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作者: 津崎ル太

 ここはとうみ台商店街のとある路地裏。その一画にひっそりと店を構える『水家-すいか-』には、百種類ほどの水棲生物や水槽などのアクアリウム用品が置かれている。

 日が傾き西からの陽光が路地を照らすその様子を、水家の店内からぼんやり眺めている少女がいた。その顔つきは幼い。

 カウンターの椅子に腰掛けた少女はポツリと言葉を零した。

「お腹空いた」

 それは独り言で、宙に散る言葉のはずだった。

「ノノはいつもそればっかり」

 背後からの声に、ノノと呼ばれた少女は振り返った。そこには誰もいない。

 正確には水槽の中に一匹の魚だけしかいない。

 ノノはその水槽に不満げな目を向けた。

「ププだってすぐ「お腹空いた」って言うよ」

 水面にポコポコと気泡を出して悠然と泳いでいる魚にノノは頬を膨らませながら反論した。

 水槽の魚、ププは口をパクパクさせた。

「オイラはノノに空腹を訴えなきゃ食べる物にありつけないんだ。でもノノは好きな時に食べられるだろ?」

「そうだよ。だってププは魚だけどノノはヒトだもん」

「うわぁ、なんだか腹が立つ言い方だだなぁ。魚類差別はんたーい」

 胸鰭をしきりに動かして、ププは抗議の姿勢を示した。しかしノノは意に介さず、目線を路地に戻しカウンターの上で頬杖をついた。

「ノノは美味しいものが食べたいの。ありきたりなんて嫌」

「わがままだなぁ。オイラなんてドライフードばっかりだよ。たまには生ものも食べたいよ」

「ププこそわがまま」

「ええ?それは酷い言われようだ」

 ノノの背中に向けた言葉は届いたのか届かなかったのか。一人と一匹の間に沈黙が横たわる。商店街の喧騒はこの店内には遠い。

「おや?もしかしたらノノのご所望の「美味しいもの」がやってくるかもよ」

 ププは水面から顔先を出した。その言葉にノノは一度振り返り、そして店の入り口に目を向けた。

 カランカラン、とドアベルが涼やかな音を立てる。

「へぇ、こんなところにアクアリウムのお店があったなんて知らなかった」

 入ってきた人物は第一声にそう発した。店内に置かれた水槽の中の色とりどりな魚たちを興味ありげに眺めている。

 ノノはカウンターを出てその人物の元へと近づいた。

「いらっしゃいませ」

「わっ!?」

 じっくり水槽を眺めていたところに突然声を掛けられて、その人は肩を揺らして声を上げた。

 制服の少々短いスカートを翻し、声のした方を振り返る。

「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

 ノノが今一度声を掛けた。そのお陰で彷徨った視線がノノを捉える。

「あ、違うんです。特に探しているものがあるとかじゃ…」

 ノノと目が合うと、口の動きが開きかけて止まった。じっとノノを見つめる。

「あなた小学生?お家のお手伝いかな?」

 そしてニコっと笑顔になり、ノノに視線を合わせようと膝を折った。

「いいえ、小学生じゃありません」

「え、あ、そうなの?じゃあ中学生、かな?ごめんね、可愛いからつい小学生なのかと」

「いいえ、中学生でもありません。ここにいるのもお手伝いではありません」

 ノノは表情を微塵も変えずにそう答えた。

「え、えっと…」

 ノノの様子にたじろぐ。気まずい雰囲気に、そそくさと立ち上がった。

「そ、そろそろ行かなきゃ~」

 白々しく言葉にして、肩の鞄を背負いなおすとノノに背を向けた。

「探しているもの、ありますよね?」

「え?」

 投げかけられた言葉に思わず振り返る。

「ノノが拾ってきてあげましょうか?」

 深い海の底みたいな濃紺の瞳に、体が射抜かれたような気がした。その場に縫い止められた感覚で、足はおろか手や首も動かない。

「コシハラ・チカゲさん」

「!どうして私の名前…」

 ノノに名を呼ばれ、チカゲは驚愕の眼差しを向けた。しかしその「どうして」にノノは答えない。瞬き一つせず、じっとチカゲの目を見つめている。

「あなたが時間の底に置いてきてしまったもの、ノノが拾ってきてあげます」

「時間の…底?」

 チカゲがその言葉を繰り返して口にした瞬間、辺りが暗闇に包まれた。しかしノノの姿だけははっきりと見える。とても不思議な感覚だった。

 さらに不思議なのは、この状況に自分の頭が混乱していないことだった。恐怖も不安もない。ただノノの瞳だけを見ている。

「私の探しもの…」

 チカゲはぼんやりと思い出すように言った。ノノの言葉に思い当たるものがある。

「大切な…」

 ピチャッ、パシャッ。

 辺りに水音が響く。水面を何かが跳ねるようなその音に、チカゲは静かに目を閉じた。

「とても大切な友達の命」

「それを拾ってくればいいの?」

 ノノの問い掛けにチカゲは目を閉じたまま頷いた。

「分かった。あなたがお望みのものを拾ってきてあげる。その代わり…」

 ノノはペロリと唇を舐めた。

「あなたのその時間、ノノにください」

 チカゲの体から力が抜ける。意識を失った状態で、彼女の体はゆっくりとその場に横たわった。

 ピチョン、と水音がした。チカゲの体に水面のような波紋が幾重にも広がる。

 その様子を、口端を上げてノノが見下ろした。そして自分の鼻を右手で摘むと両足で真っ黒な地面を蹴った。

 ザブンッ。

 ノノは勢い良くチカゲの体へと飛び込む。そうしてノノの姿は見えなくなった。残された暗闇の空間には目を閉じ横たわるチカゲと、遠くに水音が響くだけになった。



 ノノはチカゲの時間を潜った。お目当てのものが拾える深さまで。

 時間の底に沈んだ探しものは、日の届かない暗い海底のような場所に落ちている。



「…ちゃん、チカゲちゃん。大丈夫?具合悪いの?」

 誰かに呼ばれてゆっくりと目を開ける。両腕に埋もれた顔を上げると、心配そうにこちらを覗き込む顔に出くわした。ぼんやりする目で辺りを見回してみる。どうやらここは教室だ。子供たちが騒がしくはしゃいでいる。

 ノノが見ているチカゲの景色は、小学五年生の最後の授業だった。

 時間を潜ったノノは、今は小学生時代のチカゲだ。彼女がここまで歩んできた時間の全ての記憶をノノは知っている。

 もう一度、さっきの心配そうな顔を見遣る。

「大丈夫だよ、マホ。少し眠くて」

「そうなの?良かった。急に机に倒れるからびっくりしちゃったよ~」

「ごめんごめん。それで、何だっけ?」

 眉尻を垂れて笑うマホに、チカゲはさっきまでの話の続きを促した。

「うん、あのね…明日公園で遊ばない?」

「それはいいけど…どうしたの?」

「え?な、何が?」

 チカゲの思いも寄らない指摘に、マホは大きな目をパチパチとさせた。その様子にチカゲがさらに訝しがる。

「何かマホ、ちょっと変だよ?」

「へ、変?」

「そんな真剣に公園に誘わなくても。私がマホの誘いを断るわけないじゃん」

「真剣だった?そうかな…。あ、もちろんチカゲちゃんが断るなんて思ってないよ」

 両手を顔の前で振って、マホは必死に繕った。そこでプっとチカゲが噴出す。

「知ってるよ。だって私たち親友、でしょ?」

「う、うん!そうだよ、私たちは親友だもんね!」

 そうして、春休みに心浮き立つクラスの喧騒に紛れて二人して笑い合った。


 翌日、近所の公園に行くと、マホがすでに待ち合わせのベンチに腰掛けていた。

「早いね。いつも時間ギリギリなのに」

「え、う、うん。早く目が覚めて」

「ふーん。で、何して遊ぼっか?」

「お絵かきしよ」

「うん、いいよ」

 二人は近くに落ちていた枝を拾った。そして地面に思い思いの絵を描き始めた。

 しばらく黙々と描いていたが、ふとチカゲが口を開いた。

「六年生も同じクラスになれるかな?」

 その問い掛けにマホの肩が跳ねる。しかしチカゲは気付かなかった。視線を地面の絵に向けたまま言葉を継ぐ。

「アツヒロくんとも同じクラスがいいなぁ」

 照れたような声でチカゲが呟いた。マホは言葉を発さないまま俯く。

「そしたらさ、六年生は修学旅行があるじゃん?一緒の班になったら嬉しいなって…」

 そこでようやくマホが黙ったままなのに気付く。顔を上げると、唇を噛み締めて俯くマホの横顔が見えた。

「マホ?どうしたの?お腹痛い?」

 苦しそうな顔をしていることに驚き、チカゲは持っていた枝を放り投げてマホの傍に寄った。

「う、ううん。違うの…。あのね、チカゲちゃん」

「何?」

「あの、私…」

「マホー?どこー?」

 遠くからマホを呼ぶ声が、何かを告げようとした声に重なった。マホはビクリと体を揺らして声のした方へ振り返った。

「ママ…」

「良かった、ここにいたのね。今日は出掛けちゃダメって言ったでしょ?公園に行くなんて書置きしてあってビックリしたわ」

「ごめんなさい」

「え?どういうこと?」

「あ、あのねチカゲちゃん…」

「チカゲちゃん、ごめんなさいね。今日は用事があるから約束しないでって言ってたんだけど、この子ったら忘れてたみたいで。ほら、帰るわよ」

「う、うん。…あ、ママ先に行ってて。すぐに帰るから」

「そう?じゃあ先に帰ってるわね」

 そう言うとマホの母親は来た道を引き返していった。

「用事があったの忘れてたの?」

「…」

「マホ?」

「チカゲちゃん、明日も会いたい」

 それは振り絞るような声だった。今にも泣き出しそうな顔をしたマホに、チカゲは驚く。

「それはもちろんいいけど…。どうしたの?何かあった?」

「明日、話したいことがあるの。その時に言うから…。今日はごめんね。明日またここで同じ時間に」

 それだけ言うと、マホは母親の後を追って走って行ってしまった。

「どういうこと?」

 それを呆然と見送って、チカゲは立ち尽くした。

 ドクン。

 心臓が大きく跳ねた。途端に視界がぐにゃりと歪み、目の前の景色が淡くなる。ほんの一瞬、眼前が白に塗れた。


 ふわふわした意識とゆらゆらする視界の中で、チカゲは何となく辺りを見渡す。ふと視線を向けた先に、公園の時計が十時を差しているのが見えた。

 「ああ、そういえば今日も公園で会おうって、マホと約束したんだった」と、チカゲはこの場にいる理由をぼんやり思い浮かべた。

 ベンチに座って放り出された足をブラブラと揺らす。すると手を振ってこちらに走ってくるマホが現れた。目の前まで来ると膝に手をついて息を整える。

『またギリギリだね』

 自分の声が揺らめく景色から聞こえた。マホは最後に大きく深呼吸して隣へと腰掛けた。

『えへへ』

 マホは困ったように笑って、そして急に表情を曇らせた。

『あのね、チカゲちゃん。私ね…』

『うん?』

『私、引っ越すの。四月から別の学校に行かなきゃいけないんだ』

『…え?』

 それは突然の言葉だった。チカゲは目を見開いてマホを見る。俯いてスカートをぎゅっと握るマホは、泣きそうなのを必死に堪えているようだった。

 その様子から、マホは冗談を言っているのではないと悟る。

『遠いの?』

『少し遠い、かな』

『もう会えないの?』

『それは…わからない』

 ふるふると頭を振って、マホは手の甲を目に押し当てた。とうとう泣き出してしまったマホにつられ、視界が滲んだ。

 しばらく二人して泣いた。声を上げて泣くのではなく、静かに唇を噛み締めて。それでも嗚咽は漏れた。

 しゃくりあげる胸がお互いに落ち着いた頃、マホがそっとベンチから立ち上がった。

 ぐちゃぐちゃになった顔をどうにか笑顔にしようと、顔を引きつらせている。それが目に映ってまた目頭が熱くなった。

『もう行かなくちゃ』

『もしかして、今日引っ越すの?』

 あふれ出る涙を拭うのも忘れ勢い良く立ち上がった。

 マホは上手くできない笑顔で頷く。

『どうして…どうして言ってくれなかったの?』

『言おうって思ってたよ。だけど、チカゲちゃんの顔を見ると言えなかった。お別れだなんて言えるはずなかった』

『だからってこんな突然…!』

『ごめん…ごめんね!』

『あ、待って!』

 マホが公園の出口へと走り出した。ふいをつかれ出遅れたが、慌ててそれを追う。

 道路へと出ると、マホはすでに横断歩道を渡りきっていた。点滅していた歩行者信号が赤へと変わる。

 足止めを食らってしまい、その場でマホの背中に声を掛けた。

『ずっと!ずっと親友だからね!』

 その言葉にはっとマホが振り向いた。

『遠くに離れても私たちはずっと親友だから!』

『チカゲちゃん!』

『私はマホが大好きだよ!』

『私も!私もチカゲちゃんのこと…』

 マホは戻ろうと横断歩道を駆けた。

 プアーン!

 けたたましいクラクションが一帯に響き渡る。アスファルトとタイヤが擦れる音がした。

 声も出せずに、ただ目の前で起こっていることを呆然と視界に映している。それはまるでスローモーションで再生したかのようだった。

 道路はおびただしい量の赤い液体で塗りつぶされた。

 心臓が痛いほどに鼓動する。目の前が色を失くし、視界はまたもぐにゃりと歪んだ。


 ピチャッ、パシャッ。


 水音に目を開ける。

 目に入ったのは自室の天井だった。カーテンから日の光が差し込んでいる。

 のそのそと起き上がりベッドから降りるとタンスに向かう。適当に見繕って着替え、部屋を出た。

 リビングへ行くと、父親の朝食の片づけをしている母親に出くわした。

「あら、もう支度したの?マホちゃんとの約束は十時って言ってなかったっけ?」

「うん、ちょっと早く行くの」

 ダイニングテーブルにつくと、母親が朝食を用意してくれた。テレビからの、さほど興味のないニュースを聞き流し、目玉焼きを口に運んだ。

 朝食を食べ終えて身だしなみを整える。そして約束の時間より三十分以上早いが、構わず家を出た。

 公園までは桜並木の道になっている。五分咲きくらいの薄ピンクの花たちは、春の到来を喜んでいるかのように、風にさらさらと揺れていた。

 桜を見上げて歩いていると、気付けばもう公園の前の道路まで来ていた。横断歩道を渡れば公園の入り口だ。

 そこでふと足を止めた。

 公園の入り口に誰かがいる。思わず電柱の陰に隠れた。そこから覗くとその誰かは見知った二人だ。

「マホと…アツヒロくん?」

 二人は二言三言話し、公園へと入っていった。

「どうして?」

 驚きを隠せないまま、青信号を確認して横断歩道を渡った。

 公園に入った二人は、チカゲとマホが待ち合わせているベンチとは違う方向へ歩いていく。その背中を、心臓を跳ねさせながらチカゲは追った。

 ようやく足を止めたのは、一本の桜の樹と石碑が立つ場所だった。二人に気付かれぬようにチカゲは大きな石碑の裏へと回り込んだ。

「あの…私ね、アツヒロくんに伝えたいことがあって」

 アツヒロを振り返るなりマホが切り出した。その声は神妙なトーンだ。

「あの…その…ずっと」

 搾り出すような言葉。一度ふっと息を吐いた。

「私ずっと、アツヒロくんのこと好きでした」

 それはチカゲにとって予想だにしない告白だった。一瞬事態が飲み込めず、マホの言葉もろくすっぽ頭に入ってこないほどだ。

 ただ「好き」という単語だけが妙にはっきりと聞こえた。

 マホは今、私の想い人であるアツヒロに「好き」と言ったのだ。しばらくしてチカゲはそう理解した。

 手が震える。息が苦しい。

 裏切られたことへの悲しみと怒りが、胃を焼くようだった。この場に居続けたら吐いてしまいそうだ。

 チカゲは物音を立てないように、必死にその場から逃げ出した。

 そうしてベンチまで来ると、ふらふらとそこへ体を預けた。

 マホはチカゲがアツヒロを好きなことを知っている。いつも相談していたし、頑張ってと応援してくれていたはずだ。それがどうして、マホが彼に告白などしているのだろう?

 ずっと好きだったと言っていた。一体いつから?チカゲがマホにアツヒロへの気持ちを教えた時はもう好きだったのだろうか?どうして言ってくれなかったのだろう。

 ぐるぐると頭を疑問が巡る。

 あれだけ相談していた自分に何も告げずに、マホは告白をした。これは裏切りではないのだろうか。そうだ、裏切りだ。

 聞いてしまった瞬間に湧き出た感情を、チカゲは自身で肯定した。

 ガチガチと歯を震わせ、両手を固く組む。大好きな親友への感情は瞬く間に憎悪へと変わっていった。

 大きく深呼吸をした。吐いた息が震える。ふと顔を上げると、公園の時計が目に入った。時刻は十時、約束の時間だ。

 その目に、こちらへ笑顔で手を振り走ってくるマホが映る。

 彼女はベンチまで来ると膝に手をつき息を整えた。

「またギリギリだね」

 チカゲはなるべく平静を装おうと、少し低めの声で言葉を掛けた。

「えへへ」

 それに気付かず、マホは困ったように笑ってチカゲの隣へと座る。しかしマホの笑顔はすぐに曇った。

「あのね、チカゲちゃん。私ね…」

 俯き言いにくそうに言葉を発した。しかしそのマホの言葉を聞かず、チカゲが口を開く。

「どうして言ってくれなかったの?」

「えっ!?」

 静かで強い口調に、マホの肩が揺れた。声色から怒気を感じ取る。

 マホは慌てた。

「し、知ってたの?…ごめん、なかなか言い出せなくて」

「だからってこそこそしなくたっていいじゃん。私たち親友でしょ?」

「…ごめん、なさい」

 泣き声交じりにマホは謝った。それでもチカゲの怒りは治まりはしない。

 握った拳をさらに固く握り込み、悔しさに唇を噛み締めた。泣きたくはなかった。裏切られて泣くなんて惨めだと思えたから。チカゲはどうにか涙を我慢する。

「いつから?」

「え?」

「なんて、そんなこと聞いたって意味ないよね。私の話聞きながら、自分のことは言わずにちゃっかり…。マホがそんな人だなんて知らなかった」

「チカゲちゃん?何言って…」

「もしかして親友だって思ってたの私だけだったのかな」

「そ、そんな!違っ」

「私ね、もうマホと友達でいる自信ないよ…」

 チカゲはすくっと立ち上がった。マホに背を向け、捨て台詞のように呟く。

「バイバイ」

「あ、待って!」

 マホが止めるのも聞かず、チカゲは走り出した。

 出遅れてマホもその後を追う。

「チカゲちゃん!待って!話を聞いて!」

「嫌!来ないで!」

 チカゲはがむしゃらに走った。その足にマホは追いつけない。

 気付けばチカゲは公園を出て青信号が点滅する横断歩道を渡っていた。

 遅れてそこへマホがやってくる。渡ろうとして、赤信号であることに躊躇した。

「チカゲちゃん!お願い話を聞いて!」

 道路の向こうにいるチカゲにマホはありったけの声で叫んだ。やっとチカゲの足が止まる。

「な、何か誤解してるみたいだけど…、私がチカゲちゃんを親友って思ってないなんて、そんなの有り得ないから!」

 マホは涙声で懸命に訴えた。その声にチカゲがゆらりと振り返る。

「じゃあどうして?どうして私を裏切ったの?」

「私がチカゲちゃんを裏切った…?どういうこと?」

「白々しいな。さっきアツヒロくんと話してたでしょ?」

「あっ…」

 はっとマホの表情が強張った。

「ち、違うの!それは…私ね」

 よろよろとした足取りで一歩車道へと踏み出す。歩行者用の信号はまだ赤だ。

「私、今日引っこ」

「言い訳なんて聞きたくない!」

 チカゲの絶叫に、横断歩道を渡ろうとしたマホの足がビクリと止まった。

「マホなんて大っ嫌い!もう親友なんかじゃない!マホなんて友達でもない!」

「チ、カゲ、ちゃ…」

 大粒の涙が、マホの頬にもチカゲの頬にも流れた。

 プアーン!

 けたたましいクラクションの音。すぐ目の前をトラックが通過して、マホは焦って足を歩道へと引いた。

 トラックが過ぎ去りチカゲの方を見ると、もうそこに彼女の姿はなかった。

 マホはその場で泣き崩れた。

 その泣き叫ぶ声は、すぐそこの角を曲がったチカゲの耳にも届いていた。

 涙を何度手の甲で拭ってもすぐにまた頬が濡れる。足が鉛のように重かった。

 そのせいか、些細な段差につまずいた。グラリと体が揺れ、無抵抗に地面へと倒れた。

「くっ、ごほっ…」

 何故か息が苦しかった。まるで溺れているかのように息継ぎが出来ない。

 酸欠の頭は朦朧としてきた。何か大切なことを忘れている気がしたけれど、それ以上は何も考えられず、下がる瞼と共に意識を手放した。


 ピチャッ、パシャッ。


「ぷはーっ!」

 水面に顔を上げるように、ノノは大きく息を吸った。真っ暗な空間にノノの姿が浮かび上がる。

 何度か深呼吸をして、近くに横たわっているチカゲに向き直った。

「食べ殻、返すね」

 チカゲの傍らに座り、ノノは自分の胸の辺りに両手を遣った。すると丸い透明なガラス玉のようなものが体から出てきた。

 その球体には、ノノがチカゲの目で見た光景が流れるように映し出されている。これはチカゲの知らない記憶だ。

 そっと球体をチカゲの胸の上に置くと、それは静かに彼女の体に沈んでいった。

「あなたが時間の底に置いてきた探しもの、ノノが拾ってきてあげたからね」

 ノノはニコリと、目を閉じたままのチカゲに笑いかけた。

「その代わり、あなたの時間をもらったよ。なかなか美味しかったなぁ」

 チカゲの目元へ右掌を翳す。ノノは自分の唇をペロリと舐めた。

「ごちそうさまでした」



 ふっと目が覚めた。

 ぼんやりとする頭で、チカゲは自分の置かれている状況を把握しようと辺りを見回した。

 いくつもの水槽に綺麗な熱帯魚たちが優雅に泳いでいる。ブクブクというエアポンプの音が静かな店内に響いていた。

「あれ、私…」

 片隅に置かれた白いベンチに、チカゲはもたれかかっていた。

「寝ちゃってたの…?」

 独り言を言って、ふと人の気配がする方へ目を遣った。

 カウンターの奥で水槽の魚に餌をやっている少女が見える。チカゲは慌てて立ち上がった。

「ご、ごめんなさい、眠ってしまって」

 ノノはそちらを見ずに口を開いた。

「構いません。よっぽど眠かったんですね」

 パクパクとドライフードを食べるププが、胸鰭を激しく動かした。水面が波打ちピチャピチャと水音がする。

「あ、あはは、そうみたい」

 愛想笑いを浮かべチカゲは頭を掻いた。

「じゃ、じゃあ私はそろそろ…」

 その時、店の表の路地を歩く誰かの声が微かに聞こえてきた。

「アクアリウムのお店だって。こんなところにあったんだ」

「俺も商店街の方は来ないからな、知らなかったよ」

「ね、ちょっと寄ってもいい?」

「いいけど。お前、熱帯魚とか興味あったんだ?」

 カランカランとドアベルが音を立てる。くぐもっていた声は明瞭に、チカゲたちの耳に届いた。

「結構好きだよ。わ~、可愛い~。ねぇ、一緒に住んだら熱帯魚飼いたいな」

「そうだな。ま、その前にお互い志望校に合格しないと」

「はーい」

 楽しそうな会話は徐々に近づいてくる。

 チカゲの表情が強張った。ノノは無言でその様子を見ている。

 水槽の棚の陰から、会話していた人物たちが姿を見せた。瞬間、チカゲが鞄を取り落とし、ガタンと大きな音が鳴った。

 その音にビックリした二人は、チカゲに視線を遣る。目が合った途端、その場の空気が固まった。

「マホ…」

「チカゲ、ちゃん」

 震える声と揺れる瞳。

 チカゲはマホの隣に佇む人物に目を向けた。すぐに誰か分かって、唇を震わせる。

「アツヒロくん」

「え、あ、もしかしてコシハラ?」

 固まったままの空気など意に介さず、アツヒロはチカゲを指差した。チカゲはその問い掛けに小さく頷く。そして再度マホへと目を移した。

「どうして?」

「え?」

「どうしてマホがここにいるの?六年生になる前に転校したよね?」

「あ、うん。…その、こっちの大学を受けようと思って。今日オープンキャンパスだったの」

「俺も一緒に行ったんだ。俺たち同じとこ受けるから。そういやコシハラは進学?」

「ご、ごめんアツくん、ちょっと黙ってて」

 マホはアツヒロの袖を引いて制止した。「何だよ」と言いつつも、やっとこの空気がただならぬものだと気付いたのか、彼は口を開くのを止めた。

「チカゲちゃん」

 マホは動揺に揺れた瞳を一度伏せ、チカゲを呼んだ。

「あの時はチカゲちゃんに伝えたいこと、ひとつも言えなかった。謝ることも出来なかった」

 声が掠れ、今にも泣いてしまいそうだ。それでもマホは言葉を続けた。

「今さら何か言ったところで、私たちの関係は元に戻るとは思ってない。でも…」

 マホが顔を上げた。視線がチカゲを射抜く。チカゲは思わず目を逸らしてしまった。

「聞いてほしいの。あの日伝えたかったこと」

「聞きたくなんか…」

「あの日、私はチカゲちゃんに引っ越すことを伝えようと思ってた。それから…私もずっとアツくんのこと好きだったってことも。チカゲちゃんが話すアツくんがとても素敵で、私もいつの間にか好きになってたって」

 そこでマホは一度呼吸を置いた。チカゲの唇は痛々しく噛み締められている。

「離れ離れになるなら告白しようって思った。でもチカゲちゃんにもそのことは言おうって決めてたんだよ。ただ時間がなくて、アツくんに告白するのが先になっちゃっただけなの」

「何その言い訳」

 チカゲの声が低く響いた。目には黒い光が揺らいでいるようだった。その目がゆらりとマホを捉える。

「そんなので納得すると思ったの?」

「チカゲちゃ」

「私、マホのそういうところ嫌いだったんだよね」

「え?」

 思いも寄らない言葉にマホは体を後退させた。チカゲの発する憎悪の感情がマホを容赦なく刺す。

「何にも知らないふりして自分だけ良いとこ取り。クラスの中でだって人気者だったじゃん。それなのに地味で誰からも相手にされない私と親友ごっこするって、どう考えても私を踏み台にするためだよね」

「そんなっ!」

「おい、コシハラ!さっきから何言って」

「関係ない人は黙っててよ!」

 チカゲは口を挟んできたアツヒロを一喝した。その気迫にアツヒロは口ごもる。

「親友面して私の反応でも見てたの?それとも可哀相なクラスメイトとお友達になる自分に酔ってた?私なんかがアツヒロくんを好きになって、相談してくる様を見て笑ってたんでしょ?」

 チカゲの言葉は止まらなかった。次々と胸の内からどす黒い感情が溢れてくる。

「最初から鼻につくとは思ってたんだよね。偽善者ぶっててさ」

 拾い上げた荷物の肩紐をぎゅっと握った。声はとうに涙混じりだ。

 チカゲの足は一歩前へと出された。そしてまた一歩。それはゆっくりとした歩みだった。

「あの時、あんたの化けの皮が剥がれてせいせいした」

 マホの隣を過ぎる瞬間、チカゲはそう囁くように言った。それから一度も振り返らず、チカゲは店を出た。ドアベルが彼女の存在の余韻を残す。

 マホがガクリと膝をついた。それをアツヒロが慌てて抱き起こす。

「だ、大丈夫か?マホ…。何なんだよコシハラのやつ!」

「いいの!」

 チカゲが出て行った方にアツヒロが吠えた。しかしマホは強い口調でそれを制した。

「いいの、アツくん。私が悪いの」

 よろめきながらも何とか立ち上がり、マホはアツヒロの手を借りて店の出口へと歩き出した。

「それでも私は大好きだったんだよ、チカゲちゃん」

 去り際にマホの口から漏れた声は、ノノとププに届く。

 ドアベルを静かに鳴らし、二人はチカゲが去った方向と反対の方へ歩いて行った。

「何だいあれは。人の店で騒々しい」

 ププが気泡を吐きながら憤慨した。ノノはまだ店の外をカウンター越しに眺めている。

「まったく近頃の若者は…」

「あの人は」

「ん?」

 憤りの声を発し続けるププの言葉に被り、ノノが何かを言いかけた。しかしそこで沈黙が訪れる。

 しばらくして目線をププに持っていくと、ノノは言葉を継いだ。

「あの人は大切な親友の命を拾ってきてほしいってノノに言った。だから拾ってきたの。そうしたらその大切な親友の絆を、今度は失くしてしまったみたい」

「本末転倒な話だ」

「しょっぱくて苦くて複雑な味。バッドエンドじゃないけど、アンハッピーエンド。癖になる味がした」

「げー、オイラは甘い方がいいな」

「ププはお子様だもんね」

 ノノはクスクスと笑った。またしてもププは憤慨する。胸鰭や尾鰭をバタつかせ怒りを露にした。

「何を~?オイラのどこがお子様なんだよ!」

 しかしその怒りの声はノノには届かず仕舞いだった。

「ん~、でも…次はとびきり甘いものが食べたいかな」

「ふっふーん?ノノだってお子様じゃん」

 ノノの発言にププは気を良くしたのか、口を水面に出してパクパクさせた。

「ノノはいろんな味が食べてみたいお年頃なの」

 そう言うと、カウンターから出て入り口のドアへと向かった。そこに掛かっている『OPEN』の札をひっくり返し『CLOSE』へと変える。

 ガラス越しに見える路地のアスファルトが茜色に染まっていた。そろそろ夕飯の支度をする買い物客が出てくる頃だ。一日の中で一番活気のある時間帯である。

 そんな風に一際賑わう商店街の喧騒は、やはりこの店にはどこか遠くに感じられた。

 ノノはカウンターの奥へと戻り、ププの水槽を抱き上げた。

「お腹も満たされたし、眠くなってきちゃったな」

「オイラも…ふああ~」

 あくびとともに、気泡が水面にいくつも浮いた。

 一人と一匹は真っ暗な扉の先へと、他愛のない会話をしながら消えていった。

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