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証明終了Q.E.D. ―論理を否定された僕は姿を消し、君たちの後悔は永遠に届かない―  作者: ledled


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第5話 崩壊する日常

大学という閉鎖的なコミュニティにおける情報の拡散速度は、光ファイバー網の帯域幅をも凌駕する。

真田亮介が研究発表の場で自身の捏造を露呈させてから二十四時間も経たないうちに、西央大学の全学生がその事実を知ることとなった。

今回は、かつての一ノ瀬海人の時のような「噂」ではない。何百人もの目撃者がおり、動画という決定的なエビデンスが存在する「確定した事実」だった。


真田の転落は、自由落下運動のように加速していった。

まず、大学側が異例のスピードで調査委員会を設置した。榊原教授は保身のために「真田学生の単独の暴走であり、指導教官として遺憾である」との声明を発表し、トカゲの尻尾切りを行った。しかし、ネット上では「教授もグルだったのではないか」「隠蔽体質だ」という批判が噴出し、学部全体の信用失墜へと発展していた。


そして、最も大きな打撃は、ゼノ・グロリア・ホールディングスからの通達だった。

真田のスマートフォンに届いたのは、無機質な内定取り消しの通知メールと、人事部からの呼び出し状だった。

彼は震える手でそれを読み、部屋の中で絶叫した。


「なんでだよ! 俺は優秀なんだぞ! あんなミス一つで……!」


彼は自分の部屋にある物を手当たり次第に投げつけた。高価なモニターが割れ、参考書が散乱する。

「ミス」ではない。「犯罪」だ。だが、彼の歪んだ認知は、まだ自分の正当性を主張しようとしていた。


その時、玄関のチャイムが激しく鳴らされた。

モニターを見ると、見知らぬスーツ姿の男たちと、鬼のような形相をした父親が立っていた。

父親は地方の名士であり、世間体を何よりも気にする人間だ。


「亮介! 開けろ! バカ息子が!」


ドアを開けた瞬間、鉄拳が飛んできた。

真田は廊下に無様に転がった。口の中が切れ、鉄の味が広がる。


「お前のせいで、うちの会社にまで抗議の電話が来てるんだぞ! 『犯罪者の親族が経営する会社』だと! どう落とし前をつけるつもりだ!」

「お、俺は悪くない……一ノ瀬が……あいつが罠を……」

「まだ人のせいにするか! 勘当だ。二度と敷居を跨ぐな。大学も退学だ。手切れ金はくれてやるから、どこへなりとも消え失せろ!」


父親は封筒を投げつけ、唾を吐き捨てて去っていった。

残されたのは、腫れ上がった頬を押さえて蹲る真田と、冷たい廊下の床だけだった。

内定も、家族も、学歴も。

彼が誇っていたステータスのすべてが剥奪された。

彼に残されたのは、「捏造で他人を陥れた卑劣な男」という、一生消えないデジタルタトゥーだけだった。


一方、崩壊の波紋は真田個人にとどまらなかった。

かつて海人を追い詰める急先鋒だったサークルのメンバーたちにも、その火の粉は降りかかっていた。

彼らのTwotterやAustaのアカウントは特定され、「冤罪加担者」「いじめの共犯」として晒し上げられていた。


『こいつらが一ノ瀬くんを追い出したのか』

『真実を確かめもせず集団リンチとか、大学生にもなって恥ずかしくないの?』

『就活で企業の人事に見つかるといいねw』


ネット民による私刑は苛烈を極めた。

サークルの部室は落書きされ、大学に苦情の電話が殺到した結果、サークル自体が活動停止処分となった。

彼らは講義に出ることもままならず、キャンパス内を歩けば白い目で見られ、コソコソと逃げ回る生活を余儀なくされた。


「なんで俺たちがこんな目に……」

「真田先輩が悪いんだろ! 俺たちは騙されてただけだ!」

「そうだよ、被害者は俺たちだ!」


彼らは居酒屋の個室に集まり、安酒を煽りながら責任転嫁を繰り返していた。

しかし、どれだけ言い訳をしても、海人が差し出した論理的な証拠を「キモい」「サイコパス」と嘲笑って切り捨てた事実は消えない。彼らは自らの感情論によって判断を誤り、そのツケを払わされているのだ。

彼らの友情ごっこは崩壊し、互いに罪を擦り付け合う醜い泥仕合へと変貌していた。


そして、藤宮玲奈。

彼女は、アパートの部屋に引きこもっていた。

カーテンを閉め切った暗い部屋で、膝を抱えて座り込んでいる。

スマホの画面には、かつての海人とのMINEの履歴が表示されている。

一番最後にあるのは、三ヶ月前の自分の送信履歴。


『さようなら。もう連絡しないで』


その冷たい文字列を見るたびに、胸が張り裂けそうになる。

彼女は震える指で、メッセージ入力欄に文字を打ち込んだ。


『海人くん、ごめんなさい』

『私が間違ってた。バカだった』

『全部わかったの。真田先輩のこと、あの画像のこと』

『お願い、連絡して。謝らせて』

『会いたい』


送信ボタンを押す。

しかし、画面に表示されたのは「既読」の文字ではなかった。

瞬時に返ってきたのは、無機質なシステムメッセージ。


『メンバーがいません』

『またはアカウントが削除されています』


「……あっ」


玲奈の口から、乾いた音が漏れた。

削除されている。海人のアカウントは、もう存在しない。

電話をかけてみる。

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません――』

無機質なアナウンスが、彼女の絶望を宣告する。


彼は、消えたのだ。

物理的にも、デジタル的にも。この世界から、私との繋がりをすべて断ち切って。


「嫌……嫌だよ、海人くん……」


玲奈はスマホを胸に抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。

涙が止まらなかった。後悔の念が津波のように押し寄せてくる。

どうして信じてあげられなかったのか。

どうして彼の「正しさ」を「冷たさ」だと勘違いしてしまったのか。

彼はいつだって誠実だった。不器用なまでに事実を大切にしていたのは、嘘をつきたくなかったからだ。私を騙したくなかったからだ。

それなのに、私は「優しい嘘」をつく真田を選び、「正しい真実」を告げる海人を捨てた。


その代償が、これだ。

永遠の断絶。

謝罪すら届かないという、最も重い罰。


翌日、玲奈はふらつく足取りで外出をした。

向かった先は、海人が住んでいたあのアパートだった。

もしかしたら、まだそこにいるかもしれない。退学したという噂は聞いたが、引っ越しまではしていないかもしれない。そんな縋るような思いがあった。


アパートの前に着くと、見慣れた203号室の窓にはカーテンがかかっていなかった。

嫌な予感がして、階段を駆け上がる。

インターホンを押す。反応はない。

ドアノブに手をかけるが、鍵がかかっている。

ふと、ドアの横にある郵便受けを見た。

そこには、以前はあった『一ノ瀬』というテプラのネームプレートがなくなり、代わりに不動産屋の管理用ステッカーが貼られていた。


『空室』


その二文字が、玲奈の心臓を止めた。

いない。本当に、もういないんだ。


「あの、何か御用ですか?」


背後から声をかけられた。

振り返ると、隣の部屋の住人がゴミ出しに出てきたところだった。


「あ、あの……ここの一ノ瀬さん、は……」

「ああ、一ノ瀬さんなら、三ヶ月前に引っ越しましたよ。急に出て行かれて。挨拶もほとんどなくて、荷物も全部処分業者に頼んだみたいで、あっという間でしたね」


全部、処分。

その言葉が重く響く。

彼は、私との思い出も、この街での生活も、すべてをゴミとして捨てていったのだ。


「行き先とか、聞いてませんか……?」

「さあ……。『遠くへ行く』とだけ。あ、でもすごくスッキリした顔をしてましたよ。憑き物が落ちたみたいに」


スッキリした顔。

玲奈はその表情を想像して、胸が締め付けられた。

私と別れて、大学を辞めて、彼は絶望したのではなく「解放」されたのだ。

私の存在が、彼にとって重荷だったのかもしれない。私の理解のなさが、彼を苦しめていたのかもしれない。

そう思うと、もう二度と彼の前に顔を出せる資格がないような気がした。


玲奈はアパートの前の電柱に寄りかかり、崩れ落ちた。

道行く人々が怪訝そうに見るが、気にならなかった。

世界から色が消えた。

海人のいない世界は、こんなにも彩度が低く、寒々しいものだったのか。

私は彼に守られていた。彼の論理的な思考と、静かな優しさに包まれていた。

それを自らの手で壊し、捨ててしまった。


数日後。

大学の掲示板に、真田亮介の懲戒退学処分の告知が貼り出された。

学生たちはそれをスマホで撮り、SNSにアップして消費する。

「ざまぁw」「因果応報」というコメントが並ぶ。

だが、玲奈にとって、真田の処分などどうでもよかった。彼が地獄に落ちようが、野垂れ死のうが、失ったものは戻ってこない。


玲奈は大学を休学することにした。

キャンパスに行けば、海人との思い出が蘇り、同時に周囲からの「あいつが元カノだ」「見る目がない女」という視線に耐えられなかったからだ。

実家に帰り、部屋に引きこもる日々。

食事も喉を通らず、ただぼんやりと窓の外を眺めるだけの生活。


ある日、彼女は古いアルバムを開いた。

高校時代の写真。海人と初めてデートした時の写真。

写真の中の彼は、少し恥ずかしそうに、でも優しく微笑んでいる。


「海人くん……」


指でその顔をなぞる。

冷たい写真の感触。体温はもう感じられない。


もし、タイムマシンがあったら。

あの日に戻れたら。

真田が偽造画像を出したあの日、私が「そんなわけない!」と叫んで、海人の手を取っていれば。

「解析データなんて見なくても、私は海人くんを信じるよ」と言っていれば。

そうしたら、今頃は二人で笑い合っていたのだろうか。来月の連休には、一緒に星を見に行っていたのだろうか。


「……うぅ……うあぁぁぁ……」


後悔は、時間が経つほどに濃度を増していく劇薬だ。

真実を知るのが遅すぎた。

「証明終了」の合図は、私たちの関係の終了の合図でもあった。


時を同じくして、真田亮介は安アパートの一室で、カップ酒を煽っていた。

実家からの送金は止まり、手切れ金として渡された金も底をつきかけている。

再就職しようにも、ネットで名前を検索すれば悪評がズラリと並ぶ状況では、まともな企業が相手にするはずもない。

日雇いのバイトで食いつなぐしかない日々。かつてのエリート候補生の面影は見る影もない。


「クソッ……クソッ……!」


壁を殴る。薄い壁の向こうから「うるせえぞ!」と怒鳴り声が返ってくる。

彼は布団を被り、震えた。

どうしてこうなった。俺はただ、少し幸せになりたかっただけだ。

あいつが、一ノ瀬が、優秀すぎるのが悪いんだ。あいつさえいなければ、俺は一番になれたのに。

まだそんな恨み言を呟いている。

だが、心の奥底では理解していた。

一ノ瀬は、何も悪くなかった。

ただ、自分の劣等感と嫉妬心が、自らを破滅へと導いただけなのだと。


彼もまた、終わりのない後悔と、出口のない暗闇の中で生きていくしかない。

一ノ瀬海人が見せた「論理的証明」という光によって焼き尽くされた荒野で。


季節は冬に向かっていた。

冷たい風が街を吹き抜ける。

かつて海人と玲奈が歩いた並木道の葉は落ち、寒々しい枝だけが空に伸びている。

その空の下で、加害者たちはそれぞれの十字架を背負い、凍えるような孤独に震えていた。

彼らの心に温かい灯がともることは、もう二度とないだろう。


一方、その頃。

海人は、遠く離れた北の地で、新しい一歩を踏み出していた。

研究室の窓から見えるのは、一面の雪景色。

静寂と純白の世界。

ノイズのない、清らかな空間。


「一ノ瀬さん……じゃなかった、今は……」

水無月みなづきでいいですよ。母方の姓ですから」


同僚に声をかけられ、彼は穏やかに微笑んだ。

その顔には、かつての苦悩も、悲壮感もなかった。

あるのは、知的好奇心に満ちた瞳と、未来を見据える力強い眼差しだけ。


「このデータ、面白いですね。ノイズ除去のアルゴリズムが画期的です」

「ええ。過去の経験から、ノイズと真実を分離することの重要性を学びましたから」


彼はモニターに向き直る。

キーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響く。

彼の中には、玲奈への未練も、真田への復讐心もない。

それらは全て「処理済み(Processed)」のタグが付けられ、アーカイブの奥底に格納された。

彼が見ているのは、目の前の真実と、その先にある科学の発展だけだ。


断絶。

それは彼にとっては救済であり、彼らにとっては刑罰だった。

世界は二つに分かたれた。

光あふれる未来を歩む者と、過去の闇に囚われ続ける者たちへ。


そして、その境界線は、もう誰にも超えることはできない。

雪が降り積もるように、時間は静かに、しかし確実に両者の距離を広げ続けていくのだった。

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