五話
「喜兵衛も要蔵もイヨも死んだ」
コウは妙に大人びた表情を浮かべ、淡々と告げた。
「林田の家も終わりだ」
また一歩、コウは前へ踏み出した。
「お前が殺したのか?」
タギの低い声にもコウは表情一つ崩さない。
「そうだ」
「辻堂は?」
「さぁ? 気になるなら見てくればいい」
興味がないとでも言いたげに言い捨て、コウは嘉江のすぐ目の前まで行き、顔を近づけた。幼い頃はコウのほうがほんの少し高かった背も、今や嘉江のほうがほんの少し高くなってしまっている。
「俺を、覚えている?」
ごく至近距離でそう尋ねたコウの声は、本性を見たと思った鬼とは思えないほどに弱々しいものだった。
嘉江は茫然と言葉を零した。
「まさか、本当に兄様……?」
「助けてと言ったら、助けるって約束しただろう?」
風が強く吹き、二人の間を雪が舞った。
「カエはもう自由だ」
嘉江は目を見開いて茫然としていたが、やがてその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまった。
「カエ!」
コウが手を伸ばすが、嘉江は拒む様に両手で顔を覆った。
「私の、私のせいで、兄様が人を殺してしまったの……?」
「カエのせいじゃない。俺が望んで」
「でも私が助けてなんて言ったから! だから昔は村の人たちに殴られて、今度は人殺しまでさせてしまった! 私が、私がいたから……っ」
嘉江は錯乱したように髪を振り乱し、かぶりを振った。
「カエ……」
手を伸ばしたまま、コウは酷く悲しげに顔を歪めた。
「ごめん。お前にそんな顔をさせたくてここにいるんじゃないのに。ごめん、カエ。ごめん」
尚も嘉江はかぶりを振る。
「違う、違うの! 兄様が約束を覚えていてくれたことは嬉しい、私を忘れずにいてくれたことも、本当に嬉しい。だけど……」
嘉江は顔を覆っていた手を下ろし、改めてコウを見上げた。返り血に染まったその姿を。
「私なんかのために、兄様に血を浴びてほしくはなかった」
その切れ長の目から、涙が零れ落ちる。
「優しい兄様に、そんなことをさせてしまった」
はらはらと涙は薄く積もった雪に落ちていく。
「なのに、嬉しいと思ってしまっている私がいる。兄様にそこまでしてもらえる自分が幸せだと思ってしまっている、どうしようもない私がいる!」
そう叫んだかと思うと、嘉江の声は嗚咽に飲まれた
コウはそっと跪いて嘉江を抱きしめた。
「何で、こんな風になってしまうんだろう」
雪が世界を白く染め上げていく。
「何で、俺はお前をこんなに泣かせているんだろう」
全て全て、白に支配される。
「やっぱり鬼じゃ、お前を幸せにすることなんてできないのか……」
このまま消えてしまえばいい。白に飲みこまれて、二人で雪に溶けてしまえればいい。
「そんなこと、ない……私は兄様に出会えて、とても幸せ」
嘉江が顔を上げると、結われていた長い白髪が解け、風に舞った。
「こんな私はきっと近い将来、地獄に堕ちる。それでも私は兄様と過ごせたことが何より幸せ。兄様に想ってもらえてとても幸せ」
嘉江はタギを見て、深く頭を下げた。
「どうか、見逃して下さいませ。裁くのでしたら兄様ではなくどうぞ私を」
「……奥方はともかく、そっちの鬼は既に三人殺している。鬼でなくとも放置はできない」
タギは音を立てて錫杖をコウに向けた。
コウは嘉江の肩を抱くようにして黙ってタギを睨んでいたが、やがて小さく口を開いた。
「カエの寿命は、どれくらい残っているんだ?」
「……兄様?」
「カエの最期の瞬間まで、側にいたい。それが叶えば俺の命はお前が絶て。逃げたりしないと誓う。だから頼む。もう少し時間をくれ」
地に手をついてコウも嘉江に並んで深く頭を下げた。
頭を下げればいいという話ではない。コウがしたことは決して許されない罪だ。
たとえどんな理由があろうとも。
例外を認めれば秩序は綻び、やがてそこから崩壊しかねない。故に権限を与えられた者は、情に流されることなく何よりも秩序を重んじなければならない。
そう教えられたのはいつのことだったか。それが性に合わないと気付いたのは、一体いつだったか。
タギは錫杖を握る手に力を込めた。
「……奥方の寿命は、解毒効果のある薬を投与しても半年、何もしなければひと月もつかもたないかだ」
「私は薬などいりません。いりませんのでどうか残る時間を兄様と過ごさせて下さい……! お願い致します!」
「カエを看取ったならばこの首は必ず差し出す。だから頼む!」
二人は揃って地に額をこすりつけて頭を下げた。
「――先に一つ答えてくれるか?」
タギは静かに言った。
「お前は生粋の鬼について知っているか?」
「生粋の鬼……?」
コウが訝しげに顔を上げた。
「ああ。人間が鬼になった奴でなく、最初から鬼の奴。知らないか?」
「いや……そんな話は聞いたことがない」
困惑したように答えるコウに、タギは息を吐いた。
「そう、だよな。前に会った鬼女の姫さんもそう言ってたしな」
ひとりごちて、タギはコウと嘉江に背を向けた。
「早くどっか行けよ。俺がぼーっとしている間に」
「……え」
タギは背を向けたまま言った。
「俺が薄らぼんやりしている間に奥方は鬼に攫われた。だから、早く行け」
コウと嘉江は唖然とした表情を浮かべていたが、すぐにコウは嘉江の手を取り立ち上がった。
「……恩に着る」
「恩返しを期待してるよ。鬼の恩返しなんて聞いたことないけどな」
タギは軽い調子で言ったが、コウは真剣そのものの声で言った。
「俺の首は必ずお前にくれてやる。どこへ行けばいい?」
「どこって言われてもなー……ああ、俺の名前は四境山多儀」
「シキョウザン、タギ……」
耳に馴染まない名前にコウと嘉江はどこか困惑したようだったが、タギは気にせず続けた。
「その名前を出せば、地方府程度の機関なら話が通る。四境山多儀に鬼殺しを頼みたいとでも言えよ。そうすれば多分会える」
「……わかった」
背後でコウと嘉江が立ち上がる気配がした。
「約束破ってみろよ? 三つの世を全部回ってでも必ず取っ捕まえにいくからなー」
「三つの世?」
何のことだと言いたげなコウの気配が伝わってきたが、タギは相変わらず背を向けたまま手をひらひらと振っただけだ。
「俺の地元の民間信仰。気にしなくていいから早く消えろって。わざと逃がしたなんて知れたら俺の首が飛ぶ」
「そう、だな。礼を言う。タギ」
「本当に……有難うございます」
「あーそういうのはいいよ。美人の未亡人に会えたから奥方は全部チャラ。鬼のほうは次に俺の前に現れる時は土産に酒でも持ってこい」
面倒くさそうにタギは頭をかいた。だが決して振り向くことはない。
「……このご恩、決して忘れません」
「いいっすよ、忘れても。俺は美人には優しいんで」
「ふざけた男だな。これで僧侶とは到底思えない」
コウの呆れ交じりの声に、タギは楽しげに言った。
「俺は生臭破戒似非坊主らしいんで」
「何だ、それは。本当にお前、僧侶なのか?」
「一応は。もういいから早く行けって。いつまで俺はぼんやりしてなきゃいけないんだよ」
「……そうだな。行こう、カエ」
「はい。兄様」
背後で強く風が吹いた。ふと顔を上げれば、雪は今にも止みそうだった。
タギは空を眺めながらその場に立ち尽くしていた。
遠くで寺院の鐘が鳴るのを聞き、タギは背後に振り返った。
そこには薄ら積もった雪上に二つの足跡が残るばかりで、それ以外は何もない。
「……さすがに冷えたな」
ずっと雪の降る中、外にいたのだから当然だが。
さてこれからどうするか。
少し考え、まずは暖を取ることにした。