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四話

 子供の頃、飢饉で飢えに飢え、働き手としても役に立たなくなって親兄弟に山に捨てられた。飢餓の苦しみと言うのは想像を絶するもので、早く死んで楽になりたいとすら思った。だけどその半面、呆気なく自分を捨てた親兄弟への恨みもあった。

 苦しみ、憎み、恨んで。そして気づけば飢えもなく、老いもなく、死もない存在に、鬼になっていた。

 鬼になって変わったことと言えば、通常の人間を遥かに凌ぐ怪力を得たことだろうか。外見は捨てられた当時のまま痩せぎすだというのに、大の大人が五人がかりでも動かせないような岩をも簡単に動かせるようになっていた。

 これが鬼になるということなのか。

 幼い頃に村の年寄りが鬼は恐ろしいものだと言っていたが、そう悪いものではないじゃないかと思った。

 酷い傷を負っても死ぬことはなく、永遠に若い体のまま、無双の怪力。

 何だ、人などより鬼であるほうが余程いいではないか。腹の底から暗い笑いが込み上げてきた。

 飢餓の苦しみ、捨てられた怨憎。

 それだけは鬼になっても強く強く、この胸に焼き付いていた。まるで鬼とはそういった感情を糧に存在しているのではないかと思うほどに強く。

 本能のまま、この身に燃える憎悪のまま、生まれ育った村へと帰った。

 そして満たした。

 湧き出る欲を、壊し食い散らかすことによって満たした。

 その日から、名実共に鬼になったのだ。


 鬼となったその日からどれだけの月日が経ったのかは忘れた。

 欲を満たしたあの日から自分の中には空虚ばかりで、放浪した先に見つけた岩屋に籠るようにして過ごした。時折鬼らしく、人里に下りて人間を襲ったりもしたが、後に残るのは虚しさばかりだった。死んでもいないが、生きてもいない。自分は非常に曖昧な存在となったのだとその時ようやく思い至った。

 生きても死んでもいない。そんなモノとして生きるようになって、初めてまともに接したのは、山に迷い込んできた子供だった。 

 自分が人間だった頃とそう変わらない年頃の娘。着物は襤褸(ぼろ)だが、今まで見たこともないほどに綺麗な顔立ちの少女だった。綺麗だが我が儘で子供っぽい少女は何故かその後も幾度も自分の元を訪ねてきて、勝手に兄呼ばわりしてきた。

 気づけば自分も彼女をカエと呼ぶようになり、彼女と会話することで自分がこの世に存在している、意思あるモノだということを実感が得られるようになっていった。 

 もう随分長い時間、他者と接することもなく過ごして、自分が存在しているのかどうかさえ疑わしく感じるようになってきた頃の出会いだった。

 カエといることが、自分の中で何より重要なことになっていた。

 老いない自分と違って彼女は人間だ。そう長く共に過ごすことはできない。出来るならどこか遠くへ連れ去ってしまいたい。そしていつか、彼女の最期を見届けて自分も死にたい。

 そんな夢想が生まれ始めた、カエと出会って初めての冬の頃。 

 カエが嫁入りしなければいけない、と言って泣きながら自分のところへ来た時、全てを捨てて自分と来てほしいと思った。

 彼女が望むなら、どんなことでも叶えよう。助けを求めるなら、何を犠牲にしても助けよう。そう、思った。 

 だが彼女の村の人間に襲われ、彼女は泣きながら嫁に行くから、もう会わないからと言った。それが自分のことを思っての言葉だということが痛いほどに伝わってきた。

 翌朝、全身に鋭い痛みを感じながら目が覚めた。散々殴られ蹴られ、そして谷底に突き落とされたのだった。それでもまだ死なないのかと冷めた心地で思った。

 体の痛みより、彼女ともう会えないという事実の方が辛かった。

 会いに行って攫ってしまえばいい。そう思うのに、鬼である自分と関わることで彼女を不幸にしてしまうのではないかと昨夜の件で思った。

 人と鬼は、違うモノなのだから。

 そしてしばらく眠ったように過ごした。カエはもう嫁に行ってしまったのだろうか。

 傷が癒えていくのを感じながら考えた。少しでも幸せであればいい。そう祈ることしかできないが、せめてほんの少しでも多くの幸せを彼女には得てほしい。

 

 人里では一体どれほどの時が流れたことだろう。

 死のない身で祈り過ごし、時の感覚すら忘れた頃。どういう風の吹き回しか、彼女の姿を一目見たいと思った。

 林田家とカエは言っていた。それは自分が人間だった頃から知られた大きな家だ。昔と変わっていなければ、どこに住居を構えているのかもわかる。

 一目だけでも見に行こう。

 そして山を降り、林田家のある村へと向かった。

 外見だけは人間であった頃と変わらないことにこれほど感謝したことはない。誰に訝しまれることもなく、すんなりと林田の屋敷のある村に辿り着いた。

 そして屋敷の裏門に回ってみた時、数名の人間が喚きながら出て来るのを見た。何でも林田の横暴に耐えかねて辞める奉公人達らしい。残った数名が何とか留めようとしたが、不満を募らせた奉公人達は聞く耳を持たず出て行った。

 どうやら現在の林田家は人手不足らしい。ならば自分のような得体のしれない者でも奉公人として中へ入り込めるかもしれない。出来るだけ哀れな孤児のふりをして、裏門で途方にくれる残った奉公人達に話しかけた。話を作り、同情を誘い、何でもすると嘯いて頭を下げ、そうしてとうとう林田の屋敷へ入り込むことが出来た。

 その頃にはカエと最後に会って、数十年の月日が過ぎていた。

 林田家はまともな食事も衣類も与えられない劣悪な環境下で、朝から晩まで重労働を強いられる場所だった。これでは確かに辞めたくもなるだろう。実際日に日に奉公人の数は減っていった。おまけに主の嘉兵衛は年甲斐もなく若い妾を屋敷中に住まわせ、一日中酒宴に興じているようなどうしようもない男だった。

 その息子の要蔵とやらも同じようなものだった。若い女中に手を出し、村を歩いては偉そうな顔をして帰ってくるつまらない男。

 だがカエの姿は見当たらない。

 カエの……奥方様の食事を運ぶのは、若い女中の役目だった。 

 奥方様とはどんな方なのか、と一度彼女に聞いてみた。すると女中は教えてくれた。とても美しい方だけど子が流れて以来、屋敷の離れに隔離するようにされているのだ、と。

 目の前が真っ赤になった。

 幸せになってくれと祈った。

 祈っても、届かなかったのだと知った。

 やはりどんな手段を使ってでも彼女を攫ってしまうべきだったのかと後悔の念が湧いてきた。

 そして怒りを辛うじて抑え込み、女中に『奥方様の食事を運ぶ役目』を譲ってもらい、会いに行った。

 彼女は自分を覚えているだろうか。

 一抹の不安を覚えながら、離れとは名ばかりの蔵へと向かった。

 そこで対面した彼女は自分と出会ったころの無邪気な明るさなどどこにもなく、体も弱っていた。目も弱っていてあまりよく見えないのだと女中は言っていた通り、自分がかつて共に過ごした鬼だということに彼女は気付いてはいないようだった。

 食事を置きながら、彼女に新入りの奉公人である自分の名を聞かれた。

 その時に気付いた。自分は彼女に名を名乗ったことはなかったのだと。

 兄様、兄様といつしか呼ばれるようになり、それが自分を表す言葉であるかのような錯覚に陥っていたのだ。

 だからカエは気付かない。コウ、と自分の名を名乗ったところで気付かない。たとえ名を知っていたとして、五十年前と全く姿かたちが変わらない相手が現れても同一人物だとは思わない。

 五十年ぶりの再会は酷く胸が痛んだが、それからもたまにカエの元へ食事を運ぶ役目を引き受けた。

 彼女が覚えていなくとも、自分のことなど気付かずとも、それでも共に過ごしたかった。

 それからカエは少しずつ話をしてくれるようになった。その大半が離れの小さな窓から見える庭の話や、季節の話などだったが、そのうちに自分の昔話をしてくれるようになっていった。

 ある日、カエはかつて鬼の友人がいたのだと言った。

 兄様と慕ったその人を傷つけてばかりだったのだと、懺悔するように呟いた。

 そんなことはない、と叫びそうになった。

 だが自分の正体を明かす気にはなれなかった。鬼といることで彼女をますます不幸にしてしまうのではないかという恐怖は今もまだ根強く残っていたから。

 一度彼女に聞いたことがある。この家にいることは苦痛ではないのか、と。

 だがカエは薄く笑って言った。

 これは自分が受けるべき罰だと。

 だが彼女に何の罰を受けるべき咎があるというのか。貴女に罪などない、そう言うとカエは有難うと笑ってくれた。

 泣きたくなるほど、儚く美しい笑顔で。

 そうして蔵を後にした時、聞こえてしまった。

 蔵の小さな窓から、「助けて」と小さく発せられた彼女の言葉を。

 約束を果たさなければと思った。

 その晩、喜兵衛が庭でカエの蔵を見ながら「あれもいい加減目障りだな」と呟くのを聞いてしまった。カエを「あれ」と呼び、自分の勝手でこんな場所に繋ぎとめておきながら不要などと言う男。

 気づけば喜兵衛に飛びかかり、全身の力を込め締め上げていた。

 ほんの僅かな時間のことだった。

 自分が嘉兵衛を殺した。

 翌日、嘉兵衛は鬼に殺されたのだという話が上がり、奉公人たちは皆鬼を恐れ逃げ出し、後に残ったのは自分と要蔵のお手付きの女中のイヨだけだった。

 ますますせわしなくなった日々の中、イヨと交互にカエのもとへ食事を運んだ。

 喜兵衛が死んで解放されると思ったが、カエはやはり蔵に捕らわれたままだった。それとなく要蔵に聞いてみるとカエは嘉兵衛の遺産の相続人であり、ここで外に出しては遺産の大半を持っていかれてしまうのだと憎々しげに言われた。

 金のためにカエはまだここに捕らわれるのか。

 今後どうするかを決めあぐねているうち、カエの体調が日に日に悪くなっていった。

 酷く咳き込み、体に妙な斑点が浮かび始めた。要蔵に医者に診せるよう進言したが、冬場はいつもこうなのだと取りつく島もなかった。だがやはりカエの容体は日に日に悪化していくようにしか見えなかった。原因もわからず、何もできない。無理をしてカエを連れ出して医師に診せるべきなのだろうか、だが無理に外に連れ出して何かあったらどうする。

 自分の無力さに心底嫌気がさした頃、二人の男が林田家を訪れた。

 帝都から出向してきている官吏だという洋装の男と、鬼殺しだという有髪の僧侶が。

 二人の客人をカエの元へ案内すると、席を外すように言われた。だが、身分あるらしい彼らの力を借りればカエを助けることが出来るのではないかと思い、蔵を出るふりをして蔵にたった一つある小さな窓の下の茂みに隠れるように座り込み、中の会話に耳をすませた。

 すぐに洋装の男のほうも蔵から出てきて母屋へ帰って行き、カエは僧侶と二人で話をしていた。

鬼の話。

 自分の、話。

 もうずっと昔の。

 それから聞こえてきた、カエの体調が悪化していく本当の理由。

 毒。 

 要蔵の奇妙な植物。

 それが、毒。

 それが食事に盛られ、彼女の体を蝕んでいった。

 毒を食事に盛ったのはイヨだろう。要蔵の指示かどうかは知れない。

 だが、確かなのは自分もその毒を彼女の元へ運んでいたということ――。

 日が落ちかけている。

 気づけば母屋へと走っていた。そしてイヨに詰め寄った。

 カエの食事に毒を盛っていたのか、と。

 イヨは当初、白を切っていたがやがて認めた。カエが死ねばその遺産は要蔵の元へ転がり込み、そうすればイヨは要蔵と結婚してこの林田家の妻となれるのだと。あの老いぼれにそんな大金などいらないだろう。

 そうイヨが醜く顔を歪めて言った瞬間、その首に懇親の力を込めて手をかけていた。

 憎悪が内を支配する。まるで心臓という器官が憎悪に取り替わられたかのようだ。血を滴らせ、廊下を歩きながらそう思った。

 そして奥座敷の(ふすま)を開け放つと、そこでは要蔵と洋装の官吏が話をしていた。

 突然開かれた襖に驚き無礼なと怒る要蔵に言った。嘉兵衛を殺した鬼は自分だと。そしてお前の手付きの女中も殺したと。

 女中の血に染まった両手を見た要蔵は見ていて滑稽なほどおののき、何が望みかと聞いてきた。望みの物は何でもくれてやる、と命乞いをしてきた。

 ……望みの物。そんなものは決まっている。

「カエの命」

 そう答えて、及び腰になっていた要蔵に手をかけた。理性を失くした獣のように。

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