仮初の婚約者
翌日も、ティエラは騎士団寮へやって来た。
ふわりとなびく髪からは華やかな香りが広がり、淡い小花柄のワンピースは軽やかに弾み、つやつやとしたヒールも軽やかに音を鳴らして。
イオもエリスもその姿に見惚れるところであった。これが清掃係の出勤風景でなければ。
「おはようございます、ティエラ様。本日も出勤時間を大幅に過ぎておりますが……」
イオはめげることなく、果敢にも話し掛けたのだが。
「あら、おはようお二人とも。今日もよろしくね」
ティエラはイオの言葉をこれっぽっちも気にすること無く、まっすぐにバーナードの部屋へ消えていったのだった。
「イオ、凄いわ。ティエラ様相手にも諦めないなんて」
「諦めるつもりはないけれど、本当に全く言葉が通じないわね」
ティエラから見れば、エリス達は使用人のようなものなのだろう。耳を傾ける必要もないのだ。そのように考えれば言葉が通じないことも理解できる気もする。
こちらの言葉が届かないとなると、やはり言葉が通じる人間……バーナードから、ティエラに忠告してもらいたいのだけれど。ティエラが働き始めて三日目、幸か不幸か、バーナードと彼女はまだ顔を合わせていなかった。
本当は昨日、ティエラについて相談出来れば良かったのだけれど、そんな雰囲気ではなくなってしまって。まったく話が進まなかったと気付いたのは、女子寮へ戻ってからだった。
「それにしても、バーナード様のいない部屋でずっと、なにをされているのかしら……むしろ一人っきりで寂しいのではないかしら」
エリスはぽそりと呟いた。ティエラは部屋の中で、バーナードに会える時を待っているだけなのだろうか。それはそれで切なく、一途なように思えた。働かない事とはまた別の話ではあるが。
「エリス、何言ってるの。あの子にとってバーナード様に会えるかどうかなんて大したことではないのよ。自分の存在を他の女にアピールしているだけなんだから」
「えっ? どういうこと?」
エリスにはさっぱり分からなかったが、ティエラが寮に出入りするのはバーナードに会う以外に別の目的があるらしい。
イオが言うにはこうだ。
女性から人気のあるバーナードだが、今まで彼は誰のことも特別扱いをしなかった。そのため「私にも望みがあるかもしれない」と、希望を持つ令嬢も少なくなかったそうなのだ。
それが、ここにきて自室への出入りを許すほど親しい女性が現れた。それがティエラ。
「私達も、朝帰りする彼女の存在を知ってがっかりしたじゃない。もうバーナード様のご結婚も秒読みかあ……って」
「た、確かに……」
ティエラはバーナードの自室へ泊まることに成功し『特別な女性』になることで、バーナードへ懸想する令嬢達を一蹴した。それは上手くいったかのように思われた。
しかし、その後はバーナードから『関係者以外は寮に立ち入るな』と追い返されたため、彼の部屋への出入りが難しくなってしまった。それではティエラが『特別な女性』として居続ける事が出来なくなってしまう。
そこで『寮の関係者』になったのだ。そうすれば堂々とバーナードの部屋へ出入りができ、『特別な女性』としていられるのだから。
「本当は清掃以外の目的で騎士様の個室に入っちゃ駄目なんだけど、そこは婚約者の特権かな。ただ……ティエラ様、バーナード様の婚約者と言ってはいるけれど、多分上手くいってないんじゃないかなあ。順調なら、こんな面倒なことしないと思うの」
「凄いわイオ……なんでそんなことまで分かるの……」
イオは占い師か何かなのだろうか。ほぼ当たっていて感心してしまう。本当のことを言えばティエラは婚約者では無いらしいのだが、それはエリスの口からは言っていいものか分からず、言わないでいる。
「それにしても、牽制が目的なんて気付かなかったわ。言われてみれば彼女、バーナード様が寮へ戻るのも待たずに帰ってしまうものね」
「ね。せっかく寮に来ているなら一目でも会って帰ればいいのにって」
好きな人になら、少しでも会いたいと思うものではないだろうか。会って声を聞いて、目を合わせたいと──エリスなら思う。昨日バーナードと別れてからも、ずっと想っている。また、彼の手に触れたいと。
「……エリス、顔が赤いわ」
「えっ? そうかしら」
つい、昨日のひとときを思い出してしまって、それが顔に出ていたようだ。勘の鋭いイオは、含み笑いをしながらエリスを見ている。
「バーナード様と、なにかあったわね」
「ど、どうして」
「今朝、バーナード様が久しぶりに元気だったもの。すっごく」
朝、イオがロビーの清掃をしていると、バーナードが輝くような笑顔で挨拶をしていったと言う。食堂を清掃していた時も、タウロからバーナードの食欲が戻ったと喜びの報告があったようだった。
確かに昨日、バーナードには笑顔が戻った。幸せそうに手を握る彼からは『もう避けないで下さいね』と念を押されてからやっと解放してもらえた。もう少し避けられ続けていたら、女子寮で待ち伏せするところだったらしい。相当参っていたようで、それを聞いてからもう二度と避けたりしないと心に決めたのだ。
「エリス、バーナード様とはどんな『話し合い』をしたの?」
訳知り顔なイオには、どんなに隠し事をしてもバレてしまうだろう。
「……『仲直り』をしたの」
エリスが真っ赤な顔でそれだけを伝えると、イオは嬉しそうに笑ったのだった。
***
第一便の配達も終わり、エリスは管理室の自席で一人考え込んでいた。
机の上には、また母からの手紙。今回はいつになくずっしりと分厚い。浮かれていたエリスの気持ちも重くなる。
バーナードは昨日、エリスの結婚相手として名乗り出てくれた。まるで夢のように嬉しかったが、何せ二人の間だけの話である。彼は立派な騎士様で、エリスは貧乏令嬢、二人の先にある『結婚』が現実的ではないのは分かっていた。
バーナードはいつかティエラのような相応しい女性と結ばれるだろうし、エリスだって縁談の中から相応の相手と話がまとまることだろう。全部、エリスも分かっているのだ。
(でも、もう少しだけでいいから夢を見ていたいと思うのは我儘かしら……)
エリスは昨日味わってしまったのだ。憧れの人との甘い触れ合いを。一度知ってしまえば、その温もりをなかなか手放せないでいた。
どうにか、縁談を遅らせることはできないだろうか……母の手紙を見てはそのような情けない事ばかり考えてしまう。
封を開ける気も起きないまま母の手紙を眺めていると、管理室にイオがやって来た。
「エリス、一緒にまかない食べるよね? もう大丈夫だよね?」
時計を見るともう昼休憩の時間だ。イオはまかないのお誘いに来てくれたようだった。
「ええ。ずっと心配かけてごめんね。行きましょう」
エリスは手紙をそのまま引き出しに仕舞い直し、良い匂いに誘われるように食堂へ向かった。
食堂の扉を開けると、なんと既にティエラが席に着いていた。それを見てイオがこそっと耳打ちする。
「タウロのまかないは美味しいからね。誉めはしないんだけど、楽しみにしているみたい」
二人はそんなティエラを少し微笑ましく思いながら、彼女の近くに腰掛けた。
今日はピラフと、ポークソテー。バターの香りが口いっぱいに広がるピラフは、スプーンが止まらぬ美味しさだ。エリスはちらりとティエラを見てみると、彼女も食が進んでいるようだった。
三人でまかないをとっていると、寮入口から足音が聞こえた。
その足音にエリスが期待に胸を膨らませゆっくりと顔を上げると、食堂の入口にバーナードとアイラスの姿が見える。彼らも昼食をとりにきたようだ。
こちらをまっすぐに見つめるバーナードに、自然と顔が緩んだ。エリスが嬉しそうに微笑むと、彼も眩しそうに目尻を下げた――その時。
「バーナード!」
ティエラによって、そのふわふわとした空気はかき消される。彼のそばまで駆け寄るティエラに、心はサッと曇っていった。
「バーナード……やっと会えた!」
ティエラは、彼の腕にギュッとしがみついた。「やめろ」と腕を振り払うバーナードにもめげず、嬉しそうに笑っている。そんな彼らを見ていると、こうして触れ合うのはそう珍しいことではないと分かった。
二人はやっぱり親しげで、敬語でもなく呼び捨てで名を呼び合っている。エリスには、それだけでもティエラが『特別な女性』だと思えた。
そういえば、以前ティエラは彼の部屋に一晩泊まったのだ。彼女は婚約者では無いというだけで、自分よりもずっとバーナードに近いところにいる。急に夢の中から現実を突き付けられ、みるみるうちに全身が冷たくなっていく。
「単刀直入に言うが、ここで働くのをやめろ」
バーナードはティエラを引き離し、ここを辞めるよう説得しようとした。しかし、苛つきが浮かぶ彼の顔を、ティエラは気にもとめていない様子だ。
「あなたがすぐにでも結婚してくれるなら、ここを辞めてもいいわ」
「何を……婚約者でもないのに、婚約者と言い触らすのもいい加減やめてくれ」
「だって、あなたが結婚するのは私でしょ?」
バーナードの言葉も、彼女には通じない。ティエラはかわいらしい笑顔で驚きの交換条件を出してくる。こんなにもはっきりと拒んでいるのに、まるで彼の意思など聞き入れるつもりがないかのようだ。
押し問答のすえ、深く長いため息が聞こえた。バーナードのものだ。
「あまり言いたくなかったが……これ以上ふざけた真似をするなら、このことを兄に報告する」
縋り付くティエラに、バーナードは切り札とも思われる言葉を口にした。
(兄……? バーナード様の?)
その瞬間、これまで何を言われても動じなかったティエラからスッと笑顔が消え去る。
「……いいわよ、言えばいいじゃない」
彼女は悲しみの滲んだような声で呟いた。一体どうしたというのだろう。急に態度を変えたティエラは、バーナードを睨み付けながら食堂を走り去ってしまった。
食堂には、らしからぬ緊張が漂っていた。
エリスの隣ではイオがひとり「え? ティエラさん婚約者じゃないの?」と驚いているし、タウロも厨房からハラハラとこちらを伺っている。
バーナードとティエラは、いつもこのような感じなのだろうか。彼は慣れた様子で彼女の後ろ姿を見送っている。
「……皆さん、お騒がせしてすみませんでした。さあ、いただきましょう」
ティエラの去った食堂ではバーナードが仕切り直し、皆再び席に着いた。そして、あまり自身のことを語らない彼が口を開く。
「私とティエラは幼なじみなのです。彼女は数年前まで、兄レグルスの婚約者でした。
彼女は、幼い頃から兄の事を好きだったのだと思います。しかし、兄はティエラではない女性に恋をしました」
バーナードから語られたのは、あまりにも不憫なティエラの身の上だった。
レグルスのことを想うティエラは、縋ることもなくあっさりと身を引いた。自身の恋心に蓋をして。
その後レグルスは恋におちた女性と結婚したが、メテオリート家としては今後もガラクシア家との繋がりを持ち続けたい、ティエラはまだレグルスとの縁を切りたくない。それぞれの思惑はくすぶり続け、やがてレグルスの弟であるバーナードがターゲットになったとのことだった。
「ティエラは、もう意地になっているのだと思います。兄の前では『家のために』兄や私と婚約したいだけだと強がっていますから……落としどころが分からなくなっているのですよ」
まさかバーナードとティエラの間にそのような事情があるなんて。何も知らなかったエリスは、複雑な心境を隠しきれなかった。バーナードからの視線を感じながらも、エリスは彼の顔を見ることが出来ない。
厳しい現実の中でもがいているティエラと、もう少し夢の中にいたいと甘えるエリス。貴族としてどちらが優先されるかなど、言うまでもないことだった。




