第1話 論理の敗北
西央大学のキャンパスは、昼下がりの穏やかな陽光に包まれていた。並木道の木漏れ日がアスファルトの上に不規則な模様を描き、風が吹くたびにそれが揺らめく様は、物理シミュレーションにおける流体計算の可視化を見ているようで興味深い。僕はベンチに座り、手元のタブレットに表示されたデータ解析の演習課題に目を落としながら、隣でサンドイッチを頬張る恋人の存在を意識していた。
「ねえ、海人くん。聞いてる?」
甘く、少し鼻にかかった声が僕の思考を現実へと引き戻す。顔を上げると、藤宮玲奈が口元にマヨネーズを少しつけたまま、不満げに頬を膨らませていた。彼女の大きな瞳は、僕の反応を待って小刻みに揺れている。
「ごめん、聞いてるよ。来月の連休にどこへ行くか、だよね」
僕はタブレットのスリープボタンを押し、彼女に向き直った。
「そうだよ! もう、海人くんってばすぐ自分の世界に入っちゃうんだから。で、どうかな? 私はやっぱり、アウスタで話題になってる高原のグランピング施設がいいと思うんだけど」
玲奈がスマホの画面を突き出してくる。そこには彩度が高めに加工された空と、洒落たドーム型のテント、そして焚き火を囲む笑顔のカップルが映し出されていた。確かに視覚的な魅力はある。しかし、僕は瞬時にいくつかの懸念事項を抽出してしまう。
「場所は軽井沢の奥か。この時期の山間部の気温変化と降水確率を考慮すると、夜間は氷点下近くまで下がる可能性があるね。それに、その施設へのアクセス道路は先日の台風の影響で一部通行止めの情報があったはずだ。迂回ルートを使うと、移動時間が想定より二時間ほど増える計算になる」
僕が事実に基づいた懸念を口にすると、玲奈の表情がみるみる曇っていった。輝いていた瞳から光が消え、眉尻が下がる。
「……また、そういう言い方する。私はただ、海人くんと綺麗な星が見たいだけなのに。効率とか天気とか、そういう難しい話じゃなくて、もっとこう……楽しみだねって言ってほしいだけなのに」
彼女の指摘は、過去のデータとも合致している。僕は常に最適解を求めて思考する癖があり、それが玲奈の求める「共感」とズレを生むことが度々あった。彼女が求めているのは論理的な正解ではなく、感情的な共有だということは理解しているつもりだ。だが、事実を無視して感情だけで動くことは、結果として不利益を招くリスクが高い。それを避けることが、僕なりの誠実さだと考えているのだが、どうやらそのアルゴリズムは彼女には通用しにくいらしい。
「悪かったよ。否定したわけじゃないんだ。君の提案は魅力的だし、星を見るのは僕も好きだ。ただ、もし行くなら防寒対策とルート確認を徹底して、快適に過ごせるように準備したいと思っただけなんだ」
僕は努めて声を柔らかくし、ハンカチを取り出して彼女の口元の汚れを拭った。玲奈は少し驚いたように瞬きをして、それから恥ずかしそうに微笑んだ。
「もう……ずるいなぁ。そういう風に優しくされると、怒れなくなっちゃうじゃん」
彼女は僕の肩に頭を預けてくる。ふわりと甘いシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。この穏やかな時間、この体温。それこそが僕にとっての確かな「真実」であり、守るべき変数だったはずだ。この時の僕は、この平穏な日常が、悪意という名のノイズによって一瞬で崩壊することなど、微塵も予測していなかった。
不穏な予兆は、ポケットの中のスマートフォンが震えたことから始まった。
最初は一度だけの短い振動だった。MINEの通知だろうと思い、会話の腰を折るのも憚られたので無視を決め込んだ。しかし、数秒後にまた振動。続いて、ブブッ、ブブブッ、と断続的かつ激しい振動が続き、明らかに異常な頻度で通知が届き始めた。
「海人くん? すごい通知だけど、大丈夫?」
玲奈が不思議そうに僕のポケットを見る。
「ああ、ごめん。ちょっと確認するよ。もしかしたらゼミの緊急連絡かもしれない」
僕は軽く詫びてスマホを取り出した。画面を点灯させた瞬間、ロック画面を埋め尽くしていたのは、サークルのグループチャットからの通知だった。その数、既に五十件を超えている。普段は業務連絡程度しか動かないグループが、平日の昼間にこれほど活発になるのは異常事態だ。
『海人、これマジ?』
『信じてたのに最低』
『玲奈ちゃんが可哀想すぎる』
『見損なったわ』
『男として終わってる』
プレビューに表示される文言の数々に、僕の思考が一瞬フリーズした。罵倒、軽蔑、失望。それらの言葉の矢印が、間違いなく僕に向けられている。心拍数が上がり始めるのを自覚しながら、僕は震える指でMINEアプリを開いた。
トーク画面を遡ると、数分前に一枚の画像と、数枚のスクリーンショットが投下されていた。投稿者は、真田亮介。僕と同じゼミに所属する大学院生の先輩であり、サークルの元代表でもある男だ。
『みんな、ごめん。こんなもの見せたくなかったんだけど、どうしても許せなくて』
そんな殊勝なコメントと共に貼られていた画像。それを見て、僕は息を呑んだ。
そこには、僕が知らない女性と腕を組み、ラブホテルの煌びやかなネオンの下を歩いている姿が写っていた。顔は鮮明に僕そのものだ。着ている服も、僕が先週買ったばかりのジャケットによく似ている。そして続くスクリーンショットは、僕のアカウント名が表示されたMINEのトーク履歴だ。相手は『ミホ』という名前の女性で、内容はあまりに卑猥で、そして玲奈を愚弄するものだった。
『今の彼女? まあキープって感じかなw』
『やっぱりミホの方がイイよ、あいつ重いし』
『今度またあのホテル行こうぜ』
吐き気を催すような文字列。しかし、アイコンも口調も、表面的には僕のアカウントそのものに見えるように偽装されていた。
「……何これ」
いつの間にか、横から画面を覗き込んでいた玲奈が、凍りついたような声を出した。彼女の顔からは血の気が完全に引いており、唇がわなないている。
「玲奈、これは違う。僕はこんなことしていないし、この女の人も知らない」
即座に否定する。事実無根だ。論理的に考えて、僕がこんなリスクの高い行動を取るメリットがないし、そもそも僕は玲奈以外の女性に興味がない。
「でも……これ、海人くんだよね? この服だって、先週一緒に買ったやつ……」
「画像が作られているんだ。ディープフェイクだよ。誰かが悪意を持って合成したんだ」
「でも、MINEも……」
「IDを偽装したか、画像を加工して作った偽物だ。よく見てくれ、僕ならこんな非論理的な文章は書かない」
必死に説明しようとするが、玲奈の目には既に涙が溜まっていた。恐怖と疑念。最も信頼していた相手に向けられるべきではない感情が、そこには渦巻いていた。
その時、スマホが再び震え、今度は着信画面になった。相手は真田亮介。
「……真田先輩だ」
「出てよ……」
玲奈が絞り出すような声で言った。僕は意を決して通話ボタンをスワイプした。
『よう、一ノ瀬。今どこにいる?』
スピーカー越しに聞こえる真田の声は、普段の兄貴分然とした明るいものではなく、怒りを押し殺したような低く重いトーンだった。
「学食前のベンチです。先輩、この画像はいったい……」
『とぼけるな。今すぐ部室棟に来い。みんな待ってる。玲奈ちゃんも一緒にな』
一方的に通話が切れた。ツー、ツーという電子音が、僕の置かれた状況の孤立感を際立たせる。周囲を見渡すと、遠巻きに僕たちを見ている学生たちの視線に気づいた。彼らもまた、スマホを見ながらひそひそと話している。情報は既に、サークル内だけでなくTwotterなどを通じて拡散され始めているのかもしれない。
「行こう、玲奈。ちゃんと説明して、誤解を解くから」
僕は玲奈の手を取ろうとしたが、彼女はビクリと肩を震わせて、その手を避けた。空を切った僕の手が、行き場を失って宙を彷徨う。
「……触らないで」
拒絶の言葉が、物理的な痛みとなって胸に突き刺さった。しかし、ここで感情的になれば相手の思う壺だ。僕は奥歯を噛み締め、震える手を握りしめて先を歩き出した。証明しなければならない。僕の潔白を。客観的な事実と論理によって。
部室棟の三階にあるサークル共用スペースに入ると、重苦しい空気が肌にまとわりついた。普段はカードゲームや雑談で盛り上がっているその場所には、十数人のサークルメンバーが集まっており、その中心に真田亮介が腕を組んで立っていた。彼らは一様に、汚物を見るような目を僕に向けている。
「よくのこのこと来れたな、一ノ瀬」
真田が低い声で唸るように言った。彼の隣には、サークルの同期である男子学生たちが威圧的に並んでいる。
「真田先輩。あの画像とMINEのログは偽造です。僕にはあんなことをする動機も機会もありません」
僕は部屋の中央に進み出ると、可能な限り冷静な口調で告げた。感情に任せて怒鳴り合っても真実は見えてこない。必要なのは冷静な分析と提示だ。
「偽造? 往生際が悪いぞ。俺はこの目で見たんだよ。先週の金曜、駅前の繁華街でお前が女と歩いてるところをな。まさかと思って隠れて写真を撮った。それがこれだ」
真田はスマホを掲げ、先ほどの画像を改めて全員に見せた。
「金曜の夜なら、僕は自宅でオンラインの講義を受けていました。サーバーへのアクセスログを確認すれば証明できます」
「ハッ、お前が得意のハッキングか何かでログをいじればアリバイなんてどうにでもなるだろ? 情報工学の特待生様なんだからな」
真田の言葉に、周囲から嘲笑のような空気が漏れる。僕の技術力が、ここでは逆に信頼性を損なう要因として利用されていた。
「それに、このMINEの内容はどう説明する? 玲奈ちゃんのことを『重い』だの『キープ』だの……お前、いつも理屈っぽいことばっかり言って玲奈ちゃんを困らせてたよな? 裏ではこんな風に思ってたのかよ」
真田が畳み掛ける。その言葉は、玲奈の心の最も脆い部分を的確に抉っていた。入り口付近に立ち尽くしていた玲奈が、両手で顔を覆って泣き崩れる。
「違う! 僕はそんなこと思っていない!」
「じゃあ証拠を見せろよ! 言葉じゃなくて、誰が見てもわかる証拠を!」
真田の怒声が響く。証拠。そうだ、証拠ならあるはずだ。僕は震える手で自分のスマホを操作し、拡散されている画像を拡大表示した。そして、その画像を解析アプリに読み込ませる。
「見てください。この画像、光源の位置がおかしいんです。僕の顔にかかっている影の角度と、背景のネオンサインの位置関係を計算すると、光源は右上方45度にあるはずですが、地面に落ちている影は左後方に伸びています。これは複数の画像を合成した際に生じる典型的なミスです」
僕は画面を真田たちに向け、数値と補助線が表示された解析結果を示した。
「それに、このMINEのスクリーンショットもです。ステータスバーの時計のフォントが、正規のOSのものと微妙にカーニングが異なっています。また、背景のピクセル配列に不自然な連続性が見られます。これは画像編集ソフトで文字を書き換えた痕跡です。デジタルフォレンジックを行えば、加工されたことは明白に証明できます」
早口でまくし立てた。完璧な論理だ。物理法則とデジタルデータの痕跡は嘘をつかない。これで誰もが、この画像が作り物だと理解するはずだ。そう確信して顔を上げた僕は、周囲の反応を見て愕然とした。
誰一人として、納得した表情をしていなかった。それどころか、彼らの目にある嫌悪感はさらに強まっていた。
「……お前さ、何なの?」
一人の女子学生が、底冷えするような声で言った。
「玲奈があんなに泣いてるのに、影の角度? フォントのズレ? そんな理屈こねくり回して、何をごまかそうとしてるの?」
「そ、そうだよ! 普通なら『信じてくれ』って必死に謝るとか、感情的になるだろ。なんでそんな冷静に分析できるんだよ。サイコパスかよ」
「怖っ……。浮気バレてそんな言い訳が出てくる神経が信じられない」
予想外の反応に、僕は言葉を失った。僕は真実を話している。事実を提示している。なのに、なぜ? なぜ彼らは事実よりも「態度」を優先する?
「一ノ瀬、お前のそういうところが以前から鼻についてたんだよ」
真田が一歩前に踏み出し、僕の胸倉を掴み上げた。
「自分だけが賢いと思って、他人を見下して。今回だってそうだ。俺たちがバカだから、適当な専門用語を並べれば騙せると思ったんだろ? 人の心をなんだと思ってるんだ!」
「ちが……僕はただ、事実を……」
「事実? 事実は玲奈ちゃんが傷ついて泣いてるってことだけだろ!」
真田の拳が振り上げられることはなかったが、その言葉の暴力性は物理的な打撃を遥かに上回っていた。彼は僕を突き飛ばすと、泣いている玲奈の元へ歩み寄り、その肩を優しく抱いた。
「玲奈ちゃん、もういいよ。こいつの話を聞く必要はない。俺たちがついてるから」
「うぅ……真田先輩……」
玲奈は抵抗しなかった。彼女は涙に濡れた目で僕を見た。その目には、もうかつてのような愛おしさは微塵も残っていなかった。
「海人くん……。私、海人くんの言葉がわからないよ」
玲奈の声は震えていた。
「どうして……どうして『やってない』って、ただ目を見て言ってくれないの? どうしてデータの解析なんて始めるの? そんなの、まるで準備してた言い訳みたいだよ……。私の悲しみより、自分の正しさの証明が大事なの?」
彼女の言葉は、僕の論理回路をショートさせるに十分だった。僕はやっていないと最初に言った。それを信じてもらえなかったから、客観的な証拠を示そうとした。それが僕にとっての最大の誠意であり、彼女への愛の証明だったはずだ。だが、彼女にとっては違った。彼女が求めていたのは、論理的潔白の証明ではなく、感情的な潔白の共有だったのだ。
僕の「正しさ」は、この場において「冷酷さ」と同義だった。
「玲奈、聞いてくれ。僕は君を裏切ってない。これは罠なんだ。真田先輩が……」
「往生際が悪いぞ一ノ瀬!」
真田が遮るように大声を上げた。
「自分の罪を認めるどころか、俺に濡れ衣を着せようとするのか? 最低だな、お前。もう出ていけよ。俺たちのサークルに、お前の居場所なんてない」
「出ていけ!」「最低!」「二度と顔見せるな!」
周囲からの罵声が波のように押し寄せる。僕は立ち尽くし、ただその光景を呆然と眺めることしかできなかった。真田に肩を抱かれ、泣きじゃくる玲奈。彼女を守るように壁を作るかつての友人たち。そして、その中心で、僕を見下ろしながら微かに口角を上げて嗤う真田の顔。
その歪んだ笑みを見た瞬間、僕の中で何かがぷつりと切れる音がした。
怒りではない。悲しみでもない。それは、諦念だった。
論理が通じない世界。事実が感情によって歪められる空間。そこでこれ以上、言葉を費やすことに何の意味があるだろうか。エラーを起こしたプログラムに何度入力を繰り返しても、正しい出力は返ってこない。ならば、やるべきことは一つだ。
僕はゆっくりとスマホを下ろし、画面を消灯させた。解析データも、証明のロジックも、すべてが暗闇の中に吸い込まれていく。
「……わかりました」
僕が静かにそう言うと、場の空気が一瞬だけ静まり返った。
「君たちがそう判断したのなら、それが君たちにとっての事実なんでしょう。僕はもう、何も言いません」
弁解もしない。謝罪もしない。ただ、事実として受け入れる。このコミュニケーションの断絶を。
僕は玲奈をもう一度だけ見た。彼女は僕の言葉を待っているようにも見えたが、その瞳の奥にある疑念の色は消えていなかった。もう、届かない。僕の言葉は、僕の論理は、彼女の心というサーバーにはアクセス権限を失ってしまったのだ。
僕は踵を返し、背後から浴びせられる罵倒を無視して部屋を出た。扉が閉まる瞬間、真田の勝ち誇ったような声と、玲奈の嗚咽が聞こえた気がしたが、僕は振り返らなかった。
廊下に出ると、窓の外は既に夕暮れになっていた。赤く染まった空が、キャンパスを不気味なほど鮮やかに照らし出している。
僕は一人、長い廊下を歩きながら、頭の中で次なる行動指針を組み立て始めていた。この大学というシステムから、そして彼らの人生というタイムラインから、一ノ瀬海人というバグを完全に削除するためのプロセスを。
「Q.E.D.(証明終了)……いや、証明不能か」
自嘲気味に呟いたその言葉は、誰の耳にも届くことなく、夕闇の中へと消えていった。
論理は敗北した。しかし、それは終わりではない。ここから始まるのは、論理を捨てた彼らが、真実という名の遅効性の毒に蝕まれていくまでの、静かなカウントダウンなのだ。
僕はポケットの中で固く拳を握りしめ、二度と戻ることのない日常に背を向けた。




