4 日常回②
事ここに至って、私だけでこの困難に立ち向かうのは難しいと判断した。そこで、取り出したるはまたまたこのスマホ。画面から、最も新しい発信履歴を選んで、一つ深呼吸してからタップした。
今、私が一人立っているのはキッチン、その踏み台の上。付け合わせのニンジンやアスパラが茹で上がるのを待っている最中であった。数度のコール音ののち、繋がる。
『も、もしもし。保内です』
通話口から、やや緊張気味の定型句が届く。その声の主は、昨日遭遇し、そして一時は殺し合いにまで発展した相手、保内みどりその人であった。
「おはようございます、みどり。ミライです」
『あ……ミ、ミライちゃんかあ。よかったあ』
……光司郎からの着信かと思わせてしまったらしい。気が利かないやつだ、私。
『もう。あたしから電話するって約束したのに』
「あ……そうでしたね。すみません」
緊張の解けた様子で軽口を叩く彼女。本当に光司郎が苦手なんだな。……光司郎を抜きにしても、私個人への警戒心はないのだろうか。ないんだろうな。あまり警戒される見た目ではないし。
『いや、別にいいんだけどね。正直、どの面下げて電話かけるのって感じだったから』
「え? 何故ですか?」
みどりの卑下するような言葉に、私は反射的に問い掛けた。
『いや、だって……。昨日あんなに激しくやり合ったのに、って気まずくならない? ふつうは』
「ああ……。すみません。ただくっついてた私としては、その……戦っている意識は薄かったと言いますか」
つまりは、卑近な説明をすれば、喧嘩した相手と一応の仲直りはしたけれども、やっぱりちょっとしこりが残っていた、みたいな感覚だろうか。私などは何も考えず電話してしまったけど。デリカシーがないと言うならその通りだ。
『まあ、いいよいいよ。むしろ掛けてくれてありがとうね』
「お礼されるようなことではないですよ」
何はともあれ、どうやら恙なく話せそうだ。こっそり胸をなで下ろした。
挨拶も程々に、本題に入らせて貰うこととした。
「それでですね。実はちょっと、相談したいことがあるのですが」
『え、なになに。なんでも聞いちゃうよ。聞かせて!』
不躾なお願いにも乗り気で臨んでくれるみどり。どうしても昨日の戦闘の印象が強いが、本来の彼女の素はこっちなのだろう。
「実は、休日の過ごし方に悩んでおりまして」
『? なにそれ?』
困惑を隠さない声が返ってきた。いや、肩透かしを食らったといった感じだろうか。まあ、私だって改造人間仲間から暇の潰し方の相談なんて受けたらそうなる。
「いえ、私じゃないんですよ? 光司郎が」
『光司郎くんが?』
私は責任転嫁気味に、非は光司郎にあるのだとなすりつけた。
そう。つまるところ、私は私個人の器量では、光司郎の虚無的休日の過ごし方を改善できないものと考え、こうしてみどりに助力を求めるに至ったのである。ふーん、彼がねえ、としみじみ呟くみどりに、私は続けた。
「家の中で虚空を見つめてぼんやりされていても気が散りますし、なんというか、見てられないんですよね」
『あはは。ぼんやりしてるんだ。……こわ』
いや、そこまで怖くはないけれども。言葉の綾というやつだ。
「参考までにお聞かせ願いたいのですが、今の若者の趣味って、どのようなあれなんでしょう」
『やだ、ミライちゃん年寄りくさい』
不意打ちで抉ってくるみどり。彼女としては、私が年上と知らぬからこその物言いであろうが……。年寄り。年寄りかあ……。
『ミライちゃん?』
「あ、ああ、いえ。大丈夫です。それで、私としても色々と試してみたのですが、あまり反応が芳しくなくて」
『そっかあ……色々試したって、どんなの?』
私は今朝の出来事を掻い摘まんで述べた。
「一緒にゲームしても楽しそうでなかったり、食べたい料理を尋ねてもなんでもいいって言われたり、ですかね」
『へええ、へええ』
どこか大げさなリアクションだと私は思ったが、今は触れずに置く。
「ええ。私と光司郎では一回り年齢が違いますので、どうにも話が合わないのかもしれません。それで、比較的年の近そうなみどりに意見をお伺いしたいなと」
なにせ年寄りだしな。会社勤めの頃だって、光司郎くらいの歳の新入社員と話が合わなくて困った記憶がある。なにせ年寄りだしな。
『そっか、そっか。愛だね』
「違います。……みどりは、お休みの日は何を?」
何やら触れられたくない方向に行きそうだったので、無理矢理にでも流れを趣味に戻す。
『あたし? そうだねえ……アニメ見たり、コスプレしたりがメインかなあ』
「な、なるほど」
けっこう開けっぴろげなんだな、今時の子は……。オタク趣味。それ自体に勿論非はないが、光司郎が楽しめる趣味かと言われれば、やっぱり首を傾げてしまう。
『んー。でも、一番は……寝てるかなあ。あはは』
「あ、やっぱりですか? 寝ますよね、やっぱり」
『寝るよねえ。三大欲求だもん、しょうがないよね』
ううん。寝るのが趣味というのは、ちょっと頓珍漢な気もするけれども。無趣味よりはいいのかな。
それからしばらく、調理の手を進めつつ、相談とは名ばかりの他愛もない会話を交わした。
「あ、すみません。そろそろ本格的に火を使うので、そろそろ」
『あ、わかったよ。お昼? なに?』
「ハンバーグです」
あたしも食べたいと最後までごねつつ、みどりは別れの挨拶を告げた。
深皿とまでは言わないが、ちょっとした傾斜のあるお皿を用意する。皿を軽くお湯で温め、水分を拭き取り。中央からやや外れた位置に、フライパンからハンバーグを移す。うん。いい焦げ目。昔よりずっと手が小さいからか途中ちょっと難儀したけど、割といい感じに出来たのではないかな。同時に作っていたデミグラスソースもけちけちせずたっぷりと。深めの皿にして正解だ、よく絡む。付け合わせに生レタス、ボイルしたアスパラガス、ニンジンのグラッセを彩りよく。あとは卵とコーンのコンソメスープをカップに注いで。完成だ。
ハンバーグ。ハンバーグだ。光司郎に好き嫌いはない。それはもう分かった。だが、光司郎とて日本に生まれた男子ならば。男に人気のメニューを食わせれば満足するのではないか。その蓋然性は高いのではないか。そう考えた私は、男としての私の脳内食べ物ランキングを参照し、そして、鉄板のカレーやラーメンと違って、そこそこ複雑かつ複雑すぎない丁度いいメニューを探し当てた。それがハンバーグである。
さすがに鉄の皿ではないが、ソースはまだぐつぐつと泡立っている。熱々がいい。絶対にいい。私はローテーブルの側に座る光司郎の前に、皿を置いてやった。
「ハンバーグか」
呟く光司郎。その目は、別に爛々と輝いていたりはしない。残念ながら。まあ、期待してはなかったけど。次いで私の分も配膳し、二人向き合う。
「頂きます」
ハンバーグは、美味かった。自分で作った手前言うのも何だが……美味いよ。ほどよい。香ばしい。肉々しい。じゅうしい。というか、自分で作ったやつは知らずのうちに補正が入るのか、大抵なんでも美味く感じる。私の舌が貧乏舌なのかもしれないが。
さて、肝心の光司郎はと言えば。反応を窺う。
「……」
黙々と。フォークとナイフを動かし、口に運ぶ。まあ、いつも通りだ。もしかしたら、多少ペースが速い気もするかな? と思わなくもないが……調理に手間取った関係で多少遅れたお昼になったせいかもしれないし、昨日の運動で消費したカロリーの分だけ腹が減っているのかもしれない。総じて言えば、反応は薄い。
早々上手くはいかないか。ちょっとばかり落胆の気持ちは否めないが。しょうがない。これからこれから。というか、そもそもそんなに強い動機でもないし。ただの私のエゴだ。がっかりなんてしていない。
そんなふうに悶々と合理化していたせいだろうか。
「ご馳走様。……美味かった」
彼の不意打ち気味の感想に、へあっ、と妙な鳴き声が漏れてしまったのは不覚であった。怪訝そうな光司郎の目線を誤魔化しつつ、私は勝利の味に酔いしれた。
三大欲求と、みどりは会話の中でちらとそう零していた。なるほど、理解できる。光司郎とて人間だ。三大欲求からは逃れられまい。
食欲は、一定の成功を収めた。性欲は……パスで。というか、彼に性欲はあるのか定かでない。ソシャゲの巨乳にぴくりとも反応してなかったし。まあ、そこはどうでもいいや。残るは睡眠欲。これを刺激してやれば、光司郎の虚無的休日に終止符を打つことが出来るやもしれぬ。
というわけで、食器を洗い終えた私は、相も変わらず壁の染みになっている光司郎をどかしつつ、そこへ布団を敷いた。
「おい、ミライ。何をしているんだ」
「はい。昼寝の準備です」
「寝るのは構わんが……何故俺の布団まで」
「はい。昼寝の準備です」
最近分かりかけてきたが、光司郎は意外と押しに弱い……のかもしれない。彼の咎めるような声を努めて無視して布団を並べる。
「やることもないのでしょう? 寝た方が楽ですよ」
「……俺は、眠くなければ寝られん質だ」
「まあまあ。横になって目を瞑るだけでも、意外と楽になるものですよ」
どういう質だそれは。私はさっさと布団を被って横になり、彼に背を向け、これ以上の会話を拒絶する。……ここまでお膳立てした上で、彼が寝ないのなら、それはそれでいいだろう。残念だがそれまでだ。精々頑張った私はもう寝る。そういう意思表示であった。
私が目を瞑り、しばらく経った頃。衣擦れの音が背後から聞こえた。掛け布団が擦れる音。やった。布団に入った。これで、壁の染みを気にせず安眠に入れる。私は密やかに心躍らせつつ、すでに這い寄って来ていた睡魔に身を任せることとした。
……しかしながら。私はそのまま夢の世界へは旅立てなかった。理由は勿論、背後にいる男のせい。なにせ、うるさいのだ。何が落ち着かないのか気に入らないのか、衣擦れの音や、ちょっとした唸りが引っ切りなしに聞こえる。なんだ。なんなのだ。私は重たい瞼を開けて振り返った。
光司郎は、目を閉じたまま、眉間に深い皺を寄せていた。時折、居心地悪そうに体を捩る。布団の隙間から外に伸びた片手が固く握りしめられ、指の圧力の掛かった部分が白くなっている。
……夢見が悪いのか。一瞬、体調が悪いのかとも思ったが、何となく違った。眠くなければ寝られんって、こういうことなのか? 悪い夢を見るって意味なのか? 私は少しの間、彼を観察していたが、落ち着く様子もなく。このままでは、私も寝られそうもない。放っておいて無理矢理昼寝してもいいが、それこそ夢見が悪い。
一つため息をついて、私は硬く握られた彼の片手を包み込んだ。その行動は、朧気な直感が導いたものかもしれないし、或いは眠気のままの支離滅裂なそれだったかもしれない。ともかくとして、光司郎の表情が、和らいだ。力の篭もった手を解すように、優しく、それでいてしっかりと握りしめてやる。少しずつ、彼の腕の力が弱まっていった。
安堵する。魘されていた彼の厳めしい顔つきは、今は精悍なそれに戻っていて、現状問題なさそうだ。ただ、精悍ではあるが、少しばかり子供のようにも見えた。だって、手を握ってやれば安心するとか。まるきり子供みたいだ。これで手を放すや否や、すぐにぐずり始めたら、本当に子供……。
「……ぐ、う」
……放してやれば、本当に魘され始めた。どうなってるんだ。本当は起きてるんじゃないのかと突っ込みたくなるが。代わりに再度手を握る。元の平穏な表情に戻る。起きてるでしょ君。滑稽ですらあるが……それだけで済ませられない問題があって。つまりは、私が寝られない。父親でもない男の手を握りながら安穏と寝られるものか。いや、やろうと思えば出来るかもしれないが……気持ち的に許されない気がする。
ああ、もう。元を正せば。私は、私自身が気分良く過ごせるようにするために、光司郎の行動改善を試みたはずだ。その点で言えば。結局のところ、私の企みは失敗に終わった。結局、たっぷり寝た光司郎が目を覚ましたのは、日の沈む頃になってからだった。人の気も知らないで。