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8 光司郎とミライ③

二話同時投稿となっていますのでご注意ください

1/2

 片腕のハンデは、補える。クラーレの身体は、頭部を除く全身が万に届く細い触手で構成されているみたいだが、右腕の損失で失われたのはおよそ二千。他から縒り集めれば、幾分か貧弱ではあるけれども腕の再生は可能だ。


「懐に向かって、彼の四歩目まで追い縋って、右を生やして殴ってください。それから退避を」

「……信じよう」


 であれば、最高のタイミングで生やすだけだ。私の変貌に警戒を覚えたデビルマスクはけんに回るとみて、敢えてクラーレに突っ込んで貰う。これまで逃げ一辺倒であったクラーレの急接近に、彼は反射的に後ろへ跳んだ。一歩。


 鉄骨を棄てたままであった彼には、武器を必要とした。中空にて、彼の優れた動体視力は己の左後方、つまりクラーレの右手側に石柱を捉えた。後方に移動する最中、彼は空を蹴って軌道を変えた。ぱん、と、音速を超えた蹴りが空気を叩く破裂音。二歩。


 泥濘んだ地面を片足で擦り上げつつ、汚泥と砂礫を巻き上げつつ、デビルマスクは減速する。三歩目。接近を試みるクラーレにとっては、先のソニックブームと相まって砂礫が障害となり、いくらか減速せざるを得ない。


 四歩目。彼は浮いていたもう片方の足で、さながら大地へ楔を打ち込む。同時に、近くに埋まっていた石柱が、水飛沫と共に、驚いたかのように大地から浮き上がる。そのまま彼の手に収まり、秒と掛からず引きずり出された。


 追うクラーレであったが、彼我の距離は開いてしまった。明確なまでの身体能力の差が存在していた。しかしながら、ここにきて急速に縮まる。ここは地下の大穴、大空洞。辺り一面、壁に囲まれた場所。二歩目、彼の起こした衝撃波が、周囲の壁面に反響して、収束する地点がある。現在、この瞬間、クラーレのいる位置。私諸共、彼女の背中を押す。急激な加速。

 半ば魔弾と化した私たちを、しかしデビルマスクの動体視力はしっかりと捉えた。彼は石柱による迎撃や回避が間に合わないと見るや否や、石柱を潔くも手放し、被弾を覚悟で素手による迎撃を試みた。

 クラーレは無い右腕を前に突き出し、勢いのまま突っ込む。それは、人間の人体構造をしたデビルマスクの脳裏に、左腕による身体の捻りを利かせたストレートを過ぎらせた。


 果たして、泥と水飛沫に紛れた視界不良の中、密やかに急速なる再生を遂げた右腕は、人間であれば力の篭もらない体勢ながらも不定形の触手という特性を生かして、しなりうなり、満身の力を込めることを可能とし、左腕の回避を試みようとしていて虚を突かれた彼の腹に、真っ直ぐに、深々と突き刺さった。


 デビルマスクの体は鋼の如き筋肉の鎧で、まるで生き物でない何かを殴っているかのような重い衝撃が、クラーレの背にいる私にまで伝わる。だが、衝撃を以て彼を下そうというわけではない。クラーレの触手に潜んでいた刺胞が、衝撃により開花する。それら刺糸はほんのちょっぴり彼の外皮を傷つけ、神経毒を伴って彼の体内へと侵入を果たした。


「ぐ、う……!」


 殴られた衝撃のまま、後方へ吹っ飛んでいく彼。両の足で地面を穿ち、十メートルほどの轍を残してから踏みとどまる。そして、片膝を突く。あのデビルマスクの、膝を折る姿。


 次いで、げほ、と肺の中身を吐き出したのは、私だった。触手に守られていたとはいえ、衝撃波を受け止めるのは些か無茶が過ぎた。呼吸がままならない。


 屈み込む彼のもとへ、クラーレは歩を進める。声の出せる状態でない私は、彼女の襟を引っ張った。


「っ、まだ!」


彼は動ける、とは言葉に出来なかった。既にしてその時、弾丸のごとく飛翔してきた彼が、クラーレの足元を残像を残して横切っていったから。


「っ、ふふっ」


 左足を構成する触手が、根こそぎ弾け飛んだ。デビルマスクが片膝を突いていた地点も、火薬を炸裂させたかのように弾け飛んだ。爆発的な踏み込みに、大地が耐えきれなかったのだ。千切れ飛んだ肉片が舞い散る。土塊も舞い飛ぶ。その光景が、やけにスローモーションで網膜に焼き付いた。クラーレが笑った。


 振り返りみれば、両手足が地に着き、腰を低く落とし。ややもすれば四足動物を思わせる体勢。そして、未だ薄れぬ明らかな敵意。むしろ強まってさえいる。デビルマスクは、この局面に至り、今なお健在であった。


「毒への耐性。ここまでではなかった」


片足を失ったクラーレだが、精神の揺らぎはない。むしろ嬉しささえ感じているふうだ。歩行にしても、まだ他の触手で補える欠損であった。


「すまなかったね、ミライ。『それから退避を』だったか。僕自身、高揚が抑えきれなかった」

「いえ……。きちんと、効いて、います。あとはこちらが、耐えるだけです」


咳き込みそうになる喉を押さえつけて、私は告げた。


「……俺は。俺は」


彼の言葉は、誰に語りかけるでもない譫言だった。近づく活動限界と神経毒が、彼の精神の均衡を蝕んでいる。はやく、はやく楽にしてあげないと。助ける。




 避ける。逃げる。かいくぐる。奇しくも、ミライとして発揮してきた私の超直感は、多くが逃避に起因するものであった。見回り中のお巡りであったり、お節介な子供好きであったり、変態であったり、或いは悪天候だとか、流行病のウイルスだとか、車両事故だとか。思い返してみれば、逃げてばかりだ。


「跳んで、離れて」


しかし、今は。追いつかれる。


「衝撃波、備えて」


音速の拳に伴う真空の波を、クラーレは耐える。外皮の役割を努めた触手がいくらか千切れる。


「目眩まし、毒霧を、しゃがんでから退避」


真空波を前に足の止まった私たちへ一直線に襲いかかる彼。流星のごとき軌道は、足の先から風を切って。飛び蹴り。彼は目眩ましに放った毒霧をまともに浴びるが、ものともしない。屈み込めば、わずか頭上で風を切る感触。転がり込むように逃走。


 長い長い、ぎりぎりの綱渡り。体感時間がぎゅっと濃縮されて、かれこれ一時間はこの追いかけっこをしているふうにも感じたが、直感が告げる実時間としては一分程度。


 私たちは、追い詰められつつあった。その理由としては。彼は、私とクラーレの組み合わせという、構造上の欠陥を突いた。

 情報伝達の齟齬。タイムラグ。私がナビゲーションを発し、クラーレが受け取るまでに挟まるノイズ。意識朦朧としているはずのデビルマスクは、半ば本能的に付け入る隙をそこに感じ得たのだ。言葉を交わす暇も与えない疾さこそが、彼の苦境を打破する鍵。


 彼の残り時間を燃やした獣染みた猛攻は、遠からず結実の予感があった。


「ミライ。このままじゃ後手後手だ。悪いが、神経接続させて貰う」


眼鏡の割れたクラーレが、空を舞いながら言った。


「つまり、君の脳内情報を私にも参照させてもらう。これで君と僕の思考のタイムラグは、一般的な神経インパルス程度まで縮む」

「はい。構いません」


その申し出は、半ば予想していたものであった。即答した私に、しかし彼女は眉を顰めた。


「本当にいいのかい。そのまま洗脳だって出来ちゃうかもしれないよ」


クラーレは、自分で提案しておきながら、躊躇いを見せた。でも、悪いが今はそれにかかずらわっている暇ではない。


「それは嘘です。少なくとも、現状の貴方はそんなことしません」

「……そんな体たらくじゃ、いつか足元を掬われかねないよ。ミライ」

「分かりますから」


本当のことだ。今の私の直感が外れるはずもない。


 鼻で息を一つ漏らしたクラーレの髪が、変化する。髪同士が癒着し、横並びになり、末広がりになる。それは、傘だ。クラゲの傘を頭に被っているかのよう。そして、そして、広がる傘は。私の頭を包み込んだ。


 繋がるというのは、殊の外気持ちの悪いものだった。自分のものではない思考。私のものではない知識。己のものではない感覚。だが。やがてそれは、薄まる。慣れ、とは違う感覚だった。


 私の全身を、触手が包む。笠を被った頭部から順に、首も肩も腕も胴も脚も、触手が覆っていない箇所はない。言うなれば、クラーレを着込むかのよう。


 気付く。四肢が、己の思うように動く。私の四肢に重なった、クラーレの四肢。クラーレが、その身を私に任せてくれている。その全てを私に委ねてくれている。彼女の体がどうなっているのか、どう動かせばいいのか、手に取るようにわかる。


 たとえば、目の前の猛追するデビルマスクの隻角を、どういった寸分の狂いもない角度、力加減、タイミングで受け流せばいいのか、とか。いなされた彼が翻り、私の脚を折ろうという足払いを、敢えて避けずに足の裏で受け止め、その力を利用して何処へ飛び上がればいい、とか。大穴の壁面を跳ね続けて、超直感に裏付けられた空間把握能力を活かした三次元の動きで如何に翻弄すればいいのか、とか。


 大穴の壁面を、二つの残像が踊る。私と彼の足場になった箇所から、次々と壁が崩れ落ち。やがて均衡の崩れた箇所から雪崩のように、或いは蟻地獄のように、大穴を埋め立てる。大穴の崩壊。しかし、私は、そして光司郎も、生き埋めにはならない。崩落に応じて生まれた彼の一瞬の隙を突き、穴底から遙か上へ蹴り上げたのだ。礫の落下の軌道、彼の意識の先、地上までの軌道、その全てを把握していたからこその芸当だ。


 墓場の如き崩落現場は、ついに完全に埋め立てられた。採石場まで昇り上がれば、雨は止み、雲の隙間から夕焼けが辺りを照らしていた。


「俺には」


 地に伏せ、それでも、彼は再び立ち上がる。驚嘆と同時に、痛々しささえ覚えるその姿。


「俺には、これからなんてない」


意地、だろうか。体調は最悪の上、毒も回り、手傷さえ負った。終わりは近い。それでも、彼は立ち上がる。どうして。


「俺には、未来なんかない!」


万感の叫び。彼のうちの悲痛を全て載せた叫び。私は否定する。しなければならない。


「そんなの、光司郎が勝手に決めつけているだけ」

「もう定まっている! 俺にあるのは、このまま朽ちゆく未来だけだ!」


時間がない。このままでは、彼はクラーレの示した活動限界を本当に超えて、儚くも終わってしまう。


「違う!」


そんなのは違う。


「貴方は未来を恐れているだけ」


そんな未来は違う。


「これからと向き合うことを」


本当に、光司郎が心の奥底で望んでいる『未来』は、そんなんじゃない。


 私は、満身創痍で立ち尽くす彼へ、ゆっくりと近づく。


「戦いは終わった。結社は滅んだ。でも、光司郎はまだ戦いの中にいる。自分を許せず、今もずっと彷徨っている。それが正しいと思おうとしてる。怖いから」


 結社との闘争の最中であれば、考える余裕もなかったこと。改造された人を殺める行為の重さ。己が行いの是非。闘争を続けていれば、考えないでいられた。だから、闘争の終わりを認められなかった。結社残党と戦い続け、それ以外の全てを蔑ろにした。向き合うのが怖かったから。


 唯一、彼の闘争に終わりがあるとすれば。結社に立ち向かった彼の胸にあったのは使命感。そして今、その使命感が歪みとなり彼を縛り付けている。人倫に仇為す改造人間を倒すという彼の信念が、彼という改造人間を許さないでいる。最も罪深き改造人間『デビルマスク』が潰えることによって終わりを迎えられると、彼は己にそう定めていた。それ以外の未来から目を逸らして。


「でも、未来を変えることを恐れる必要なんかない。最初は一歩踏み出すだけでいい。貴方は、本当はそれをもう出来ているはずです。手を伸ばせば届くはずです」


 がくりと。体を支えきれずに膝を折ったデビルマスク。私と視線の高さが重なる。もう、難なく触れられる距離。


「本当は、生きたいって気持ちだってある。楽しいとか、美味しいとか、嬉しいとか。幸福になりたいって、そういう気持ちは光司郎にもあるって、私にはわかってる」


 私は知っている。彼が、私との生活の中に於いて。僅かなりとも。そういう感情を抱いていてくれたことを。

 手を伸ばす。包み込むように抱擁する。私は、私が纏っていた触手を分離させた。その方が、気持ちが伝わると思ったから。ざらざらした、彼のボディスーツの感触。熱い。


「気持ちに素直に、それに従ったっていいんです。改造人間が幸せになって、何が悪いんですか。だから、そういう気持ち、これからも、私が教えてあげます」


 デビルマスクの頭骨が、蒸発するように消え失せ、血の色のボディスーツは、いつものジャケットとジーパンへと回帰する。彼の変身が解ける。肌が触れ合う。


「光司郎が、未来が怖いというのなら……私が道標になってあげます」


 糸の切れたように、彼は私に体重を預けた。




 夕日に染まる世界。紅蓮が眩しい。一日が終わる。終えられる。


 冴え渡っていた感覚が失われているのが分かる。たぶん、金に染まっていた私の眼も今は黒く戻っているだろう。今現在、普段以上に直感を司る脳の部分が働いていないものと思われた。私が活動限界を迎え倒れた直後と同じ感じだ。


 私の膝にて目を閉じる光司郎。その息は荒い。そして熱い。これもまた、私が倒れた直後と同じ症状。

 私は横目で、クラゲから人間へと復帰を果たすクラーレを眺めた。いくらか、窶れている気がしないでもない。半分くらい触手なくなっちゃったからなあ。


「クラーレ。お願いします。みどりにしたときみたいに、彼に薬を飲ませてください」


 私は一切の何気もなく頼んだ。当然だ。私と彼女は、光司郎を生存させる目的の下に協力していたのだから。今更をそこを疑うことはあり得ない。だから、彼女の紡いだ言葉は、私を放心させるに充分だった。


「気に入らないんだ」

「……え?」


 割れた眼鏡、目付きの冷淡さを隠す役割を果たさなくなったレンズ、その向こう。濁った瞳が不機嫌そうに睨めつけた。


「出来すぎている」

「で、でき……?」


私は鸚鵡返しさえ能わず。直感のない私には、彼女が何を言いたいのか、まるで分からない。そして、不安が湧き上がる。彼の治療に際して突如立ちこめた暗雲に。


 クラーレは乱れた白髪を手櫛で直し、雨水に濡れながらもなんとか見れるレベルまで整えて、その間ずっと言葉を溜めて、それから言った。


「何もかもが、君の通した筋道の通りに運んでいる気がしてならなくてね」


 出来すぎている、と再度クラーレは言った。口を尖らせた表情で。


「みどり、あの三人組、そして僕の協力を取り付け。薄氷の上で踊るかのような綱渡りを繰り返しておいて。そのくせ致命的な代価を費やすこともなく。ごうつくにも全てを総取りする」


はっきり言って、まるで想定外の物言いだった。なんだ。何が言いたいんだ。なんで今そんなことを言うんだ。


「……そんなこと」

「それを出来かねないのが君という存在だよ」


彼女は目線を下げ、光司郎を眺めた。


「君は、デビルマスクを畏れていたね。それと似たような気持ち、といえば理解が早いかな」


畏れ? 確かに、そういう種々の気持ちがなかったとは言わないが……。クラーレが、私に? 畏れを?


「君にその意識はないかもしれないね。でも、無意識のうちにでも、数ある筋道の中から、この組み合わせを、順列を、選択肢を選び取っていたと考えれば。穿った見方をすれば、辻褄が合ってしまう」

「なんなんです」

「この僕が、掌で踊らされ、使いっ走りみたいなことをさせられるなんてね。乗せられて、体まで明け渡してしまうなんてね」

「何が言いたいんですか……?」


私が尋ねれば、我が意を得たりとでも言わんばかりに表情を一変させた。


「ふふ。だから、ここは一つ、溜飲を下げるためにも協力して貰えないかい? ミライ」


その表情は、さながら悪戯に成功した童のようだと、私は思った。直感がないのに、嫌な予感がした。


「……なにを」

「薬は、君が飲ませるといいよ」


クラーレは、何処からともなく試験管を取り出した。白い薬液が入っているが、これが薬と見ていいのだろう。というか、何処にしまってたんだ?


「……どうやって」

「支えといてあげるから」


そう。光司郎は、支えが必要なように意識のない状態だ。そんな人に、どうやって薬を飲ませるんだ。


「……」

「今は、直感を使えないのかもしれないけど……僕の言いたいこと、わかってくれるだろう?」


つまり。


「皆まで言わせないでおくれよ。口移しだよ。マウス・トゥ・マウス」


 つまり、クラーレは。私が光司郎と、く、唇を交わすところが、見たいのだろう。


 ……ばかじゃないの。こんな状況ですよ。人の命が掛かっているんですけど。


「そうだね。一刻も早く薬を飲ませてあげないとね」


 にんまり口の端を歪めるクラーレ。ああ、そうだった。この人マッドだった。倫理を説いても素通りするに違いない。マッドに倫理。釈迦に説法、馬の耳に念仏に並ぶことわざ誕生の瞬間だ。


「な、なんでそんな。他にもっと、方法はあるじゃないですか」


例えば注射とか、あ、あとは吸引薬とかさ。


「僕がそうして欲しいからだよ」


オブラートに包む気配もない。オブラートだよ? お薬に使うやつ。仮にも医療従事者でしょう貴女、恥ずかしくないんですか貴女。


「言っただろう。それではいつか足元掬われると……ついさっき」

「伏線回収が早すぎる」

「だってさあ。考えてもみなよ」


覚えの悪い人に説教するみたいな雰囲気を醸し、つらつらと語る。


「僕は触手だけならともかく、車も、ついでに勤務先の駐車場も壊されてるんだよ? アンキ君も昏倒した。蟻人華はいくらか蟻を失っただろう。それと、先程繋いだ際に読んだから分かるけど、エレファッツは健気にも本日欠勤したらしいね。イーちゃんはご飯抜き。カイメンシータは言わずもがな。……君ばかり、いい思いしてないかい?」

「ああ、もう!」


話が長い。本当に間に合わなくなったらどうする。今も光司郎は苦しそうにしているのに。だが……その非難は、彼女でなく私にも仇となるわけで。


「わかりました! わかりましたから! すいませんでした!」


 ああ、ああ。なんということだ。私は、私の能力は、無自覚のうちにもそんな選択肢を選んで、皆に負担を押しつけていたのか。いやまさか、クラーレの言うこと全てが正しいと信じる根拠はなく、私も詭弁だとは思うが、しかしながら否定する材料がない。そして、事実はどうあれ、クラーレがそういうふうに思ってしまっていること、これがよくないのだ。彼女への説得を叶わせる方策が見当たらないこと、これがよくないのだ。


 少しばかり乱暴に試験管をひったくる。軽く揺すってみれば、なんだか……白く、どろっとしている。生理的嫌悪感は、神経接続までした手前、今更ではあるが。


 夕日に照らされる光司郎。前述の通り息は荒く、頬も紅潮している。先程までの雨のせいで水に滴っている。閉じられていた睫。長い睫が、震えていた。少しずつ、瞼が開かれていく。


「……う」


ああ。騒がしくしていたから起きてしまったではないか。寝ていた方がまだやりやすかったのに。


 ……いや待て。目覚めたのなら、彼に飲んで貰えばいいだけの話ではないか。そうだよ。


「そうじゃないよ。だめだよ」


クラーレが何か言っているが聞く耳持たない。私は寝ぼけ眼でぼんやりしている光司郎に向け、試験管を差し出す。


「よかった、光司郎。これ飲んでください。楽になりますよ」

「……」


彼は目の前の試験管を眺め、状況を把握するかのように数秒停止してから。逃げるようにそっぽを向いた。


「なんでですか!」


今更嫌がる場面じゃないでしょう。さっき、いい感じに説得されてくれたんじゃないんですか!


「いや……しかし、だって、そいつは」


動かすのもしんどいはずの体を捩って、私の腕から逃れようとする光司郎。まだ、戦い足りないというのか、この男は。そんなの、もう勘弁願う。


「……光司郎。貴方に伝えておくべきお話があります」


眉間に皺を寄せて、光司郎は目線を私に向けた。その瞳の表面には、鏡像となって反転した、夕日に染められた草臥れた感じの少女が映っている。


「私の本名は咲花肇。貴方より一回りほど年上の……男、です」

「……なに?」


分かりやすく、ぽかんとした間抜け面。男前が台無しだ。


「ですから、これは純然たる医療行為であって、けして他に他意はないのであって……光司郎が素直に薬を飲んでくれないせいであって……。なので……あしからず」


 私がぶつぶつ唱えれば、聞いていたクラーレが、うふ、ふふふ! と、にやにやした笑みを隠し切れずにいた。光司郎を抱き起こし、その背中に回るクラーレ。きっと、特等席だとか思ってるんだろう。後でひっぱたいてやろうか。


 化けの皮を現した私を、光司郎は信じられないと言わんばかりに凝視する。気持ちは分からなくもないが……やりづらい。


「……目を閉じてください」

「ま、待て。一度落ち着かないか」

「いいから閉じて」


返事は聞かず、私はぐいっと試験管を呷るとぎゅっと目を閉じ、その顔を両の掌でしっかり掴み、そっと、……唇を。寄せた。

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