3 怪奇的普通女②
改札から出て、また歩いた。スクランブル交差点を通り過ぎ、そこから五分ほど。車一つが通れるくらいの道幅の路地にて、私は光司郎の手を掴んで立ち止まらせた。
「兄さん。そこの自販機で何か飲みたいです」
「……わかった」
足を止めたのは、両隣を高い建物に挟まれ薄暗い通り。並ぶ電信柱から網の張られるごとく電線が頭上を伸びて、やや閉塞感のある空間。光司郎は財布から硬貨を取り出して自動販売機に投入する。私はオレンジジュースを、光司郎はブラックコーヒーのボタンを押した。人波と言うほどでもないが、人通りは少なくない。動線を避けるように道の端へ寄り、建物に背中を預けてプルタブを開けた。
お出かけの途中、自販機で喉を潤して休憩する兄妹。そう装う。小声で言葉を交わす。
「光司郎。あそこのお姉さん、見えますか?」
「……あれなのか」
「はい」
私たちの視線の先には、年若い女性が一人。まったくふつうの人間にしか見えないが、あれが……。背の高は、平均的な成人女性程度だろうか。見た目には二十代ぐらい。明るめの茶色い髪がふんわりとした印象を与える。ぱっつんボブカットとかいう髪型だろう。その装いは珍奇で、お祭りの法被のようなものを着ている。更に、手に小さい編み籠を提げている。そして、籠からポケットティッシュを街往く通行人に配り通している……。
私の直感が告げている。告げてはいるのだが……。改造人間なのはおそらく間違いないのだが……。あれとは、戦いたくないなあ。例えば入れ墨グラサン金髪パンチパーマの大男とかならまだしも、どう見てもティッシュ配りのバイトに勤しむ一般人女性にしか見えないんだもの。
「ミライ。お前はあの顔に見覚えはあるか」
「すみませんが……」
「……ひとまず観察しよう」
「そうしましょう」
私はひっそり安堵した。光司郎ならば、後先考えず接触を図る可能性も否定できなかったから。彼とてあの「ザ・ふつう」って感じの人と揉め事を起こすのは気が引けたらしい。
手頃な縁石に腰掛けて缶ジュースをちびちびやりつつ、不自然にならない程度に様子を窺う。彼我の距離は十メートルほど。かなりの接近を果たしているが、向こうが私たちを意識している様子はない。ただひたすら「よろしくおねがいしまーす」と、明鏡止水の境地でティッシュを配るだけだ。いや……語弊があるな。あれはたぶん、何も考えないようにしているだけだ。動く人影に、反射的に声とティッシュを差し出す機械、そんな感じ。気持ちは分かる。
「……」
「……」
私と光司郎の間にはなんとなく気まずさというか、そういう雰囲気が漂っていた。心情を端的に言い表すならば、「思っていたのと違う」、こんなところだろう。
「あの。夕飯、何がいいとかありますか?」
「いや……任せる」
黙って並んでいたら不審なので適当な会話も交わす。光司郎は寡黙な男なので、こちらから話題を振ってやらねばならない。
「そういえば、光司郎もバイトされてるんですよね。聞いてもいいですか?」
「ああ。今は倉庫整理や品出しをしているな」
「へえ……。あの、居候の身で言うことではないかも知れませんが、学費とか生活費って足りてらっしゃいます……?」
「問題はない。奨学金が出ているし、今暮らすだけの蓄えはある」
奨学金。優秀なのだなと素直に驚く。貯金もあるようだし、それも重畳だ。競馬場に誘うのはやめておく。懐事情が逼迫しているならともかく、改造人間の力を使っての金稼ぎに、彼はいい顔をしないだろうから。
しばらくして話のネタもなくなり、私が光司郎のスマホを借りて暇潰しに興じている頃。不意に、光司郎が視線と雰囲気を鋭くして告げた。
「ミライ。動くらしい」
「あ……はい」
途端に刃のようになった光司郎に驚きながら、私は目で件の女を追いかける。腕時計を気にしつつ、この場から立ち去る様子。時刻は正午近い。上がりの時間だろうか、昼休憩だろうか。私と光司郎は空になった缶をゴミ箱に捨て、女の背中を追いかけた。
女の足取りはごく平凡なものだった。身に纏っていた、仕事先のロゴが入った法被を脱いで籠に突っ込めば、街の女性と何ら変わりない格好になった。コンビニでカップ麺とフルーツジュースを購入し、店内でお湯を入れ、小股になって店を出た。今現在、公園のベンチでスマホを弄りながら麺を啜っている。画面で何を見ているのやら、時折ふふと笑いを零したりして、その度に周囲にちらと目を向け、今の聞かれなかったかと心配する様を晒している。そして相変わらず、私たちの尾行に気付く気配はない。
公園の敷地外の道路で話し込む。
「あの……正直に申し上げれば、どうにも無害そうに思えますが」
直感もそう囁いている。そう述べれば、光司郎も難しい顔をしつつ同意をみせた。
「……同感だが」
「これ以上は、観察を続ける必要はないんじゃないかなあと」
私はやんわりと尾行の切り上げを伝える。やってても仕方ないよと。改造人間であれば非合法な手段での金稼ぎだって容易いが、彼女はそれもしていない。危険な改造人間はいなかった、それでいいじゃないか。
しかしながら、光司郎はそうは受け取ってくれなかったらしく。
「そうだな……仕方ない。接触して確かめよう」
ええ、と驚く間もなく。ずんずんと女に進み歩く光司郎。
「ちょ、ちょっと待って」
「すまない。だが、確かめたい」
……私には超直感があるが、彼はそうではない。自分の目で確かめたいと、そういうことだろうか。それは、ちょっとした意識の違いだった。或いは、私の言葉を素直に受け容れてくれるという自惚れだったのかも。
「おい」
私の制止は叶わず、ベンチに腰掛ける女、その目の前に光司郎は突っ立ち、短く声かけた。女がスマホから目を離し、訝しげに光司郎を見上げる。口内には飲み下す暇もなかったカップ麺がまだ残っていた。
「……あたし? え、なに? 誰?」
「デビルマスクだ。お前に聞きたいことがある」
「ぶふぇっ」
スマホは麺塗れになった。
すぐ近くにあった喫茶店のテーブル席にて、私は妙な緊張感の中に身を置いていた。丸い卓の上には小洒落たカップが三つ置いてあるけれども、誰も口をつけていない。
「……」
「……」
女は俯き、ただカップへ視線を送っている。だが、きっとカップを見ている意識はないのだろう。前を向けないから下を向いているだけ。目の前にはデビルマスクを名乗った男がいるのだから。上着の喉元の辺りが見てわかるほどに湿っているのは、先程噴飯した名残か、それとも冷や汗か。
光司郎は、女をじっと熟視する。彼の双眸はいつも険しいけれど、今は殊更であった。目から光線が出るタイプの改造人間でなくとも岩を穿てそうな眼力だった。
「あの。そう物騒にならなくても」
あの、と私が口を開いた瞬間、女の肩がびくっと跳ねて恐る恐る目線がこちらを向いたが、それが私が光司郎を窘めるように発された言葉だと理解すると、縋る子犬のような目線へと一転した。
「ええっと。その、お名前をお伺いしても?」
薄く涙に揺れる瞳を向けられた私は少しばかりどぎまぎしつつ、場繋ぎに名前を尋ねた。
「は、はい。あたしは、保内みどり……です」
「ありがとうございます、みどり。敬語でなくて結構ですよ。私は咲花ミライと申します。それで、こちらは弥彦光司郎」
「……」
名乗るついでに光司郎の名前を紹介すれば、彼は黙ったまま僅かばかり頭を前に傾けた。黙礼はするものの、目線はけして外そうとしない。
「ど、どうも……」
「……」
……なんか話せば。自分で声掛けしたんでしょうが。黙するばかりの光司郎に対し、そう思わなくもないが、しかしまあ、私が会話の主導権を握ってやった方が穏便に話が進むのなら、それも好都合かもしれない。前向きに考えよう。
「みどりはお若く見えますが、学生さんでしょうか」
「あ、や、社会人だよ……いちおうは」
「それは失礼しました。今、何をされておられるんですか」
「ア、アルバイトを、色々と」
「色々ですか」
「その、うん。派遣会社に登録して、短期で色々回して貰って……」
図らずも面接みたいな遣り取りになってしまっていた。私が面接官でみどりが就活生、そして光司郎がむっつりしたお偉いさん。
「すみません、みどり。実は……公園でお声掛けする前から、みどりのことを少し見させて頂いてたんです。ティッシュを配られている勤勉なお姿も」
「え。は、はあ」
私が述べれば、みどりは腑に落ちないようなばつが悪いような、そんなしっくりしない表情を浮かべた。
「それでですね。見ていた限りでは、私も光司郎も、少なくとも彼女は悪事に手を染めている様子はないなと。ですよね?」
私が隣の光司郎へ視線を配れば、彼は久しぶりに口を開き「ああ」と短く答えた。よし、言質取った。
「あ……ありがとうございます!」
いや、内定貰ったみたいに大げさにお礼を言われることでもないけれど。……やっぱり怖かったんだろう、光司郎、もといデビルマスクが。変身前も後も強面であるからして。
「その上で、光司郎が貴女に確かめたいことがあるらしいんです」
幾らかみどりの緊張を解すことは出来た。そう判断した私が光司郎へと会話のバトンを渡すと、二人はそこで初めてしっかりと目を合わせた。みどりの背筋が伸びた。つられて私も。
「……まず、お前は自分が人倫に悖る行為を働いていないと、そう誓えるか」
その文言は、私に問い掛けたそれとは少し違っていた。
「それは……あそこが……結社が、崩壊してからの話……?」
言葉を選ぶように、ゆっくりとみどりは聞き返す。
「そうだ」
「それなら……うん、誓える。誓えるよ」
そうか、と光司郎は珈琲を口にした。みどりはそこで初めてカップに気付いたかのようにミルク珈琲へ手を伸ばす。私も飲もう。カフェラテは、苦かった。
「そうである限りは、俺がお前に対立することはないだろう」
「……うん。そのつもり」
「ああ」
言外に、脅しを含ませて。光司郎は告げる。ううん。やっぱ怖いよこの人。口下手に起因するところもあるのだろうが、限度があると苦言を呈したい。怖いのでしない。
一旦途切れた会話。耳を傾ければ、店のスピーカーからは小さな音量でジャズが流れ、喫茶店に穏やかな雰囲気を添えていた。聞き覚えがあるような気がするが、名前は知らない曲であった。
「あ、あのさ! よかったら、連絡先を交換しない?」
「え?」
みどりが、私にそんなことを提案した。どことなく、先程までの緊張した声色とは違った。
「嫌じゃなかったらでいいんだけど……せっかくこうして、同じ境遇の人に会えたんだし」
私としては、意外な提案だった。困惑が伝わったのか、彼女は少しばかり早口で捲し立てる。
「だってね? こんな身体なんて、周りの誰にも相談できないでしょ? なんとなく、世界に独りだーって、そんな寂しさがあって……。ミライちゃんも光司郎くんも、そんなふうに感じたことない?」
「それはまあ、なくもないですけど」
気軽に吹聴できる事柄でもないので、ホームレス仲間にも私の身の上はひた隠しにしていた。光司郎と出会わなければ、墓まで持っていく心積もりではあった。
「でしょ? あ、でもミライちゃんには光司郎くんがいるのかあ。あたしはずっと一人だったから」
寂しさを帯びた目で遠くを見ながら、みどりはそう述懐した。
……咀嚼してみれば、内容自体はけして悪い提案ではなかった。しかし、驚く気持ちは否めない。まさか、彼女の方から持ちかけてくるとは。この物騒な場に於いて、そぐわない提案がそぐわない人物から持ちかけられる。その背反が、却って彼女の語った心境に濃い真実味を持たせていた。
私は光司郎に目配せする。彼は頷きを返した。私は光司郎のスマホを懐から取り出し、寄せ合って赤外線通信すれば、みどりは画面に表示された「弥彦光司郎」の文字に一瞬たじろいだものの、それからありがとうと笑った。にへらとしてて、しかしほっとする笑顔は、どことなく犬のような印象があった。彼女の本質は、けっこう陽気な人物なのかもしれない。
一息ついてからも質問は続いた。
「そうだな……結社の残党について、何か知っているか」
「えっと。あたしは一人で逃げたから、他の人についてはほとんど何も……」
申し訳なさそうに眉尻を下げたみどりだったが、「あ、でも」と、何かを思い出すふうな素振りを見せた。
「ごめんなさい、半年くらい前だからちょっと忘れちゃってたけど……一人、接触を図ってきた改造人間はいた。接触というか、スカウトというか」
「スカウト?」
私が鸚鵡返しで聞き返せば、みどりは告げる。
「うん。たしか……『毒婦』が生きているから、彼女のもとに集まって再興を図らないかって、誘われたの。あ、もちろん断ったよ? 洗脳も解けて、きな臭いのはもうごめんだったし」
少しばかり、受け止めるのに時間がかかった。同時に、背筋が寒くなる。再興だと……。毒婦という改造人間は知らないが、もしかしなくても、よくない名に聞こえる。
「……『毒婦』がか。そうか」
「えと、誰です? その毒婦って」
難しい顔をした光司郎が呟くので私が尋ねれば、代わりにみどりが教えてくれた。
「結社幹部で、人材開発課の長だよ。改造人間の開発にも貢献した、結社の中心的人物の一人だったの」
なんともはや、人材開発課なんて世間並みな部署があそこにあったのか。ちょっとした驚きだが、それは今はいい。
「ひょっとして、けっこう不味くないですか」
「それは、うん……」
「確かめる必要がある。俺にとっても……浅からぬ因縁のある女だ」
頭が痛くなった。正直に言えば、ごめんだと思った。面倒事は嫌だし、危険なのはもっと嫌だ。私一人であれば、首を突っ込んだりする案件では絶対にないのだが。光司郎は、たとえ一人でもやろうとするのだろうな。……行きたくねえな。逃げよっかな。
しばしの沈黙。三者三様、思うところは異なるのだろうが、これからに懸念して重苦しい沈黙を漂わせていた。
「もう一つ聞くが。その勧誘してきた改造人間というのは?」
重苦しさの中、光司郎が確認する。そうだ、それを聞いていなかった。失念していた。「あ、そうだね」と、みどりも気を取り直して語った。
「本名は知らないけど。コードネームは『マスラオナイト』って言ってね」
それは、つい最近聞いた名前であった。
「昔よく組まされたりしたんだけど、武辺者って感じの、そこそこ話せる人だよ。あたしに今も彼への伝手があれば、『毒婦』にも辿り着けたとは思うんだけど……ごめんね」
「……えと」
私は思わず光司郎へ目線を寄越す。彼は腕を組み瞑目していた。
「……?」
首を傾げるみどり。それはそうだろう、彼女が昨日の私たちの会話内容を知っているわけもない。やがて、宣告するように光司郎は口を開いた。
「マスラオナイトは死んだ」
「えっ」
数秒ほど呆けた表情を浮かべ、それから表情をなくして私の方を見遣るみどり。なんと声をかければいいか分からず、私は目を逸らしてしまった。
巡り合わせの悪い話もあったものだ。みどりにとって、マスラオナイトは少なからず誼のあった人物であったらしい。そして、その人物の命は既にない。他ならぬデビルマスクの活躍によって。
「あー……そっか。そういうことかあ……」
察した様子のみどりが呟いた。一見、その言葉ぶりでは納得しているふうだけれど、その胸中はけして落ち着いていないのが私には分かった。
「ね、ねえ、ところでさ。ミライちゃんたちは、普段何をしてるの? お仕事とか」
居たたまれないといった体で、みどりは半ば強引に話題を変えた。
「わ、私は家事手伝いですね」
「……学生だ」
「そっかー、そうなんだあ」
みどりは相槌こそするものの、どことなく空回りしていた。それから、急に思い出したかのように店内を見渡したのち、その腰を上げる。
「あ、あの、あたしちょっと、トイレ行ってくるね!」
揺れる茶色い後ろ髪と、バイト用具の入った手提げ籠。その後ろ姿を見送りながら、私は悩んだ。彼女の姿がお手洗いに消えてからも悩んで、それから、結局光司郎に相談した。
「その、光司郎」
「なんだ」
「彼女、このままここを立ち去るつもりですよ」
「……そうなのか」
私が伝えれば、光司郎は僅かに視線を険しくした。
「如何しますか」
「追う。まだ、聞いておきたいことがある」
「……」
その答えは予想していたものではあったけれど。私の心中に小さなしこりを産んだ。しかしながら、それについて考える間もなく光司郎が勘定を済ませはじめたので、いったん思考の隅に追いやった。