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泡沫のうた

作者: 白花 舞雪

閲覧ありがとうございます。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

誰も責めていないのに、息をするだけで申し訳なくなる。


もがき続けた日々のなかで、私は声を失ってしまった。


それから、私は、ただ、沈んだ海の底で、じっと世界が過ぎるのを待っていた。


ーー世界は今日も、何も変わらない。


夜が明ける。

病院の窓から見える空は、いつも通りの色をしていた。


淡い青に薄く雲が流れて、風がふわりとレースのカーテンを揺らす。

けれどその美しさは、少女ーー泡花うたの心にはもう届かなかった。


病室に射し込む朝日。

清潔に整えられた白いベッド。

規則正しく鳴る心拍モニターの音。

すべてがあまりに整っていて、だからこそ不自然だった。


生きるためにここにいるはずなのに、生きている気がしなかった。


碧波あおなみ 泡花うた。16歳。

心因性の喘息で入退院を繰り返し、ついには声まで出なくなった。

言いたいことが喉に詰まり、息がうまくできなくなる。

横になることもできず、眠れぬ夜を繰り返す日々。

いつ咳が出るか、体調を崩すかわからないと、話すことを恐れ、人と接することを避けるようになって、気づけば、言葉を失っていた。


はじめは家族も、友達も心配してくれていた。

お見舞いの花を手に、毎週のように顔を見せてくれた。

けれど、日に日にその頻度は減っていき、いつしか「また来るね!」は「忙しくて……」に変わり、連絡が来ることはなくなっていった。


喋れない泡花に、みんな戸惑っていたのだ。

泡花自身も、そんな沈黙の時間に耐えきれず、訪問者が減っていくのを黙って受け入れていった。


SNSには、楽しそうな写真があふれていた。

『文化祭!』『友達とずっと行きたかった念願のカフェ行ってきたよ!』

画面の向こうで、誰もがちゃんと“生きていた”。


その反対で、自分だけが“止まっていた”。

みんなはキラキラしているのに、自分は深い海の底に沈んでいるかのようだった。


好きだった動画視聴も、もう何週間も開いていなかった。

大好きだった配信者、KaiRカイルの雑談や歌配信も、最近はまるで心に響かない。

イヤホンを耳に入れても、声が遠く感じる。


楽しいことがたくさん詰まっているはずのスマートフォンはただの無機質な端末に変わり、開くことはなくなっていた。


スマートフォンすら開かずに、何もせず、ただ天井を見つめる時間が続いた。

白い天井と静けさだけが、ずっとそこにあった。


溺れたように咳き込む自分。

体調の波に怯えながら、時計の針が進むたびに、泡花の心は少しずつ、削れていった。


何も変わらない。何も起きない。何も期待しない。


スマホの通知も、SNSの煌めきも、今の私にはまぶしすぎた。


音楽も、動画も、大好きだったものが泡のように遠ざかる。


声を失った人魚姫は、海の底で泡になるのを待つだけ。

そんなおとぎ話が、他人事じゃなくなるように感じるだなんて思わなかった。


誰にも届かない声。

何も変わらない病室。


ただ、窓から差し込む光だけが、私にまだ新しい日が来ることを教えてくれていた。


ーーそんな日々の中で、ある朝。

泡花は、窓の外で、とある変化に出会った。


その日も、ただぼんやりと、泡花はカーテン越しに空を見上げていた。

白いレースが揺れる。

窓の外は、まるで絵のようだった。

天気の移ろいはあるものの変わらない風景。


そんな変わらない風景に一つの影が差した。

隣の棟の窓に立っていた、一人の青年。

黒髪で、細身で、どこか物憂げな顔をしていた。

不意に、泡花と目が合った。

その瞬間、彼は手を振った。


無意識だったのかもしれない。

条件反射のように手を振っていた。

すぐに照れたように、少し自分の行いに困惑したように、はにかみ、髪をかき上げていた。


それだけのことだった。

でも、退屈な一日という日に、たしかな変化が生まれた。


……不思議な人。


そう思った瞬間、胸の奥が、ふわっと、あたたかくなる。

言葉も交わしていないのに、初めて、今ここに自分がいると思えた。

言い表せない高揚感を感じ、止まっていた空間が動いた気がしたのだ。


次の日も、また次の日も、泡花は毎朝カーテンを少しだけ開けて、彼が窓に現れるのを心のどこかで待っていた。


静かな水面に、ひとしずく、雫が落ちたように、泡花の日常に変化が現れたのだ。



そして、ある朝。

彼がまた窓際に立ち、再び目が合ったとき、泡花は、いつもよりほんの少しだけ勇気を出した。


静かに、手を振ったのだ。


それだけの仕草なのに、心臓の音がひどく響く。

もし無視されたら、笑われたら。

そんな不安も一瞬よぎった。

けれど青年は、ぱっと目を見開いて、照れくさそうに笑いながら、同じように手を振り返してくれた。


……それだけで、なぜか、心が震えて、思わず涙が出そうになるなんて。


泡花は手を胸元に引き寄せ、そっと息を吸った。

言葉にならない感情が溢れ出し、気がつけば、微笑みが自然と浮かんでいた。


青年は一度窓から姿を消したーーと思えば、数分後。

スケッチブックのような大きなノートを手に戻ってきた。


そして、窓越しにページをめくる。

そこには、黒のマジックで太く書かれた言葉。


『こんにちは!』


思わず、声を出しそうになってーー出ないことを思い出す。

でも、久しぶりに感情が動いた気がする、と思った。


泡花も慌てて引き出しから、使わなくなっていたノートとペンを取り出す。

いつもは病状の日誌を書くためにしか使わないそれが、初めて、会話の道具になった。


『こんにちは!』


返された言葉に、青年は嬉しそうに笑顔で頷いた。


そしてまた、新しいページを開く。


『僕は、湊翔みなとっていいます。君の名前は?』


泡花は、一瞬だけ迷った。けれど、書いた。


泡花うたです。』


苗字まで書くのは、なんとなくためらわれた。

けれど名前だけなら、と思い、彼に合わせて書いた。

なんだか、まるでテレビで観るような恋愛ドラマのはじまりみたいだった。

だ自分の中でこの人は、もう特別になっていたのかもしれない。


『また話そうね。』


彼の最後のページに書かれた言葉が、泡花の胸を温めた。


言葉に出せない分だけ、気持ちは静かに、深く染み込んでいく。



その朝を境に、泡花の一日は変わった。


6時に起きて、看護師が来て、点滴の確認が終わると、顔を洗い、髪を軽く整え、窓辺へ向かう。

8時には朝食と検査が始まるため、その前のおおよそ30分ほどが、二人だけの秘密の時間だった。


湊翔は、いつもスケッチブックを使ってやり取りをしてくれた。

天気のこと。看護師さんがちょっと怖かったこと。病院食の好みについて。甘いものが食べたいと言って好きなデザートの話をしてみたり。


話題は、本当に他愛もないものばかりだったけれど、それが愛しかった。

気がつけば、病室から出れない泡花にとって、唯一の楽しみになっていた。


泡花は、久しぶりに日常を過ごしているということを実感した。

また、明日が来ることを、願うようになった。

眠れない夜も時間が過ぎることも憂鬱にならなくなった。


自分のことを知ろうとしてくれる誰かが、自分に笑いかけてくれる誰かが、ただ“いる”ということだけで、生きる理由は、こんなにも簡単に芽吹くのかもしれない。

どれだけ薬を飲んでも、治療を重ねても、効かなかった場所に光が当たった気がした。


ある日、湊翔がスケッチブックに描いたのは、空に浮かぶ雲の絵だった。


『これ、さっき君の窓の上にあった雲。変な形してたでしょ?』


泡花は思わず吹き出しそうになった。

たしかに今朝、ベッドから見上げた空に、大きなイルカのような雲が浮かんでいたのを思い出す。

この人もちゃんと見てたんだ、自分と、同じ空を。


泡花も、ノートにゆっくりとペンを走らせる。


『イルカみたいな空だったよね。見たよ。ふわふわしていて、まるで泳いでるみたいだった。』


湊翔は、ページを閉じて、照れくさそうに目を細めて笑った。

そしてまた、言葉をくれる。


『最近、君に会えるのが楽しみになってるんだ。』


ドクン、と鼓動が跳ねた。


声に出せない分、胸の奥にしまっていた感情が、一気に顔を出す。

ありがとう、嬉しいーー溢れた気持ち全部を、何とか伝えようと泡花はページに書いた。

でも、ノートに大きく書くにはスペースが足りなくて。


『ありがとう、嬉しい。私も……毎日が楽しくなった。』


ーーそう。

本当に、自分の見ている世界が変わったのだ。


湊翔と出会ってから、泡花の日常に新たな風が吹いた。

白い部屋に閉じ込められて、止まっていた時間が、静かに流れ始めている。


彼と会話することが楽しくて、気づけば、久しぶりにノートの端にメロディを書き込んでいた。

ほんの数音。

だけど、その断片が、ふわりと心に灯った。


そして、思い出したのだ。

病状が悪化する前、自分は、毎日時間を忘れるくらいオンラインで、趣味の一環として、泡沫うたかたのうたという活動名で、音楽の創作活動をしていたことを。


その日の夜。

灯りを落とした病室で、泡花は小さなイヤホンを片耳に差し込み、

久しぶりに充電器を差して、PCを立ち上げた。


病院のWi-Fiは遅くて、動作がもたついて、もどかしい気持ちになったりしたけれど。

なにより、このイメージを形にしたい、創りたいという想いが勝っていた。


音に乗せて、表現しよう。

あの大切な時間を。あの言葉にできない溢れる感情を。


湊翔と交わした、何気ないやりとり。

ふと目が合ったときの高鳴り。

朝の光を感じながら、手を振ったあの日。

何もなかった日々に、初めて光が射した記憶。


声が出せない自分でも、音なら伝えられる気がした。


コードを並べ、音を重ね、ひとつひとつ想いを積み上げていく。

漂うだけの日々を重ねて、自分が削れていき、失われていた、泡沫のうたという存在が、静かに、再び形成されていくことを感じた。


この気持ちを届けたい一番の相手は決まっている。

でも、その想いが届くことは、きっとない。

彼は、音楽を作っていることも知らない。

私が、泡沫のうたとして活動していることも、

知ることは、きっとない。

そもそも、私達は窓越しにメッセージをやりとりするだけの関係性なのだから。


だからこそ、素直に自分の気持ちを音楽にぶつけられたのかもしれない。




ある朝、湊翔がスケッチブックにこう書いた。


『……来週、退院することになったんだ。』


その一文を読んだ瞬間、じわりと泡花の視界がにじんだ。

自分の指が、少しだけ震えているのがわかった。


『おめでとう。』

まず書くべきは、その言葉だと思った。

嬉しいことのはずだ。

元気になった証。

彼は彼の日常に戻れる。

でも、書いている間ずっと、胸の奥が痛かった。

強く握りしめすぎたのだろうか。

やけにペンの感触を感じた。


湊翔は、スケッチブックの次のページをめくって続けた。


『今までありがとうね。毎朝話すの、すごく楽しみだったよ。』


別れの言葉のように感じた泡花は、どう返していいかわからなかった。

『また会える?』と聞きたかった。

でも、そう書いたら、きっとその答えを待ってしまうから。


だから、ただ一言ーー。


『私も。ありがとう。』


湊翔は少しだけ寂しそうな表情を浮かべて、またスケッチブックのページを捲り、新しいメッセージを書き始め、そっと掲げた。


『よかったら、ここに連絡して……無理にとは言わないけど。』


そこには、湊翔のチャットアプリのIDが書かれていた。


泡花はそのIDを、メモしたが、自分のスマートフォンに登録は、すぐにはしなかった。


だって、どうせ、日常に戻った彼は、自分のことなど忘れてしまう。

みんな、そうだった。

時間が経てば、声の出ない私を思い出す人なんて、いなくなる。


だから、いいの。

これ以上、期待しない。傷つかないように。

窓越しの距離が私たちにはちょうどいいのだ、きっと。


その夜、泡花はまたパソコンの前に座った。

言葉にできなかった気持ちを、音に変えるために。

なぜか、創作している時、ぽたりぽたりと涙がPCに落ちていき、泡花は手でごしごしと涙を拭ったのだった。


二人だけの窓越しのやりとりが、泡花の色んな感情が混ざって、ひとつの特別な曲になろうとしていた。


数日後。

投稿ボタンを押すのに、あんなに時間がかかったのは初めてだった。

いつもは感情の赴くままに投稿していたのに。


震える指先で、泡花はその曲を泡沫のうた名義のアカウントで動画サイトに投稿した。

タイトルは、『人魚姫』。

何気ない日々に差し込んだ小さな光と、特別な誰かへの別れを歌った曲だった。


声を失った少女が、音でしか言えなかった言葉たち。

その想いをぎゅっと詰め込んで、

ただ静かに、誰かに届けばいいと祈った。


それなのに、予想もしないことが起きた。


翌日。

起きてスマホを開くと、通知が止まらなかった。


再生回数が、信じられないほど伸びていた。

『なんて優しくて泣ける曲なんだろう。』

『静かなのに、胸を締めつけられる。』

『歌詞に出てくるビジョンが、自分にも見えた気がした。』

『現代版人魚姫エモすぎる。』


泡花は、ただ画面を見つめていた。

ぽかんと、まるで自分のことではないかのように、電子の海に漂う誰かの言葉を眺めていた。


これは、自分一人の物語じゃない。

誰にだってある、小さな喜び、人とのつながり、それを失う悲しみ。

それが人々の共感を呼んだのだ。


数日後、もうひとつ驚くべきことが起きた。


泡花が昔から大好きだった配信者、KaiRカイルが、泡花が作ったその曲を、歌ってみた動画でカバーしてくれたのだ。


久しぶりに動画アプリを開いたとき、

タイムラインにふと現れた通知を、泡花は二度見した。


『【歌ってみた】人魚姫/KaiR』


思わずタップする指が震えた。

鼓動が、早くなる。

イヤホンを耳に差し込んだ。


流れたのは、自分の音だった。

でも、自分の声ではなかった。

KaiRの、あの優しくて、でも時折儚く揺れる声が、まるで自分の心を代弁するかのように歌っていた。


『朝日の向こうで 君を見ていた。声を出せずにーー。』


自分で創ったはずの歌詞が、形を変えて、自分の心臓に刺さっていく。

彼は、何を感じながらこの曲を選んでくれたのだろう。

それを想像するだけで、涙が溢れて止まらなかった。


見終わってから、しばらく放心状態になっていると、ライブ配信の通知が画面に流れてきた。

久しぶりに、KaiRの雑談配信が行われていた。

通知のタイミングはちょうどよく、まるで誰かに導かれるようだった。


泡花は、震える指で再生ボタンを押した。

雑談配信のテーマは『最近の話』。

でも、その声が紡ぐ言葉は、どこか懐かしい響きを含んでいた。


「……実はさ、みんなには心配させたくなくて言ってなかったんだけど。ちょっと前に、入院してた期間があってさ。あの時は、世界が止まったみたいだった。朝が来ても、窓の外を眺めるくらいしかやることがなくて。でも、ある日、たまたま目が合った人と意気投合しちゃって。なんていうか、言葉以上の何かを交わせた気がして……」


声のトーンは静かで、彼は思い出を噛み締めるように話していた。

言葉のひとつひとつに、泡花は心を揺さぶられた。


「朝の光って、なんであんなにやさしいんだろうな。声がなくても、笑える時間ってあるんだって、思ったんだ。さっき上げた歌ってみた動画撮ってた時にもそれ思い出してーー。」


その瞬間、泡花はスマホを持つ手が震えているのに気づいた。

これは、あのときの話だ。


明言はしていない。

誰とも言っていない。

それなのに、自分だけがわかる“秘密の話”のように、胸を打つ。

KaiRは顔出しをしていなかった。それでも、浮かぶのは、窓越しに見た湊翔の顔。


まるで、音楽の中に仕掛けられた自分だけへのメッセージみたいにーー。


泡花は、湊翔がくれたあのIDを、ようやくスマホの検索欄に打ち込んだ。


打ち込むと、海堂かいどう 湊翔みなとという名前でサーフィンをしている彼の写真が載せられたアイコンが表示された。


見つけたアカウントを友達追加して、自己紹介のめっちゃを送った後、思い切って、ひとつメッセージを送る。


『湊翔くんって、もしかして……KaiRさんですか?』


数分間、何の反応もなかった。

けれど、画面のメッセージに既読がついたあと、まるで言葉を選ぶような間を挟んで、短い返信が届いた。


『……どうしてわかったの?』


泡花の目に、涙がにじんだ。

嬉しくて、信じられなくて、まるで夢の中にいるみたいで。

でも、やっぱり……と頷けた。


そして、続けて送る。


『あなたが今、投稿した曲。私が作った曲なんです。』


『あの窓越しでのやりとりをイメージして、音にしました。声にできなかったことを、全部、あの曲に込めました。』


送信したあと、しばらくスマホを見つめていた。

心臓がうるさいくらいに鳴っていた。


しばらくして、湊翔ーーいや、KaiRから返信が届いた。


『……すごい。歌ってるとき、君のことを思い浮かべながら歌ってた。でも、まさか君が泡沫のうたさんだったなんて……』


「あの時間が、こんなふうに残ってたことが、何より嬉しいよ。」


その言葉に、泡花は静かに涙を流した。

画面の向こうにいた、ただの憧れの配信者が、

窓越しに笑ってくれた、あの人だったなんてーー。


運命なんて、信じたことなかったのに。

今なら、少しだけ信じられる気がした。


春の風が、病室のカーテンをやさしく揺らしていた。


窓越しの関係から一歩踏み出せる、そんな気がした。


そんな奇跡的な出会いから月日は流れ、自信を少しずつ取り戻し、日常にきらめきを感じるようになった泡花は声を取り戻すことができた。


退院の日。

久しぶりにワンピースに袖を通し、腕についていた入院患者用の識別タグを切り離し、今まで縛られていたように感じていた鎖が解け、世界が広がるような気がした。

泡花は、解放感とともに、病院の施設内にある小さな中庭に向かって歩いていた。二つの棟のちょうど中間にある、入院中には、行くことのなかった小さな場所。


久しぶりの外に泡花は戸惑いながら足を運ぶと、そこには、彼がいた。

窓越しでも、画面越しでもない彼がいた。


ベンチに腰掛けて、スマホを指先でいじりながら、時折不安げに辺りを見回している。

少し伸びた前髪の奥から、どこか懐かしい横顔が覗いた。


泡花は、深呼吸をひとつだけして、そっと足を踏み出した。

足取りはまだ頼りない。

けれど、自分の足で歩くこの瞬間が、こんなにも特別に感じられることを、彼女は初めて知った。


「……っ、湊翔くん。」


久しぶりに人とちゃんと話すために紡がれた声は、自分でも驚くくらい、かすれた小さな声だった。

でも、それはたしかに“声”だった。

文字でも音楽でもない、ちゃんとした、自分の声。


彼がこちらを振り向いた。

一瞬、目を見開いて、ぽかんとした顔をする。

そして、ゆっくりと立ち上がる。


「……君の声、初めて聞いた。」


たったそれだけの言葉が、泡花の胸を締めつけた。

誰にも気づかれなかった沈黙の時間を、彼だけがそっと拾ってくれたような気がした。


「不思議な縁もあるんだね。会えてよかったよ。」


その声は、あの雑談配信で何度も聞いた、KaiRの声だった。

けれど今は、画面越しでもなく、すぐそこから響いてくる声だった。


「……会ってくれて、ありがとう。」


泡花は、震える声で言った。


「私、本当は、声を失っていたの。日常は暗い日々で何も楽しみがなくて。でも、あなたがいたから、声がなくても、繋がれるって思えたの。あなたがいて、つまらない日々が楽しくなった。あの日、話しかけてくれて、ありがとう。」


湊翔は、その言葉をひとつひとつ、噛み締めるように頷いていた。

喋ろうとすると伝えたいことがたくさんあって、しどろもどろになっていると、湊翔が話し始めた。


「初めて君を見た時、ふっと消えてしまいそうだったから。どんどん君の色んな表情が見れて嬉しかった。」


湊翔の言葉に、笑顔に、泡花は目頭が熱くなるのを感じた。そんなことを言われたら、泣きそうになってしまう。


「僕ね、配信活動も元々誰かと楽しい気持ちを分かち合いたいと思って始めてたから、ああやって楽しい時間が作れて僕も本当に楽しかったんだ。ネットってさ、広すぎて誰にも届かない海みたいだなって、ずっと思ってたんだ。画面の向こうは遠くて、誰が本当かも分からない。だから、こういうやりとり新鮮で。」


泡花は、ふっと笑った。


「私、声を失くして、誰にも何も届かなくて。ずっと暗い海の底で沈んでいるような感じで。湊翔くんとは、もうきっと会えないと思ってたし、こんなふうに想いを共有できるなんて思わなかった。」


その言葉に、湊翔は静かに目を細める。

そして、そっと一歩、近づいてくる。


「君は、確かにそこにいたんだ。窓の向こうにも、画面の向こうにも。でも今、ようやく、ここにいる君に、ちゃんと会えた。それがなによりも嬉しい。」


泡花の目からぽろっと一粒の涙がこぼれた。

声も、言葉も、過ごした時間も、全部がいま、この瞬間に繋がった。


ふたりは、そっと並んでベンチに座った。

何を話すかは、まだ分からない。

でも、それでよかった。これから少しずつ重ねていけばいい。


春の陽射しが、地面を照らし、まるで水面のようにきらめいていた。

窓越しに出会って、電子の海で届けた心の声が届き、ようやく現実の空の下で、響き合った瞬間だった。


お読みいただきありがとうございます。

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