後編
十二歳になった頃、エルブは植物の勉強がしたいと他国への留学を決めた。
学者や研究者を多く輩出している全寮制の学校で、必死に勉強をして入学が叶った時は家族も周りもとても喜んだ。
本人にとっても大きな決断であり、両親を始め周囲は「あのエルブが留学だなんて……!」と感動の涙を流し、快く見送った。勿論、マートルもだ。
(何だかんだ、あっという間だったな……)
すべて順風満帆、という訳でなかった。
遠い異国の地での生活は、慣れない内は大変だ。周りは優秀な者ばかりで、気を抜けば置いていかれそうな焦燥感が常にあった。
疲労とストレスで何度か熱を出し、がむしゃらに勉強に取り組む日々を繰り返す。
それでも必死に食らいつき、気付けば五年以上の歳月が流れていた。最高学年になったエルブは、来年には卒業を控えている。
「エルブ。また、その本を眺めているのか?」
不意に問うのは、同じ寮に住むルームメイトだ。机に向かうエルブの背後から、覗き込むように問う。
「別に良いだろう? 思い出の花なんだ……」
開いたページには、前にマートルが摘んだ花の絵が載っていた。この花は留学先の国では咲いておらず、見ているだけで故郷を思い出すのだとエルブは呟く。
十三歳から故郷を離れ、時折思いを馳せる事もあるが一度も帰っていない。それだけ、夢を叶えようと必死だった。
「幼馴染みがくれたんだっけ? 俺なら、毒の花を渡されたら怒るけどな」
「ははっ、僕は嬉しかったよ」
――受け取れなかったけれど。
あの時の花は、珍しいとはいえ猛毒だからと大人達によって処分をされた。その判断は、大人になった今でも正しいとは思う。無力な子供には、扱いきれない代物だった。
(マートルの瞳と同じ色だからかな……この花を見ると、妙な気分になる)
エルブは、その花の絵を見る度にマートルの笑顔を思い出す。そして、一つの後悔も。
あの時、マートルが背中を押してくれたから、エルブの今がある。だから、感謝はしていた。
ただ、後悔があるとすれば怒っていないと励ますよりも、「気持ちは嬉しい」「ありがとう」と感謝を伝えるべきだったとは思う。
感謝と後悔が混じり、花を眺めているといつも少しだけ複雑な気分になるのだ。
「……今度、幼馴染みの結婚式があるんだ」
エルブは、机の引き出しから手紙を取り出す。上等な封筒に入ったそれは、結婚式への招待状だ。
差出人はマートルで、宛名はエルブ。彼女は皇太子に見初められ、未来の皇后として嫁ぐ事が決まっている。
「まさか、こんなに早く結婚するなんて……」
マートルとは、年に何度か手紙を交わしていた。他愛もない近況報告ばかりだったが、手紙からは皇太子に大事にされている事が伝わってくる。
「もしかして、失恋か? 野郎を慰める趣味はないが、友達だからな。飯でも奢るぜ」
「大丈夫だよ、ありがとう。……マートルは、妹みたいなものなんだ。むしろ、喜ばしいよ」
――相手が皇太子殿下だとは、予想もしなかったけれど。という言葉は、呑み込んだ。
ルームメイトはエルブをじっと観察をすると、「お前、そっち方面は鈍いんだな」と小さく呟く。その目は、どこか同情的だ。
「えっ、何が?」
「何でもねぇよ。お土産、期待してるからな」
ルームメイトは「精々、無様に泣くなよ」と捨て台詞を吐くと、部屋を出て行ってしまった。残されたエルブは、少しだけ困ったように眉を下げる。
「マートルの花嫁姿を見たら、感無量で泣いちゃうかもしれないけどね」
その言葉は、誰にも拾われる事はなかった。
エルブの故郷、ヴィンタレオーネ帝国の首都にある大聖堂の中では、招待された親族や友人、縁のある貴族や国賓たちが、今か今かと皇太子とその妃の登場を待つ。
大聖堂の外には民衆が集まっており、帝国全土で今日の結婚式を祝っていた。
エルブも勿論その一人なのだが、場の空気に当てられて緊張してしまう。社交界にもろくに出ずに勉強ばかりしていたので、人の多さと物々しい雰囲気に慣れていなかった。
「エルブ君、久しぶりだね! 是非とも娘に会ってくれ、マートルも喜ぶよ!!」
「いや、僕……親族じゃないですし……場違いでは?」
少しでも気分を落ち着せようとトイレに行った帰り道、エルブはマートルの父親である辺境伯爵と鉢合わせをしてしまった。
「幼馴染みなのだから、挨拶くらいしても大丈夫さ! それに、さっきマートルの友人達も挨拶に来てくれたんだ」
辺境伯爵は、式が始まるまで時間があるからと、花嫁がいる控室へとエルブを連れて行く。もはや、彼に拒否権はなかった。
「マートル、エルブ君がお前を祝いに帰って来てくれたよ!」
辺境伯爵に強引に腕を引かれ、エルブは控室へと押し込まれる。「あの、僕……」と、戸惑う声が情けなくも口から出た。――が、聞き入れてはもらえない。
「ほら、エルブ君。娘の晴れ姿を見てやってくれ」
エルブを連れて来た辺境伯爵は、扉のそばで傍観を決めたようだ。こういう強引な所は幼い頃のマートルにそっくりで、血の繋がりを強く感じた。
(何を話そう。まずはお祝いの言葉を……)
グルグルと、エルブの頭の中で言葉が浮かんでは消える。――まずい、混乱してきた。
「エルブ?」
記憶より大人になった声に呼ばれ、エルブは我に返る。ゆっくり顔をあげると、紫色の瞳と視線が交わった。
小さく「あっ」と漏れたのは、エルブの声だ。
(すごく、綺麗だ……)
エルブは素直にそう思い、見惚れた。無意識に、エルブの背筋が伸びる。
そこにいたのは、エルブの知る幼い少女ではなかった。
美しく成長した、純白の花嫁。光を纏うように、ドレスが窓から射し込む日の光を淡く反射させている。
「あの、マートル……」
手紙で何度かやり取りはあったが、実際に会うのは何年ぶりだろうか。緊張のせいか、喉が乾く。
「エルブ、今日は来てくれてありがとう」
先に口を開いたのは、マートルだった。嬉しそうに微笑む表情は、お転婆だった頃と違って貴族の令嬢らしく気品がある。――まるで、知らない女性のようだ。
「えっと……」
エルブは何か言おうと口を開いては閉じ、意を決して「綺麗だ」と褒めようとした。
「その、綺――」
「――なんてね。私、少しは淑女らしくなったかしら?」
くしゃりと、マートルが笑う。それは、エルブが知っている笑い方だった。
目の前にいるマートルと、幼い幼馴染みの面影が重なる。いくら淑女らしくなっていても、彼女は変わらず「エルブの幼馴染み」なのだと実感が湧いた。
(――あぁ、そうか)
チカチカと、エルブの瞳に星が散る。同時に奥底から湧き上がる甘い痺れ。
この感情が分からない程、彼はもう子供ではなかった。
(僕は、とっくに花の毒に侵されていたんだな……)
彼女は、昔から可憐な花のように愛らしかった。おどおどした自分にも笑顔を向け、欲しい言葉をくれる。
しかし、だからこそエルブは思う。マートルの本質は、寄り付く虫を容易く殺すあの『毒花』だったのではないか――と。
甘い匂いと美しさに誘われた虫は、気付けばその甘美な毒に溺れてじわりじわりと、堕ちていく。それでいて、決してこちらと同じように墜ちてはくれない。残酷なまでに、美しい花。
だからこそ、ただの虫である自分はマートルに惹かれたのかもしれないと、エルブは考えた。
(――なんてね)
大事な幼馴染みを毒花に例えるなんて馬鹿げていると、エルブは自嘲気味に笑みを浮かべる。
「……マートル。僕は、君に伝えたい事があるんだ」
思い出すのは、あの花の事。伝えられなかった後悔だけは、ずっとしてきた。
エルブがマートルを真っ直ぐ見据えると、彼女は目を丸くした後に少しだけ微笑んだ。この顔には、覚えがある。マートルが、エルブの話に耳を傾ける時に見せる表情だ。
「僕は……その、君に感謝してる」
「……うん」
「君と出会えたから、僕は夢を追いかけてみようと思えた」
「嬉しいけど、大袈裟だわ」
「大袈裟じゃないよ。花を摘んで来てくれた時も、本当は嬉しかったんだ。それに、君が笑うと世界が色付いて見えて……その、」
エルブは一瞬、言葉を詰まらせる。
「僕は、君の笑った顔が好きなんだ。だから、君には心から笑っていて欲しい」
エルブの口にした「好き」は、友愛と呼ぶには邪で純粋とは言えないのかもしれない。それでも、これは彼の本心だった。
「でも、君を幸せにする役目は僕じゃないから……。だから、僕は君の幸せを心から祈ってる」
「エルブ……」
マートルは、目を微かに見開いた。その目には、戸惑いや驚きがある。
しかし、すぐに目元を緩めて微笑んだ。彼女の目尻には、少しだけ涙が浮かんでいる。
「ありがとう、エルブ。私、幸せになるわ。あなたも、夢を叶えてね。私、あなたが新種を発見する事を楽しみにしているんだから」
すぐに忘れてしまうような、子供の戯れのような約束だった。いや、約束と呼ぶにはおこがましい。
それでも、マートルは覚えていたのだ。あの、エルブの背中を押した他愛もない会話を。
「……その時は、君の名前を付けても良いかな?」
きっと、マートルはあの時のように「自分の名前を付けなさいよ」と笑うのだろう。
「……馬鹿ね、そこは自分の名前でしょ」
「そうだよね、ははっ……」
予想通りの答えに、エルブは下を向いて頭を軽く掻いた。分かってはいたが、気まずい。
「……でも、そうね。その時は、私の名前を貸してあげる」
「えっ?」
聞こえてきた言葉に、エルブは弾けるように顔を上げた。聞き間違いかと、目を白黒させる。
「あ、ありがとう……」
辛うじて出てきた言葉は、ありきたりなお礼だった。それでも、エルブの中でじわりと嬉しさが込み上げる。
エルブにとって、十分過ぎる餞別だ。だからこそ、今なら心から言える。ありきたりだが、大事な言葉を彼女に。
「マートル。君と出会えて良かった。結婚、おめでとう」
「皇太子殿下、妃殿下、おめでとうございます!」
「帝国に祝福あれ!!」
大聖堂の鐘が鳴り響き、舞い上がる花弁と惜しみない拍手が花嫁と花婿を包んでいる。
幸せそうなマートルが寄り添うのは、彼女を愛おしそうに見つめる皇太子だ。貴族や民衆、青々とした空まで二人の結婚を喜んでいるようだった。
二人の姿を遠目で眺めながら、エルブも皆に混ざって手を叩く。そのそばには、エルブの両親もいた。
(……僕は馬鹿だなぁ)
それが恋と気付くには近すぎて、そばにいたいと求めるには遅すぎた。
ちくり、ちくり、軋むように痛む胸には気付かないふりをする。視界が歪むのは、結婚式に感動しているからだと自分に言い訳をした。
傍から見れば、滑稽だろう。それでも、この自覚してしまった気持ちは、朽ちるには長い月日がかかると言い切れる。
燃えるような情熱的なものではないけれど、この胸に灯るのは蝋燭のような穏やかな炎だ。
「エルブ。マートル嬢、綺麗だな」
「それに、とっても幸せそうだわ」
不意に、両親が声をかけてきた。視線の先には、民衆に手を振るマートル達がいる。
幸せそうに笑い合う、愛し合う二人。きらり、きらり、その光景はエルブには眩し過ぎた。
「……うん。世界で一番、綺麗な花嫁さんだ」
そう言って、エルブは泣き出しそうに笑った。
――僕は、君が好きだった。
その言葉は、もう口に出す事はないけれど。だが、せめて想う事だけは許されたいと思う。
(今なら、よく分かる……)
愛しくて苦しくて、悲しい。それでも、相手の幸福を願わずにはいられない矛盾。
『エルブ』
目を閉じると、幼いマートルが笑う。エルブの大好きだった、あの可愛らしい笑顔で。
この胸にあるのは、確かに彼女への「愛」だった――。
私はハッピーエンド主義なのですが、今回はこういうパターンもあったかもしれないな……と思い、書いてみました。
if物語のつもりで書いたものの、有り難い事に前回の反響がすごかったので、受け入れられない方もいるだろうな。と思い、投稿するかだいぶ悩みました。
しかし、せっかく書いたので供養のつもりで投稿させていただきました。
恐らく、【皇太子殿下は諦めが悪い】を読んでくださった方はマートル、指輪で感情見えてなかったっけ?と考えたと思います。
マートルは感情が見える指輪を十二歳の頃に着けたので、一つ上で十三歳で留学したエルブの気持ちを見た事がありません。時期が丁度、ズレています。
書き上げたは良いものの、やっぱりハッピーエンドが良いですね。
このお話は完結ですが、エルブにもきっと良い出会いが待っているはずです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。