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証明終了Q.E.D. ―論理を否定された僕は姿を消し、君たちの後悔は永遠に届かない―  作者: ledled


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最終話 Q.E.D.(証明終了)

あれから、五年という歳月が流れた。

季節は巡り、世界は少しずつ形を変えていったが、私の止まった時間だけは、あの日のまま澱んでいた。


都内の片隅にある、築三十年の木造アパート。

ここが今の私、藤宮玲奈の住処だ。

薄汚れた壁紙。建て付けの悪い窓。隣の部屋からは、テレビの音が漏れ聞こえてくる。かつて海人くんと将来を語り合った、あのお洒落なカフェや、夢見ていた煌びやかな未来とは、あまりにもかけ離れた現実がここにある。


「ただいま……」


誰もいない部屋に向かって呟く。返事は当然ない。あるのは、冷蔵庫がブーンと低い唸り声を上げている音だけだ。

私はスーパーのレジ打ちのパートを終え、重い足を引きずって帰宅したところだった。大学を休学し、そのまま復学することなく中退した私には、まともな就職先などなかった。

「あの事件」の噂は、ネット上にデジタルタトゥーとして残り続けている。採用担当者が私の名前を検索すれば、過去の愚行はすぐに露見する。だから、目立たないように、ひっそりと日陰を歩くような仕事しか選べなかった。


コンビニで買った冷たい弁当を電子レンジに入れ、温まるのを待つ間、私はいつものようにスマートフォンを取り出した。

YourTubeのアプリを開く。これが私の唯一の娯楽であり、同時に自傷行為にも似た日課だった。


おすすめ動画のリストを無意識にスクロールする。

美容、料理、ペット動画。そんなありふれたサムネイルの中に、一つだけ、私の指を止めさせる動画があった。


『【独占取材】世界が注目する若き天才データサイエンティスト。真実を見抜くアルゴリズムとは』


再生回数は数百万回を超えている。サムネイルに写っているのは、海外のニュース番組の切り抜きのようだ。

そこに写っている男性の横顔を見て、私の心臓が早鐘を打った。

眼鏡のフレームの形は違う。髪型も、学生時代より短く整えられ、洗練されている。

でも、間違えるはずがない。

その理知的な瞳。筋の通った鼻梁。そして何より、どこか遠くを見つめるような静かな佇まい。


「……海人、くん?」


震える指で、動画をタップした。

短い広告が永遠のように長く感じられた。

やがて、本編が始まる。

画面の中の彼は、流暢な英語でインタビュアーの質問に答えていた。字幕が画面下部に表示される。


『本日のゲストは、北米工科大学の准教授であり、次世代AI研究所の主任研究員も務める、ミナヅキ・カイト博士です』


ミナヅキ。水無月。

そうか、彼は名前を変えたんだった。一ノ瀬という、忌まわしい記憶に繋がる名前を捨てて。


画面の中の彼は、私が知っている「一ノ瀬海人」よりも、ずっと堂々としていた。

学生時代の彼は、自分の正しさを理解してもらえないもどかしさからか、どこか卑屈さや、焦りのようなものを漂わせていた。けれど、今の彼には微塵の揺らぎもない。自分を受け入れ、評価してくれる環境に身を置いた人間特有の、圧倒的な自信と余裕が満ち溢れていた。


『博士が開発されたディープフェイク検知システム「Veritasヴェリタス」は、国際的なセキュリティ標準として採用されましたね。開発のきっかけは何だったのですか?』


インタビュアーの質問に、彼は穏やかに微笑んだ。その笑顔は、かつて私だけに向けてくれていたものよりも、ずっと大人びていて、そして遠い。


『現代社会において、情報はあまりにも簡単に歪められます。真実が感情や悪意によって塗りつぶされ、多くの悲劇が生まれてきました。私は、論理とデータによって、誰もが公平に真実へアクセスできる世界を作りたかった。それだけです』


『なるほど。非常に高潔な動機ですね。一部のメディアでは、あなたの過去の個人的な体験が影響しているのではないかと噂されていますが?』


その質問が出た瞬間、私は息を呑んだ。

画面の向こうの彼と、目が合ったような気がした。

彼は一瞬だけ視線を伏せ、それからカメラをまっすぐに見つめ返した。


『過去、ですか』


彼は困ったように少しだけ肩をすくめた。


『確かに、昔の私は未熟でした。論理こそが全てだと信じ、人の感情という変数を軽視していた時期もありました。ですが、今の研究に没頭できる環境があることだけが、私にとっての重要事項です』

『では、過去にあなたを傷つけた人々への恨みなどは?』


インタビュアーが踏み込んだ質問をする。

私はスマホを握りしめた。

恨んでいてほしい。憎んでいてほしい。

そうすれば、私という存在は、彼の中でまだ「敵」として生きていることになるから。

忘れ去られるよりも、憎まれる方がまだ繋がりがあると思えるから。


しかし、彼の口から出た言葉は、私の淡い期待を無残に粉砕するものだった。


『恨み? いいえ、全くありませんよ』


彼は爽やかに、心底不思議そうに答えた。


『彼らのおかげで、私は自分に合わない環境から抜け出す決断ができました。それに、今の私は研究で忙しすぎて、過去の雑音ノイズを振り返る暇がないんです。顔も名前も、もう思い出せませんね』


ノイズ。

顔も名前も、思い出せない。


プツン、と何かが切れる音がした。

スマホの手から力が抜け、床に落ちた。

画面の中では、まだ彼が何かを話しているが、もう音は耳に入ってこなかった。


彼は、怒ってすらいなかった。

復讐なんて考えてもいなかった。

ただ、私を忘れていた。

道端の石ころや、通り過ぎた風景の一部のように、記憶の彼方へ葬り去っていたのだ。


「あ……あぁ……」


喉の奥から、嗚咽が漏れた。

悔しかった。悲しかった。

私がこの五年間、毎日毎日、彼のことを考えて、後悔して、泣いて暮らしていたのに。

彼は一秒たりとも、私のことなんて考えていなかった。

新しい名前で、新しい場所で、新しい仲間たちに囲まれて、光り輝く未来だけを見て生きていた。


これが、本当の復讐なんだ。

ナイフで刺されるよりも、罵倒されるよりも、深く深く心を抉る。

「君の存在には、記憶のリソースを割く価値すらない」という、完全なる無関心。


床に転がったスマホの画面で、インタビューが終わろうとしていた。

最後に彼がカメラに向かって手を振る。

その薬指には、シンプルなプラチナのリングが光っていた。


「……嘘」


結婚、しているの?

誰と? どんな人と?

きっと、私みたいに感情的で、彼の話を信じないような女じゃない。

彼の論理を愛し、彼の言葉に耳を傾け、彼を支えられる、賢くて素敵な人なんだろう。


私があの時、手放してしまった未来。

私が隣にいるはずだった場所。

それが永遠に失われたことを、その小さなリングが残酷に証明していた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……海人くん……」


狭いアパートの部屋で、私はうずくまり、子供のように泣きじゃくった。

電子レンジがチン、と鳴った。

温めすぎて破裂した弁当の匂いが、鼻をつく。

私の日常は、これからもこの薄暗い部屋と、終わりのない後悔の中に続いていく。

彼が光の中で高く飛翔すればするほど、私は自分の愚かさという沼の深さを思い知らされるのだ。


同じ頃。

かつて一ノ瀬海人を陥れた男、真田亮介もまた、とある場所でその映像を目にしていた。


場所は、郊外にある産業廃棄物処理場の休憩室。

油と埃にまみれた作業着姿の真田は、休憩時間に同僚が見ていたスマートフォンを横から覗き込み、凍りついていた。


「おい、真田。これ、お前と同じ大学出身の奴じゃないか? すげえな、世界的権威だってよ」


同僚の男が無神経に言った。

真田の手には、泥水のように濁った缶コーヒーが握られている。

彼の顔は、五年前とは別人のように老け込んでいた。頬はこけ、目は落ちくぼみ、かつての自信に満ちた表情の面影はない。


「……あ、あぁ……」


真田の喉から、掠れた声が出た。

画面の中のミナヅキ・カイトは、光り輝いていた。

自分が欲しくてたまらなかった名声、地位、称賛。その全てを身に纏っていた。


一方、自分はどうだ。

大学を追放され、実家を勘当され、内定を取り消された。

ネットには実名と顔写真が晒され続け、まともな職には就けなかった。

日雇いの肉体労働を転々とし、安酒とパチンコで憂さを晴らすだけの日々。

「あいつさえいなければ」と恨み言を吐き続けてきたが、その対象であるあいつは、自分など歯牙にもかけていなかった。


「ふざけんな……ふざけんなよ……!」


真田は震える手で缶コーヒーを握りつぶした。

黒い液体が作業着にかかるが、気にも留めない。


「俺はこんなところで這いつくばってるのに! なんでお前だけ! なんでお前だけ幸せになってるんだよ!」

「おい、どうしたんだよ急に」

「うるせえ! 見るな! 消せ!」


真田は同僚のスマホを振り払おうとして、突き飛ばされた。


「何しやがる! 頭おかしいんじゃねえか? だからお前はいつまで経ってもクズなんだよ」


同僚たちが冷ややかな目で彼を見る。

その視線は、五年前のあの日、大学の講義室で浴びた視線と同じだった。

軽蔑。哀れみ。嫌悪。


真田はその場に崩れ落ちた。

画面の中の海人の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。

勝てない。

何をどうあがいても、もう絶対に勝てない。

彼と自分の間には、天と地ほどの差が開いてしまった。

そしてその差を作ったのは、他の誰でもない、自分自身の愚かな嫉妬心だったのだ。


「うぅ……くそぉ……」


真田は汚れた床に額を擦り付け、獣のような呻き声を上げた。

彼の地獄は、これからも続く。

世界的なニュースで海人の活躍を見るたびに、自分の惨めさを突きつけられ、内臓を焼かれるような嫉妬と後悔にのたうち回るのだ。

死ぬまで、永遠に。


――北米、某都市。

最先端の研究設備が整ったラボの一室。

窓の外には、摩天楼の夜景が広がっている。


インタビューの収録を終えた水無月海人(旧姓:一ノ瀬)は、デスクに戻り、愛用のマグカップにコーヒーを注いでいた。

モニターには、膨大な量のコードと、解析中のデータが表示されている。


「お疲れ様、カイト。インタビュー、見たわよ。素敵だった」


声をかけてきたのは、同じラボの研究員であり、今は彼の妻でもある女性、エミリーだ。

知的なブルーの瞳と、温かい笑顔を持つ彼女は、海人がこの国に来て、孤独に研究に没頭していた時期に、唯一彼の論理的な思考を理解し、面白がってくれた人だった。


「ありがとう。少し喋りすぎたかな」

「ううん、完璧だったわ。特に過去の話のところ。『ノイズ』だなんて、あなたらしい表現ね」


エミリーは悪戯っぽく笑い、海人の肩に手を置いた。


「でも、本当に良かったの? 昔の知り合いが見てるかもしれないわよ?」


海人はコーヒーを一口飲み、窓の外の夜景に目を向けた。

ガラスに映る自分の顔は、昔よりも少しだけシワが増えたが、ずっと穏やかだ。


「見ているかもしれないし、見ていないかもしれない。確率的には半々だろうね」


彼は淡々と答えた。


「でも、それが僕の人生に影響を与える係数はゼロだ。観測者がどう思おうと、事実は変わらない。僕は今、ここにいて、君と研究を愛している。それが唯一の真実ファクトだよ」

「ふふっ、またその理屈っぽい言い方。愛してるわ、ドクター・ミナヅキ」

「僕もだよ、エミリー」


二人は軽くキスを交わした。

海人は再びモニターに向き直る。

キーボードを叩く指は軽やかだ。

彼の頭の中には、新しいアルゴリズムの構想が渦巻いている。

未来を作るための、論理と創造のパズル。


かつて、彼は「証明」しようとして失敗した。

自分を信じない人々に、言葉とデータで潔白を証明しようとして、拒絶された。

だが、今の彼は知っている。

本当に大切な証明とは、誰かに突きつけるものではない。

自分自身の人生をもって、静かに、そして確固として積み上げていくものなのだと。


彼は、幸せになった。

過去の全てを捨て去り、自分を信じてくれる人と共に、新しい世界を築き上げた。

これ以上の「証明」が、どこにあるだろうか。


窓の外で、流れ星が一つ、夜空を横切っていった。

遠い東の島国で、今も後悔の涙に暮れているかつての恋人や、嫉妬に狂うかつての先輩の頭上には、決して届かない光。


海人はもう、振り返らない。

彼の物語に、彼らはもう登場しない。


画面に表示されたコンパイル完了のメッセージ。

『Build Successful』

その緑色の文字を見つめながら、彼は小さく呟いた。


「Q.E.D.(証明終了)」


彼はエンターキーを力強く叩いた。

新しいプログラムが走り出す。

その先には、無限の可能性と、まばゆいばかりの未来が広がっていた。

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