5 ガールズトークと三人組と梅雨前①
現代日本において、携帯電話の人口普及率はおよそ130%らしい。割合からすれば一人に一台、ないしは二台持っているという計算になる。勿論これは統計上の話で、実際には持たない人間もいるのだろうが、それはきっとごく僅かだ。と、スマホの検索エンジンはそう教えてくれた。
私は携帯電話を契約できない。戸籍も住所もないためだ。ついでに言えば、契約ごとに際しては見た目の年齢も足りないだろう。故に、今私の手の内にあるこのスマホは私の物ではない。光司郎の私物である。私としてはありがたい話ではあるが……彼はいいのだろうか。大学で困ったりしてないだろうか。彼のいる場で借り受ける体ならまだしも、彼の外出中に私が持っているのは間違いではないか。
このスマホは二人の共用物と化しているが、さすがにプライバシーの問題もあるので、マルチユーザーシステムを利用して私用のアカウントを新たに設定して貰ってあった。よって、彼の電話帳なんかを覗き見たりは出来ない。ただまあ。彼の交友関係はまるで知れなくとも、察することは出来る……。
スマホのスピーカーがささやかにびりびり揺れる。
『うん、あたしそれで毎日電車に乗って都心まで仕事に行くんだけど、移動の時間勿体ないなーって』
「ああ……毎日となると、たしかに結構なものですよね」
『そう! 大変なの! ……や、そこまで大変でもないけど。交通費は会社支給だからそこも助かってるけど、でもやっぱりねー』
「そこからだと、一時間くらいですか?」
『うん、快速でそのぐらい』
電話の向こう側にいるのは、みどりだ。先週に命の遣り取りをした彼女とは、現在こうして他愛のない遣り取りを交わす間柄にまでなっている。随分な変わり様だと自分でも驚いているが、悪い傾向では決してない。
『ミライちゃんはいいなー。あたしも贅沢言わないから、区内で家持ちの若くて優しくて格好いい男を捕まえたいなー』
「贅沢の定義ってなんでしょうね」
私はローテーブルを拭きながら呟いた。今はお掃除中である。
「というか、「も」ってなんですか。私は確かに光司郎にお世話になっていますけど、別にそういう間柄ではありません」
『えっ』
私が事実を述べれば、みどりの当惑がひしひし伝わってきた。
「光司郎は……彼はまあ、責任感の強い男ですから、一度拾った私を捨てずに置いてくれているだけですよ」
『そうなの? 本当にそれだけかなあ』
ややもすれば「何が言いたいのだ」と問い詰めたくなりそうなみどりの台詞だが、しかし私は留まった。彼女の声色はからかうそれでなく、本当に疑問を浮かべているふうだったから。反駁する代わりに、私は話題を逸らす。
「というか、バイトでしたらなにも都内に拘らなくてもいいのでは」
『え? ああ、まーそこは会社の斡旋だから……』
ままならないものだ。私もいずれ働きたくはあるが、働きたくないなあ。
『でね、あたしね、実は最近思ってるの。半年前と違って今は貯金もあるし、そろそろ本腰入れて就活しようかなーって』
「おお。大変よろしいじゃないですか」
『やー、どうもどうも』
羨みも込めて素直に褒めてみれば、彼女は照れくさそうな声でひとしきり笑った。それからやや間を空けて、真面目な声色に切り替わる。
『……ミライちゃんや光司郎くんのおかげだよ。この前の、あれで色々吹っ切れたもの。あたし、本当に結社が潰れたかどうかは確認しようがなかったし……なんていうか、不安があって。再興の話を聞かされてからも、正直ずっと燻ってたんだけど。でも、あんなに強い光司郎くんやミライちゃんがいれば、まあ安心できるし』
みどりはしみじみとそう語った。ううん。ちょっと荷が勝ちすぎる期待だが……。件の遭遇に際しての私や光司郎の不手際も、巡り巡って彼女のためになったのなら結果オーライなのだろうか。
「そう言って貰えればありがたいです。光司郎にも、よろしく言っておきます」
『うんうん、是非ともよろしくしちゃっていいよー。頑張ってね! 応援してるよ! 同棲までは持ち込めてるんだから、これからこれから!』
……みどりの、シームレスに色恋沙汰に持っていく手腕は随一かもしれぬ。
「何をよろしくするのか問い詰めても?」
『え、そこ聞いちゃうの? ミライちゃんにはまだちょっと刺激が強いかもだよ?』
「あ、じゃあいいです」
『それで、キスくらいはした?』
「いいですと言ったでしょう。してないしませんさせません」
彼女はその実けっこう軽妙な性格をしていて、そうした一面を見せてくれるのは嬉しくもあるのだが……光司郎と私のありもしない男女関係について突ついてくるのはちょっとばかり辟易しなくもない。
思わず一つ溜息を漏らせば、向こう側に届いてしまったらしく、探りを入れられる。
『どうしたの? なにか悩み事?』
「ああ、いえ。別にそういうわけではないのですが」
『もしよかったら、なんでも言ってね。お姉さん協力しちゃうから』
お姉さん風を吹かすみどり。発端は彼女の恋愛脳なのだが……せっかくなので、私は一つ憂鬱の種を仄めかした。
「いえ、大したことではないのですが。私もお金稼ぎたいなと」
『あ-。それはあたしにはちょっと』
早い。諦めが早い。今時の若者は根性がないのか。いや、別に金の融通を期待しちゃなかったけど。
『ミライちゃん、今まではどうやって稼いでたの? ていうか、正直気になってたんだけど、ホームレス生活ってどんなだったの? あとこれ……聞いちゃっていいやつ?』
みどりが続けざまに問う。聞きたくても聞けなかったが、話題が出たのでいっそ聞いてしまおうといったふうだ。
「まあ、隠す話でもないですが」
『本当? やった』
言えば、彼女は分かりやすく喜んだ。興味の感情を隠さないでいる。私自身、納得できる部分はある。小学生女児の路上生活。その昔、ホームレスの男子中学生のお話があったが、あれよりもちょっとばかりセンセーショナルな感があるし。
「そうですね……求められれば吝かではありませんが、どこから話したものか」
『全部! 最初から!』
「……掻い摘まんでなら」
半年前の記憶を掘り返しつつ、私は語り始めた。
命辛々脱出した私が、冬支度を済ませて緑が薄くなった寂しい森の中で、雪の降りそうな空の下で野宿をした話。直感で見つけた、道端で拾った百円ライターが、その時の私の生命線だった。暖を取るため焚き火をしつつ、そこで手頃な石をたくさん焼いて、浅く掘った穴に土と一緒に埋め立てて、その上で横になる。ほかほかの地面の出来上がりだ。石の量にもよるが、三時間は寝られるぞ。
長雨の折、打ち棄てられていた車に身を隠した話。錆びきったオンボロの分際で生意気にも鍵が掛かっていたが、直感と変形させたハンガー一本でなんとかなった。車に限らず、不法投棄は私にとり恩恵だ。私が愛用する毛布やキャリーバッグも、もとは拾ったものだ。不法投棄というマイナスも、物盗りというマイナスを掛ければプラスになるのである。
一度だけ我慢が効かず、山間の農地の作物を失敬した話。人間、極限まで腹が減れば、身体が勝手に動いてしまうと知った。まさか農家の人も、目の前で泥棒……というか、食い逃げを働かれるとは思ってもみなかったのだろう、呆然としていた。我に返ってそのまま逃げた。もう人里が近いのは分かっていたので、走り抜けた。ひょっとしたら、現代に蘇った原人のように見えていたかも。
河川敷のホームレス集落の話。川沿いに下っていけばようやく街が見えたが、入ることは叶わなかった。こんな身形で歩けば、すぐに補導されるだろうと感じていた。たとえ警察であっても、生殺与奪を誰かに握られるのはもうごめんだと思っていたから、私と似たような爪弾き者がいるだろう、河川敷のホームレス集落に身を寄せることにした。私はそこでなるべく身を隠しながらも、厭世家故にホームレスに身を窶した者らに取り入った。直感通り、人嫌いの彼らは私の身の上を詮索しなかったし、私も絶対に改造人間だと露見しないよう努めた。そこでの生活は、ホームレスが未成年の少女を囲っているという通報があるまで続いた。
街へ繰り出す話。河川敷に滞在していた間、空き缶拾いや機械部品の銅線集めの手伝いなどして、私はいくらかの金を稼いだ。超直感はひた隠しにしていたので、稼ぎは微々たるものだったが……それでも、衣類にはじまる清潔用品を買い揃えるだけの金にはなった。原人少女から家出少女くらいにはレベルアップした私は、街へ繰り出しても即通報されない程度の見た目を得た。改造人間も見た目が九割。
金が超めちゃくちゃ強いという話。人の世界は金で回っている。それはつまり、人の居るところには金があるということ。街は凄かった。小銭拾いに始まり、易者の真似事をしたり、賭博の代打ちを雇ったり、成金の住む地区のゴミ捨て場で宝探しをしたり。また、いずれの手段に於いても稼ぎ場にはそれぞれ縄張りがあり、諍いを避けて私は流浪の身となった。一人でいる分には、超直感の行使も躊躇わない。そうしなければ生きていけないし。稼ぎを始めれば、衣食住のうち二つに困ることはなくなった。そしてなによりも安心感があった。金は強い。金はパワー。文字や法と並ぶ人類の発明だけはある……。
差し当たって資金繰りの問題はなくなったが、そうなれば身分の問題が浮き彫りになってきた話。これは、現在進行形で続いている話でもある。金だけあっても家は持ちようもないし、ホテルに泊まるのさえ厳しい。社会的証明のない子供とは、こんなにも生きづらいものか。裏を返せばそれだけ法政が整っている証左でもあるが……。金に並ぶ人類の発明のくせに、法は役に立たんな、まったく。私だって消費税なら払っているのに。
「それで、そうした折に、たまたま光司郎と出会しまして。なし崩し的に居候まで至った次第で……」
『……』
私がおおよそのホームレス生活を話しているうち、始めの方は相槌を打ってくれていた彼女は、次第に言葉少なになっていった。私は顛末を語り終える。しばらくして、万感の心地を込めた声で、よかったねえ、と彼女は詠じた。
「よ、よかったですか?」
面白かった、と言いたいわけではなさそうだった。みどりは、やや言葉に詰まりながらもしみじみ述べた。
『うん……うん。ミライちゃんが、光司郎くんに会えてよかった』
……情の深い彼女は、私の境遇に感じ入るものがあったらしい。暗くならないように話したつもりではあったが……。みどりは私の実年齢を知らない。幼児が頑張っておつかいを果たそうと頑張るテレビ番組に代表される、スーパー頑張りキッズフィルターみたいなのがかかっているのだろうと窺えた。
ただ、齟齬があっても、彼女が私を案じてくれているのは確かだ。私もじんわり胸のうちに暖かいものが湧き出て、それが言葉になる。
「……ありがとうございます、みどり」
『これはもう、絶対に幸せにして貰わなくちゃね』
「みどりはさあ」
結局そこに行き着くのか。私はちょっとだけ言葉を荒げた。……普段ならそうそう荒げたりしないけれども、今はみどりに乗っかった。きっと、湿っぽい雰囲気を嫌ってのみどりの発言だと思ったから。
蛇口を捻り、こくこくと喉を鳴らす。真夏のそれと比ぶれば、初夏の水道管の水はまだまだ冷たい。お喋りに興じすぎた喉が癒されていく心地よさ。ほう、と息を吐いて、タオルで口を拭った。
長話に付き合わせたスマホは、今は静かだ。時間を忘れて話すうちに、彼女の出勤時間が迫ってしまっていた。今日は夜勤らしい。
買い出し前に、ベランダに干しておいた羽毛布団を取り込んでおこう。一人暮らし用の狭いベランダだから、一度に干せるのも布団一枚が限度だ。そろそろ梅雨が来るけれど、少し心配。えっちらおっちら運び込み、居間の隅、三枚折にした敷き布団の上に、ぼふんと掛け布団を降ろす。鼻孔くすぐる太陽の香りに誘われ、私はそのままダイブした。
……衣食足りて礼節を知る。今の私は路上生活時とは違って十二分に満たされているが、故にこのまま甘えっぱなしでいいのかという、申し訳なさに近い思いが胸の内に湧きつつある。
いつ出ていってもいいとお墨付きを貰っている、生活には申し分ない宿。私にとっては都合がよすぎた宿。しかしながら、私とていつまでも居候しているわけにはいくまい。光司郎の配偶者でもなし。彼には彼の人生があるのだから。ただ、しかし。干した布団がこんなにも気持ちがいいのは、黄金のごとく完璧で純然たる事実で。
「この味を知ってしまうと、路上生活に戻るのは難しいかもしれません」
柔らかで暖かな羽毛布団に包まれながら。自身のこれからの展望を案じつつ。私は欠伸を漏らした。梅雨を間近に控えた、昼下がりのことであった。