第3話 削除実行(Delete)
退学届というものは、呆気ないほど紙切れ一枚だった。
窓口の事務職員は、僕が提出した書類に不備がないかを目だけで追い、淡々と事務的な確認事項を口にするだけだった。そこに感情の介入はなく、ただ手続きという名のアルゴリズムが実行されているに過ぎない。僕にとっては、その無機質さが今の精神状態には心地よかった。
「一ノ瀬さん、これで受理されますが、本当によろしいですね? 成績優秀者特待制度もこれで打ち切りとなり、再入学の際には……」
「構いません。全て了承済みです」
食い気味に答えると、職員は少しだけ眼鏡の奥の目を細めたが、それ以上は何も言わずに受領印を押した。
朱色のインクが紙に沈んでいく。その瞬間、僕の「西央大学の学生」というステータスは書き換えられ、過去のものとなった。
「……一ノ瀬君か」
背後から声をかけられた。振り返りたくはなかったが、その粘着質な声の主はわかっていた。榊原教授だ。
彼は廊下を歩いてきて、僕の手元にある退学手続きの控えをちらりと見た。
「本当に辞めるとはな。まあ、それが賢明な判断かもしれん」
「お世話になりました」
僕は深々と頭を下げた。感謝の念など微塵もないが、ここで波風を立てるのは非合理的だ。去り際は美しく、あるいは無色透明であるべきだ。
「君の能力は認めていたんだがね。いかんせん、協調性と社会性に欠けていた。今回の騒動も、君がもう少しうまく立ち回っていれば防げたはずだ。技術だけがあっても、人はついてこない。それを学ぶ良い機会だと思いなさい」
教授は、あくまで自分は教育者としてアドバイスをしているという体で、僕に最後の説教を垂れた。彼の中では、僕は「優秀だが問題を起こした、扱いにくい学生」として処理され、記憶の彼方へアーカイブされるのだろう。真実がどこにあるかなど、彼にとってはノイズでしかない。
「肝に銘じます。では」
僕はそれ以上の会話を拒絶するように背を向けた。教授が何か言いたげにしていたが、僕は歩みを止めなかった。
校舎を出ると、空はどんよりとした鉛色だった。これから雨が降る確率はおそらく八十パーセント以上。傘を持っていないのは計算ミスだが、濡れることへの忌避感は驚くほど薄かった。
アパートに帰る道中、僕はスマートフォンを取り出し、実家への通話を試みた。
コール音は長く続いた。父が出るまで、十回以上の呼び出し音を聞く必要があった。
『……なんだ』
不機嫌そうな父の声。実家とは折り合いが悪く、大学進学を機に半ば絶縁状態にあった。僕が理系に進むことを「金にならない」と反対していた父にとって、僕は期待外れの息子だった。
「大学を辞めた」
『は? 何を言っている』
「色々あって退学した。内定も辞退するつもりだ。しばらく連絡は取れなくなると思う」
簡潔に事実だけを伝えた。受話器の向こうで、父が息を呑む音が聞こえ、続いて爆発的な怒声が響いた。
『ふざけるな! 学費をどれだけ出したと思ってるんだ! 特待生だかなんだか知らないが、途中で投げ出すような根性なしに育てた覚えはないぞ! 戻ってこい、今すぐ説明しに……』
「もう決めたことだから。今までありがとう。元気で」
『おい! 待て!』
父の怒鳴り声を遮断するように、通話終了ボタンを押した。
指先一つで断ち切れる縁。血の繋がりなどというものも、デジタルな通信網の前ではただの信号に過ぎない。僕はそのまま着信拒否設定を行い、連絡先リストから「実家」の項目を削除した。
これで、家族という最後のセーフティネットも消滅した。
恐怖はなかった。むしろ、重い鎖から解き放たれたような浮遊感があった。失うものがなくなるというのは、ある種の無敵状態に近いのかもしれない。
アパートに戻ると、部屋の中は既にダンボールの山になっていた。
昨日から徹夜で荷造りを進めていたのだ。専門書、服、生活用品。必要なものは最小限に絞り、残りはリサイクルショップへの出張買取を依頼してある。家具や家電もすべて処分だ。
僕は部屋の隅に置かれた、一際小さなダンボール箱に目を向けた。そこには「処分保留」とマジックで書いてある。
中に入っているのは、玲奈との思い出の品々だ。
ペアで買ったマグカップ。一緒に言った水族館のチケットの半券。彼女が手編みでくれた、少し形の歪なマフラー。そして、昨日突き返された銀色のペアリング。
一つ一つ手に取る。記憶がフラッシュバックする。
『海人くん、これ可愛い! お揃いにしよ?』
『寒がりな海人くんのために編んだんだよ。大事にしてね』
『ずっと一緒にいようね』
脳内に保存された音声データが再生される。かつては温もりを持って響いたそれらの言葉は、今ではノイズ交じりの不快音として鼓膜を刺激するだけだった。
嘘だったわけではないだろう。その瞬間、その瞬間において、彼女の言葉は真実だったのかもしれない。だが、変数は変わる。人の心というパラメータは、あまりにも不安定で、外部からの干渉に弱すぎる。
「……ガラクタだな」
僕は呟き、マグカップをゴミ袋に放り込んだ。ガシャン、という硬質な音がして、中で何かが割れた気がした。
マフラーも、チケットも、すべて可燃ゴミの袋へ。躊躇いはなかった。思い出に浸って感傷的になるのは、未来へのリソースの無駄遣いだ。
最後にリングを手に取った。これだけは不燃ゴミだ。分別は守らなければならない。社会のルールを守ることは、僕が僕であるための最後の防衛線のような気がしたからだ。
部屋の片付けが一段落した頃、外は本格的な雨になっていた。
雨音が窓を叩くリズムを聞きながら、僕はノートパソコンを開いた。物理的な片付けは終わった。次は、デジタルな痕跡の消去だ。
画面には、Twotterのマイページが表示されている。
炎上はまだ続いていた。リプライ欄には罵詈雑言が並び、僕の個人情報を特定しようとする動きも見られる。
『こいつ、退学したらしいぞ』
『逃げたなw』
『人生終了お疲れ様でした』
見知らぬ誰かが、僕の人生の終わりを勝手に祝福している。
僕はマウスカーソルを「アカウント設定」に移動させ、「アカウントを削除する」という項目をクリックした。
『本当に削除しますか? この操作は取り消せません』
警告のポップアップが出る。
取り消せなくていい。むしろ、二度と復元できないように完全に消滅させてほしい。
「はい」をクリック。
画面が切り替わり、ログイン画面に戻った。あのアカウントに蓄積された数年分の呟きも、フォロワーとの交流も、炎上の記録も、すべてがサーバー上のデータの海から消え去った。
次はAustaだ。
ここには玲奈との写真が多い。笑顔のツーショット、旅行の風景、美味しかった料理。
幸せのデータベース。それを自ら破壊する行為。
一枚ずつ削除していくのは非効率だ。僕は一括削除のツールを走らせた。プログレスバーが伸びていく。
30%……50%……80%……。
思い出がデジタルデータとして分解され、0と1の羅列に還っていく。
『削除完了』
画面に表示された文字を見て、僕は大きく息を吐いた。
MINEのアカウントも削除。連絡先もすべて消去。
クラウドストレージに保存していた研究データやレポートも、バックアップを取らずにフォーマットした。
僕が西央大学の一ノ瀬海人として生きた証。そのすべてを、自らの手で更地にしていく。
「これで、いい」
空っぽになったパソコンのデスクトップ画面を見つめながら、僕は呟いた。
名前も、過去も、人間関係も。すべてリセットされた。
僕は今、何者でもない。ただの有機生命体だ。
その事実に、言いようのない安らぎを覚えた。誰からも期待されず、誰からも責められず、誰とも繋がっていない。孤独の完成形。
その時、ふと魔が差したように、パソコンのブラウザでニュースサイトを開いた。
トップページに表示されていたのは、経済ニュースのバナー広告だった。
『次世代を担うIT企業、ゼノ・グロリア・ホールディングス。新卒採用枠拡大』
その企業名は、真田が内定をもらったと言っていた場所だ。
僕は無意識に、真田の名前で検索をかけてしまった。
承認欲求の塊である彼なら、きっと何かを発信しているはずだ。
案の定、彼の実名で運用されているフェイスノートのアカウントがヒットした。投稿は「全体公開」になっていた。
『ご報告。第一志望だったゼノ・グロリア・ホールディングスより、内定をいただきました! 支えてくれた仲間、そして何より、一番近くで応援してくれた彼女に感謝です』
投稿されたのは数時間前。
添付された写真には、洒落たレストランでシャンパングラスを傾ける真田と、その隣で少しぎこちない笑顔を見せる玲奈が写っていた。
真田の顔は、勝利の喜びに満ちあふれている。人生の絶頂。成功者の顔だ。
コメント欄には、サークルの仲間たちからの称賛の言葉が並んでいる。
『おめでとう! さすが真田さん!』
『美男美女カップル、最高です』
『邪魔者が消えて清々したねw』
彼らにとって、僕の排除はハッピーエンドへの通過点に過ぎなかったのだ。
悪は滅び、正義のヒーローがヒロインと結ばれ、栄光を掴む。
完璧なストーリーだ。ただし、その前提条件がすべて捏造された嘘であることを除けば。
僕は静かにブラウザを閉じた。
怒りは湧いてこなかった。ただ、彼らが哀れに思えた。
嘘の上に築かれた城。砂上の楼閣。
彼らは今、一番高い場所にいる。だからこそ、落ちた時の衝撃は計り知れないだろう。
「……楽しんでおくといい」
僕はパソコンを閉じ、電源を落とした。
これが、僕がネットの世界を見る最後になるだろう。
翌日。雨は上がっていたが、空はまだ低い雲に覆われていた。
不動産屋による退去の立ち会いを終え、鍵を返却した僕は、バックパック一つと小さなキャリーケースを引いて駅に向かった。
部屋は完全に空っぽだ。僕がそこに住んでいた痕跡は、壁紙のわずかな日焼け跡くらいしか残っていない。
駅前の大通りは、昼時ということもあり多くの人で賑わっていた。
すれ違う人々は、誰も僕のことなど気にしていない。昨日のネットの炎上など、現実世界では些細な出来事に過ぎないのだ。
僕は駅の入り口近くにある、大きなゴミ箱の前に立ち止まった。
ポケットから、一つのUSBメモリを取り出す。
これは、真田が作成した偽造画像の完全な解析データが入ったものだ。
光源の矛盾、ノイズパターンの一致、メタデータの改竄痕跡。そして、真田が使ったであろう生成AIのモデル特定まで。
これを警察や大学の調査委員会に提出し、専門機関で鑑定すれば、僕の無実は百パーセント証明される。真田を追い詰め、逆転することも可能だ。
それが「普通の」復讐劇の主人公が取る行動だろう。
だが、僕はそうしない。
なぜなら、彼らは「聞く耳」を持たなかったからだ。
論理を提示しようとした僕を、彼らは感情で否定した。
「信じたくない」人間に対して、どれだけ正しい証拠を突きつけても無意味だ。彼らはまた別の理由をつけて否定するだろう。「データなんて捏造できる」「お前がハッキングしたんだろ」と。
理解する気のない人間に真実を教えることは、時間の無駄であり、真実に対する冒涜だ。
それに、僕がここで身の潔白を証明してしまえば、彼らは「被害者」になれない。
僕が黙って消えることで、彼らは「悪い奴を追い出した正義の味方」として、束の間の勝利に酔いしれることができる。
高く、高く、舞い上がらせればいい。
真実が明るみに出た時、そこから落ちる恐怖を味わわせるために。
僕はUSBメモリを指先で弄んだ。
黒いプラスチックの塊。ここに僕の名誉回復のすべてが詰まっている。
それを、ゴミ箱の投入口にかざす。
「さようなら」
短い別れの言葉と共に、指を離した。
カラン、という乾いた音がして、USBメモリは空き缶や古雑誌の山の中に飲み込まれていった。
もう二度と、取り戻すことはない。
真実はゴミの中に捨てられた。
これで、僕の証明手段は物理的に消滅した。
冤罪を晴らすチャンスを自ら放棄した。
だが、後悔はなかった。胸にあるのは、奇妙なほどの清々しさだった。
僕は駅の改札を通り、ホームへ向かった。
行き先は決めていない。ただ、ここではない何処か遠くへ。
母の旧姓を名乗り、新しい戸籍を作る手続きも調べてある。一ノ瀬海人は今日死に、別の人間として生まれ変わる。
電車が滑り込んでくる。
ドアが開く。
僕は車内に足を踏み入れた。
発車ベルが鳴り響き、ドアが閉まる。
窓の外を流れていく西央市の街並み。
大学の時計塔が遠くに見えた。あそこで僕は学び、恋をし、そして裏切られた。
その風景が速度を上げて後方へと飛び去っていく。
さようなら、玲奈。
さようなら、真田先輩。
さようなら、先生、友達、そして過去の僕。
僕はもう、君たちの物語の登場人物ではない。
君たちがこれから直面する破滅の物語に、僕は観客としてさえ立ち会わない。
ただ、永遠に届かない場所で、君たちのことを忘却するだけだ。
電車は鉄橋を渡り、灰色の川を越えていく。
その先には、見たことのない街が広がっているはずだ。
僕はシートに深く背を預け、目を閉じた。
車輪の音が、規則正しいリズムで、新しい人生の始まりを告げていた。
Delete complete.
新しいファイルを作成しますか?
――Yes.




