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証明終了Q.E.D. ―論理を否定された僕は姿を消し、君たちの後悔は永遠に届かない―  作者: ledled


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第2話 多数決による真実

翌朝、目が覚めた瞬間に感じたのは、鉛を飲み込んだような重苦しい倦怠感だった。カーテンの隙間から差し込む朝日さえも、今の僕には網膜を刺激するだけの不快な信号に過ぎない。昨晩は一睡もできず、ひたすら天井の木目を数えながら、脳内で事象のシミュレーションを繰り返していた。しかし、何度計算しても、真田亮介が仕掛けた罠を「感情論で武装した集団」相手に論理だけで突破する解法は見つからなかった。


重い体を起こし、スマートフォンを手に取る。通知LEDが点滅していないことに一瞬安堵したが、画面を点灯させてTwotterのアプリを開いた瞬間、その安堵は粉々に砕け散った。僕の実名と大学名、そして昨日の偽造画像がセットで拡散され、見知らぬアカウントたちが僕を断罪していたからだ。


『西央大の浮気男、こいつか。顔もキモい』

『理系特有の言い訳がウザいらしいw』

『彼女さん可哀想。俺なら絶対守るのに』

『特定した。こいつの住所ここじゃね?』


情報の拡散速度は指数関数的であり、エントロピーの増大は止まらない。誰かが面白半分で投下した燃料に、正義感を履き違えた群衆が飛びつき、瞬く間に炎上という名の祭りを作り上げる。彼らにとって真偽など重要ではない。「叩いても良い悪人」というサンドバッグがそこに存在するという事実だけで十分なのだ。


僕はスマホを伏せ、深呼吸をした。大学へ行くべきか迷ったが、休めば「逃げた」とみなされ、彼らのストーリーを補強することになる。僕はまだ、西央大学の学生であり、何も悪いことはしていない。逃げる理由はないはずだ。そう自分に言い聞かせ、身支度を整えてアパートを出た。


通学路の風景は昨日と変わらないはずなのに、世界の彩度が落ちたように感じられた。すれ違う人々が皆、僕を見てひそひそと話しているような錯覚に陥る。いや、それは錯覚ではなかった。キャンパスの正門をくぐった瞬間、突き刺さるような視線の数を明確に感知したからだ。


「あ、あいつじゃない? 例の」

「うわ、よく来れるね」

「サイコパスなんでしょ? 感情がないから平気なんだよ」


遠慮のない囁き声が鼓膜を叩く。彼らの多くは僕の顔も名前も知らなかったはずだ。しかし、今や僕はキャンパス内の有名人であり、共通の敵となっていた。視線を合わせないよう、足早に講義棟へ向かう。いつもなら思考の整理に充てる移動時間が、今日は針のむしろの上を歩く苦行の時間へと変貌していた。


最初の講義は、大教室での応用数学だった。いつものように最前列の端の席に座り、ノートPCを開く。すると、周囲の学生たちが露骨に席を立ち、僕から距離を取り始めた。半径二メートル以内の座席が空洞化し、まるで僕が未知のウイルスキャリアであるかのように隔離される。


「……汚らわしい」


背後から聞こえたその言葉に、キーボードを叩く手が止まった。振り返ることはしなかったが、胃の奥が冷たく縮み上がる感覚を覚えた。これは、集団心理学における典型的な排斥行動だ。異物を排除することで集団の結束を高めようとする本能的な動き。理屈では理解していても、それを自分自身に向けられる苦痛は、数式では処理しきれない。


講義が終わり、逃げるように教室を出ようとした時、スマホが震えた。送信者はゼミの担当教授である榊原教授だった。


『一ノ瀬君、至急研究室に来るように』


短い文面から、嫌な予感が漂っていた。榊原教授は学内での政治力も高く、権威主義的な側面がある。彼が僕を呼ぶ理由は一つしか考えられなかった。


研究室のドアをノックし、入室許可を得て中に入ると、教授は革張りの椅子に深く腰掛け、不機嫌そうに眉間の皺を揉んでいた。


「失礼します」

「ああ、座りたまえ」


教授は僕を見ることもなく、手元のタブレットを指先で叩いた。そこには、サークルの掲示板のスクリーンショットが表示されているのが見えた。


「一ノ瀬君。君、これはどういうことかね?」

「それは偽造されたものです。昨日のサークルでの話し合いでも説明しましたが、僕はそのような行為は一切行っていません。技術的な証明も可能です」


僕は即座に答えた。教授ならば、少なくともデータの整合性を見てくれるはずだという淡い期待があった。しかし、教授は大きな溜息をつき、眼鏡の位置を直しながら冷ややかな視線を僕に向けた。


「技術的な証明、か。君ね、そういう問題ではないんだよ」

「……どういうことでしょうか?」

「真実がどうあれ、君が周囲に不信感を抱かせ、トラブルの中心になっているという『事実』が問題なんだ。大学院への推薦を控えた大事な時期に、痴情のもつれでサークルの和を乱し、ネットで炎上騒ぎを起こす。これは研究者としての資質以前に、社会人としての常識を疑われる行為だよ」


耳を疑った。科学を探究する場の長が、真実よりも世間体や調和を優先するというのか。


「ですが教授、これは冤罪です。真田先輩が作成したディープフェイクです。それを証明しなければ、僕の名誉は回復されません」

「誰が作ったかは関係ない!」


教授が机を叩いた。その音に、僕は思わず体を強張らせた。


「火のない所に煙は立たない、と言うだろう。君の日頃の行いや態度に、他人を刺激するような何かがあったんじゃないのか? 真田君は優秀で人望もある学生だ。彼が理由もなくそんなことをするとは思えん。君が妙な理屈をこねて、彼や藤宮さんを傷つけた結果なんじゃないのかね?」

「……僕が、悪いと言うんですか」

「騒ぎを大きくした責任の一端はあると言っている。これ以上、学部やゼミの評判を落とすような真似は慎みたまえ。しばらく頭を冷やして、ほとぼりが冷めるまで大人しくしていることだ。いいね?」


反論の言葉が喉元まで出かかったが、それを飲み込んだ。無駄だ。この人は、最初から僕の話を聞く気がない。「面倒事を起こした学生」というレッテルを貼り、処理することしか考えていない。アカデミズムの象徴である大学でさえ、論理より政治が優先される。その事実に、僕は深い失望を覚えた。


「……わかりました。失礼します」


頭を下げて研究室を出る。背後で教授が舌打ちをする音が聞こえた。廊下に出ると、無機質な蛍光灯の光がやけに眩しく感じられた。自分の居場所が、音を立てて崩れ落ちていく。そんな感覚に襲われながら、僕はふらつく足取りで歩き出した。


次に向かったのは、学内にあるカフェテリアの裏手、あまり人が寄り付かない旧校舎の中庭だった。玲奈から『話がある』とMINEで呼び出されていたからだ。


約束の時間より五分早く到着したが、玲奈は既にそこにいた。ベンチに座り、俯いて自分の靴先を見つめている。その姿は痛々しいほど小さく見えた。一晩中泣いていたのだろうか、目が赤く腫れているのが遠目にもわかった。


「玲奈」


名前を呼ぶと、彼女はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。僕と目が合うと、その表情が恐怖と悲しみに歪む。その反応だけで、彼女の心がどちらにあるのか、答えが出てしまったような気がした。それでも、僕は最後の望みをかけて対話を試みる。


「来てくれてありがとう。昨日はちゃんと話せなかったから……」

「来たくて来たわけじゃないの」


玲奈が僕の言葉を遮った。その声は掠れていて、けれど拒絶の意思がはっきりと込められていた。


「真田先輩に、ちゃんと言ってきなって言われたから。これ以上、引きずらないために」

「……真田先輩が」


あいつの名前が出るだけで、血管に泥が流し込まれるような不快感が走る。あいつは玲奈を操り、僕との関係を終わらせようとしている。そして玲奈は、完全にその手中にあった。


「玲奈、信じてくれ。あの画像は偽物だ。僕は君以外の誰とも……」

「もう、やめて!」


玲奈が叫んだ。中庭の静寂が切り裂かれる。


「偽物とか、本物とか、もうどうでもいいの! 昨日、みんなの前で海人くんが言ったこと、覚えてる? 光源がどうとか、フォントがどうとか……。私がショックで泣いてるのに、海人くんはずっとスマホの画面を見て、データの話ばっかりしてた!」

「それは君の誤解を解きたかったからだ。感情的になっても事実は変わらない。だから客観的な証拠を……」

「それが嫌なの!」


彼女の悲痛な叫びが、僕の思考回路を焼き切るように響いた。


「海人くんは正解しか見てない。私の気持ちなんて、一度も見てくれなかった。私が『寂しい』って言っても、『物理的に会う時間は確保してる』って言ったよね? 私が『不安だ』って言っても、『不安になる根拠がない』って返したよね? 昨日のこともそうだよ。まず最初に『不安にさせてごめん』って、どうして言えないの? どうして抱きしめてくれないの?」


彼女の言葉は、僕の過去の言動の集積だった。確かに僕はそう言った。それは事実に基づいた最適な回答だと思っていたからだ。しかし、彼女にとっての「正解」は違った。彼女が求めていたのは論理的整合性ではなく、感情的共鳴だった。


「ごめん……。僕は、君を傷つけるつもりはなかった。ただ、正しいことを……」

「海人くんの『正しさ』は、私には冷たすぎるよ。一緒にいると、自分がバカな感情的な人間なんだって突きつけられてるみたいで、苦しいの」


玲奈は大粒の涙を零しながら、バッグから何かを取り出した。それは、僕が去年の誕生日に贈ったペアリングだった。彼女はそれをベンチの上に置いた。金属が木材に当たる乾いた音が、終わりのゴングのように聞こえた。


「もう無理だよ。真田先輩はね、昨日の夜、ずっと話を聞いてくれたの。『辛かったな』って、『信じてやれなくてごめんな』って、一緒に泣いてくれた。海人くんとは全然違う。……別れよう、海人くん」


その言葉が出た瞬間、僕の中で稼働していた「関係修復のためのアルゴリズム」が強制終了した。


真田が泣いてくれた? あの男が? 自分で捏造した画像で彼女を傷つけておいて、自分で慰める? 完璧なマッチポンプだ。あまりにも卑劣で、あまりにも合理的だ。感情を操るという点において、真田は僕より遥かに優秀なエンジニアだったのだ。


「……そうか。真田先輩を選んだんだね」

「選んだとかじゃない。海人くんとは、もう一緒にいられないってだけ」


玲奈は涙を拭い、立ち上がった。


「さようなら。もう連絡しないで」


彼女は僕の横を通り過ぎていく。ふわりと香ったシャンプーの匂いは昨日と同じだったが、それはもう僕のものではなかった。彼女の背中が遠ざかっていくのを、僕はただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。追いかける足が動かなかった。論理的に考えれば、今の彼女に何を言っても逆効果だという判断が働いたからだ。あるいは、僕自身ももう、疲れてしまったのかもしれない。


「……あっけないもんだな」


一人残された中庭で、ベンチに残されたリングを見つめる。銀色の輪が、午後の光を反射して冷たく輝いていた。僕たちの三年間の関係は、悪意ある第三者の介入と、埋まらない価値観の溝によって、たった二日で崩壊した。


しばらくして、玲奈が去っていった方向から、聞き覚えのある足音が近づいてきた。顔を上げなくてもわかる。真田亮介だ。


「よう、一ノ瀬。振られたか?」


見上げると、そこには昨日の「頼れる先輩」の仮面を脱ぎ捨て、嘲笑を浮かべた真田が立っていた。勝ち誇ったような、そしてどこか哀れなものを見るような目つきだ。


「……満足ですか、これで」

「ああ、最高に気分がいいよ。実はお前が邪魔だったんだよね。成績も優秀、教授の受けもいい、おまけに可愛い彼女持ち。鼻につくんだよ、その『僕は何でも正しくこなせます』って顔がさ」


真田は僕の隣に座り、足を組んだ。


「玲奈ちゃん、可愛かったなぁ。昨日の夜、泣き疲れて俺の肩で眠っちゃってさ。無防備でたまんなかったよ。お前みたいな堅物が相手じゃ、彼女も欲求不満だったんだろうな」


下劣な挑発。殴りかかってきてもおかしくない場面だ。しかし、不思議と僕の心は凪いでいた。怒りが沸点を超えて蒸発してしまったのか、あるいは目の前の男が同じ人間だとは思えなくなってしまったのか。


「あの画像、AI生成ですよね。LoRAを使って僕の顔を学習させた。ベースモデルは何ですか? かなり精細でしたが」


僕が淡々と技術的な質問をすると、真田は少し驚いたように目を見開いた後、鼻で笑った。


「ハハッ! お前、まだそんなこと言ってんのか。本当にどうしようもないオタクだな。……ま、教えてやってもいいけどさ。Stable Diffusionだよ。お前のSNSから顔写真を大量にスクレイピングしてな、ちょっと調整すれば一丁上がりだ。MINEのログはただのHTML編集。簡単すぎて拍子抜けしたわ」


真田は悪びれもせず、ペラペラと手口を明かした。彼にとって、これは完全犯罪の成功体験であり、誰かに自慢したくてたまらないのだろう。そして、今の僕には何を話しても無害だと高を括っている。


「やっぱりそうでしたか。……それを、録音していると言ったらどうします?」


僕はポケットのスマホに手をかけた。真田の顔が一瞬強張る。だが、すぐに彼は余裕の笑みを取り戻した。


「やってみろよ。どうせまた『切り貼りして編集したんだろ』って言われて終わりだ。今の大学内でお前を信じる奴なんて一人もいない。教授も俺の味方だ。お前が騒げば騒ぐほど、お前は『未練がましく元カノにストーカーする異常者』として孤立していく。それが『多数決による真実』ってやつだよ」


真田の言う通りだった。僕がどんな証拠を出そうと、彼らはそれを「信じない」という選択をする。信じたくないものを信じない権利を、大衆は持っている。そしてその権利を行使された時、真実は無力化される。


「……そうですね。先輩の言う通りです」

「わかったらさっさと消えろよ。目障りなんだよ」


真田は立ち上がり、僕の肩を小突いて去っていった。「あーあ、今日は玲奈ちゃんと飲みに行くかな」とわざとらしく大きな独り言を残して。


僕は再び一人になった。風が冷たくなってきた。空を見上げると、分厚い雲が太陽を覆い隠そうとしていた。


多数決による真実。

その暴力的なシステムの前に、僕の論理は完全に敗北した。

玲奈は去り、教授は背を向け、友人は敵に回った。この大学という閉じたエコシステムの中で、一ノ瀬海人という存在は、もはやバグであり、異物でしかない。


異物は排除されるか、自ら消えるか。選択肢は二つに一つ。


僕はベンチに残されたリングを手に取った。冷たい金属の感触。それをポケットに突っ込むと、僕はゆっくりと立ち上がった。


戦う気力はもうなかった。証明しようとする情熱も消え失せた。彼らが僕を悪者だと決めつけるなら、それでいい。彼らの物語の中で、僕は卑劣な浮気男として退場してやろう。


ただし、それは僕が敗北を認めたということではない。

彼らと同じ土俵で生きることを拒絶しただけだ。


「削除実行(Delete)……か」


ポツリと漏れた言葉は、自分でも驚くほどすんなりと腑に落ちた。

そうだ。弁解する必要なんてない。説得する必要もない。ただ、この腐ったデータベースから、僕というレコードを物理削除してしまえばいい。


そう決めた瞬間、不思議と心が軽くなった。昨晩からの重苦しい倦怠感が消え、代わりに冷徹で静かな決意が全身を満たしていく。


僕はスマホを取り出し、連絡先リストを開いた。数百件ある登録データ。そのすべてが、今の僕には無価値なガラクタに見えた。

親への連絡も、最低限でいいだろう。どうせ「大学を辞めて好きに生きる」と言えば、あの厳格な父は「勝手にしろ」と言うに決まっている。


僕はアパートへ戻るために歩き出した。その足取りは、来た時よりも少しだけ速く、そして力強かった。

明日にでも退学届を出そう。荷物をまとめよう。SNSのアカウントもすべて消そう。


一ノ瀬海人は、死ぬわけではない。

ただ、彼らの世界から「消失」するのだ。


校舎を振り返ると、真田たちの笑い声が聞こえたような気がした。楽しむがいい。今のうちに、その仮初めの勝利の味を噛み締めておけばいい。

僕はもう、君たちの観測範囲にはいない。


空からポツリと雨粒が落ちてきた。アスファルトに黒い染みを作るその一点を見つめながら、僕は誰にも聞こえない声で呟いた。


「さようなら、僕の信じた世界」


雨足が強まる中、僕は傘もささずに歩き続けた。冷たい雨が、僕に残っていた未練や感情をすべて洗い流してくれるような気がしたからだ。

その日、一ノ瀬海人の心の一部は死に、冷徹な計算機としての彼が覚醒した。それは、彼らにとっての破滅の始まりであり、僕にとっての再生の始まりだった。

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