前編
今回のお話は、【皇太子殿下は諦めが悪い】の主人公、マートルに幼馴染みがいたら……という、if物語です。番外ではないので、別にしました。
前回の小説に登場した事がない人物なので、これだけでも読めます。
エルブ・トラヴァーが、彼女と初めて出会ったのは、彼が六歳の頃だった。
「はじめまして。私、マートル・ラモンターニュっていうの。あなたのお名前は?」
小さな花が綻ぶように、少女は木陰で本を読んでいたエルブに笑いかけた。紫水晶のような瞳には、戸惑うエルブの顔が写っている。
ラモンターニュ家――爵位は辺境伯爵――と言えば、領地が隣接しているので昔から親交があった。とは言え、その子供と会ったのは今回が初めてである。
「エルブ……エルブ・トラヴァー」
絞り出すようにやっと出した声は、何ともか細い。それでも、エルブにとっては頑張った方だ。
エルブの人柄を表すなら、引っ込み思案で消極的という言葉が的確だろう。家族や慣れ親しんだ使用人以外の前では、緊張して上手く喋れなかった。
それでも、エルブにとって唯一の救いは子爵家の次男として生まれた事だ。後継ぎではないので、この性格を強く責められた事はない。
しかし、今はその性格のせいで少し困っていた。
「ふーん。ねぇ、隣に座っても良い?」
「えっ? う、うん……」
突然の事に、エルブは戸惑う。だが、驚いただけで嫌な訳ではなかった。
「……どうぞ」
マートルが座りやすいように横に少しずれると、彼女は「ありがとう」と笑って隣へと腰を降ろした。エルブの無造作に伸ばされた青灰色の髪とは違い、綺麗に整えたられた栗色の長い髪が風に揺れる。
エルブは視線をさ迷わせると、ボソボソと口を開いた。
「あの、」
「ん?」
「何で、僕に声をかけたの?」
同年代の異性と話す機会などなく、おまけにエルブは友人と呼べる同性もいない。何を話せば良いのか、まったく分からなかった。
「目についたから」
父親の付き添いで来たのは良いが、大人達の話はマートルにはまだ難しかったようだ。暇を持て余し、退屈で抜け出した先でエルブを見つけたのだと、カラカラと笑う。
「ごめんね、気を悪くしないで欲しいんだけど……その、僕は話すのが苦手だから……君を不快にさせるかも」
「そう? 私とこうして普通に話してるじゃない」
「これでも、心臓がうるさいんだ。それに、手汗も酷い」
緊張で湿っていると手を見せるエルブに、マートルは「確かに、初対面の相手は緊張するわよね」と肯定する。
「ねぇ、良ければこの辺を案内してくれない?」
「えっ、僕が?」
「あなた、この屋敷の人だから詳しいでしょう?」
「それは、そうだけど……」
「ほら、体を動かしている内に緊張も解けるかも」
会話に集中すると意識し過ぎる気がすると、マートルは散歩を推す。嫌なら無理強いはしないと言い、嫌な事を断わる練習にもなるとどこか得意げだ。
「……じゃぁ、少しだけ」
エルブは少し強引なマートルに困惑をしたが、嫌とは言えずにその提案を飲んだ。
その後、半ばマートルに連れ回される形で、屋敷の敷地内を案内する事になるのだが、少年はまだそれを知らない。
エルブにとって、マートルは不思議な存在であった。
衝撃の出会い――エルブにとっては――から、歳を重ねるにつれて、心の距離は確実に縮んでいる。とは言え、互いの家に行き来する事が増えたものの、趣味趣向に関しては馬が合わなかった。
本を読んだり花を愛でるのが好きなエルブに反し、マートルは木登りや釣り、果ては馬に乗りたがる。とんだじゃじゃ馬に育ったと、マートルの父親がよく嘆いていた。
(果たして、マートルは令嬢らしくなるのかな)
ラモンターニュ家に遊びに来ていたエルブは、庭の花を眺めながら考える。当の本人は、馬の散歩で今は不在だ。
普通なら使用人に任せる所だが、マートルは愛馬の世話を率先してやっている。曰く「積み重ねの信頼関係が大事」らしい。
(大人しいマートルなんて、想像ができないけど……)
マートルはエルブより一つ下で、手のかかる妹というよりも同年代の少年だと錯覚する事があった。それだけ、彼女は活発なのだ。
自分とは正反対のマートルに対して苦手意識があるかと問われれば、答えは否である。エルブは、何だかんだでマートルと過ごす時間が嫌いではなかった。
「エルブ、見て。綺麗な花を見つけたの。あなた、こういうの好きでしょう?」
いつの間にか、帰って来たらしい。どこからともなく、マートルが現れた。
乗馬用の服を着た彼女は、一輪の花を差し出す。鈴蘭を大きくしたような、濃い紫色の花だった。
「これ、どうしたの?」
「馬小屋のそばに生えてたの。綺麗な花だったから、エルブが喜ぶかなって思って」
くしゃりと笑うマートルに、エルブは目を瞬いた。チカチカと、彼の青灰色の瞳に星が散る。もう何度も見ているのに、エルブはマートルの笑顔が眩しくて仕方がなかった。
いつも振り回されてばかりだが、この笑顔を見るのは嫌いではない。――その理由は、未だに分からないけれど。
「あのね、マートル……」
しかし、エルブはマートルの持っている花へと意識が向いた。そして、もごもごと口を動かし、申し訳なさそうに視線をさ迷わせる。
「うん、どうしたの?」
マートルはいつも、エルブの話を聞く時は急かさない。話す事が苦手な彼だが、自分の意思がない訳ではないので、待っていればちゃんと会話をしてくれるからだ。
「……それ、毒花なんだ」
「えっ?」
「触ると赤くかぶれて、口に含むと死んじゃう猛毒……」
「えぇっ!?」
エルブの言葉に、マートルは慌てて花を離した。ポトリと、花は二人の間に落ちる。
――まさか、毒があるなんて。あんなに綺麗だと思ったのに、今のマートルには花が恐ろしい物に見えた。
「使い方によっては、虫を引き寄せて殺せる作用があって便利……って、違う。その、安心して。素手で触らなければ大丈夫だから!」
「本当?」
幸いにも、マートルは乗馬用の分厚い手袋をしていたので、素手で花には触れていない。ホッと、マートルは安堵のため息をついた。そして、反省をする。
「ごめんね、エルブ。私、単純に綺麗だと思って……」
渡さなくて良かったと、マートルは眉を下げた。
下手をすれば、大惨事になっていただろう。知らなかったとはいえ、許される事ではないとマートルは謝罪をする。
「大丈夫だよ、マートル。僕、怒ってないから。それに、その花は珍しいんだよ。見つけた事自体がすごいし……うん」
エルブは両手を振ると、彼女を励ますように声をかけた。
「そうなの? 馬小屋の近くに咲いてたけど……」
「本当だよ。気温や湿度の条件が重ならないと、種が風で飛んで来ても育ちきれ……」
説明をしていたエルブの口が、キュッと閉じられる。
よく見ると、マートルの手袋や顔は土で少し汚れていた。乗の散歩でついたものか、花を摘んだ時についたものかは分からない。
(……やっぱり、マートルはお転婆な方が良いや)
貴族の令嬢としては、みっともないのかもしれない。しかし、それは自分を喜ばせようとした結果なのだ。そう考えたエルブは、何だか胸の辺りがむず痒くなる。
「でも、エルブはすごいわ。本当に植物に詳しいのね」
マートルの声に、エルブは我に返った。
「好きだから知ってるだけで……大した事じゃないよ」
「そんな事ないわよ。将来は、植物の研究者になりたいって言っていたじゃない」
マートルの言葉に、エルブは目を丸くした。それは、今より幼い頃に会話の中で言った彼の夢だ。まさか覚えているとは思わず、エルブは気恥ずかしさで顔を赤くさせる。
「そりゃ、なれたら嬉しいけど……でも、無理だよ。僕なんか……」
「もう、エルブってば弱気ね。失敗をしたって、良いじゃない。なりたいって思うなら、挑戦するべきだわ」
「……マートルは、僕が研究者になれると思う?」
「そうね。もし、研究者になって新しい花を見つけたら教えて欲しいわ。私の幼馴染みが見つけたんだって、自慢するから」
無理だと否定もせず、無責任に頑張れとも言わない。ただ、エルブの可能性を信じた言葉だった。
「……うん。見つけたら、君の名前を付けようかな」
「そこは、自分の名前をつけなきゃダメよ」
くすくすと、マートルが楽しそうに笑う。その仕草や声が、エルブには心地良かった。例えるなら、家族に対する情と似ている。
(あっ、花のお礼を言わなきゃ……)
不意に地面に落ちている花が視界に入り、エルブは自分がまだお礼を言っていない事に気付いた。
ありがとう、嬉しかった。そう言おと、口を開く。――が、父親が呼んでいるとマートルを迎えに来た侍女によって、それは叶わなかった。