第4話 バグの露見
一ノ瀬海人が大学から姿を消して三ヶ月が経過した。
季節は巡り、キャンパスの並木道は鮮やかな緑に覆われていた。かつて彼が座っていたベンチも、彼が歩いていた廊下も、何事もなかったかのように日常の風景に溶け込んでいる。
「一ノ瀬海人」という存在は、大学という巨大なシステムにおける一時的なエラーログとして処理され、既に過去のものとなっていた。少なくとも、表面上は。
西央大学理工学部、大講義室。
今日は、学部と大手IT企業「ゼノ・グロリア・ホールディングス」との産学連携プロジェクトに関する中間発表会が行われていた。会場には学部の教授陣だけでなく、ゼノ・グロリアの採用担当役員や、外部から招かれた著名な研究者たちも顔を揃えている。学生にとっては、自身の優秀さをアピールし、内定をより盤石なものにするための絶好の檜舞台である。
その壇上に、真田亮介は立っていた。
仕立ての良いダークネイビーのスーツに身を包み、自信に満ちた表情で聴衆を見渡す。スポットライトが彼を照らし、その光は彼こそがこの場の主役であることを雄弁に物語っていた。
「――以上のように、本アルゴリズムにおける画像処理の最適化は、従来の手法と比較して約三十パーセントの高速化を実現しました」
流暢なプレゼンテーション。スライドが切り替わるたびに、会場からは感嘆の溜息と、控えめな拍手が漏れる。
真田は心の中でガッツポーズをした。完璧だ。
この研究の一部は、実は一ノ瀬が在籍時に残していったアイデアのメモ書きを流用したものだったが、そんなことを知る者はもういない。一ノ瀬は消えた。敗者として、汚名を着せられたまま逃げ出したのだ。勝者である自分がその遺産を有効活用して何が悪い。
視線を客席の最前列に向けると、ゼミの指導教官である榊原教授が満足げに頷いているのが見えた。その隣には、ゼノ・グロリアの役員が熱心にメモを取っている。
そして、会場の隅には、スタッフとして手伝いに来ていた藤宮玲奈の姿があった。彼女は真田と目が合うと、少し照れくさそうに、しかし誇らしげに小さく手を振った。
(見たか、一ノ瀬。これが現実だ)
真田は心の中で、いない人間に向かって嘲笑を投げかけた。
玲奈は完全に俺のものになった。彼女は時折、ふとした瞬間に寂しそうな顔をすることもあるが、優しく抱きしめて「あいつは酷い奴だった」と囁けば、すぐに俺に縋ってくる。チョロいものだ。
内定も、女も、名声も。すべてが手に入った。俺の人生は順風満帆、バグ一つない完璧なプログラムだ。
「それでは、実際の動作デモをご覧いただきましょう」
発表の締めくくりとして、真田は演台のノートパソコンを操作した。
このデモさえ成功すれば、俺の評価は不動のものになる。来春からはゼノ・グロリアのエリート社員として、年収一千万プレイヤーへの道が約束されているのだ。
彼は意気揚々とマウスを動かし、デモンストレーション用のアプリケーションを起動しようとした。
その時だった。
指先が微かに汗ばんでいたせいか、あるいは慢心による油断か。彼はタッチパッドの操作を誤り、プレゼン用ソフトを最小化してしまった。
さらに悪いことに、拡張デスクトップの設定がうまく機能しておらず、彼のパソコンのデスクトップ画面そのものが、背後の巨大な百インチスクリーンにそのまま投影されてしまったのだ。
「あっ、失礼」
真田は慌てて画面を戻そうとした。しかし、焦れば焦るほど操作はおぼつかなくなる。
聴衆の視線は、巨大なスクリーンに映し出された彼のデスクトップに釘付けになった。
そこには、無造作に散らばったアイコンの山と、整理されていないフォルダ群があった。
そして、画面の中央には、直前まで裏で動かしていたらしいエクスプローラーのウィンドウが開いたままになっていた。
フォルダ名:『00_海人陥れ用素材_完成版』
会場の空気が、一瞬にして凍りついた。
ざわめきすら起きない。あまりにも直球で、あまりにも悪意に満ちたその文字列に、全員の脳が理解を拒んでフリーズしたような静寂だった。
「……え?」
誰かの呟きが、静寂を破った。
真田は顔面蒼白になり、マウスを動かしてウィンドウを閉じようとした。だが、震える指が誤ってそのフォルダをダブルクリックしてしまう。
カチカチッ、という乾いた音が、講義室のマイクを通して響き渡った。
フォルダが展開された。
サムネイル表示された数百枚の画像が、スクリーンいっぱいに広がる。
それは、三ヶ月前に大学中で拡散された、あの一ノ瀬海人の浮気写真だった。
しかし、ただの写真ではない。
『base_face_kaito.jpg』『target_body_01.jpg』『failed_gen_04.png』
素材となる一ノ瀬の顔写真、合成用の男性の裸体写真、そしてAI生成に失敗して顔が崩れた奇妙な画像などが、時系列順に並んでいたのだ。
さらに、フォルダの下部にはテキストファイルがあった。
ファイル名は『MINE偽造ログ_シナリオB.txt』。
プレビューウィンドウには、あの時拡散された「一ノ瀬の浮気自慢」のチャットログと、一字一句違わない文章が、メモ帳形式で表示されていた。
「な、なんだこれは……」
最前列にいた榊原教授が、呻くような声を上げた。
真田はパニックに陥っていた。
「ち、違います! これは、その、画像解析の研究用データで……一種の、敵対的生成ネットワークの実験というか!」
しどろもどろに言い訳を叫ぶ。だが、額からは滝のような脂汗が流れ落ち、その表情は雄弁に「詰んだ」ことを物語っていた。
「ちょっと待ってください」
凛とした鋭い声が響いた。
声を上げたのは、外部講師として招かれていた国立大学の准教授、御子柴だった。彼はAI倫理とデジタルフォレンジックの専門家として知られる、業界の権威だ。
御子柴は席を立ち、スクリーンを指差した。
「そこのログファイル、開いてもらえますか? 『generation_history.log』というやつです」
「い、いや、これは個人的なメモでして……」
「研究発表の場でしょう? 公開されている画面について質問するのは正当な権利です。開けなさい」
御子柴の有無を言わせぬ威圧感に、真田は抗えなかった。震える手でファイルをダブルクリックする。
黒い背景に白い文字が羅列されたログ画面が表示された。
「……やはりそうですか」
御子柴は眼鏡の位置を直し、マイクを握った。
「これは画像生成AI『Stable Diffusion』の生成履歴ですね。タイムスタンプは……三ヶ月前の◯月×日。ちょうど、この大学で騒ぎがあった時期と一致しますね」
御子柴は淡々と、しかし残酷なほど正確に解説を始めた。
「プロンプト、つまりAIへの指示命令文を見てみましょう。『japanese man, crying girlfriend, cheating at hotel, night street』……『日本の男、泣いている彼女、ホテルでの浮気、夜の街』ですか。さらにLoRA、つまり追加学習データの指定に『ichinose_face_v2』とあります。これは特定の人物の顔を学習させたモデルを使用している証拠です」
会場がどよめいた。
専門的な用語がわからなくても、そこに書かれている英単語の意味くらいは大学生なら理解できる。
「Cheating(浮気)」。「Scumbag」。そんな悪意ある単語が、生成命令として並んでいるのだ。
「さらに興味深いのは、こちらのチャットログ偽造ツールの履歴ですね。送信時刻の改竄設定まで記録されている。……君、これはどう見ても『研究』ではなく『犯罪の証拠』に見えますが?」
御子柴の氷のような視線が、演台の真田を貫いた。
真田は口をパクパクと開閉させるだけで、声が出ない。論理的な指摘。動かぬ証拠。ログデータという客観的事実の前では、彼が得意とした「感情論による扇動」は無力だった。
「あ……あ……」
真田は助けを求めるように榊原教授を見た。しかし、教授は真っ青な顔をして俯き、小刻みに震えていた。自分のゼミ生が、よりによって就職先の役員の前で、捏造とハラスメントの決定的証拠を晒したのだ。保身を第一とする彼が、今さら真田を庇うはずがなかった。
「最低……」
客席から、小さな、しかしはっきりとした声が聞こえた。
真田がハッとして顔を向ける。
そこにいたのは、玲奈だった。
彼女は立ち上がり、幽霊のような虚ろな表情でスクリーンを見つめていた。
「嘘……なんで? これ、海人くんの……」
玲奈の脳裏に、三ヶ月前の記憶がフラッシュバックする。
あの時、海人は言っていた。
『画像が作られているんだ。光源の位置がおかしい』
『MINEのタイムスタンプがずれている』
『信じてくれ、僕はやっていない』
あの時の海人の必死な顔。冷静に説明しようとしていた姿。
それを私はどうした?
『理屈ばっかり言わないで』と拒絶した。
『データなんてどうでもいい』と泣き叫んだ。
でも、今、目の前にあるのは「データ」だ。
嘘をつかない、冷徹な真実のデータだ。
それが、海人の正しさを、あまりにも残酷な形で証明している。
「真田先輩……嘘ですよね?」
玲奈の声が震える。
「偶然見つけたって、言ったじゃないですか。ショックを受けてる私を、一晩中励ましてくれたじゃないですか。あれは全部、先輩が作ったんですか? 海人くんを追い出すために? 私と付き合うために?」
「ち、違うんだ玲奈ちゃん! これは誤解だ! 俺はただ、お前のために……」
「私のために、海人くんを社会的に抹殺したの!?」
玲奈の悲鳴のような叫びが、講義室に反響した。
その叫びは、三ヶ月前の海人の無言の叫びと重なり、今度は真田へと突き刺さる。
会場は騒然となった。
学生たちがスマホを向け、この修羅場を撮影し始める。
「うわ、マジで捏造だったのかよ」
「一ノ瀬、無実だったんじゃん……」
「え、じゃあ俺たち、無実の奴を寄ってたかって追い出したってこと?」
「真田先輩、終わったな」
囁き声が波のように広がる。かつて海人を断罪した「空気」が、今度は真田を標的にして牙を剥いたのだ。大衆の手のひら返しは、いつだって速く、そして無責任だ。
「おい、どうなっているんだ!」
ゼノ・グロリアの役員が立ち上がり、怒声を上げた。
「我が社はコンプライアンスを最重要視している。こんな、他者を陥れるために技術を悪用するような人間を内定させた覚えはないぞ! 榊原先生、これはどういうことかね!」
「も、申し訳ありません! 調査します、すぐに詳細を調査させますから!」
教授が平謝りする。
真田は演台にしがみつき、必死に首を横に振った。
「待ってください! 取り消しなんて困ります! 俺は、俺はこの会社に行くために……! 一ノ瀬なんかより俺の方が優秀なんです! あいつはただのガリ勉で、俺にはコミュニケーション能力があって……!」
「黙りたまえ!」
役員が一喝した。
「君の言うコミュニケーション能力とは、人を騙し、陥れる能力のことかね? 技術者として最も恥ずべき行為だ。内定については人事部と協議するが、覚悟しておきたまえ」
役員は憤然として退席した。
それを合図にするように、他の来賓や学生たちも、真田を軽蔑の眼差しで見ながら会場を後にし始める。
「違う、違うんだ……」
真田はその場に崩れ落ちた。
完璧だったはずの計画。順風満帆だったはずの未来。それが、たった一つの操作ミス、たった一つの閉じ忘れたウィンドウによって、音を立てて崩壊した。
いや、違う。これはミスではない。
一ノ瀬海人が残していった「呪い」だ。あいつは正しかった。正しかったからこそ、真実は決して消えずに残り続け、最も効果的なタイミングで噴出したのだ。
「海人くん……」
騒然とする会場の中で、玲奈だけが動けずにいた。
彼女はスクリーンに映し出された生成ログを見つめ続けていた。
そこにある『cheating(浮気)』という文字が、海人への冤罪の証明であり、同時に自分の愚かさの証明でもあった。
私は、信じなかった。
一番近くにいたのに。誰よりも彼の誠実さを知っていたはずなのに。
わかりやすい感情論に流され、耳触りの良い言葉に騙され、本当に大切な人の言葉を「ノイズ」として切り捨てた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
玲奈はその場に座り込み、両手で顔を覆った。
指の隙間から涙が溢れ出す。しかし、その涙を拭ってくれる人は、もうどこにもいない。
真田は自分の保身で手一杯で、玲奈のことなど見ていなかった。
そして、かつて不器用ながらもハンカチを差し出してくれた海人は、もうこの世界のどこにもいないのだ。
三ヶ月前、彼女が海人に言った言葉。
『理屈じゃなくて言葉で示してよ』
その答えが、これだった。
海人は言葉ではなく、皮肉にも彼を陥れた犯人の手によって公開された「論理的データ」によって、自身の潔白を証明したのだ。
本人がいない場所で。弁明も、言い訳も、一言も発することなく。
(証明終了 Q.E.D.)
誰かの声が聞こえた気がした。
それは幻聴だったかもしれない。しかし、その冷ややかな響きは、玲奈の心臓を鷲掴みにし、二度と消えない氷の棘となって突き刺さった。
会場には、真田の情けない弁明の声と、玲奈の嗚咽だけが虚しく響き渡っていた。
かつて海人が見上げた夕暮れの空のように、彼らの未来には暗い影が落ちていた。
崩壊は始まったばかりだ。
海人がスイッチを押した「削除」プログラムは、彼がいなくなった後もバックグラウンドで静かに走り続け、今ようやく、エラーだらけのシステムを破壊し始めたのだった。




