第2話「浮遊島アルト・レムリア」
「禁忌者を確保せよ! あの男、トーラ・アシェンを逃がすな!」
背後から響く怒声が森中に反響する。セクリオン部隊の指揮官の声だ。鋭く冷たいその声が、俺の背筋を刺すように追いかけてくる。
セクリオン部隊――アルト・レムリアの秩序を守るために組織された特別精鋭部隊。彼らは毒瘴の漂う魔力嵐の中でも一糸乱れぬ動きを見せる訓練集団だ。全員が毒瘴を軽減する特殊なマスクとゴーグルを装備し、ゴーグルに内蔵された魔力センサーが痕跡を正確に追跡する。
「トーラ・アシェンを見逃せば、島全体の安全が危うくなる! 必ず捕らえろ!」
女性指揮官の声が木々を突き抜け、森に響き渡る。
「リヴィア隊長!足跡を発見しました! この先に逃げています!」
隊員の声が近づいてくる。マスク越しの声が不気味に反響し、静かな森に足音だけが規則的に響いている。
やつらは魔力センサーを駆使して俺たちの足跡や枝に残る微かな痕跡を的確にたどり、息を殺して進んでくる。
「急げ! あの女児が完全に魔物化する前に確保しろ!」
俺は振り返る余裕もなく、アイシャの手を握りながら森の奥へと走り続けた。
「……大丈夫だ。俺に任せろ。」
荒い息を吐きながら、囁くように言う。俺たちは森の中を低い姿勢で進む。アイシャの手が小刻みに震えているのが伝わってきた。
足を止めるわけにはいかない。だが、このままでは逃げ切れないのは明らかだった。
「ここだ……。」
俺は一瞬足を止め、道具袋を取り出した。
「これしか方法はない……。」
呟きながら、震える手で小瓶と金属片を組み合わせ、即席の装置を作り始める。薬液を染み込ませた金属片を瓶に詰め、発火装置を取り付ける。
「この薬液は、魔物の分泌液を薄めたものだ……。火を付ければ一瞬で広がるけど、濃度を間違えると爆発がでかすぎる。」
声を漏らさないようにしながら、装置を地面にセットする。
「頼む……時間を稼げればそれでいいんだ。」
装置を作動させると、小さな爆発音が森に響き、白い煙が反対側に広がった。
「爆発音だ! あっちだ!」
隊員たちが声を上げて音の方へ駆け出していく。
「罠かもしれない! 二手に分かれて確認しろ!」
指揮官の冷静な声が聞こえるが、今がチャンスだ。
「今だ、アイシャ。こっちへ!」
俺はアイシャの手を握り直し、低い姿勢で森の奥へと駆け出す。彼女は無言で頷き、小さな手で俺の袖をしっかりと掴む。
森を抜けた先、崩れかけた廃墟が見えた。
「……なんとか振り切ったか。」
息を切らしながら廃墟に飛び込む。壁は崩れかけ、天井には穴が空いているが、しばらく身を隠すには十分だ。
俺は焚き火を起こし、アイシャを座らせた。彼女の肩に布を掛け、その顔を覗き込む。
「大丈夫か? 怪我はないな?」
アイシャは無言で頷き、小さな手で俺の手を握った。その弱々しい仕草に、俺は微かに笑みを浮かべる。 そして目を上げると、崩れかけた壁に古びた壁画が描かれているのが目に入った。
「……父さんが話してたんだ。」
焚き火の明かりが壁画を照らし、巨大な柱と複雑な紋様が浮かび上がる。その柱が崩壊し、毒瘴に覆われていく様子も描かれている。
「アルト・レムリアがどうして浮いているのかって……魔力の柱がこの島を支えてるんだ。でも、それも永遠じゃない。」
浮遊島アルト・レムリア――それは、空中に浮かぶ島々の集合体だ。大小さまざまな島があって、魔力の力場で宙に浮いてる。俺たちの住んでた村も、その一部だ。
「この柱が崩れたら、俺たちは地上に落ちるしかなくなる。地上は……暗黒の地って呼ばれてる場所だ。常に魔力嵐が吹き荒れて、ほとんどが魔物の巣窟。人間が住むには厳しい場所だよ。」
アイシャの顔を見て、短く息を吐いた。
「あいつらに捕まったら、処刑か……地上送りだろうな。そしたらもう、生きては戻れない。」
彼女の小さな手が俺の袖を掴む。震えるその手が、俺の胸を締め付ける。
「お前だけは……絶対に守るからな。」
俺はアイシャの肩に手を置き、少しだけ息を整えた。彼女の顔はまだ青白いが、その瞳は俺を信じているように見えた。だから、俺も弱音を吐くわけにはいかない。
「……今、俺たちがいるのは、アルト・レムリアの北部の森だ。」
周囲を見渡しながら、低い声で続けた。
「ここは毒瘴の濃度が高くて、人があまり寄りつかない場所だ。俺たちにとっては都合がいい隠れ場所だけど、長居はできない。」
「……俺たちがこうして生き延びていられるのは、あのアルカナコアのおかげかもしれない。」
アイシャは小さく瞬きしながら、じっと俺の顔を見つめている。
「正直、あの禁忌の心臓を取り込んだことで、俺たちの体に何が起きてるのか完全にはわからない。でも、少なくとも普通の人間じゃ到底耐えられないこの毒瘴の中でもこうして動けている……それは、あの力の影響だと思う。」
そう言いながら、俺は自分の手を開閉して感覚を確かめた。指先には毒瘴に侵された特有の鈍さはない。だが、それがどれほど喜ぶべきことなのか、正直俺には判断がつかない。
「……とはいえ、この耐性が永遠に続く保証なんてどこにもない。」
火の明かりがアイシャの白くなった髪を照らす。アイシャは黙ったまま、俺の話を聞いている。震える彼女の手をぎゅっと握り返しながら、俺は次の言葉を続けた。
「目的地は、この森を抜けた先にある廃墟都市『旧アルト・レムリア』だ。」
「そこに『無冠の者たち』がいると聞いたことがある。奴らは浮遊島の上層部に反旗を翻した反逆者で、俺たちみたいに追われる者を匿ってくれるらしい。」
「クラレスに会えれば、安全な隠れ場所が手に入るかもしれないし、あいつらの持つ技術や情報が、お前を救う手がかりになるかもしれない。」
アイシャの顔に一瞬、わずかな希望の色が浮かんだ気がした。それを見て、俺は言葉に力を込めた。
「まだ道は長いけど、必ずたどり着いてみせる。だから、お前ももう少しだけ頑張ってくれ。」
アイシャは小さく頷き、俺の袖を掴む力を少しだけ強くした。その瞬間、遠くからかすかな声が聞こえた。
「まだ近くを探しているのか……。」
俺は焚き火を小さくし、警戒を怠らないように身を低くした。
静まり返った廃墟に、遠くから規則的な足音が響き始めた。
「……くそ、バレたか?」
俺は低く呟きながら、素早く周囲を見回す。外では、セクリオン部隊の指揮官リヴィアの冷静な声が響いていた。
「廃墟内を包囲しろ。奴らを逃がすな。」
部隊の隊員たちは統率の取れた動きで近づいてくる。俺はアイシャの肩を軽く叩き、廃墟の奥へと彼女を促した。
「静かにしてろ。ここで気づかれるわけにはいかない。」
素早く手元のナイフを握りしめ、わずかな音や動きを逃さないよう耳を澄ます。毒瘴の中でも、彼らの動きには迷いがない。足音が次第に近づき、廃墟内にまで侵入してくる気配がした。
「リヴィア隊長、部屋の奥は狭い。すぐに追い詰められます。」
「慎重に動け。奴らが仕掛けてくる可能性もある。」
俺は喉を鳴らしながら呼吸を整え、影の中で姿勢を低くする。
――その時だった。
突然、大地が鈍い音を立て、廃墟全体が大きく揺れ始めた。
「……何だ?」
崩れ落ちる壁の音とともに、遠くから轟音が響いてくる。
「揺れだ! 島が……」
女性指揮官の驚いた声が外から聞こえた。その声がかき消されるように、廃墟の天井から瓦礫が崩れ落ちる。
「アイシャ! こっちだ!」
俺は彼女を抱きかかえるようにして廃墟の外へと飛び出した。視界が開けると、目の前に広がる島の縁に巨大な亀裂が走っているのが見えた。
その亀裂から、青白い光が溢れ出し、地鳴りのような音が止むことなく響いている。俺は足元を踏みしめながら、その光景を見上げた。
「……またか……。」
歯を食いしばりながら、空を見上げると、不気味な黒い影が浮かんでいた。その影は島全体を覆うように広がり、毒瘴の濃度がさらに増している。
セクリオン部隊の動きも止まり、誰もがその異変に目を奪われている。
「全隊員、報告しろ! 状況を確認!」
リヴィアとかいう女隊長の声が緊張に満ちて響いた。だが、その場にいた誰もが、その巨大な影を前にして言葉を失っていた。
俺は拳を握りしめ、その影を睨みつける。
「こんな場所で足止めを食らってる場合じゃない……!」
急がなければならない――。俺たちはまだ、ここで終わるわけにはいかないんだ。
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1. 禁忌者
魔物の力を人間に移植するなど、アルト・レムリアの秩序を脅かす禁断の行為を行った者たち。
社会から追放され、捕らえられれば処刑や地上送りの運命が待っている。
セクリオン部隊によって執拗に追跡される存在。
2. クラリス(無冠の者たち)
浮遊島アルト・レムリアの上層部に反旗を翻した反逆者集団。
追放者や禁忌者を匿い、彼らに安全な隠れ場所と生き残るための技術を提供している。
アルト・レムリアの秘密を知る鍵を握る。
3. 浮遊島アルト・レムリア
魔力の柱によって空中に浮かぶ島々の集合体で、人類の最後の楽園とされる場所。
島を支える柱が崩れると、毒瘴に覆われた地上に落ち、住民は生存の見込みがなくなる。
秩序維持のため、セクリオン部隊が管理と監視を行っている。
4. セクリオン部隊
アルト・レムリアの秩序を守るために組織された特別精鋭部隊。
犯罪者や禁忌者を処刑または地上送りにする役割を担う。
毒瘴の中でも動きを止めない統率力と冷徹な行動で恐れられている。