8 光司郎とミライ②
二話同時投稿となっていますのでご注意ください
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決戦の火蓋は、存外静かに落とされた。触手の一本が、自らをチューブと化したかの如く収縮し、先端の孔から体液を発射する。孔には溝が螺旋を画いており、それに従い回転を加えられた体液、もとい薬液はライフリングを得た弾丸と化す。一直線に隻角の頭蓋骨へと飛翔する弾丸は、しかし到達する直前で目標を見失った。
「さすがに彼は、こんな不意打ちは効いてくれないね」
クラーレが斜め上を見上げる。私がその視線を追えば、そこには大穴の壁面にひっつく彼が。膝を屈めてしゃがみ込むような姿勢だ、九十度横向きでさえなければ。
壁に張り付く蜘蛛を想起させる。一瞬のうちに加速、跳躍し、その行方を見失ってしまう部分を含めて。しかし、虫とは比較にもならない彼の体重は、その片腕で壁面に覗く岩を掴むことで支えられていた。岩に指がめり込んでいる。
クラーレが次いで二発、三発と弾丸を放つ。その狙いはひどく正確だけれども、しかし、地面と壁の別幕なしに跳び回る彼の姿は捉えられない。薬液に晒された岩肌がじゅう、と煙を上げた。
「あれ、当たって大丈夫な薬なんですか」
「彼なら問題ないよ。間違いなくね」
断言するからにはそうなのだろう。私が触れた場合はどうにかなりそうなので、余計な挙動はしないで大人しく背負われておくと心に決める。
弾丸の雨をかいくぐり、体勢を低くして穴底に着地したデビルマスク。余りの高速移動に目が追いつかず、焦点さえ合わせる暇もない。それでも、直感が鳴らす警鐘を頼りにクラーレに告げる。
「投擲が来ます!」
「見ればわかるよ」
デビルマスクは、ただ体勢を低くしていたわけではなかった。彼の足元に転がっていた瓦礫、コンクリート片のその突端。後ろ手に掴み、地面から引っこ抜いた彼自身ほどもあるそれを、引っこ抜いた勢いのままに下手でこちらへ投げ飛ばす。
私は、一瞬気を飛ばしかけた。突如体に掛かる、強大な重力。クラーレが、跳躍したのだ。エレベーターのGを何百倍も強くしたようなそれ。体内の血液が偏り、貧血のような心持ち。だが。この感覚だって、今が初めてではない。白黒に減色する視界の中、ぎりぎり意識を留めたのは幸いと言える。
「ミライ。ミライ!」
「っ、あ、あい」
「口開けて」
私は素直に、伸びてくる触手を受け容れた。得体の知れない薬液が、私の喉を下っていく。……苦い。あと生臭い。なんだこれ。人間の飲んでいいやつ?
「ステロイド。あと気付け薬とか、色々」
ステロイド? 気付け薬はわかるが……。ステロイドというと、つまりはドーピングというやつだろうか。お荷物の私を強化しても意味はないと思うのだが。
「詳しくは省くけど。筋力増強剤によって最も強化が期待できる身体機能は、眼筋の能力向上による動体視力」
君の力が必要になりそうだからね、と言葉を続けるクラーレには、先程までの余裕はなさそうだった。
「覚醒剤を混ぜるか迷ったけど。君の脳に悪影響が出ないとも限らないからね、安心しなよ」
「言わなきゃもっと安心できたのですがっ」
クラーレが再び跳躍。しかし、先程よりは酷くない。彼女が加減しているのか、薬の効能か、どちらもか。次いで、ごう、と風の切る音。クラーレが一瞬前までいた場所には、大きな鉄骨が踊っていた。
デビルマスクが片手で持ち上げるは、地の底に埋まっていたであろう鉄骨。彼の身の丈の、優に三倍はある。建材に握り手など勿論存在しないが、彼はその握力を以て鉄をひしゃげさせ、握った箇所を己の手の形に変形させていた。重機よりも軽々しく、重々しい物体を振り回すその膂力。
「予想以上だね……!」
接近を嫌うクラーレは、迫り来る彼から距離を取り続ける。時折牽制に薬液の弾丸を撃ち出すけれども、容易く鉄骨により防がれる。あの大質量を介せば、デビルマスクがクラーレの薬液に触れずに致命打を与えることは十分可能だろう。
「いつだって彼は僕の想定を超えてくる。これが死に体の改造人間の力かい!」
私の心境を、クラーレが代弁してくれた。私は彼を死なせないが為にこうして戦っているものの、現実として、彼がいくらか衰弱しているものと勘定していた。それはクラーレとて同じだったろう。
しかし、実際はどうだ。振ったり突いたり切り払ったり、まるで棒切れのように鉄塊を操る彼を見れは、とてもそうは思えない。元気なのはいいことだが、些か元気が良すぎる。そして……その元気の良さは、彼の残り時間を削った上での産物である。
攻め続けるデビルマスク、逃げ続けるクラーレ。次第に、彼の動きが彼女を追い詰めていく。運動性は、デビルマスクの方が上だ。私は、しかし黙っていた。クラーレの算段を分かっていたから。
振り下ろされた鉄骨が、初めてクラーレを捉えた。その暴の力から胴体を守るために、右腕を犠牲にして受け止める、そんな体勢だった。右腕を構成していた触手が、衝撃に弾け飛んだ。
同時に、霧状の体液が辺り一面を包む。これは、神経ガス。一息吸い込めば行動不能は免れまい、そういう毒。私のように、予めキレート中和剤を飲まされていない限りは。
「……全く、嫌になるね。勘が良くて、その上頑丈だ」
デビルマスクは、ガスが放出された瞬間に鉄骨を放棄、即時離脱を図った。きっと一呼吸も己に許していなかったに違いない。しかし、それでも、私は確かに見た。彼の体表に、ガスが曝露するのを。主要な侵入経路は呼吸器であるものの、皮膚からも吸収されるはずのガスを浴びて、彼が平気でいられるのは、もうそういう生き物だからと言うより他にない。
開いた距離を、一歩一歩詰めてくる彼の姿は、今なお変わらず鬼神。
比して、こちらは右腕を失った。再生する様子もない。クラーレもまた不定形タイプ故に、後で時間をかければどうとでもなるだろうが、この戦闘中に失われた触手を生やすことは難しいと窺えた。
「ミライ。どう思う?」
クラーレが問う。曖昧な言葉だが、私は自分なりに解釈して答える。
「彼は、クラーレの四肢を狙っているようです。クラーレを行動の余地を削いで、私諸共この穴の底に置き去りにする心づもりのようです」
「そうか、そうか。この墓場で朽ちていく、なんて口を叩いていたというのに」
クラーレは短く笑った。彼女も、戦いに高揚しているらしい。お近づきになりたくない怖い笑顔だが、この局面に於いては頼もしくもある。私は力を貰って、声を張って、歩み来る彼に突きつける。
「光司郎。貴方は、私も、私を生き長らえさせられるクラーレも殺したくない。そうですね?」
びちゃ、ぐしゃと、雨に濡れた足音が近づいてくる。奇しくも、業火に巻かれた結社にて私が彼と相対した折と似た構図であった。一つ違うのは、今回は私が彼に立ち向かう気でいること。
「……だからなんだ。必要とあれば、その限りではない」
「嘘ですね」
私に、そんな見え見えの嘘が通用するものか。
「貴方は、人を殺せるような人ではない」
一定の感覚で続いていた彼の歩みが、止まった。
「馬鹿な。俺は、何十人と殺した」
押し殺したような声だった。激情にも等しき後悔の渦。そんなものを私は受け取った。
「それなら、私だって似たようなものです」
「……何だと?」
睨めつける彼の目線を、私は真正面から視線をぶつけ返す。
「貴方が殴り込みをかけたXデー。私はそれを予知していて、その上で何もしなかったからです」
危険の察知に無類の能力を発揮する超直感。それを備えた私が、結社に降りかかる災いを知り得なかったはずがないだろう。知っていた上で。
「あそこに身を置いていた人たちを見殺しにしたのは、私です」
今でも思い出せる。夢にだって幾度となく見た。彼と再会することになるその日の朝にだって。燈色に照らされる無機質な床、倒れ伏した人の群れ。
「違う。そいつらを殺したのは俺だ。俺がやった」
「違いません。そして……全く私の責任というわけでもない。私にそうさせたのは、結社の者たちです」
無機質な部屋で人としての自由を奪われ、未来予測のための装置と化す。そんな生命機構を維持しているだけの生き方に嫌気がさして、私はどうにでもなれという諦観の底にいた。全部壊れてくれればいいと、消極的な破滅願望が、私にそうさせた。
「私は生きます。清濁併せ呑んで……そして、貴方にもそうして貰いたいと思っている。だって、貴方も私も同じ穴の狢なのに、私だけ生きていては収まりが悪いじゃないですか」
「……」
自己欺瞞でもいい。私は、生きたいと思って結社崩壊の引き金を引いたし、生きたいと思って清廉でない身ながらも生きている。そこに後ろ暗さはあっても、躊躇いはない。
「翻って、光司郎。貴方だって、そうなんじゃないんですか? 確かに貴方は、直接人を殺めてしまったかもしれない。でも、悪いのは、本当に貴方だったんですか? そこに納得はなかったんですか?」
彼の本当の姿を、私は少なくとも彼より知っている。沈黙が、彼の心の揺らぎを雄弁に語る。
「貴方は何故、何のために戦ったのですか?」
「……復讐のためだ。俺の人としての生を奪った者たちへの。そしてそれは完遂された。もう何もない」
「嘘です」
「……何を」
「貴方が立ち上がったのは、貴方を支えていたのは、使命感だ。復讐心じゃない」
復讐なんて質ではない。確かにそれもあったのかもしれないが、けしてそれだけではない。殺し殺されだけが彼の全てではない。
仮にそうであるのなら。……彼がみどりの口から毒婦の生存を知ったとき、因縁と口にしていた。そこに嘘も間違いもないだろう。結果を見れば、クラーレは光司郎を『裏切りの改造人間』デビルマスクへと堕とした。その毒婦を、私の生存を優先して生かそうなどと選択するはずがない。クラーレを殺さず私を生かそうとする。その事実が、彼の復讐よりも使命が勝ったという表れなのだ。そう、彼の使命は、人を助けるためにあった。
「それでも……! 使命にしたって、同じことだ。俺の役割は終わった」
「改造人間だって、人間です。人としての生だって残されています」
「詭弁だ」
切って捨てる彼。だが、新たに踏み出せずにいるその足は、さながら彼の心情を示す。
「ただの人殺しなんかじゃない。貴方は違うはずです」
「違うものか」
「貴方は誰にも出来ないことをやったんです。それを、単なる人殺しと揶揄するなどと。そんなの、貴方の本質じゃない」
断じてみせれば、彼はいよいよ狼狽と憤慨を綯い交ぜにした。
「っ、他人でしかないお前が何を」
「他人じゃない。私にとって貴方は、私を二度も助けたヒーローだ。それを貶めるなんて、例え貴方自身でも許さない」
――ああ。そうか。自分で口にして、ようやく分かった気がする。受け止められた気がする。さっき言った、同じ穴の狢である光司郎に生きていて貰いたいなんてのは、建前だ。私は、光司郎のことが、どうにも……気に入ってしまっているんだ。
言葉を忘れ立ち尽くす彼に、私は宣言する。
「光司郎。貴方は、放っておけない。貴方が勝手に私を助けたように、私も勝手にします」
単なる居候先なんかじゃない。ただの結社の改造人間、コードネーム『デビルマスク』じゃない。善なる改造人間、弥彦光司郎……というのも充分ではない。彼は。見ず知らずの私に薬を与えられる、善に溢れた恩人であり。結社に囚われていた私を救い出した、強きヒーローなのだ。
彼の強さや恐ろしさに由来する先入観が、私の認識を。私自身向き合わないようにしていた罪の意識が、私が深く思考することを。私の性別と彼の性別とかそういった諸々の要素が、私が彼と向き合う気持ちを。妨げた、誤魔化した、濁らせた、逸らさせた。でも……蒙は晴れた。私は、人として、彼が好きなのだ。好ましく、尊く、素晴らしく感じているのだ。だからこそ……。
「ミライ……お前は……」
こちらへ顔を向けていたデビルマスクがたじろぐ。その様子がいやに気にかかって、私は視線を吸われるように、足元の水溜まりを覗いた。こんな局面で呑気な行動だが、しかしそうすべきだと思った。雨粒に揺れる水面。底に映った己の姿はまるで判然としないが、何か変だというのが分かった。何かが……。
「ミライ。鏡のない君に教えておくとね。君の瞳が金に輝いているよ」
ずっと黙していたクラーレが、そう助け船を出した。ああ、なるほど。輝く瞳。言葉にすれば珍奇さが拭えず滑稽ですらあるが、不思議と得心がいった。
「それが君の変身。真なる力……いや、更なる力、ということになるのかもしれないね」
わかる。何もかもがわかる。これまではわかっていなかったのがわかる。これは、クラーレの言っていた、本来想定されていた『ミライ』の感じ得る世界以上の世界だとわかる。ミライの名を冠した改造人間の真価がわかる。




