【番外編】筆はちょこれいとを食べる
『筆、ちょっと起きて、起きてってば!』
『むにゃ…』
猫又の強い念に、わたしの意識は覚醒した。
わたしは、いつものように客の相談を聞き、店で昼寝をしていた。
今日は猫又も狐も狸も来ず、穏やかであるが少し寂しい店内であった。
春がすぐそこだというのに、まだ寒いのだ。
季節柄、冬は特に客の入りが少ないのは、仕方がないことだろう。
わたしも例にもれず、店内に据えられた火鉢のそばで丸くなっていたのである。
はて、猫又は今日、どこかへ出かけていったはずだが。
どうしたのだろうか。
『いいからちゃっちゃと起きなさい!』
べしっと軽くたたかれた。
『やめてくださいよ猫又さん…』
『なかなか起きないからでしょ!それよりも、ここがどこかわかる?』
わからない。
わたしはあたりを見回した。
さっきいた店とは違う、白い空間だった。
壁も天井も、空もない。
白い床が延々と続く場所に、猫又とわたしが転がっているのだ。
ふと首のあたりに違和感を感じ、わたしは愕然とした。
友ふたつがいない。
『鈴さんと櫛さんがいません』
どこかに落としたのだろうか。
うろたえるわたしを見て落ち着きを取り戻したのか、猫又は鷹揚に頷いた。
『ええ。私もここがどこかわからないし、見渡した限りあんたと私しかいないわ。…誰の仕業かしら?』
『ここから出る方法はあるんでしょうか?』
『あったらとっくに出てるわ』
だろうなとわたしも思った。
狭い所が好きな彼女のことだ。
こういうだだっ広い空間は好きではないだろう。
現に、いらいらしているのが見て取れる。
なんとかここから出る方法はないかと、わたしは目を凝らす。
ふと、白い景色の中に一つだけ異なる部分があることに気付いた。
『猫又さん、あそこになにかある気がするんですが…』
『ええ?そんなわけないじゃない、さっきまでくまなく探したんだから…』
いや、あるものはある。
もしかしたら、今出てきたのかもしれない。
『ちょっと遠いわね。行ってくるわ』
彼女だけ見てこようとするのを、わたしは止めた。
『わたしも行きますよ』
『…別に来なくてよくてよ?』
『わたしいっぽんだと不安なので…』
少し違う。わたしだってただ彼女に守られているわけにはいかないのだ。
足手まといになるかもしれないが。
『しょうがないわねえ。ほら、行きましょう』
『はい』
猫又と連れ立って歩く。
思えば、彼女と一対一で話す機会はとんと減っていた。
なんだか寺にいたころに戻ったような、変な気分である。
『ふふ』
『…なんで笑ってるのよ』
『いえ、猫又さんと過ごせるのが嬉しくて』
『…そう』
猫又はにわかに速度を上げた。
これは照れ隠しだと、狐に教えてもらった。
そうして辿り着いたところにあったものは。
甘い香りをした物体であった。箱と一緒に、一枚の紙が添えられている。
箱に入っているのを、猫又が器用に開けると、香りがふわりと広がった。
黒い物体で初めて見るものだが、なぜかわたしは美味しそうだと感じた。
対して猫又は、訝しげに物体を見た。彼女は警戒心が強いのだ。
『…なによこれ』
わたしは添えられていた紙を読んだ。
『ええと…ちょこれいと?という食べ物みたいです』
『だから、なによそれ』
猫又が覗き込んでくるので紙を見せながら、わたしは続けた。
『甘くておいしいお菓子、と書かれていますよ。人にとってはとても高価なものらしいです』
『…へえ』
わたしは苦い顔をしている猫又をよそに、ひとかけら口に入れてみた。
猫又は焦った声を上げた。なんなら手も出た。
『ちょっとバカなに易々と口に入れてんのよ!毒かもしれないでしょ!』
『っっ!』
『ああもう!さっさと吐き出しなさい!』
『ね、猫又さん』
『どこか痛むところはある?具合が悪くなったりは―』
『ものすっっごく、おいしいです』
……。
その場に沈黙が流れた。
同時に、 頭を毒に侵されたんじゃないかこいつ、と猫又は思っていた。
どういう神経してたらいきなり目の前に現れた食べ物を食べる気になるのだ。
わたしは堰を切ったようにちょこれいとについて話し始めた。
猫又はちょっと引いていた。
でも本当においしいのだ。
甘さが強いものかと思えば、口に溶けた瞬間それだけではないとわかる。
苦さと甘さの均衡がとても取れている。
さらにこの舌ざわりが素晴らしい。
口の中に溶けるこの感覚は、どことなく背徳感を醸し出している。
もうひとかけら口に入れるわたしに、猫又は呆れ返った。
危機感のないことである。
『…おいしいの?』
『はい。あ、でも』
『でも?』
『猫にちょこれいとは禁物、って書かれてます』
ぺらりと見せられた紙には確かに、猫にちょこれいとは毒だと書かれている。
猫又は目を吊り上げた。
『じゃああんたも食べたらだめじゃないの!』
『わたしは筆なので…』
涼しい顔をして食べる筆に、猫又は覚悟を決めた。
こいつが大丈夫なら自分も大丈夫だろう。
自分だって完全な猫ではなく、その上の猫又であるのだから。
猫又なら食べたっていいのだ。
猫又は吞まないが、他の猫又の中には酒もたばこもやる者がいるのだ。
だから、大丈夫なはず。
ぱくり、と口に入れた。
『…』
初めての味だ。
いつも食べている、煮干しとも魚の干物とも違う。
たまに妖仲間にもらう菓子とも違う味だ。
だが筆の言うように、確かにおいしいのだ。
おいしいのは認めるが。
期待するかのようにこちらを見る筆が、どうしてか癪に障る。
『ふん。なかなかやるじゃないの』
『誰目線ですかそれ…』
『あら、猫又目線よ』
もう一つ、とお互いにちょこれいとを含んで堪能した。
どちらともなく笑いがこぼれる。
さっきまでの殺伐とした雰囲気はなく、ちょこれいとの甘い香りが広がっていった。
あと、もう一つ…
ぱちり。
わたしは目を開けた。
なんだか幸せな夢を見た気がする。
どんな夢だったかは覚えていなかった。
すごくおいしいものを食べていた、とはわかるが。
それがなんだったのか、ついに思い出すことはできなかった。
あたりを見回すと、猫又がそばで寝ていた。
彼女も同じ夢を見たのだろうか。
『猫又さん』
『なによ』
『さっきの夢―』
『知らないわ』
『え、でも』
『知らない』
猫又は頑なに教えてくれなかった。
バレンタインデーということで番外編です。
猫又と筆には恋愛感情はない予定です。




