6 居候少女ミライの長い一日③
二話同時投稿となっていますのでご注意ください
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峠をいくつか越えたそこに、村があった。包み隠さず言えば、辺鄙な集落だ。山峡のちょっとした台地に民家が寄り添って形成されている。人口は百に満たないであろう。
そんな集落の、小さな家並みの一つ。他と比べると、少しばかり小綺麗な建物。しかしながら、悪の秘密結社の幹部が身を置くにしては、余りにも小さくみすぼらしい。
「こ、ここでいいんすか?」
「人違いとかじゃないんだよね? ミライくん」
「は、はい。おそらく」
私たちは建物の表看板の前に立ち尽くして、ひそひそ言葉を交わした。看板に踊る文字列は、奥玉内科医院。二階建てで、一階部分の診療所に、居住空間の二階部分がくっついているふうな建物だ。全く以て、ごくふつうの町医者や村医者という感じの風情があった。ここにいるのだろうか。直感を信じるならばそうなのだけれど。どうにも不安が拭えない。
「ともかく、入ってみれば分かる」
「あっ、待って」
ただ、その不安は、奇しくも有華の行動によってすぐに拭われることになる。表看板を通り過ぎ、駐車場に足を踏み入れた有華の足元が、破裂した。コンクリートの地面にソフトボール大の穴が空き、破片が辺りに散らばった。有華の足は……よかった。無事だ。
何が起きたのかを私たちが把握する間もなく。虚空に響く声があった。
「招かれざる客人たち。何用で参った」
それは、男のものか女のものか判別のつかない、遠いような近いような定かでない、出所のはっきりしない、不確かな声であった。前後左右上下、どこから語りかけているのか、それさえも判別がつかない。なんとなく分かるのは、声は問い掛ける体を取っているけれども、そこには敵意が含まれているということ。私たち四人は自然、身を寄せ合う形になった。まだ閉じられてもいない傘を道の脇に打ち棄てる。
「有華たちが、診療を受けに来た、お客様だと言ったら?」
「笑わせるな。貴様らは改造人間であろうが。……ここは我が主の居城。主の平穏を乱すものは、何人たりとて通せぬ」
「な、なんなんすかいきなり! ぼ、ぼくらはただ、ちょっと毒婦に頼み事があって……!」
「斯様な事情は知らぬ。我が主は暇ではない。疾く去れ」
「ま、待ってくれないか。ここはひとつ穏便にだねえ」
「仰々しい話しぶり。キャラ付け? だったら、やめた方がいい」
「何だと?」
「有華くん、思ってても言っちゃだめだよ!」
あるじ。察するに、この声の主人が毒婦なのだろうが……。ともかく、対話の糸口が掴めない。姿さえ見せない向こうにはその気が全くない。
不毛な会話の応酬。その最中、私の脳裏に一つ電流が走った。空を見上げる。鈍色の空に電信柱から伸びる黒い横線が数本走り、そのうちの一本にカラスが一羽留まっていた。――あいつだ。じっと見下ろすばかりで口を開くこともしないが……今会話しているのは、あいつだと思った。
私の視線の先、それを察したのか、有華が小さく「行って」と私に耳打ちした。
「で、ですが」
「このままじゃ平行線、話はつかない。なんとかするから。仁」
「っす。ミ、ミライちゃん、お菓子持ってて」
有華と視線を交わした仁が、私に菓子折を抱えさせ、その私の腹に腕を回して抱き上げた。踏ん張る暇もなく足が浮く。
「おい。貴様ら、何を」
カラスの問い掛けに対し、有華は一歩大きく踏み出すことで答えとした。瞬間、カラスが大きく口を開けて。それは放たれた。何かが風を切った。有華の上半身が弾け飛んだ。
「有華くん!」
いつもの温厚さが消えたその声を、正蔵のものと認識するのに私は数瞬必要とした。有華を庇うようにして前に歩み出た正蔵は、瞬く間にその体積を増やす。上にも、横にも。世の法則など知ったことかと、質量そのものを増やす。肥大化した足は丸太のようになって大地を踏みしめ、その重さに耐えきれずにコンクリートが罅を入れて陥没する。体高は見上げるばかりとなり、周囲の建物に勝るとも劣らず。その肌は空の灰色よりも濃い灰色で、ひどく分厚いのが容易に見て取れた。耳が肥大化し、鼻は殊更肥大化し、伸長する。その偉容はさながら、二足歩行に進化した動物の象のようであった。
「貴様! ……『エレファッツ』か」
「ご存じだったか。じゃあこれも知ってるかな。こうなってはおじさん、優しくないよ」
「斯様な街中で、力を振るうつもりか。脳まで脂肪になっているのか?」
「それは、こっちの台詞。でも、問題なし」
答えたのは有華の声だった。既に上半身が崩れた有華だが、どういうわけか声を発している。さらに、残っていた下半身までもが風に吹かれ崩れる砂城のように削れていく。代わりに、周囲一帯が帳に包まれたかの如く暗くなる。それは、蟻の帳。大量の羽蟻が所狭しと飛び回っている。砂嵐の中心に居るような、そんな有様。どこからともなく、有華の声が届く。
「『蟻人華』め。面妖な」
「周囲一帯、人は近づけさせないから。存分に。正蔵」
「ありがとう、有華くん」
その体躯を遙か増大させた正蔵の腕は、電線の上にまで容易に届く。カラスは伸びてきた腕を回避するため、飛び上がらざるを得ない。バチン、と、電線から正蔵の体表を通じて地面へと通電し発光、一瞬ばかり目が眩む。激しいエネルギーを伴う破裂音が聞こえたが、しかし正蔵はまるで意に介していなかった。
「い、行くよ、ミライちゃん」
私を抱えた仁は、正蔵の影に隠れるようにして駐車場を駆け抜ける。ここまで事態が発展してしまっては、私に否はない。私はせめて、残される彼らの助けになるように言葉を残す。
「そのカラスは、音波を操ります! 喉の動きに気をつけてください!」
出所の掴めない声も、地面に穴を開けたのも、有華の上半身を吹き飛ばしたのも。改造されたカラスの声帯が、音の波を収束させて振動させた結果であった。これを知っておけば、立ち回りがぐっと有利になるはずだ。
「わかったよ」
「っく、おのれ!」
背後に聞こえる怨嗟に、仁は応じない。診療所までの距離は元々大したものでもなく、瞬く間に入り口まで辿り着く。その勢いのまま、仁は扉を押し開けた。
そこに広がっていたのは。たしかに、カラスの言っていた通り間違いなく、毒婦の居城であるはず、なのだが。傘置きがあって、靴置きがあって、キャスター付きのハンガーラックがあって、長椅子があって、ちょっとした本棚があって、受付があって。……要するに、一般的な診療待合室が広がっていた。私たち以外の人影は見つからない。
「……」
「……こ、ここからどうしよう、ミライちゃん」
う、ううん。勢いで来てしまったものの、私も決めかねているのだが。ともかく……受付に置いてある呼び鈴を鳴らしてみよう。そうしよう。ちりーん、と、金属の打ち合う軽い音が響いた。同時に、外から何かが崩れ落ちるような轟音が建物の中にも届いた。派手にやっている。こっちも急がないと。
「はーい」
かす、かす、と。リノリウムの床をスリッパが擦る音が近づいてきた。程なくして、受付の向こうにナース服の女が姿を現す。茶色の髪の、眼鏡を掛けた看護師といった風貌。ごくふつうの、看護師。――では、ない。これは。
私が口を開く前に、隣の仁が思わずといった様子で声をあげた。
「ど、毒婦……!」
そして、言うが早いか、仁が、膝からがくりと崩れ落ちた。
「……え?」
私は、隣の仁を見遣る。受け身を取ることもなく頽れた彼は、瞼を半分ほど開けたまま、何処を見ているふうもなく、口を半開きにして倒れ伏している。
「……仁、さん?」
呼びかけに、反応する素振りもない。
「いきなり人を毒婦呼ばわりなんて、人としての礼儀に欠けているんじゃないのかな」
冷淡という形容句は、彼女のこの声色を指すのだろう。背中に氷柱を突っ込まれたかのような感覚を、私は身を以て実感した。
「おやおや。よくよく見れば、アンキ君じゃないか。暗殺用に造られた君が、白昼堂々姿を見せてどうしたんだい。僕を殺しに来たのかな。まさかね」
受付の向こうから覗き込み、倒れ伏した仁を見下ろして呟く。その声に感情は伴われてはいない。虫を眺めるような、そんな目と声をしていた。女、毒婦は、動かなくなった仁から視線を私へと移し、無表情のまま首を傾げた。
「っと、君は……」
「おおーい。クラーレくん。なにか物音が聞こえたけど、どうしたのかね」
受付の更に奥から、嗄れた男の声が届いた。この場にあって、それはそれは呑気な声だった。
「あっ、大丈夫です先生、なんでもないでーす」
……? ううん? 今の声は……目の前のこの女が出したのか? なんというか、とても愛嬌というか愛想に塗れた声だった。目の前で起きた現象なのに、俄には信じられないくらい。
「それで君は……そう、ミライ君だ。うん、すっきりした。すっきりついでに、出来ればそこに転がっているアンキ君を持ち帰って消えて欲しいところだけど。そうもいかないんだろう?」
「っ、は、はい」
どうやら私も顔を知られているらしい。然もありなん、彼女はそういう立場にいた人物だ。冷静になれ。冷静に直感を働かせなければ、彼女と交渉の場に立つのは困難を極めるだろう。
仁は一瞬で無力化された。だが、死んではいない、きっと。私だって、今なお五体満足でいる。であるからには、彼女はこちらの話を聞く意思はあるらしい。少なくとも、問答無用に殺されることはないはずだ。よく考えろ。ここで私がとるべき、最善の行動。それは。
「あの、これ。まずはお近づきの印にと、ご用意したものです……」
「ふうん?」
携えていた紙袋から駅で購入した銘菓を差し出す。彼女は警戒を隠そうともせず一通り貢ぎ物を検分し、それからようやく受け取った。
「おやまあ、これはこれは」
次いで、一見缶ジュースにようにも見える、高カロリー経口栄養剤を。
「どうもありがとう」
最後に市販のブドウ糖ブロックを。彼女は口の端を吊り上げて受け取ってくれた。笑うとけっこう……いや、かなりの美女かもしれない。
私が安堵のため息を漏らしていると、彼女の方から問い掛けてきた。
「ところで……外が騒がしいけれど、そちらの差し金かい?」
「あ……そ、そうとも言いますか、違うとも言いますか……。あの、そちらのカラスが襲ってきたもので、私の連れが応戦状態になってしまっていて」
「……本当かい?」
問い掛けに、私が恐る恐る頷けば、彼女は受付の奥の勝手口から外へとすっ飛んでいった。「あー!」という、絹を裂くような悲鳴ののち、すぐに「イーちゃん! やめたまえ!」と。甲高い怒号が聞こえて、それから、たちまち静かになった。……あのカラス、イーちゃんっていうのか。
ふと見遣れば、待合室の窓から覗く駐車場は、穴ぼこになっていた。あ。停めてあった軽の窓ガラスが割れていた。毒婦の車かな……。
「手短に話して貰おうかな。僕は暇じゃないからね」
「は、はい」
ぱらぱらと雨の続く中、診療所の庇の下、私と白衣の女は玄関ポーチに腰掛けて並んでいた。整然としていた駐車場は見る影もなく、銃撃戦の跡地の如き様相を呈していて、そこで先程まで争い合っていたやつらが今は雨に濡れながらひとまずの片付けを行っていた。重たい瓦礫を正蔵が、高所をイーちゃんが、細々した屑物を蟻たちがせっせと運んでいる。みな、毒婦に怒られたせいか、心なしか肩が沈んでいるふうにも見えた。怒らせないようにしないとという気持ちを私は新たにした。
ちなみに仁はというと、彼は神経性の毒で自由を奪われたらしく、しばらくは指も動かせないが、そのうち毒も薄れて動けるようになるだろうとのこと。今は診療所の片隅で、有華の膝枕を受けて眠っている。膝枕というか、膝だけ枕というか、膝の切り身というか。有華を構成する大部分の蟻は片付けに出払っているので……。起きたらさぞかし驚くだろうな。まあ、それはいいや。
「まず……なんとお呼びしたらいいのか、お伺いしても?」
「クラーレと呼んでくれていいよ。さすがに、毒婦じゃあ差し障りがありすぎるからね」
「あはは……」
出会い頭に毒婦と口にした仁の末路が頭に過ぎって、私は乾いた愛想笑いを漏らした。コードネームの『毒婦』ではあるけれど、一般的な意味では罵倒語彙でしかない。
私は駐車場の改修作業を見守るクラーレの横顔をちらと盗み見る。緩くウェーブがかった茶色の髪、整った面立ち。理知的な眼鏡と、その奥の昏い瞳。眼鏡は強い度が入っていて向こう側が歪んでいるのが近くで見れば分かるが、却ってその歪みが昏い瞳の一方ならぬ冷たさを隠しているようでもあった。
私は直感で見定める。彼女は必要とあれば今すぐでも私を消してしまえる精神性を秘めているけれど、その一方で対話に差し支えない論理的思考も持ち合わせている。
「その、単刀直入に言います。……クラーレには、その力で、私たちを助けて欲しいんです」
「ま、そうだろうね。コードネーム『ミライ』が僕を訪ね来たというのであれば、そう推測せざるを得ない」
私の超直感は彼女に知れている。薬を求める私が、その能力を頼りに、薬を精製し調達できる彼女のもとに辿り着いたという筋書きは、クラーレにはお見通しであるようだ。
「ミライ、正直言って僕は既に君が死んだものと思っていたよ。運良く結社の崩落を免れて逃げ延びていたとしてもね」
クラーレは淡々とした語り口で述べる。
「ちゃんとした名称は付けていなかったんだけどね。僕たち改造人間には、生存の上で欠かせない分泌物……そうだね。便宜上、改造人間ホルモンとでも呼ぼうか。中脳の一部を変質させて、それを分泌できるようにするんだ。君のような、能力に脳を行使する一部の改造人間を除いてはね」
淡々と、しかし明瞭に。己の研究成果の一端を披露する彼女は、やはり研究者然としていた。
「改造人間としての力を行使するだけ、フィードバックを受けた中脳はホルモンの分泌を促される。身体維持には欠かせないからね。逆に言えば、力の行使を抑えればホルモンだって少量で済むけれど。……ミライ。君が仮に能力の行使を抑えて暮らしたとて、半年も正常動作で生き長らえているとは、予想もしていなかったことだよ。今も健康体のようだし、中々興味深い。是非ともデータ取りしたいところではあるけれど」
「こちらには、貴女に供出できる物がほとんどありません。ですから、データ取りに協力するのも吝かではありませんが、でも今は」
長い口上に、私は焦れて口早に言葉を挟むが、クラーレは至って平坦な語調を崩さなかった。
「ふうん。急ぎかい? そうは見えないけど」
「……実を言うと、私は一度それで倒れています。たまたま薬を持っていた改造人間が、私を助けてくれた」
へえ。と、クラーレは感心したふうな台詞をつまらなそうに呟いた。
「結社には備蓄もあったから、そこから持ち出したのかな。あの三人のうち誰かは分からないけど、手癖が悪いなと感心するよ。でも、いいのかい。今の問答で、僕の君に対する興味はいくらか薄れてしまったけど。僕の手を借りたい君としては、困るんじゃないのかな」
その点に関しては、心配していない。彼女と会話するうち掴めてきた。彼女の興味を引く方法。
「私に薬を与えてくれたのは、彼らではありません。デビルマスクです」
はじめて、彼女の表情が驚きに彩られた。
「彼も、まだ生きています。機能不全を起こしていますが、まだ生きています」
「……そうか、そうか。ふふ。僕に関心を抱かせる方法を熟知しているようだね。さすがの超直感と言ったところかな」
少しばかり顎を上げて、遠くの空を見るクラーレ。口の端が僅かに歪んでいた。
結社を崩壊へ導いたデビルマスク。その性能が物語るように、彼はただの改造人間とは一線を画している。研究者であったクラーレにとっても、良い感情であれ悪感情であれ、特別なはずだと私は踏んでいた。
私は更に言い募る。
「デビルマスクははっきりとは言いませんでしたが……。彼を洗脳直前に、逃走が叶うよう仕向けたのは、貴女ではないんですか」
過日、みどりを詰問した喫茶店にて、光司郎は毒婦について、浅からぬ因縁のある女だと言った。手紙には、助けられたと書いていた。私に証憑はなかったが、至極あっさりと彼女は肯定してみせた。
「君がそう思い至った時点で、答えは解っているはずさ」
やはり。驚きはなく、納得が先立つ。デビルマスクは、彼女にとってただの実験体以上の存在であることは間違いない。私は確信を以て畳みかける。
「クラーレ。貴女にとっても、デビルマスクが失われるのは本意ではないはずです。今、彼は貴女と戦える状態でもありません。どうか、力を貸してください」
そして、石造りの玄関に正座で座り直し、深く頭を下げた。いくらだろうか、数秒だろうか、一分だろうか、そうしていた。
「……ふふ。ミライ、君はよくわかっている。わかりすぎていて、それだけに、掌の上で転がされているようで気に入らなくもあるけれど」
頭の上からクラーレの声がする。その声色は変わらず平坦に感じたが。
「ま、さっき頂いたお土産に免じてあげるとしようか。個人的に、僕はミライという改造人間を気に入っているしね」
平坦の中にも愉快さを帯びていたような気がした。