表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/22

1 路上生活者ミライのとある一日②

 レース展開は正直よく憶えていない。


『各馬、ゲートインしました――さあゲート開きました一斉にスタート』


人混みの中、身長が足りずに馬場が見えなかったし、結果も分かっていたのでどうしても印象は薄い。


『9番チュートリアルがハナを奪っています、リードは四馬身』


見えなければ声を頼りにするしかないが。私などは、番号飛び交う競馬実況を聞いてると頭がこんがらがってくる……。世の競馬師たちは、実況を聞くだけでレースの情景が頭に浮かんだりするのだろうか。


『外から必死に、必死に追い上げてきているがっ、逃げる逃げる、チュートリアルが逃げるっ』


そろそろゴールかなと思った。馬券が舞っているから、たぶんそうなんだろう。


『チュートリアル、9番チュートリアルだっ、リードはまだ五馬身以上あるっ、仮柵沿い悠々とゴールインっ』


信じられないものを見るような、男の呆然とした顔。それを受けながら、私はほくそ笑んだ。この後の展開も知らず。


『下馬評を覆して、9番チュートリアルが強さを見せました、波乱のレースとなりました、一着9番チュートリアル、二着は――』




 払い戻し機から帰ってきた男を一目見て、あ、だめかなと思った。


「すみません、もう一度お聞かせ願えますか」

「いやさ。そのね? 俺思うんだよ。子供がこんな大金持ってちゃいけないって」


 浮き足だった様子で身体を揺らしながら、男はそのような台詞をのたまった。私の手元には、二万円。単勝のオッズが二百五十いくつと聞いていたので、千円の二百五十倍で二十五万円。払戻金額の十分の一もないということになる。当然、文句が口をついて出た。


「約束しましたよね。配当金は半分に分配って」

「あれは……子供の冗談に付き合ってあげただけで、本当に当たっちゃったんならまた話は違うよ」

「……」

「そうだよ、自分で言ってたじゃん。ごっこ遊びって自分で言ってた」


開き直ったか、よく口が回る。必死さは伝わるが、それ以外はなにも伝わってこない。


「だいたいさ、俺がガキの時なんざ、お年玉かき集めても一万くらいだったよ。子供がこんな金を持ってちゃ将来碌な大人にならん」


やや強い語調で、言い伏せるように。ここにきて私は、憤りよりも困惑が勝った。


 直感的に理解したのは。彼の言動には、なんの衒いもない。その取って付けたような拙い理論武装を、自分で言っているうちに、本当に正しい理屈だと自分で信じ切ってしまったのか。自己暗示にでもかかったのだろうか。ううん。こういう手合いは、なんとしたものか。男であったときなら、こちらも強腰で立ち向かえばいくらか怯んで貰えただろうけれども。

 男が喚くので、ロビーを行き交う人々も、私たちに視線を向け始めている。通行人だけならまだしも、警備員などがやってきたら目も当てられない。騒ぎになって、こちらの後ろ暗い事情を突っつかれたら困る。狙ってやってるなら大したものだ。


 こうなってはもう、致し方あるまい。私は腹を決めた。


「おじさん」


今なお自己正当化に努める男の口上を遮って私が呼びかければ、男は横柄な態度を露わにした。


「なんだよ」

「第二レースは13番が来ますよ」

「は?」


 私は踵を返してその場を立ち去る。男の訝るような視線を背中に受けながら。建物から出てそのまま振り返ることなく、広い敷地を風を切って進む。思ったより早く切り上げることになったため、帰りの無料バスも出ていないが、適当に歩いて、どこかでバスか電車に乗ればいいだろう。


 正午を過ぎて陽は高く昇り、真上から照りつけてくる。私は努めて街路樹の下を歩いた。

 ……本日のレースはまだ始まったばかりで、新たに代行人を探す時間も、チャンスもまだまだあっただろう。しかし、耳目を集めたままあそこに居続けるなんてのはごめんだった。それに、本日の気運が底をついてる感じがひしひしとあった。


 月並みな言葉だが。金の魔力とはげに恐ろしきもの。抗いがたいものである。あの男の豹変ぶりもそうだが……金欲しさにつけて、男の本性を見抜かないまま話を持ちかけた私の目もまた、狂わされていたのだろう。ううん……ああ、もう。ギャンブルなんてするもんじゃないなあ。超能力を得ても、得る前と同じことを私は思っていた。




 夕方。私は下町のスーパー銭湯にて、頭から湯を被っていた。風呂は好きだ。汚れも疲れもいやなものも濯ぎ落としてくれる。バスチェアに腰掛けて上を向き、顔面から温水シャワーをとっくり浴びる。


 なにぶん外暮らしなので、はっきりいって私は清潔でない。都会の大気中には目に見えない塵がいっぱいだ。ベランダに置いてある室外機の表面の如く汚れてしまう。路上生活を始めたばかりの頃は、汗のかかない冬場ということもあって一週間銭湯に行かなかったら、次第に肌が黒くなったのをいやでも覚えている。

 これから本格的な夏が来るし、出来れば毎日銭湯に通えるといいが、毎日となると費用がかさむ。悩ましいところではある。備え付けのボトルからシャンプーをたっぷり手に取り、手の内で軽く泡立ててから頭に塗りたくり、さらに泡立てる。ううん。安い銭湯とかホテルのシャンプーって、なんでこんなに泡立ち良くないんだろうな。それとも、私の汚れがひどいだけかな。


 頭皮を揉み込むように指を動かす。よく洗う。念入りに。なにせ、いつでもすぐに風呂に入れる身分でもないので。たっぷり時間をかけて汚れを落としてから、手探りでシャワーノズルの位置を探し出して、熱めのお湯で泡を流した。目を開ければ、鏡の中には見慣れた少女が映っていた。


「……髪伸びたな」


水を吸って重くなった黒髪が、首筋に張り付いて肩まで伸びていた。人間の髪は一ヶ月におよそ一センチ伸びると聞いたことがある。それは改造人間とて同じだろう。体毛を操って戦う怪人でもない限り。


 肩口まで伸びる黒い髪。やや鋭くて、黒く大きな眼。通った鼻梁。小さく薄い唇に、細い顎、華奢な首、ひ弱い体。熱いシャワーを浴びたせいもあって血色よく、頬に赤みが差していた。雫の滴る黒髪が仄かに艶めかしい。

 だが私だ。みてくれはいいが、私だ。残念至極。これを美少女とは言いたくない。美少女という概念を穢してしまう気がする。

 ただ、まあ。それでも見目のいい方だとは自覚しているので、だったらきちっと磨かなければ勿体ないという意識も湧いてこなくもない。私はボディソープのボトルを4プッシュして、泡立ててからたっぷりと身体に塗りたくった。


 誓って言うが、望んでこの身体になったわけではない。更に言えば、望んで結社に身を置いていたわけではない。あそこは身寄りのなかったり交友関係のなかったりする孤独なやつを拉致するのが好きなのだ。

 諸々を経て少女の身体になったものの、私の自意識は未だに男性の色を濃く残しているものと自負している。こんな身の上だから一時は身売りも考えたことはあるが、私の男としての意識がそれを許すはずもない。

 その一方で、この身体がきちっと女であることは、私も自覚している。仮に、結社のイカれた科学力が今なお健在であったならば、私を元の身体に戻すことが出来たかも知れないが。もう過ぎたことだ。この先も、ずっとこの身体で生きていくのだろう。


 露天風呂に浸かれば、ぶぁー、と可愛いんだか汚いんだか判別に困る声が漏れた。現在は客入りもまばらで、手足を思い切り伸ばしても怒られない。今浸かっているのは日替わり温泉で、本日は檜湯だそう。湯船には目の細かいネットが浮いていて、まな板みたいな檜が何枚か包まれていた。


「……気持ちい」


 下町の青い空を見上げながら、檜の香りに包まれながら。浮力で軽くなった四肢をなげうつ。贅沢だ。罪悪感すら覚える。露天風呂を囲う、竹を模した合成樹脂の壁の向こうには、今もあくせく働いている人たちが多くいるのだろうに。私などがこんないい気分になっちゃって、いいのかしら。真っ当に働いてないホームレスなのに。あそこに身を置いていた改造人間なのに。

 身を捩る。ずりずりと、尻を浴槽の深いところに沈めれば、当然頭も沈んだ。頭まで沈めれば、その中にあるごちゃごちゃした考えも流れていく気がした。


 風呂上がりに、籐編みの長椅子に腰掛けて、扇風機の前を陣取りながらコーヒー牛乳をちびちびやっていると、スーツ姿の年若い女性が脱衣所に入ってきたのを目端に捉えた。壁掛け時計を確かめてみれば、時刻は十七時半ば。定時上がりに寄り道した会社員といったところだろう。

 銭湯だから当たり前なのだが、彼女は早速衣類を脱ぎ始めた。けっこう、中々に豊艶な女性だった。不躾にならない程度に、私は横目でちらちらと視線を向けてしまう。吸われてしまう。こういうのは、私に残る男としての本能なのだろうか。


 私が盗み見ているなどとは露知らず、彼女は着々と入浴の準備を進める。白いブラウスの下から姿を見せたのは、同じく白いレースのブラ。思わず感嘆した。ゴツいブラだ。そしてでかい。なんというか……圧倒的だと思った。私のそれとは比ぶべくもない。

 ううん。買うと高そうだな、あのブラ。そういえば、でかいブラは可愛いのが少ないって聞くけど、本当かも知れない。だって、私もさっき真っ先にゴツいって思ってしまったし。まあ私には縁のない話ではあるけれど、でも将来的には分からない。来年の心配をすると鬼が笑うと言うが、しかしどんなに考えても考えすぎるということはない。


 私が悶々していた、その時だ。


「ふふっ」

「……!」


脱衣を終えた彼女は、私の方を見てたしかに笑いかけた。軽く首を傾げて、目を細め、柔らかく。いかん。盗み見ていたの、気付かれていた。不躾だったと恥じ入る私。

 しかしながら、彼女はけして私を問い詰めたりすることはせず。そのまま座す私の横を悠々と通り過ぎ、からからと引き戸を開けて浴場の湯気の中へと姿を晦ませていった。


 彼女の表情と行動を受けて。私の明晰な直感は、その笑顔の意味を私にはっきりと知らしめた。

 ……世間では、『胸の大きい女性とは、重たくて、動くのに邪魔で、男性に意識されがちな自身の胸を疎ましく思っている』などとまことしやかに囁かれている。しかしながら、私は己の直感で、それが正確でないことを知っている。銭湯通いも長いから、胸の豊かな人もそうでない人もそれなりに見てきたし。そういうシーンも何度か出会してきた憶えがある。そう。胸の大きい女性には、同性からの羨望の視線を気分良く受け止めている人もいると知っている。

 ――よもや、この私が「巨乳に羨望する少女」に間違われるとは。ううん。度し難いものだ……。




 夜。風呂上がりに長く歩き回るのも億劫だったので、近場で本日の仮宿を探すこととした。


 私は寝床を探す際、二つの基準を設けている。一つに、風雨に晒されない場所であること。今は初夏であるし、今日から明日にかけては雨は降らないと直感が告げているので、今回の場合そこまで厳密でなくともよい。

 二つに、人目につかない場所であること。それでなければ、善意の通報からのお巡り召喚コンボを決められかねない。毛布にくるまっていれば体躯も多少は誤魔化せるが、限度はある。ふつうのホームレスは逆に、何かあったときのために交番の近くや監視カメラのある場所を狙うらしいが、私は身の危険を予め避けられるので考慮しなくてもいい。

 清潔な場所だとか公衆トイレの近い場所だとか、こまごました好みの問題はあるが、最低限満たすべき要件はこの二つである。


 今日の宿は、通り掛かったマンションの一階に決めた。マンションといっても高層マンションではなく、四階建て二十坪くらいの比較的こじんまりした建物だ。表口は電子ロックや監視カメラもあってどうにもならないので、裏手に回る。裏手にも当然鍵は設けてあるが、それは住居へ繋がる通路にだけだ。住民の利用するゴミ捨て場への通路はそうではない。土地の節約のためであろう、このマンションは一階部分にゴミ捨て場や駐輪場を内蔵している形になっているのだ。

 おまけにゴミ捨て場には灯りは設けられておらず、敷地の周囲も建物が密集していて視界が悪い。たとえ夜間にゴミ捨てに来た住民がいても、駐輪場の隅っこに眠る私にはまず気付かないだろうと思われる。そして、今は夜。自転車を利用して外出しようという者などそう多くはない。つまるところ、私が朝までいてもバレないということだ。


 人の家の敷地に侵入するのは路上生活者の御法度だ。それは知っている。知っているが、まあバレなければ良いのだ。別に盗みに入ろうって訳じゃなし。家主が気付かなければ何も起きないし、気付かれるようなヘマは私に限っては起こりえない。


 暗闇の中、私はなるべく物音立てずに自転車を動かす。私一人が横になれるスペースを空けて、私の姿を隠すバリケードのように配置する。キャリーバッグからダンボールを引っ張り出して敷く。これがないと地面に体温が奪われて敵わない。同じく引っ張り出した毛布に、頭までくるまる。これがないと些細な物音や風の感触で眠りが妨げられてしょうがない。芋虫のようになりつつ目を閉じる。


 腹が減ったな。寝床探しの途中、朝食用にコンビニ飯は買っておいたが……今食べると、いい匂いをさせた空容器が出来てしまう。そうなれば朝方まで虫や鼠が寄ってきて格闘になるから、なるべく開けたくない。……我慢する。寝てしまえば、空腹も何もない。さっさと寝よ。路上生活者は身体が資本なのだから、きちんと休めるときに休まなければやっていけない。かく言う私も慣れたもので、程なくして意識がまどろみはじめ、夢の中へ落ちていった。

 路上生活者となって約半年。私は今日もこうして無事一日を終えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] めっちゃ上がる株教えてミライちゃん!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ