相談屋お筆は衝撃を受ける
『―おい、おい筆、大丈夫かよ?』
『筆さん、しっかりしてください』
鈴と櫛が念をかけるのが聞こえる。
だんだん意識がはっきりしてくると、わたしは自分が気を失っていたことに気付いた。
ここは確か、回向院という江戸にある寺であったはずだ。
どうやらわたしは、建物の陰に転がっているようだ。
盛況であった参道とは違い、わたしの周りはとても静かであった。
この雰囲気のためかわからないが、ここは自分がかつていた寺を思い出させる。
そして、もうあの寺は廃寺であることも思い出させる。
そのせいでふらついてしまったのかもしれない。
『…あの、猫又さんは』
『気が付いたか!あいつならここにおれたちを置いて、さっきどこかに走っていったぞ』
『どこに行ったんでしょう、けどすぐに戻ると言っていましたよ。筆さんはまだ具合悪いですか?』
『おう、さっきは驚いたぜ。急に立ち止まるわ、いきなり元に戻るわでよお』
相当心配をかけてしまったようだ。
心なしか、鈴と櫛の念が暗い気がする。
そして鈴に言われて、ようやく合点がいった。
そういえば、身体を動かせない。
今のわたしは変化が解けている、ただの筆の姿であった。
『大丈夫ですよ、すぐに猫に化ければいいんですから…摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊 皆空 ~~~』
わたしはふたつを安心させるべく、すぐに猫に戻ろうとした。
ぽふっ
小さく煙が出た。
しかし。
『あれ、戻れない』
戻れなかった。
どうしてだろう。いつもならぽんと変化できるのに。
『ごめんなさい。いくらなんでも無理をさせすぎました。今日はここらで帰りましょう、筆さん』
『悪かったな、筆よ。おれもついはしゃいじまってた』
『おふたつとも…』
そう言ってふたつは謝罪をする。
あんなにはしゃいでいたのに、わたしのせいで楽しみに水を差してしまった。
彼らは悪くないというのに、謝ることなんてないのだ。
『謝らないで』
自然と言葉が出てきた。
『筆?』
『筆さん?』
いきなり筆から発された強い念に、鈴と櫛は呆気にとられた。
『突然倒れてしまって、わたしの方こそご迷惑をかけたのです。むしろ、この程度の心の揺らぎで変化が解けたのですから、わたしが修行不足だったのですよ。ふたつには本当に申し訳ないことをしました』
『そうはいってもな筆よ。おれたちが無理をさせたのは事実だぜ』
『そうですよ筆さん。悪いのは私たちなんです』
『いえ、これしきのことで音を上げるなんぞ、情けないことです』
『これしきなんかじゃないですよ、筆さん』
『そうだぜ、お前さんが外に出たことがないのを知ってて、連れまわしたんだ。責任はおれたちにある』
一歩も引かないふたつに、わたしはどうしたものかと思った。
この方々もたいがい、強情だ。
その時。
「いやあ、お世話様でございます」
「お、これは八兵衛さん。お久しぶりですねえ」
近くで人間の声がした。
聞き覚えのある声だ。
どうやら、寺の建物の前で話しているらしい。
話している人間2人のうち、1人はここの僧侶のようだ。
その声に聞き覚えがあるのは、たぶん気のせいじゃない。
あの声は、八兵衛にわたしを譲った坊主だ。
そして、もう1人は。
わたしの今の飼い主であった。
『どうして…』
『おい、まずくねえかい?』
『筆さん、このままだと見つかっちゃいますよう』
『姐さあん、はやくきてくれぇぇ!』
わたしは大いに焦っていた。
そういえば昨日、八兵衛は用事があるとか言っていた。
だからここにいても、別に不思議はない。
けれど、わたしは今変化を解いている状態で、わたしの軸には普段付けている首輪と鈴、櫛がかかっている。
まずい。
今見つかったら、確実にこの筆がわたしの真の姿だと気付くだろう。
そうしたら。
わたしはまた、居場所を失うことになってしまう。
焦っている間に、彼らの会話は進む。
「驚きましたよ、まさかあなたが江戸に来ていたとは。上方でお会いして以来ですねえ」
「ええ、私もここに来るつもりはなかったのですが。江戸にいる兄弟子に、お前も来ないかと誘われたのです。八兵衛さんもお元気そうで何よりです」
「おかげさまで。お筆ちゃんに出会ってから、毎日が幸せですよ。ありがたい限りです。ぜひとも長生きしてほしいものだ」
「…筆、ですか」
どきりとした。
彼はわたしを譲るとき、「自分が持っていていい代物ではない」と言った。
猫又は、これから旅に出る僧侶が持つには高価なものだからではないかと言っていた。
わたしもそう思っていた。
しかし、別の可能性だってあるのだ。
知っていて、自分の手には負えないと思ったから譲った、という線がある。
ますますまずい。
もしそうなら、猫の姿をしたわたしが「筆」だということもばれかねない。
「そういえば八兵衛さん、お渡ししたあの筆なのですが…」
「ああ、それですか」
実は、と。
八兵衛は申し訳なさそうに話し始めた。
自分の荷馬車が盗賊に襲われたこと、その際に筆が見当たらなくなってしまったこと。
おおかた、盗まれてしまったのだろうと。
でも、と彼は続けた。
「実は、あの筆を使うとぞわぞわしてくるというか、鳥肌が立ってきたんです。お坊様にいただいたありがたいものですが、どうにも怖くなってしまって…。江戸に着いたら誰かに譲るか、寺に寄進するかと悩んでいたのです」
だから、正直ほっとしたのも事実なのだと。
「そうでしたか…。いえ、賊のせいで失われたのなら、それが定めというものなのでしょう。正直に話してくださり、ありがとうございます」
その後も何事かを話して、八兵衛は店へ、坊主は寺の中へと戻っていった。
何を話していたか、わたしは聞いていることができなかった。
彼はわたしを「お筆ちゃん」といって可愛がってくれる。
だから、もしかしたら本体を見せたとしても、変わらない態度でいてくれるものだとどこかで思っていた。
だが違ったのだ。
彼は筆としてのわたしではなく、猫としてのわたしに対して愛情を抱いている。
人間としてはそれで正しいだろう。妖と人間は共に歩むものではないのだ。
だが、わたしはそれがなんだか悲しかった。
だって本当は猫ではない。
筆なのだ。
久しぶりに、筆先が毛羽立つような気分になった。
筆のまま猫になることなく黙り込むわたしを、鈴と櫛は神妙に見ていた。
猫又の姐さん、頼むから早く来ておくれでないか。
ふたつは同時にそう思っていた。
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