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三話

「結婚して五年ほどは夫となった喜兵衛は私にあらゆる贅沢をさせ、人形のように着飾らせてきました。ですが子が流れてしまった後、喜兵衛は私に飽き(めかけ)を囲うようになりました。以来、私はこの離れにおります。世話役の方と稀に気が向けば訪れる喜兵衛以外の方とお話しするのも久しぶりです。最後に外へ出たのはまだタギ殿とそう変わらぬ歳の頃でしたから」

 つまりおよそ四十年、彼女はこの蔵のような離れに隔離されているということだ。

「するとやはり、要蔵サンというのは奥方の子じゃなく?」

「ええ。喜兵衛がよその女性に産ませた子です。他に跡取りとなる男子が生まれなかったので引き取られたと、世話をしてくれる奉公人の方に伺いました」

 ああ、それで要蔵はあまりよその人間と嘉江を接触させたがらなかったのか。

 人間を四十年も閉じ込めたということが地位も力もある官吏の耳にでも入れば、立場が危うくなるから。

「……長いですね。四十年は」

 タギが生きた時のおよそ二倍。想像もつかない長さをこの女性はこの小さな蔵で過ごしてきたのだ。

 嘉江は曖昧に笑った。

「短くはありませんでしたね。ですがこれもまた兄様を巻き込んだ罰と思い、受け入れました。ですがここ数年、私もすっかり体が弱り一人では満足に歩くこともできず、目も弱り、気が弱くなってしまった。そして……私は口にしてしまったのです」

 嘉江はきつく眉根を寄せ、目を伏せた。

「助けて、と」


 ――カエが助けてくれと言うのなら、何処へでも助けに行くから。 


 鬼の彼と交わした約束の言葉を。

 たった一度口にしたその言葉。

 それから半月もしないうちに、喜兵衛は死んだ。

「……兄様が、喜兵衛を殺したのでしょうか」

 虚ろな目が窓の向こうへと向けられる。

「兄様は優しい人でした。あれから五十年も経っている。私のような子供との一時の約束を覚えているとも、今もまだこの地に住んでいるとも確証は持てません。ですが……もしも、と考えてしまうのです。私の言葉が、兄様を殺人へと駆り立ててしまったのでは、と」

 その目から、一筋の涙がこぼれた。

「喜兵衛を殺したのが兄様だとしたら、私が助けてくれなどと言ったせいです。私は、あの人を傷つけ続ける……!」

 吐き出すように言うと嘉江は激しく咳き込み始めた。

 タギは背をさすり、出されたまますっかり冷めてしまった茶を飲ませようとするが、嘉江は苦しげな音を発し、そしてまた咳き込むことを繰り返した。

「今、誰か人を……」

「いえ……だいじょ、ぶ……」

「そういうわけには」

 タギが立ち上がりかけた時、両手で押さえこまれていた嘉江の口元から赤いものが吹き出した。袖口から除く細い腕を伝い、赤い血が浴衣と寝具を濡らしていく。ひゅーひゅーと苦しげに息をしながら嘉江は尚も咳き込み、背もたれから流れるように倒れこんだ。その袖から覗く細くやつれた腕には、薄い青紫色の斑点。

「これ、は」

 タギは嘉江の腕を取って息を呑んだ。

「奥方……貴女は」

 嘉江は呼吸を整えながら、今にも壊れそうな笑みを浮かべた。

「罪には罰が、必要でしょう……?」

 タギはほんの一瞬、涼しげな顔に苛立ちを浮かべてから懐から竹筒に入った丸薬を取り出して強引に嘉江の口に入れ茶で流し込んだ。呆気にとられたようにしていた嘉江にタギは厳しい声音で言った。

「俺の友人が薬種に詳しいんです。奥方の症状は、今飲んだ薬で程度緩和させられるはずだ」

 嘉江は次第に呼吸が落ち着かせながら、タギから目を逸らした。

 それを追うタギの表情と声は低く厳しい。

「貴女は、いつから毒を飲んでいたんですか?」

「さぁ……いつからでしょう。気づけば食事に混ぜられていたようなので、私にもよくわかりません」

「貴女が飲んでいる毒は、この屋敷の庭で要蔵が育てているとか言う珍しい植物から採取されるものだ」

「そうでしたか」

 嘉江は表情一つ変えない。

 知っているのだろう。要蔵が、義理の息子が自分の死を望んでいることを。

「緩やかに人を死に至らしめる、いくつかの地方では取り扱いに資格と許可が必要となる、毒だ」

 ようやく嘉江の呼吸が落ち着き、彼女は袖口で血のついた口元を拭った。

「危険な植物、なのですね」

「ええ、とても」

 タギは答え、水瓶の中から椀に水を汲んできて嘉江に渡した。

「毒と気づいていて緩やかに死んでいくことが、貴女なりの罪の償い方ですか?」

「……ええ」

 水を一口含んで嘉江は答えた。それからタギの顔を見た。

「もう私は、長くはないのでしょう?」

 タギはしばらく黙ってから、小さく頷いた。

「薬を飲んでも、貴女の体を蝕む毒は全身を回っている」

「そうですか。道理で近頃は特に体が弱っていっていると思いました」

 微かに笑い、嘉江はよろめきながら立ち上がろうとした。反射的にタギは彼女に肩を貸し、何とか支えた。

「外へ出たいのです。少しの間、肩を貸しては頂けないでしょうか?」

「わかりました」

 一歩一歩。今にも崩れ落ちそうになりながらも、嘉江子は自分の足で歩いて行く。

「今日は雪なのですね」

「ええ。さっき降ってきてましたね」

「そうですか。……そういえば兄様と最後に会った時も雪だった」

 掠れる声で呟き、裸足のまま嘉江は蔵を出た。

 タギが自分の草鞋(わらじ)を貸そうとしたが彼女はそれを断り、蔵の壁を支えに雪の上に一歩足を踏み出した。

「ああ、冷たい。雪はこんなにも冷たいものでしたか」

 どこか嬉しそうに嘉江は言った。

 いつの間にか日は落ちていたが、雪明りで辺りは薄らと明るい。

 嘉江は一本の木を見て頬を綻ばせた。

「これは……椿ですか?」

「多分、山茶花(さざんか)ですね。寒椿(かんつばき)とも言うらしいですが。花には詳しくないので保証はできませんが」

 恐らく嘉江も言っていた通り弱った目ではもうよく見えないのだろう。指でなぞるようにして、その形を確かめていっている。

「昔から蔵の中からはいつも見ていましたが、こうして間近で見るのは初めてです」

 白い手をそっと伸ばし、赤い花弁に触れると積もっていた雪が落ちた。

 こうしているととても年齢を重ねた人には見えない。

 まるで少女のままのような人だ。

「――タギ殿」

 嘉江の触れた赤い寒椿が首から落ち、雪に赤い花弁を広げた。

「はい」

「どうか私の願い、聞き入れては頂けないでしょうか」

「話によってはですが」

「……鬼殺しの貴方にこのようなことをお願いすることはおかしいとは思いますが、喜兵衛を殺したのがもしも鬼だったとしても、殺さないで下さい」

「罪を見逃せと?」

 淡々としたタギの言葉に嘉江子は黙り込んだ。

 タギは白い息を吐き出し、寒椿から屋敷の母屋へと視線を移した。そして眉を顰める。

「この家は、夜が来ても灯りをつけない主義でも?」

「え?」

 タギの不審げな声につられるように、嘉江も母屋を見た。

 屋敷の母屋には一つの灯りもついていない。

「おかしいですね……出かけたのでしょうか」

「官吏のもてなしに外で食事、とあの息子サンなら考えられそうですけど、それでも誰もいないってことはないでしょうしね」

 それにあの要蔵という男の性質なら、外へ連れ出すより屋敷内でもてなしたがるとも思うのだが。そもそも食事に出るのなら、一応辻堂が呼びにきてくれるだろう。

「何か妙だな」

 雪の静けさがそう思わせるのか、妙に張りつめた空気が肌に痛い。

 深々と雪は降っている。白に世界を染めていく。

 何故かそれがやけに恐ろしいと感じた。

「……俺は少し母屋を見てきます。それから色々と話をしなければなりませんけど」

「はい」

「とりあえず一度離れに戻って待って」

 タギが彼女の手を引いた瞬間、全身が総毛立った。

 反射的に背後を振り返ると、そこには雪明かりに照らされる小さな影があった。

「彼女をその牢獄に戻す気か?」

 少し高い声が尋ねる。

 ぽたり、ぽたりと何かがその手を伝って滴る。

 それは寒椿と同じ色。

 赤が滴り落ちる足元には、要蔵の集めたという珍しい植物が無残に踏みつけられている。

 その細い足が一歩、雪を踏みしめタギに歩み寄った。まっすぐに見上げて来る目には深い闇。タギの目に映った、その細い手足や顔には無数の赤が。

 雪明かりに照らされ白い頬を赤が伝う。

 タギは深く息を吐き、嘉江に渡していた錫杖を手に取った。

「お前が鬼か」

「まぁね」

 愛想の欠片もない素っ気ない声に溜息を吐きたくなる。

「猫、被ってたのかよ」

「愛想をよくしておくと人の間に紛れやすいんだ」

 それは初対面のおしゃべりで愛想のよい少年という印象からは程遠い調子。

「おかげでこの家にも潜り込めた」

 林田家の奉公人の少年、コウは冷ややかな声音でそう言った。 

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