筆は自分語りをする②
2026年1月24日 本文を2つに分けました。
2026年1月25日 加筆修正しました。
お孫さんが亡くなってからしばらくして、わたしは親戚の方から寺へと譲られました。
親戚にとっては、親方が命がけで作り、奥方と息子さんが死ぬまで使用し、死ぬ間際にお孫さんが血をかけた筆なのです。
血のかかった筆など不吉だ、祟られないうちにさっさと寺へ入れてしまえ、とひそひそ言う声が聞こえました。
親戚のうち、誰がわたしを寺へ持っていくかで醜い争いを起こし、最終的にそのうちの1人がわたしを寺に預けました。
親方と息子さんが築き上げた工房を、今度は自分が継ぐのだというお孫さんの決心も、責任も、相当強いものでありました。
それを親戚たちは我が物にしようと、禿げたかのように狙ってきたのです。
それに、あの親戚のやつが寺に持っていくときの感覚と言ったら!
こんな筆は不吉だ、なんでおれがこんな目に。
寺なんかに預けず、適当に売り払えば金にもなるのに。
あの人間に触れられたとき、毛先がぶわりと広がって元に戻らない感じがしました。
これが人間で言うところの、鳥肌というやつなのでしょうかね。
当時はまだ意思のないわたしではありましたが、お孫さんの涙がわたしの軸にかかったとき、このやさしい人を泣かせた連中の顔に墨をぶちまけたい思いに駆られました。
いくら病弱なお孫さんが経営を続けられる状態ではないにしろ、親戚連中とて下心がないわけではなかったのです。
わたしには、どうしてもそれが許せない。
それを感じ取って寺に預けたのですから、人間とはほんとうに大した勘をしています。
坊主たちが話しているのを聞くと、どうやら人の血がついた古い道具というのは鬼になってしまってもおかしくないという。
血がついたわたしを見てなにか心が引っかかるような、このままだとおのが身すら危ういといった感覚があったのでしょう。
今ですら、あのかわいい坊ちゃん、親方のお孫さんを泣かせた親戚どもを祟ってやりたいと思うのに、どうにもあの親戚どもを心胆から寒からしめたいという欲望がよぎりました。
そのときに自我があれば、間違いなく祟っていただろうと思うと、自分にぞっとする思いです。
わたしが寺に預けられてから、わたしは経を読んでいる坊主たちのそばにいることになりました。
今思えば「お焚き上げ」などをして火で燃やされてもおかしくないはずであったのに、坊主たちがわたしを使うことにしたのは僥倖でした。
火はいやです。わたしは木と動物たちの毛でできているのですから、火はわたしにとって大敵なのです。
え?猫の毛も入っているのかって?ええもちろん。
猫の毛は筆職人にとって素晴らしい代物ですからね。
話を戻します。
寺でわたしは、毎日幾回も流れる経典を聞いておりました。
当時は自我がなかったわたしですが、毎日聞いていたおかげで、魂の域にまでお経がしみこんでいるようで、今でも全部唱えることができるんですよ。ほら
ぶっせつまかはんにゃーはーらーみーたーしーんぎょう、かんじーざいぼーさーつ、ぎょうしん…
え?別に唱えなくていい?聞き飽きてる?そうですか、なんだか残念ですね。
あなたに声をかけられてからというもの、話す練習にこっそりとお経を唱えていたのです。
おかげで、上から下まですっかり覚えてしまいましたよ。
そこで、それまで黙って聞いていた彼女は、たまらずに声を上げた。
『ねえ、あなたはわたしと同じように魑魅魍魎の類よね?別にあなたが経を唱えたところで効果はないけれど。でもなんというか、経に対するいやな感じとか、恐ろしさとか、あなたにはないわけ?』
彼女はもともとのんびりした、もっと言えば面倒くさがりな性格ではあったが、いきなり経を唱えるという筆の奇行を前に、突っ込まざるを得なかった。
なんですって、仮にももののけの類が経を読むのはおかしいと。ふつう、妖は経を読むと逃げていくものではないのか。
ましてや経を自ら読むなどおかしいのではないか。そう言いたいのですね。
この世は不思議なことがたくさんあるのです、わたしが経を読むくらいなんですか。
あなたもおかしなことを言うものですね。
『……あなたには言われたくなくてよ。ねえ。それで?そのあとはどうなったのよ』
…ああ、話がそれました。
それから時代は戦の世になったようで、なんとかというお方が、ここらで一番大きなお寺に火を放ったという知らせが届きました。
わたしがいるところは無事だったようですが、寺の坊主たちは戦々恐々とし、仏よ、どうかお助けくださいとなおさら経を口にしていました。
わたしはこの寺で過ごすうち、自分の周りにあるゆらゆらとした波が、時に強く揺れ、時にうっすらと引き、戻りを繰り返しているような気持ちになっていました。
坊主たちがわたしの毛先についた墨をきれいに洗い流してくれるとき、水に何度もわたしをつけ、揺らしてくれるのです。
そう、ちょうどそういった感覚でした。
そんな中、あなたに声をかけられたのです。




