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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【第三回】SSコン 〜穴〜

【SSコン:穴】 寸鉄人を刺す

作者: ポポネ

 恥というものはどうにも厄介な奴で、その脳裏に浮かぶ事を禁止する度にかえってするりと出て来やがる。その都度赤面してれば訳ないが、男も大の大人であるから誇りがある。無邪気に幼子に顔の赤さを指摘されたものなら、漬物樽にでも顔を突っ込みたい気分であった。

 そんな事であるから、男の言動もまた可笑しなものであった。足が縺れるよう右へ左へ。定まらぬまま先行き知らずに歩くものだから、千鳥も嗤ったに違いない。

 今日もまた、男は恥に踊らされていた。

 男の行き先は、繁華街の一角。寂れた襤褸の店であった。日当たりの衰えた北向きの居酒屋もどきは、閑古鳥の喚くさもしい店だ。誰も好んで来るものはおらず、居座るのは浮浪するならず者ばかり。男が他の客を咎められる立場ではないが、それでも酷く治安の悪い場所と思っていた。

 ひび割れて軋む音が壁中を木霊する。男が居酒屋の戸を開けるといつもこうだった。店主に修理するつもりなど毛頭なく、崩れ落ちるまでが店の人生なのだろうと夢想を抱いている。

 しかしながら、今日は一つ違った。いるのだ、客が。万年男しか呑むことの事の無かった酒を共にする相手が。男は文字通り恥も外聞も捨てて、その珍客の横に座り込んだ。

 眉間に渓谷を思わせる皺を刻み、獰猛な獣の如く男を射貫くのは壮年の男だ。男はこの壮年を知らない。この店に入り浸って幾星霜。それでも、こんな死地を潜り続けて来たような者は見たことも無かった。草臥れた座布団と、萎れた煙草と酒の臭いに何処までも不釣り合いであった。

 壮年は僅かに眉を下げ、好意を表し恥のある男に話しかける。

「南西の森、お前さんらは行けんだろ。あっこにゃあ、恥を消す穴があるのさ。」

「お前、なんでおれが恥なんざあると知っている。」

「お前さんの様子を見てりゃあ良く分かる。おれも同じ穴の狢だろうよ。忘れられねぇ恥がある。」

「おれがそんなに頬でも染めていたか。」

 恥のある男はそう言って、ようやっと墓穴を掘った事に気が付いた。壮年の男は何も顔を見て判断したなど言ってはない。否、顔に出ていたのかもしれない。であるが、それが赤面かなど男の僻見に変わりない。

 檸檬を垂らした紫陽花のように顔色を変える様は、さぞ滑稽だったろう。壮年の男はくっと失笑を堪えて、些細な声を漏らした。恥のある男はその屈辱に耐えきれず、衆目の無い店で頭に血を登らせた。そのまま、威嚇をするように壮年の男にねめつけるが、当の壮年は何のことは無いと素知らぬ顔をしていた。

 その日の、すっかりと陽の落ち切った夜。男は薄気味悪い森の中にいた。

 男も、何もくだらない俗説などに動かされた訳ではない 元より南西の森自体に疑念を抱いていた。偶然にも降ってきた理由が、運命的に合致しただけである。それはただの言い訳でしかないかもしれない。あるいは、その通りかもしれない。けれど、男のあわよくばと、穴の貉を値段したものの結末は凡人で有っても分かった事だろう。けれど、男はその愚かしさに最後まで気付かずにいたのだ。

 南西の森への道のりは、陰鬱とした木陰の連綿と繋がった道である。禁じられていなくとも、腕白盛りの餓鬼でも無ければ入るまい。おどろおどろしい雰囲気は、如何に青年をとうに越えた大男で有ろうと恐怖心を掻き立てられる。耳元を湿気た生温い風が吹く度、男は体を震わせた。

 閑散とした一本道を歩くのは、相当に空虚な時間であった。話すべき友もおらず、ただひたすらに足を動かすのみ。かといっても、その持て余した空白を潰し、注意を散らす訳にも行かない。そんな事であるから、男の脳内はこれまた恥の事で埋め尽くされていた。

  千里の堤も蟻の穴からという。突いた藪には蛇がいた。その事に気付かず、己が竹槍で無粋にも突いていたのは、愛らしくも恐ろしい蜂の巣だったに違いない。

 男が突いたのは、最愛なる友にして郷里の馴染みであった。

 僅かながらの言い合いだった筈だ。小競り合いなど勘定に入れる事すらしない程、幾度も行ってきた。塵が積もって山となったか、逆鱗にでもふれたのか。男は衆人を構わず感情的に怒鳴る友を、その時初めて見た。

「貴方は管の穴から天を覗いているんだ。そんな狭い竹筒ならば、見えぬことも仕方あるまい。」

「そんな訳はない!お前はおれを侮辱するのか!」

 激昂の嵐が男を覆う。もはや憐憫の情さへ向けた高官の男は、怒髪冠を衝いた男を高みから見下ろしている。心底からの侮辱。そして、失望。

「短慮軽率なお方だ。本来、賢明なお人というものは蟹は甲羅に似せて穴を掘るものですよ。それを貴方はしない。」

「お前におれの何がわかる。何も理解してない。おれの言葉が駄々子の我儘に聞こえるか!」

「ええ、聞こえます。壁の穴は壁で塞げというでしょう?私にはもう、貴方をどうすることも出来ない。」

 一瞥を男にくれ、高官の憎たらしい友は踵を返す。はためく裾が男の目の前を過り、未練がましく最後まで視界に居座っていたのをよく覚えていた。

 男の四方には五十を越える目が有った。

 思い返すと、堪らなくつまらない理由の恥であったように思う。けれども、この時の男は墓場までの恥と信じ込んでいたし、事実首を括るような真似事をした。

 森はいつまでも同じ景色である。しかしながら、虎の子をでも居たのだろうか。得たいものがその場にあるような錯覚を抱く。そのままふらりと導かれる通りに、男は足を進める。

 ─確かに、そこには穴がった。夜半という事すら理由にならぬほどの真黒。光の全く届かない底なし沼。

 これは、恥を捨て去るなどという生易しいものではあるまい。これは自らに恥に踊らされた諦念の塊が、煩わしい身体と共に生を捨て去る所ではないか。これを虎の子などとは言うまい。これはただ地獄だ。

 その深度故、薄ら乾いた風の吹き抜ける音を聞いて、その底に幾許の人が転がっているのかと思う。末恐ろしかった。ただ、渦巻く世への呪いが淀んでいるようだった。

 男は足早に逃げる。死して尚、世を恨むつもりは無かった。

 虎口を逃れて竜穴に入る。なんと災難な男であろうか。その不運すら、己で巻き起こした事であるのだから救えない。逃げた先、男の足元に柔軟にうねる盛土の底には空洞があった。新雪すら首を垂れる盛土の柔さは、男の自重を吸い取るのに充分すぎた。

 男はそのまま、重力に従って空洞に落ちていく。羽毛にも勝る土の緩衝が男の心身を優しく包みこんだ。

 男の落ちた穴は蛙も驚く井戸の底、空の青さも見えぬ深さであった。穴を掘って言い入れれば良かったのに。この穴に悲喜交々を語ろうと、空しく反響すら帰ってこないだろう。人を呪わば穴二つとはよく言ったものだ。友も、外界も呪った覚えは無いけれど、事実、男は二つ穴を見つけたのだから可笑しくなってしまった。

 明日も迎えられない。今頃になって夜月に淡く男の足元を引く鈍色の光が、言葉通りの一つ穴の狢である事を知った。男に踏まれる白骨もまた、入ってからしかその事実に気付かなかったのだろう。そんな愚昧の墓が此処だ。

 それは、恥ではなかったのかもしれない。悋気かも、あるいは憎悪かもしれない。だがしかし、そんな激情に掻き立てられて我を失った事に変わりない。

「ああ全く、穴が有ったら入りたいものだ。」

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