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むか漬け

作者: 阿部凌大

 ふらりと立ち寄ったデパートで、私はふと壺のようなものに目を惹かれた。それはぬか漬け用の壺らしかった。両手で抱える程度の大きさで、茶色くて丸っこくて、艶やかな光沢を帯びていた。そしてそれをしばらく眺めていると、店員さんが近づいて来て私に声をかけた。

「それ、気になられますか?」

「あ、はい。実家にいた時よくこうやって母がぬか漬けを作ってくれていて、久しぶりになんだか食べてみたいなって」

「思い出の味なんですね。けどこれぬか漬けとはちょっとだけ違うんですよ。むか漬けなんです」

「え?」

「むか漬けです。むか漬け」

「……むか漬け?」

「大体の作りかたはぬか漬けと一緒なんですけど、この壺が特殊なのは、日頃の鬱憤とか、むかつきを、吸収して味に変えてくれるんです」

「どういうことですか?」

「ぬか漬けってね、一日に一回ぐらいぬかを混ぜる工程あるじゃないですか?その時に、自分の中に溜まっているむかつきとかストレスを、全部この壺の中に注ぎ入れるんです。そうすると中の野菜とかがどんどん美味しくなるってのが、むか漬けなんです」

 とても信じられた話では無かったが、気づけば私はその壺を購入していた。中に入れるぬかはなんでもいいらしく、適当なぬかと昆布や唐辛子、そして大根や白菜を買って、それらを全部壺の中に放り込んで、私は重たくなった壺を一生懸命に抱えて家に帰った。

 壺に付いていた説明書を読みながら、早速壺の中にぬか床を作り始める。まずはぬかを壺の中に入れ、そこに塩を入れて水を注いで、混ぜ合わせる。ぬかは思っていたよりも固くてなかなか混ざってくれず、中々の力が必要だった。説明書によるとこの段階で既に、むかつきを込めてやるといいらしい。私はひとまず職場での嫌な上司の顔を思い浮かべてみる。アイツはこの時代にもはや珍しい男尊女卑の糞野郎で、私達女子社員はみんなアイツのことが大嫌いなのである。時々調子に乗って放つセクハラ発言にも吐き気がする。殴ってやりたいと思う。すると不思議なことに胸に湧き出たそんなむかつきの感情が、腕を伝って手まで落ち、そのまま手を覆うぬかの中へと流れ、その中に溶けていく感覚があった。それは自分の抱えていたどす黒いストレスが、そのままぬかに移ったみたいな感覚だった。

 全体が均一に混ざったことを確認すると、次にその中にかつお節や唐辛子、干し椎茸などを加えた。これは風味素材と呼ばれるもので、美味しいぬか漬けを作るのには必要不可欠な要素らしい。またそれを混ぜ合わせながら、日頃の鬱憤を思い浮かべる。同僚のミカという女、高飛車で自分勝手な女で、時々厄介な仕事を無理矢理こっちに押し付けてきたりする。「ごめんなさーい、私これ良く分からなくて、」嘘をつけ面倒なだけだろうが。「そしたら私全然やっとくから、大丈夫だよ」なんて言って簡単に引き受けてしまう私自身にも腹が立つ。だから調子に乗って何度もやってくるのだ。いかんせんミカの容姿が可愛らしいのも腹が立つ。

 そして大根の皮や根っこ、白菜の芯を中に放り込む。これらは捨て野菜と言って、ぬかが発酵するための栄養分、水分になるらしい。そしてそこに昆布をいくつか差し込むと、最後にぬかの表面をぎゅっ、ぎゅっと押して空気を出してやる。これで後は十日ほど一日二回混ぜ、その後は一日一回混ぜていくと、ぬか床が完成してくれるらしい。母親たちはこんな面倒なことをしていたのかと思う。

 それから私は毎朝、仕事終わりにぬかを混ぜる生活を始めた。朝には仕事に行きたくない思いを注ぎ込む、そうすると少しだけ楽になった。仕事終わりには、その日あったむかつきをありったけ注ぎ込んだ。力を込めて、少し過剰なまでに何度も何度も混ぜ合わせる。そんな日々を送った。

 店員さんの説明によると、このむか浸け用の壺が売られ始めたのは最近のことではないらしい。壺の中に両腕を入れ、思い切り混ぜ合わせるとむかつきはそこから溶け出して楽になる。こんなに良いものがあるのであれば、もっと早くから知っておきかったと思う。

 ぬか床が完成すると、私はその中にきゅうりやカットしたナス、大根を入れた。これで後はそれぞれの野菜に適した時間漬けていれば、美味しいむか漬けが出来上がるらしい。その日休日だった私はのんびりと過ごし待つと、まずはきゅうりを取り出した。

 表面に付いたぬかをさっと洗い流してまな板の上に置く。少し揉むと柔らかくなっていて、しっかりと漬けこまれているのが分かる。包丁を入れるとストン、ストンと心地いい音を立てて簡単に切れていく。切り終わると私はそれを一切れつまんで口に入れた。

 シャキシャキと噛む音までも心地いい。私のむかつきが染み出たぬかから出来たとは信じられないくらい、優しい風味が広がって美味しかった。だが私が食べたかった味よりも、それは随分薄いようにも思えた。

 やはり普通のぬか漬けと勝手が違うのだろうか、まだ実家にいる時に食べていたぬか漬けと比べると、旨味や深みのようなものが欠けている気がする。その後ナスや大根を食べてみても思うことは同じだった。

 店員は、自分の中に溜まっている鬱憤やストレスを注ぎ入れることで、中に入れた野菜がどんどん美味しくなると言っていた。であればきっとまだ注ぎ入れるむかつきの量が足りないのに違いない。私はその日からそこに注ぎ入れる量を爆増させることにした。

 

 部長!なんか今日顔色悪いね?彼氏にでも振られちゃった?はは。……はは、じゃねえ!黙れこのハゲ腐れ糞野郎!つまんねんだよ、ユーモアの欠片もねえんだよ!そんなセクハラまがいのデリカシーもねえ戯言でな、いちいち気使わなきゃいけねえこっちの身にもなってみろ!ただでさえお前のしょうもねえミスでな、そのしわ寄せが私達の方にも飛んで来てんだよ!

 おいミカ!てめえちょっと可愛いからって調子乗ってんじゃねえぞ?てめえが私のことうっすら下に見てんの分かってんだよ!ええー、五十嵐さんって彼氏いないんですかー?えー、そんな風に見えないー、そんなに可愛いのにー、……黙れボケ!

 なんで毎朝馬鹿みたいに電車は混んでんだよ!こんだけ疲れるんだからこの時間も給料よこせ!

 弁当買ったらちゃんと箸付けろよ馬鹿店員!そういやてめえ胸に研修マーク付けてたな、研修だろうが箸ぐらい

付けれるだろうがよ!その程度も出来ないなら辞めちまえ!

 おい同僚の阿部!週に何度もつまんねえ連絡送ってくんじゃねえよ!彼氏いないからって、誰でもいいと思うなよ?お前なんてぶっちぎりで対象外じゃボケ!ちょっと笑顔で雑談してやったからって、勘違いすんじゃねえよクソ!別にお前じゃなくたって笑顔なんだよ!それも含めて仕事やってんだよ!

 とまあこんな感じでむかつき、憎しみ恨みつらみをぬか床の中に込め続ける。自分の胸のそこで居場所も無く沸々と煮えていただけのそれらも、こうして出口を与えてやるだけで急激に楽になった。吐き出すだけで、なんとか次の日も頑張ろうと思える。吐き出す場所さえあれば、もう少しだけ頑張れると思える。

 

 ぬか床からまたきゅうりを取り出す。そしてそれは持った途端に違いが分かった。以前よりも明らかに異なった重みと、柔らかいしなりを感じた。包丁を入れると断面は色濃く、その細胞の一つ一つまで旨味が漬けられている気がした。

 舌に乗せ、ポリポリと耳触りの良い音が口の中に響く。一噛み毎に溢れる旨味が、舌を満たして香りはふわりと鼻から抜けていく。以前とは比べ物にならないほど、それは美味しくなっていた。

 ナスも大根も、そして追加で加えたニンジンやかぶも、そのどれもが美味しく、私は少しだけ懐かしいと思えた。それはほんの少しだけ母の味に近い気がした。


 母に電話をかけて久しぶりにぬか漬けが食べたいことを伝えると、母はいきなりどうしたのと言って笑った。そしてまだぬか床は残っていて、引き続き実家の食卓にはぬか漬けが並んでいるらしい。私は週末に帰る旨を伝えて、母にぬか漬けの準備を頼んだ。

 両親は久しぶりに帰ってきた私を喜び、その日の夕食には刺身や唐揚げ、ポテトサラダなど、私の好物が所狭しと並んでいた。だけどその時の私が最も求めていたのは、テーブルの隅の方にひっそりと置かれたぬか漬け達なのだった。

 私はまずまっさきに箸でそれを掴んだ。きゅうりを二切れ、ゆっくりと口に放り込む。それは舌に触れ、芳しい風味を広げ、噛みしめると途端に喜ばしい音を鳴らしながら、その中に凝縮させていた旨味を、一挙に解くように口の中に溢れさせるのだった。それは幼少期から食べ続けていた味と何ら変わらなかった。だが当然のようにあった故に、これが絶対に手放してはならないほどの味だとは気づかなかったのだろう。その後この味から束の間にでも離れていたことで、私はこの味の価値を本当の意味で思い出すことが出来た、味わうことが出来た。これは私が作ったむか漬けとは比べ物にならないほど美味しく、ただ美味しかった。私はそれを夢中で噛み続けた。気づいた頃には口の中からそれは無くなり、そうするとすぐに次の一切れを口に運んだ。なす、大根、白菜、にんじん、そのどれもが美味しく、美味しすぎた。これが越えられぬ母の味かと、そう思った。


 一人でそのぬか漬けのほとんどを平らげ、食べ終わった皿を流し台に運ぶと、キッチンの隅に置かれたぬか床を見つけ、私は目を疑った。それは私が購入したむか漬け用の壺と、寸分変わらぬ同じものだったのだ。そして同時に私は記憶が蘇ってきもしたのだった。この壺は私が小さい頃からここにあった。だから私はデパートであの壺を見かけた時、きっと無意識下で懐かしいと感じ、目を惹かれたのだ。

 だとすればあんなに美味しいむか漬けを作っていた母は、一体どれほどのものを、この壺の中に注いだのだろうか、そして注いでいたのだろうか。


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