3 怪奇的普通女①
この度わたくし改造人間ミライは、ホームレスから家政婦へと超進化を果たした。
「じゃあ、行ってくる」
「あ、少し待ってください」
私は靴箱を開け、そこに収めてあった折りたたみ傘を光司郎の手に握らせた。
「今日はどうも、午後から崩れるみたいなので」
天気予報では今日一日晴れと嘯いていたが、私の直感はそう告げてはいなかった。
「そうか。助かる」
「はい。お気を付けて」
玄関先で光司郎の大きな背中を見送る。マンションの鉄扉がごとんと閉まり、私は一つ息をついた。光司郎はクソが付くほど真面目なので、大学の講義には必ず出ているらしい。学生であった頃の自分を顧みれば、頭が下がる思いである。
「それじゃ、今日もちゃちゃっと済ませますか」
ゴミ出しは早朝のうちに終わらせた。昨日までで屋内の大掃除は粗方終わらせたし、今日はベランダの掃除でもしよう。先日確認したところ、だいぶ汚れていたはずだ。雑巾何枚か使い潰す気概で望む。
トイレ室の棚には掃除用具や洗剤が備蓄されている。毛先の広がった古い歯ブラシを手に取り、カビ汚れに強い洗剤を選ぶ。なるべく古い雑巾も選んで取り出した。あと、三角に畳んだゴミ袋も何枚かエプロンポッケに詰めておく。浴室にも寄って、洗面器にいくらかお湯を張って持っていく。バケツがないのでその代わりだ。
ベランダへ続くガラス戸を開ければ、慣れ親しんだ都会の空気を肌に感じる。たしかに慣れ親しんだものではあるのだが、黒ずんだベランダの床を見れば、けして清浄なものではないと分かる。ちょっと前までは、こんな空気の中で野宿をしていたわけだ。今更ながら、寝泊まりできる家があることの有り難みを噛み締める。溜まった汚れを落としながら。
私が光司郎の家に居候を決めて、五日目の朝だった。
あれから。私の体調は恙なく回復し、超直感も問題なく発動できるまでとなった。それに伴い、この家に住むにあたり、私は改造人間としての能力を光司郎に開示した。彼は「便利だな」とだけ反応を見せた。けっこうすごい能力だと自負してるのだが。まあ、気味悪がられたり疎まれたりするよりは断然いいか。
家に置いて貰う見返りとして、私は家事の一切を請け負っている。光司郎は大学やらなにやらで忙しいのか、どうにもあまり自らの生活に頓着しないようで。宿無し且つ暇を持て余していた私とはwin-winの関係である。いや、win-winと言うには私の方が享受しすぎているきらいもあるが……。彼が納得を見せているのならいいのだろう。そういうことにしたい。
正午に差し掛かる頃には、ベランダの掃除が完了した。うん、磨けば光るものだな。洗面器に汲まれた水はすでに真っ黒。やり遂げた気分でいるのも程々に、私は掃除用具を片づける。体も汚れてしまったので、着ていたものを洗濯機へ突っ込み、それからシャワーを浴びた。いつでもシャワーの恩恵に与れるのも、まこと贅沢なことである。
風呂上がり、ドライヤーで髪を乾かす。キャリーバッグだけに収める必要もなくなったので、衣類や下着の数も必要に応じて増えた。このショーツは三枚組千円。貧乏性は習い性だ。着替えを済ませたら、空いた小腹を買い置きの菓子パンで満たす。
時計を見遣れば、夕飯の支度にはまだ早い時刻。暇潰しにと新聞を読む。新聞は私の趣味ではないが、さすがにテレビやパソコンを強請るわけにはいかない。読んでいるうちに眠気を催したので、目覚ましをセットして午睡と洒落込んだ。
近隣の小学校が下校時刻となる頃に、強い雨音に起こされる。ううん。目覚ましはいらなかったな。下着姿で爆睡していた私は衣服を纏って、傘と合い鍵を持って家を出る。向かう先は近所のスーパーやドラッグストアだ。この時間帯なら、私が買い物していてもそこまで不審がられない。蕪が安かったので、それを中心に晩の献立を組み立てた。
日は沈みきり、雨の降りしきる中、光司郎が帰宅する。私は玄関先へ向かい出迎えた。
「お帰りなさい」
「ああ。ただいま」
「足元、濡れてしまいましたね。もう着替えますか」
「ああ」
畳まれた光司郎のスウェットを手渡すと、私は玄関を離れ居間の方へ出戻る。いちおうは男女ということで、着替えの空間は分けることにしている。間もなく着替えを終えた彼から脱いだ衣類を受け取り、ハンガーに掛けて室内干しした。
夕飯を配膳する。白米、蕪の味噌汁、鰺の開き、蕪の葉の中華炒め、辛子和え、ほうじ茶。光司郎には好き嫌いというものがないようで、なんでも食べる。私は私の好きな献立を作ればいいのだから、気が楽だ。本日は和食っぽい気分だった。
多少弱まりをみせた雨音。時折、風が窓をがたがた揺らす。ずず、と味噌汁を啜る音。静かな食卓。初日こそ緊張感もあったが、いくらか慣れた。そんな静寂の中、光司郎が切り出した。
「明日なんだが」
「はい」
「なにか予定はあるか」
「いえ、とくには」
大掃除も概ね終わったし、やっておきたいこともない。
「俺は普段通り、街を巡邏するつもりだ」
明日は土曜日だ。大学の日程もない光司郎は、先週に私を捜し当てたときのように街へ繰り出すらしかった。
「それを、ミライにも手伝って貰いたいと思う」
「……えと、それは」
真っ直ぐ見据える視線に、私はたじろいだ。これは考えるまでもなく、私の能力を当てにしての提案だろう。たしかに私の直感があれば、ふつうに街を巡回するよりはずっと効率がいいのは間違いない。変身していない光司郎をデビルマスクと看破した実績もある。しかし。
「危なくないですか」
「ないとは言わないが、必要なことだ」
そうだろう。危なくないわけはない。結社の生き残りがデビルマスクと遭遇したのなら、碌な顛末にはならない気がしてならない。さらにそれが、戦闘に長けた改造人間であったとしたら……。考えたくもない。
私の反応をどう見たか、無理にとは言わないが、と付け加える光司郎。正直に言えば、私としては当然気乗りはしない。私の身に危険が迫るのはもちろんだが、光司郎は私の寄宿先でもあるのだから、彼に何かあっても私が困る。しかし……居候である私としては、彼の覚えを目出度くしておきたいのも事実だ。
逡巡を重ねてから私は述べた。
「わかりました。でも、一つ条件があります」
「聞こう」
「本当にやむを得ない場合を除いて、暴力沙汰は無しにしましょう」
私の言葉を光司郎は数秒吟味してから、そのつもりだと答えた。私は胸をなで下ろした。
結社の連中にとっては、デビルマスクは恐怖の対象でしかない。恐怖に駆られた相手が何かことを起こさないとも限らない。先週の私がそうしたように。私も一枚噛む以上、なるべくなら血生臭いのは無しにしたい腹づもりであった。
会話が途切れ、私はほうじ茶で口腔を潤す。
……ところで。ふと疑問が浮かんだ。これまで、私という手段もなく街をパトロールしていて、果たして彼に成果はあったのだろうか。そう尋ねてみれば、光司郎は毎日新聞を隅々まで読み、いわゆる「怪事件」と言える事案があればそこへ足を運ぶなどしていたそうだ。
「……遇いましたか? その、改造人間と」
「ああ。そうだな……冬に猟奇殺人があったのは憶えているか? あれは、改造人間だった」
そういえば、そんな事件もあったような。都内のどこかのゴミ箱に、ばらばらになった死体が遺棄されていた事件が。
「ザックバランと名乗っていた」
「ああ、あの切り裂き解体魔……」
名前には心当たりがあった。結社実験室にて監禁の上で運用されていた私の耳にも届くほどの悪名だ。全身のあらゆる箇所を刃物状に硬質化できる若い男の改造人間だった、という話だ。……退治されたのだろうな。
「他には、オオクチナシ……マスラオナイト……」
きっと生きてはいないのだろうが。それを直接確かめるのはなんとなく憚られた。
「……ご馳走様」
「はい、お粗末様でした」
やがて静かな夕餉が終わる。光司郎は、その体格に反して食が細い。初日は作りすぎて残ってしまっていたが、今はもう食事量を見誤ることはない。つまり、椀も皿も、魚の骨を除いて綺麗になっていた。これが、けっこう嬉しいものだ。
食器を片付ける。光司郎が手伝いを申し出たが、これは私の仕事なので固く辞して、彼を風呂場へ送り込んだ。台所に新しく設置された私専用の踏み台に立ちながら、皿を洗いつつ考える。
明日は街へ並び出る運びとなったわけだが。私と光司郎は男女である。私は見た目小学生女児で、光司郎は壮健な青年である。周囲の目にどう映るかと聞かれたら……ちょっとアブナイ気がする。兄妹のふりでもした方が得策だろうか。ううん。度し難い。
さらに小一時間ほどして、雨音は穏やかに街に囁くだけとなり、私たちは心地よいしめやかさの中で眠りにつく。ああ、今日も平和な一日だった。何よりである。
一人暮らし用のワンルームなので然程スペースの余裕はなく、布団はくっつけて横並びだ。傍から見れば男女同衾とも言われかねないが、まあ私たち以外に観測する者もおらず、彼にもその気はまるで感じないので気にはすまい。
……自分でも、馴染み過ぎだろうと思わなくもない。さらに深く言及すれば、これでは家政婦よりもむしろ妻のようだと思わなくもない。が、見て見ぬふりをしておいた。
「ミライ、疲れていないか」
「大丈夫ですよ、兄さん」
隣を歩く光司郎の、こちらを慮る視線。私は彼の顎を見上げつつ答えた。私とて、健脚にはそれなりに自信がある。この程度ではへばるまい。
本日は、昨日のゲリラ豪雨が嘘のように快晴。世間一般広く休日ということもあって、通りには人影も多い。絶好の行楽日和と言えるだろう。昨日の降雨の影響か、頬撫でる風もやや湿り気を帯びているが、不快ではなかった。
私は時折、漂う匂いの出所を探すかのように、どこかへ行ってしまったリモコンを探すかのように。立ち止まって、顔を高くして辺りを見渡す。その度に、隣の光司郎も立ち止まり、そして私が歩みを再開させると共に、彼も足を動かす。
なんとなく、こっちだなという感覚がある。結社の生き残りと縁を繋ごうなんて発想もなかったから、今までこうして超直感を使うこともなかったが。探してみれば、案外わかるものだなあ。気配とでも言うべき何かが、四方八方に散らばっている。正確な数までは分からないが……少なくとも十は下るまい。驚きと同時に憂鬱になる。これだけ居たら、ザックバランなどのように、過激な輩も混じっていそうだと。
「どうだ。わかりそうか」
「ええ、まあ。いくつかそれらしい感覚がありますが……とりあえず一番近しいものへと向かっています」
「……そうか」
何処を見るでもなく瞳をぼんやりと前方へと向け、光司郎は低く静かに呟いた。
昨日打ち合わせた通り、私たちは朝からこうして街を散策していた。私たちが住まう住宅区域から、さらに栄えた都の中心部の方角へ。進むにつれて往来も増えていく。駅近くへ通りかかれば、視界に入る人の数も優に百を超える。
これだけの雑踏であれば、改造人間もさぞ隠れやすいことだろう。そしてまた、私たちがその改造人間などとは、この場にいる誰しも想像さえしないに違いない。それはつまり、人々が知らずのまま潜在的脅威と隣り合わせでいると言い換えても相違ない。人倫を守る正義の味方を気取るつもりはないが……ぞっとしない話ではある。なにせ、改造人間は変身しなければ見た目にはふつうの人間にしか見えないのだから。
すれ違った年若い女子らの一人がこう呟くのが聞こえた。ねえ見て、あのカップル、犯罪的じゃない?
「兄さん。あそこの駅で電車に乗りましょう。ねえ、兄さん」
私たちとて、ふつうの人間にしか見えないのだ。
「……? ああ」
二人して電車に乗り込む。やや空調の効きが弱い気もする。初夏という寒暖曖昧な季節柄か。外歩きだからと、薄着をしてきたのは正解だった。私の今の格好はというと、半袖のリネンシャツに、ゆったりしたワイドパンツ。新しく卸した服だ。風通しがよく快適。隣を座る光司郎は、紺のジーパンと黒いジャケット。先週の土曜日とまったく同じ見た目をしている。彼にはこだわりでもあるのか、或いは無頓着なのか、似たようなデザインのやつを三着揃えている……。
川を沿って、橋を越えて。短いトンネルをくぐって、ビル群の合間を縫って。車窓を流れゆく景色を瞳に映す。建物の頭を飾る色取り取りの看板たち。緑がかった河川と、その傍らに浮洲の釣り堀。人の往来が絶えることのない橋。線路の脇に並び立つ木々、初夏を彩る瑞々しい青葉。
私はちらと隣に座る光司郎を見遣る。じっと目を閉じている。私のように風景を楽しむ様子は欠片も見られない。瞑して、両腕を組んで、足をやや開いて腰掛けている。まるで寝ているようだが、その実ちゃんと起きている。瞑想と形容してもいい。
隣に座る私には、彼の胸のうちを隠微ながらもなんとなく感応してしまう。尽きせぬ使命感、戦いへと臨む覚悟、適度な緊張感、不断の警戒心、僅かながらの高揚、縹渺たる期待心、暴力への罪悪感、その他ぼんやりとして言葉に言い尽くせない靄のような心。……物々しいのは、仕方のないことだ。これから私たちは、改造人間と会うつもりでいる。生き死にさえ関わる出会いとなるやも知れぬのだから。
――それでも。私はそこまで本気にはなれなかった。こうして道連れにこそなっているものの、私は彼ほどに使命感に囚われちゃいない。もう少し、肩の力を抜いてもいいと思うのだけど。いざとなったら逃げたっていいだろうに、光司郎にはその選択肢が欠けている。彼には常に危うさがつきまとっているようだと、一週間ほど同じ時を過ごした私は感じていた。