らせると、一瞬だけ不安定になった感覚のちに、身体が乗り物と一体になったように感じる。
自転車をものすごく早く走らせているようで気持ちがいい。
それでもやっぱり不安で、佐伯の背中に遮二無二抱き着いた。
彼の大きくてたくましい背中は、とても頼りがいがある。
洗濯したての真っ白なワイシャツからは太陽の匂いがした。
「しまった! 遅かった!」
坂へ差し掛かったところで佐伯が叫ぶ。
ちょうど、引っこ抜かれた『彼』がトラックの荷台に乗せられ、連れていかれるところだったのだ。
私たちがそこへ到着するよりも少し早く出発する。
「このまま追うぞ! しっかり捕まってろよ!」
「うん!」
坂を猛スピードで下って行く。
速度制限はきっちり40キロを守っているらしいが、それでも早く感じた。
目をぎゅっと瞑って佐伯の背中にしがみつくと、真っ暗闇の中に彼だけの存在を感じてドキドキする。
坂を下っている途中で転んだら大変なことになる。
そう思うとジェットコースターに乗っている時よりも怖い。
でも……不思議と不安は感じなかった。
「そこの二人乗りのバイク! 止まりなさい!」
坂を下ってトラックを追いかけていると、パトカーが呼びかけて来た。
こんな時間に学生服を着た男女が二人乗りをしていたら、何事かとおもって呼び止めるのも当然だろう。
実際、私たちは違反行為をしているわけだし。
「唯! 捕まってろよ!」
佐伯はスピードを上げる。
道は真っすぐな直線で、信号はもう少し先。
次の信号が赤になってトラックが止まってくれれば……!
「なんだかドラマの主人公になった気分だな!」
「え?」
「今まさに青春してるだろ! 俺たち!」
「そっ……そうなのかな⁉」
学校を抜け出して、二人乗りしてパトカーに追われ、連れていかれた『彼』を追いかける。
たしかにドラマチックな展開ではあると思う。
でも……これってただ単に悪いことをしているだけでは?
そう思いながらも私の気持ちは高揚していた。
彼の言う通り、私は物語の主人公になれたのかもしれない。
道路標識に恋する物語の主人公に!
「やった! 赤だ! トラックが止まるぞ!」
佐伯が叫ぶ。
あともう少しで追いつく……もう少しで!
「いけっ!」
「うん!」
佐伯がバイクを止め、勢いよく飛び降りて走り出す。
信号が青になったらトラックが走り出してしまう。
その前に『彼』の元へ!
トラックまで数メートルも離れていない。
でも、そのわずかな距離が途方もなく遠く離れているように感じた。
一歩、また一歩と前進していくたびに、私の身体から莫大なエネルギーが失われていく。
全身から熱が噴き出し、汗が毛穴からにじみ出るのが分かる。
この数歩を踏み出すだけで、どれほど大変だったことか!
荷台によじ登ると、運転席から作業員の人が怒鳴りながら飛び降りて来た。
後ろでは駆けつけた警察官に佐伯が取り押さえられている。
混沌とする状況の中で、私は『彼』の元へとたどり着く。
スカーフを巻いた『彼』は何も言わず、優しく私を見下ろしている。
そんな『彼』に私は思いのたけをぶちまけた。
「ずっと前からあなたのことが好きでした!
毎日、登下校の時にやさしく見守ってくれて、
雨の日も嵐の日も、お仕事を頑張ってて、
ずっとずっと同じ場所にいるあなたのことが、
私は……私は大好きでした!」
喉の奥からひねり出せるものを全て吐き出し、私は思うがままに愛の言葉をぶちまける。
無論、返答などあるはずもなく、道路標識は沈黙する。
ほほ笑んでくれることも、頭を撫でてくれることも、抱きしめてくれることもない。
全て分かっていたことだ。
私が全てを告げると、そこにいたのは『彼』ではなく、道路標識だった。
ボロボロで、塗装がはがれ、所々がサビ落ちて、プレートが曲がった、速度制限40キロを示す道路標識。
私ははっきりと、自分が失恋したことを理解する。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした」
トラックから降りた私は、その場に居合わせた大人たちに深々と頭を下げて謝罪する。
彼らはみな戸惑ったように顔を見合わせて、なんて声をかけたらいいのか分からないのか口をつぐんでいた。
「もしかして……何かの冗談とかですか?」
警察官の一人が私に尋ねる。
「冗談なんかじゃねぇよ! 本気の恋なんだよ!」
佐伯が叫んだ。
大人たちがなおさら困惑するのが分かる。
「ありがとう、サスケ君。
ここまで付き合ってくれて」
「え? 唯?」
名前を呼ばれてハッとするサスケ。
私は思わず彼の胸に飛び込んだ。
「うわああああああああああああああん!」
途端に感情があふれる。
今までたまりにたまっていた色々な感情が堰を切ったように流れ出し、涙となって彼の胸元を濡らす。
ただただ泣きわめく私を、サスケは優しく抱きしめて背中をさすってくれた。
彼の手のひらから熱がじんわりと伝わってくる。
それから……色々とあったけど、細かいことは割愛する。
私たちは停学処分となり、そのせいでサスケは部活を退部することに。
その後、形だけミステリー研究会に入部することになり、二人である活動をしている。
「ねぇ……遅いってば!」
「待ってくれよぉ……マジでへとへとなんだけど」
「それでも元サッカー部? 置いてっちゃうよ!」
「唯は体力ありすぎなんだよ……マジで」
大きなカバンを背負ったサスケが泣きそうな顔で言う。
私たちはとある場所へ来ているのだ。
「ほらっ、見て! ようやくついたよ!」
私が指さした先には巨大な建造物。
ダムだ。
「あれが……目的の?」
「そう! 私の推しダム!」
「この前見たのと何が違うの?」
「スペックも、経歴も全然違うよ!
でも一番の特徴はね……」
私はそのダムの魅力について延々と説明する。
サスケは困った顔をしながらも話を黙って聞いてくれた。
あれから私は好きなものを巡る活動をしている。
今はダムにはまっているが、今度は工場も見に行こうかと計画しているところ。
この世界にはたくさんの魅力的な建造物が存在しているのだから、それらすべてをこの目に焼き付けて想い出をたくさん作るのだ。
「お前、本当にダム好きだよな」
「お前じゃない、唯って呼んで」
「あっ、うん……ごめん」
サスケはこんな私に文句を言わずに付き合ってくれている。
学校では公認のカップルみたいになっているのだけど、恋人同士と言われるとちょっと違和感があるかな。
でも……世界で唯一、こんな私を好きになってくれる男子だと思う。
だから……。
「ねぇ……サスケは私のこと好き?」
「ああ、好きだよ。愛してる。いつも言ってるだろ」
彼はそう言って私の頭にポンと手を置く。
「……ありがと」
精一杯の笑顔を浮かべてお礼を言うと、サスケは顎にそっと手を差し伸べて来た。
ゆっくりと瞼を閉じると、しばらくして唇に柔らかい感触が伝わる。
「大好きだよ」
「うっ……うん」
キスの後でもう一度笑顔を浮かべて言うと、サスケは恥ずかしそうに眼を反らした。
そんな彼が愛おしく思えてたまらない。
「そうか……うまくいっているようで何よりだよ」
久しぶりに顔を出して現状を報告すると、来栖は苦笑いをする。
「すみません、こんな話を聞かせてしまって」
「いや、僕も気になっていたからね。
それで……例の症状は治まったのかい?」
「ううん……それが……」
私のあの癖はいまだに治らない。
ダムや工場のことを考えると、胸のときめきが抑えられなくなる。
それでもサスケの方がかっこいいと思うのだが……。
もしかしたらいつか、彼を超えるような『ライバル』が現れるのではないかと、不安に思っていたりもする。
「そうか……君はその『個性』と一生付き合っていくしかないようだね」
「そうですね……でも仕方ないって思ってます。
その『個性』のお陰でサスケと両想いになれましたから」
「その様子だと、心配する必要はなさそうだね」
来栖はそう言ってにこりとほほ笑んだ。
「またどこかへ二人で行くつもりなのかい?」
「はい、もう週末の予定は二人で立てています。
あの……良かったら部長も一緒にどうですか?」
「いや、遠慮しておくよ。
二人の間に水を差すような真似をするつもりはない」
そう言って彼はまた苦笑いをする。
「それでは、今日はこのへんで」
「ああ……またいつでも来てくれて構わないよ」
私は一礼して部室を後にした。
廊下を歩いていると、空に虹がかかっているのが見えた。
足を止めてぼんやり眺めていると、どうしてか『彼』のことを思い出す。
今はもう、この世に存在していない。
再会することは不可能だ。
私には大切な人がいる。
こんな私を好きだと言ってくれる人がいる。
私はサスケのお陰で自分の『好き』に正直になり、物語の主人公になったような体験ができた。
きっと、これが物語をつくるということなのだろう。
誰しも自分の中に眠る『何かを好きになる気持ち』を持って生きている。
その気持ちと正面から向き合うことで、人は物語の主人公になれるのだ。
『嫌い』で満たされた物語なんて楽しくない。
『好き』な気持ちを求めて戦う主人公の方がかっこいいと思う。
私は止めていた足を動かして、廊下を歩きだす。
もう空に虹はかかっていない。