相談屋お筆は郷愁を抱く
初めての味覚に感動し、魚に舌鼓を打ったあと。
筆と猫又一行は、江戸を流れる大川(隅田川)を見に両国橋へと来ていた。
『わあ、これが川というものですか!とてもきれいですねえ』
『水が澄んでいるのがよくわかるぜ。もう少し近づいてみねえかい?』
はしゃぐふたつほどではないが、筆もまた、いつも筆先を洗われるときの水と違う、こんなにも多くの水が流れるものがあるということに驚いていた。
『だめよ。近づいたら河童に引きずり込まれかねないからね』
珍しく真面目な口調で言うものだから、逆に近づいてみたい気もする。
『そんなに凶暴な方々なのですか?相撲が好きだという話は聞きましたが』
『普通に話すと気のいい奴らなんだけどねえ。水辺にいるものにはすごく興味を示していて、近づくと問答無用で引きこんでくるのよ』
『もしかして、ご経験が…?』
『ええ、最悪だったわ。猫に水は大敵だっていうのにさ』
忌々しそうな猫又を見て、わたしは遠くで見ておくだけにしようと心に決めた。
『おや?猫又のおしろ姐さんじゃないかい?』
突然念をかけてきたのは、他でもない河童であった。
狐と狸が言った通り、緑色の身体にざんばらの髪、そして頭には皿がある、人間の子どもくらいの大きさの妖である。
話に聞いたときは、そんな妖がいるのだろうかと不思議に思っていたが、本当に話に聞いていた通りの容貌であった。
『あら太郎、久しぶりでないの。私を川に引きずり込んで以来ね』
猫又が嫌味たっぷりに言うので、この河童が彼女の因縁だと悟った。
猫又の言葉に、河童は気まずそうに頭の皿をかいた。
『いやあ、あのときはすみませんで。おれもまさか盛大に引っかかれるとは思いませんでしたよ』
『ふん、猫又に手を出したらそうなるってわけよ。せいぜい気を付けることね』
『はは、勘弁してくださいよ。…それで?今日は後ろの方々の案内ですかい?』
『ええ、つくも神三人衆よ』
『つくも神三人衆…?』
わたしは息を吐いた。無理もない。
『はじめまして河童さん。わたしは筆のつくも神です』
『私はべっ甲のつげ櫛と申します』
『こいつの首輪の鈴をやってるもんだ』
『おや、これはご丁寧に。あなたは八兵衛さんのところのお筆ちゃんですね?
おれはここらの川に住んでいる大川太郎というものです』
『太郎さんですか、よろしくお願いいたします。…あの、どうしてわたしが「お筆」だと?』
少し引っかかったのだ。江戸の町はうわさが広まりやすいとはいえ、江戸に猫は大勢いる。その中でわたしを区別できるとは思えない。
『それはなあ。猫又のおしろ姐さんと一緒にいる、筆に似た容貌の猫が、最近できた店でたいそう猫かわいがりされているってんで有名だからさ』
『ゑ』
『あそこの店主は妖を引き寄せるだろう?それであの店は妖の客が多いのさ。八兵衛さんの周りは居心地がいいが、なにぶん堅物だからね。近所の連中にはこれじゃ嫁さんのひとりも見つからないのではと陰口を叩かれていたのさ。
それをおれたちも心配してたんだよ。』
河童はそこで言葉を切った。
『それが、最近になって猫を飼い始めたら、人が変わったように溺愛し始めたじゃないか。これは人も妖もびっくりしたもんだよ。あの堅物の八兵衛さんがってね』
『…だから、人も妖もわたしのことを知っているんですね』
『そういうことさね。今やお筆ちゃんは、八兵衛さんだけでなくあの猫又のおしろ姐さんにも愛される、今注目の妖で猫なのさ』
ばりっ
『いてっ』
言い終わらないうちに、猫又の爪が河童の顔に炸裂した。
河童は悶絶して川の中にうずくまった。
『猫又さん…?』
『ほら早く行くわよ、日が暮れちゃうわ。まったく、河童なんかの話を聞いたのが間違いだったわね』
『あら、でも、興味深いお話でしたよ』
『おう、そうだぜ。ありがとうな、河童さんよ』
『え、あの、大丈夫です?』
『大丈夫よ。死にゃーしないわ。早く次へ行くわよ』
『あの、ありがとうございました、失礼します』
『あいよ。気が向いたら店に行くからなあ~』
水の中からくぐもった念が聞こえたので、本当に大丈夫なのだと安堵した。
『猫又さん、次はどこへ行きます?』
『そうね。鈴と櫛の希望は叶えたし…筆、あんたはどこに行きたいのよ』
猫又にそう聞かれ、わたしは即答した。
『お寺へ』
『ええ。あんたはそう言うと思ったわ。今向かっているわよ』
『猫又さん…!!』
聞かずともわたしの行きたいところがわかるとは、さすがだ。
『おや筆、おめえさんは寺が好きなのかい?妖にしては珍しいねえ』
『お経も毎日唱えていらっしゃいますから、筆さんは信心深いのですね』
『昔寺にいたことがあるんですよ。そこで長年、毎日お経を聞いていたら、覚えてしまったんです』
『お経を唱えようと思うつくも神なんて聞いたこともないからね。筆、あんたは正真正銘の変神さね』
また猫又の不思議言葉が作られた。
確かにわたしはつくも神だが。変神ってなんだ。
そんな会話をしていると、寺へと着いた。
寺の門前には屋台がいくつも並んでいて、賑わっていた。
今朝の朝市のようだ。
『ここは回向院という寺よ。身分関係なく、人も動物も供養する寺として有名だわ』
立派な門構えのある寺であった。
わたしはこういった建物を見たことがないが、よく手入れが行き届いていて、人々に広く愛されているということがよくわかった。
『とってもにぎわっていますねえ』
『屋台がたくさんあるぜ。寺の前って言うのはこんなに盛り上がっているんだなあ』
『このお寺、犬や猫も供養してくれるからよいお寺なのよ』
猫又たちが口々に言うのを聞きながら、わたしはなんだか懐かしいような、安心するような気持ちになっていた。
このお寺に来るのは初めてのはずだ。
だが、昔いたお寺に檀家がたくさんいたころは、たしかこんな風だった。
寺に預けられた経緯は、わたしが祟り神と化しそうであったからであろう。
しかし、長年寺でいろいろな人の声を聴いているうちに、わたしにとっての寺はかけがえのない場所となっていたらしい。
そうでなければ、こんなに安心するわけがない。
だが、あの寺はもうない。
もう、あそこへ戻ることはないのだ。
そう改めて気付いたとき、わたしは筆先の毛が抜けていくような心地がした。
『筆、ちょっと筆』
猫又に焦ったような念をかけられ、わたしははっと我に返った。
『すみません、ぼうっとしていました』
『大丈夫かい?少し休めばいいんじゃないか』
『あ、そっちの方は静かそうですよ』
鈴と櫛にも心配をかけてしまった。
すすめられた通り、隅の方に移動してひと休みする。
わたしはそこで意識が途切れた。




