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村上春樹【風の歌を聴け】
たまらない。とてつもなく。
とてもデビュー作とは思えず、思いつきで書いた作品とは考えられない。
それほどの作品であることは体が察していた。
このような作品を手掛けたいと強く思った。
鋭利なジャックナイフで心臓を見事に切り裂かれた衝撃を、最初の書き出しの一行を読んだ瞬間に強く襲ってきた。
何度、読み返したか分からないほど、読んでしまった村上春樹のこの小説に、いつからか虜になるほど骨抜きにされてしまった。
約三時間を要し、丁寧に読み終えた。
僕はグレーのトレーナーに身をくるみ、連絡をくれていた友人たちに順次、電話をかけては空白の数日間に付いて疑問を投げ掛けた。
当たり前のことだが彼らや彼女たちが、その様子を一切知る由もない。
すなわち僕はこの数日間、おそらくだが部屋から一歩も外出していないのだろう。
ようやく、そのことに気がついたのは玄関先に置かれていた牛乳瓶が五本、軍隊で厳格なまでに指導された兵士の姿勢を誇示せんがための配列を見せつけ、威厳を保ちながらもおとなしく待っていたのだから。
ドアを閉め、机に向かった。
携帯電話を手に取り、実家の母に連絡をした。
『今からそっちに行くよ』
いつもの母の優しい声。
静寂な室内を飛び出した僕の右手には、どこへ外出するにも同行する黒いポーチが握りしめられている。
中にはペンと原稿用紙。そして村上春樹の小説。
デビュー作にして僕には傑作である小説【風の歌を聴け】が鎮座している。
雑踏を掻き分け、行き交う人の群れや車のクラクションの存在など、まるでそこには皆無のように扱いながら、僕は先ほどまで居た場所から遠ざかってゆく。