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僕の暮らすマンションの一室から、母の居る実家までおよそ百メートルあたりの距離だろう。
世界のトップアスリートたちが持てる力のすべてを出し切って走ったなら、十秒ほどあれば到着することなどいともたやすい距離だ。
僕はその僅かな、ほんのごく極めて僅かな距離を、遠足を満喫する小学生の集団のように、楽し気に時間をかけてゆっくりと歩く。
玄関を開けると母がいつもの笑顔で出迎えてくれた。
この数日間の記憶など今更ながら、どこかに置き去りにしても何ら構わないとさえ思えた瞬間だった。
『テーブルの上に苺のケーキがあるから食べるといいわよ』
母の声に反応したのか、奥の仏間の脇にあるソファーで、夢見心地の最中に身を委ねていた飼い猫のマーブルが、そっと身体をくねらせて僕の傍らへと近づいてきた。
ケーキをぱくりと頬張り、マーブルの頭を数回撫でた。
ポーチからペンと原稿用紙を取り出して、テーブルと向き合いペンを走らせた。
『いい作品が書けそうだ』
村上春樹のデビュー作【風の歌を聴け】の本が、ポーチから顔を覗かせている。何故か気分は上々だ。
台所で母が少し遅めの夜食の準備をしていた。
穏やかな街並み。夜空も落ち着き、星星が点在し、それぞれの輝きや形状を見せつけては美しさを競い合っている。
外界のあらゆる音という音が優しく街全体を覆い、人々の心まで包み込む。
この数日間、僕がどう生きていたのか、そんなことなんて本当にどうだっていい些細なお粗末な話しだ。
歯の痛みを言葉として伝えない以上は理解など他人には理解に繋がらないように、言葉として口から発したところで当の本人にしか痛みなど分からないように、僕の失われた数日間の記憶など少なくとも世界が抱え込んでいる幾数もの難題からしてみれば、問題など微塵にも久しく皆無であり、そこには何かしらの僅かな脈絡さえ存在しない。
無我夢中でペンを走らせた。同じ言葉を口にした。
『いい作品が書けそうだ』
上機嫌で僕はお茶を飲み干した。
飼い猫のマーブルが不思議そうに一瞬だけ、僕を見たあと、ポーチの中を両手で掻き荒らしている。
村上春樹の小説がポーチからその全貌を顕に露出した。
『こら~、マーブル。駄目だろう。なんてことするんだ』
僕はマーブルを叱った。叱った気持ちよりも寧ろ可愛さと愛情がまさったけれど。
マーブルの引っ掻いた痕跡が、タイトルの一部をもぎ取った。
それも確率的にはあり得ない起こり得ない痕跡として残っている。
気にも留めず、再びペンを取り、作品を書き始めた。
その光景を黙って見つめる小説のタイトルは、本の少し剥がれてしまっただけで、すっかりと大きく意味合いを変えてしまった。
村上春樹【虫の歌を聴け】
確かに部屋には聴こえるはずもなく居るはずもない季節外れの蟋蟀の鳴き声が、いつまでも止むことなく鳴り響いていた。