本当は優しい「かちかち山」
昔話の「カチカチ山」を元にした、悪者が一切出こない物語。
むかしむかし、お爺さんとお婆さんが、人里離れた山の一軒家で畑を耕し暮らしていました。
優しい二人は山に住む動物たちととても仲良しでした。
***
「ギヒャ! ギヒャハハハハハハハハッハアァァァァァァアァァァーッ!!
死ねええぇぇぇぇぇぇーっ!! ウサギぃぃぃいいいいいいぃいっ!!!」
僕に向かって奇声を上げたお婆さんが、その手にした出刃包丁を握り振りかざして、土間から跳躍し、いろりを飛び越える。
肌は紫色に変色し、瞳は赤黒く染まる。耳まで裂けた口から鋭い牙が覗き、振り乱す白い髪からは二本の角がにょっきりと伸びていた。
冷たい板間に追い詰められた僕は、長い両耳をペタンとしたまま震える声を絞り出した。
「お、お婆さん……お、鬼にっ!?」
『鬼』、それは全身紫色で頭に角の生えた異形の怪物だ。
鬼に噛まれた生き物はやがて鬼となってしまう。病気なのか、呪いなのか、本当の事は解らない。
個人差はあるけど、たいていの鬼化した者は理性を失い、湧き上がる暴力衝動に突き動かされ、生き物を殺さずには居られなくなるって言われてる。
「ギヒャハハハハーッ! その可愛らしいお腹の中に詰まった内臓を拝ませておくれエエエェェェェェーッ!!!」
毎日、僕の身体を優しく撫でながら、長い耳や丸いしっぽを褒めてくれたお婆さん。
それが今は、唾を垂れ流した口から残忍な言葉を吐き、にじり寄ってくる。
僕の足ならお婆さんの脇をすり抜けて逃げる事が出来るはずなのに……
お婆さんが鬼化した衝撃に、身体に力が入らない。
怖くて、怖くて、逆立った体毛をブルブル震わせ縮こまる。
「ギヒャハハハハーッ! 死ねエェェェェェェッ!!」
禍々しく爪の伸びた手に握られた包丁が、目の前で振りあがる。
僕は涙があふれる瞳をギュッと閉じた――
「ばかやろう! ウサギ! 何やってやがる!!」
罵声といっしょに何かがぶつかる鈍い音が響く。
恐る恐るまぶたを開けた僕が見たのは、毛むくじゃらの黒い影と鬼化したお婆さんが、激しく取っ組み合う姿だった。
影と鬼がいろりの上を転がると、灰がざらつく匂いを伴い、もうもうと部屋中に立ち込める。
ドタバタと格闘する音が続き、やがて静かになった。
舞い上がった灰がゆっくりと沈んでいく――
そこには、しっぽを膨らませたタヌキ君が、息を荒げて立っていた。
「タ! タヌキ君!!」
タヌキ君は山のみんなから乱暴者だって嫌われてる。
けれど僕は違うと思ってる。
確かに言葉も態度も少し乱暴だけど、本当は勇敢な優しい奴だって。
現に今、脅えて何もできない僕を助けてくれた。
「何で逃げねーんだよ! 腑抜けにも程があんだろうが!」
「ご…ごめんなさい僕………… ヒイッ!」
謝る途中で、僕は思わず悲鳴を上げた。
鬼が手にしていた包丁を、今はタヌキ君が前足に持っている。
べっとりと付いた鮮血が、刃先からポタポタと滴る。
そしてタヌキ君の足もとには、首を切断された鬼が横たわっていた。
パキャパキャと鬼の体内から不気味な音が鳴り始め、その醜悪な造形が変化していく。
肌や口や爪が人間に戻っていき、二本の角は縮んで見えなくなった。
そこに、首と胴体が離れている以外は、以前と同じ優しいお婆さんの姿があった。
恐怖から悲しみに変わった絶望の涙が、僕の頬をつたう。
「うああぁぁぁ……お婆さん! なんでこんな事に……
お爺さんに何て言ったらいいんだ……」
タヌキ君が歯を食いしばり呟く。
「山に上位種の鬼がいやがった」
鬼化した生き物の中には、ごくまれに上位種となる鬼がいる。
上位種は、鬼になる前の姿に戻る事ができる上、ある程度理性を保てるらしい。
「ネズミのやろーだ」
「ネズミさんが!?」
ネズミさんは、数日前からこの山に滞在している旅人だ。
無口で一言も話さないので、気味の悪い感じだった。
お婆さんは、あいつにかじられたのか……
「ネズミの野郎、この俺様を襲って来やがった! まあ返り討ちにしてやったがな!」
「タヌキ君……それって……」
事も無げに発したタヌキ君の言葉に、僕は唾を飲み、喉を鳴らした。
「それよりも、これからどうすっかだ……。
いいかウサギ。俺様の言う通りにするんだ」
タヌキ君は葉っぱを一枚取り出すと、頭にのせて「どろん!」と言った。
鼓を叩いた様な音と共に、タヌキ君の全身を煙が包みこむ。
煙が消えるとそこには、体毛がまだらな紫模様に変わり、頭に角の生えたタヌキ君の姿があった。
本物の鬼化じゃない、タヌキ君が得意の変身で、鬼化した姿に化けたんだ。
「もうすぐ爺が畑からかえってくる。爺には鬼化した俺が婆を殺したって言うんだ!
間違っても婆が鬼になったなんて言うなよ!」
「ま、待ってよ! それじゃ僕を助けてくれた、タヌキ君が悪者に………痛っ!」
タヌキ君の後ろ脚が僕の顔を踏んづけた。
「テメー、爺に婆が鬼になって死んだなんて言えんのか!?」
「そ、それは……言えないけど……」
鬼になった者の魂は、死んでも極楽に行けず、永遠に地獄をさまようと言われている。
それは噂の類の話だ。
けれど、長年連れ添ったお婆さんが亡くなっただけでもお爺さんは辛いのに、
さらに「魂が地獄をさまようかもしれない」などという残酷な可能性まで告げるなんて、とても出来なかった。
「俺様からの命令だウサギ! 爺には“お前が婆の仇を必ず取る”って言うんだ。
俺様は山の湖で待ってる。
婆の弔いが済んだら一人で会いに来い! 逆らったらぶっ飛ばすかんな!」
僕にはタヌキ君の考えがよくわからない。
けれど、恐い鬼の姿で怒鳴られたから、ビク付きながら頷いた。
「わ、わかったよ……」
その時、家の入口からお爺さんの声がした。
「おい婆さんや、今かえったぞい」
開けっ放しの玄関引き戸の前に、白い髭のお爺さんが立っている。
「ギシャアアァァァァァァーッ!!」
タヌキ君が即座に鬼の奇声を上げ、お爺さんに突進し、飛び上がった。
「婆の命は俺様が頂いたぜエエエェェェェェーッ!! ギヒャハハハハーッ!」
鬼はお爺さんの頭を飛び越え、捨て台詞を残して走り去っていった。
そして……
一軒家にお爺さんの悲痛な叫び声が響き渡った。
絶望に泣き崩れるその声を、僕は耳を垂らし聞きつづける事しか出来なかった――
*
お婆さんのお弔いが済んだ後、僕は命令通り山の湖にやって来た。
湖の岸に見たこともない小舟が留めてあった。土を固めて造られた土船だ。
タヌキ君は大量の柴を土船に積んでいる最中だった。
抱えた柴を土船に積みながら、タヌキ君が僕を横目で見る。
「どうだ、ウサギこの土船! 俺様の手作りだ、素人にしちゃいい出来だろ。
爺にはお前が婆の仇を取るって言って来たか?」
「う…うん、ちゃんと言ってきたよ。
でも…これからどうするの? タヌキ君」
「この土船に乗った俺様を、お前が焼き殺して仇を討つんだ」
「なっ! 何言ってんの!?? タヌキ君!!
わかった! お芝居だよね? 死んだ事にするっていう……」
「芝居じゃねえ、俺様はこれから本当に死ぬのさ」
「ど、どういうこと!?? 意味がわからないよ!!」
声を裏返らせた僕に向かい、タヌキ君がゆっくりと左前足を上げた。
前足のつけ根には、体毛がゴッソリと無かった。
露わになった皮膚には、何かに噛まれたキズ跡が刻まれていた。
「婆とやり合った時、噛まれちまった。俺様としたことがドジっちまったぜ」
「ああぁ……そ、そんなぁ……僕のせいで……」
鬼に嚙まれた生き物はやがて鬼になる。
僕は理解した。
タヌキ君は自分が鬼になる前に、死のうとしているんだって――
「泣くなウサギ! うっとおしい!! 嚙まれちまったもんはしょうがねぇ。この山からバカな乱暴者が一人いなくなるだけだ」
タヌキ君は土船に乗ると、火打石を取り出した。
「お前が柴に火を付けろとは言わねーよ! 火は俺様が付ける。
ウサギは優しすぎるからな、流石に酷だ。
火がついたら船を蹴って湖に押し出してくれ。そんくらいはできんだろう」
ちがう……僕は優しくなんてない……ただ臆病で弱虫なだけだ。
本当に優しいのはタヌキ君だ。
君はどうしてそんなに優しいんだ――
どうしてそんなに勇敢なんだ――
「じゃあなウサギ、爺の面倒は頼んだぜ」
カチッ、カチッ
タヌキ君が火打石を叩き柴に火をつけようとした――その時、
「うぐっぅうううう」
タヌキ君が火打石を落とし、苦しそうに胸を押さえた。
全身の毛が逆立ち、紫色に変色していく。頭からは二本の角が成長していく。
「ち、ちくしょう……手が動かねえ……身体が熱い……鬼化がはじまっちまった。
ウサギ…逃げろ……俺様が鬼になりきる前に…………ああ、ダメだ。殺し…たぃ……誰かを殺してえぇ…………クソッ……命令だ……逃げろウサギィ!」
「う、うん……」
僕は命令に従い逃げ出した。
走る僕の長い耳に、タヌキ君が微かに漏らす呻き声が届く。
「いやだ…鬼になんか成りたくねえ……鬼は嫌だ…俺はもう誰も殺したくないんだ……
鬼はいやだぁ……殺すのはいやだぁ……」
僕は立ち止まり振り返った。
タヌキ君は小刻みに震え、瞳からは赤い血の混じった涙が流れていた――――
カチカチ カチカチ カチカチ カチカチ カチカチ
火打石を繰り返し叩く音が山の湖に広がった。
打ち付けた火打石から、無数の火花が飛ぶ。
僕は命令に背いた。
土船に戻って、タヌキ君の落とした火打石を拾い、積まれた柴に向かって叩いた。
タヌキ君は驚いた顔をしたけど、何も言わなかった。
耐えがたい殺戮衝動と必死で戦い理性を保っているのか、苦悶の表情のまま黙って僕を見ている。
柴から焦げ臭い煙が上がり、パチパチと音を立てて炎が上がると、僕は土船の後ろにまわり、湖に向かって押し出した。
炎が勢いを増し、タヌキ君の身体を白い煙と共に包んで見えなくなる。
燃え上がる炎を水面に反射させ、船は湖のまん中まで進んで止まった。
揺らめく炎の中から、絞り声が静かに聞こえた。
「……あんがとな……ウサギ…………」
赤い炎とは裏腹に、土船には徐々に水が染み込み黒色の泥船になっていく。
柴が燃え尽きて炎の勢いが弱まりかけた時、泥船は真ん中から割れ、
ブクブクと音を立てて湖の底に消えていった――――。
「ううわああああああああああああああぁぁぁぁぁん!
うわああああああああああああああぁぁぁぁぁん!
ごめんよぉぉぉぉぉぉっ! ごめんよぉぉぉぉぉぉっ!
うわああああああああああああああぁぁぁぁぁぁん!!」
僕の叫び声が湖を渡り山にこだましていた。
僕は泣いた。泣き続けた。
僕が殺したのは鬼じゃない。
誰よりも優しいタヌキ君だ。
「うわああああああああああああああぁぁぁぁぁん!
うわああああああああああああああぁぁぁぁぁん!」
日が暮れて満月が湖面にユラユラ揺れ出しても、涙は止まらなかった。
僕はいつまでもいつまでも泣き続けた――
*
お日様が高く昇るころ、僕は湖を離れた。
山の一軒家が見える所まで来ると、顔をゴシゴシ擦り涙の跡を消す。
まだ眼が赤いし、声もガラついて震える。
頬っぺたをピシャリと叩き、両耳を立てる。
大きく深呼吸をして走り出した。
必死で声を作り、家の中のお爺さんに呼びかけた――
「お…お爺さん! お婆さんの仇は…取ったよ!」
―― おしまい ――
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