第1話「聖獣」(4)
メスが肉を裂く感触が、指先から手のひらへと鈍く重く伝わる。聖獣の胸部に刻んだ切れ目から、青白い光が一瞬強烈に漏れ出した。
「……これだ……アルカナコア……!」
俺は息を詰めながら、その光源を探るように慎重に手を差し入れる。聖獣の筋肉繊維が微かに収縮し、指先に不気味な抵抗を感じさせた。
「……早く、いつ動き出すかわからない……」
異様な硬さと柔らかさが混在した感触が指先に触れた。それは心臓を包むように絡みついた魔物特有の膜――高密度の魔力が絡む繊維だった。
「厄介だな……このまま力任せに引きちぎれば、コアが砕ける……。」
俺は額に滲む汗を拭い、メスを握り直す。光が強く脈動する中、膜の繊維の結び目を探りながら一つ一つ切り離していく。
「……ここだ。これを切れば……!」
繊維の結び目を慎重に断ち切ると、ようやく結晶体が顔を覗かせた。その輝きはただの光ではなく、魔力そのものが溢れ出しているかのようだった。
「っ……! 強いな……触れただけで全身に痺れが走る……!」
それでも、躊躇する時間はない。震える手を押さえつけるように力を込め、結晶体の一部を掴む。そして――慎重に引き抜いた瞬間、何かが内部で弾けるような音が響いた。
手のひらに収まる小さな欠片。それは青白い光を微かに脈打たせ、まるで生きているかのように熱を帯びていた。
「……取ったぞ……!」
その輝きがトーラの顔を青白く照らした、その時だった。
聖獣が再び咆哮を上げた。足元に響く振動が全身を貫き、思わず身を低くする。その目が鋭く輝き、翼が一気に広がった。風圧が俺を後ろへと吹き飛ばし、欠片を握りしめた手だけが震える。
「くそっ……!」
地面に転がりながらも、聖獣の動きを見つめる。巨大な翼が毒瘴をかき集め、渦巻くように吸収していく。その体がゆっくりと浮き上がり始めた。
「逃げるつもりか……!」
声を上げても、俺にはもう止める力が残されていない。ただ立ち上がり、力なく拳を握りしめることしかできなかった。
聖獣は青白い光を放ちながら、夜空へと舞い上がる。その姿が徐々に小さくなり、毒瘴の濃度が薄れていく。風が止み、村に静寂が戻るころには、あの巨体は闇の中に完全に消えていた。
「アイシャ……!」
俺は握りしめたアルカナコアの欠片を確かめながら、急いで村へ戻る。妹を救うための唯一の希望――それを胸に抱えながら、足元のおぼつかない体を引きずるようにして走り出した。
家に駆け込んだ瞬間、目に映ったのはベッドに横たわるアイシャの蒼白な顔だった。薄く開かれた瞼の下で目は焦点を失い、かすかな呼吸だけが生存を示していた。
「アイシャ……!」
俺はベッドに駆け寄り、彼女の肩を抱き起こす。肌に触れると、異様に熱い。だが、その熱とは裏腹に彼女の指先は冷え切っていて、まるで命が抜けかけているようだった。
「……お兄ちゃん……もう……動けない……」
弱々しい声が、胸に鋭く突き刺さる。
「大丈夫だ。お前を一人になんてさせない。」
震える声でそう言いながら、机の上のアルカナコアに目を移した。青白い光を放つその結晶体は、まるで脈打つように明滅している。あの力を使えば、アイシャを救えるかもしれない――だが、それは未知の領域だった。
ノートを広げ、これまでの研究記録を確認する。毒瘴の性質、魔物の生態、そしてアルカナコアの特性……全てを照らし合わせる中、ページの端に書き込まれた一文が目に飛び込んだ。
「毒には毒を……」
俺は息を飲む。アルカナコアは毒瘴を吸収し、人間の身体を改変する可能性を秘めている。しかし、それが命を救うのか、命を奪うのかは誰にも分からない。
視線をアイシャに戻す。彼女の細い腕を掴む手に力が入る。
「……頼むから、持ちこたえてくれ。」
俺は震える手でメスを握り、アルカナコアを手元に引き寄せた。
毒瘴の影響が俺自身をも蝕んでいる。頭がぼんやりし、体力が限界に近づいているのを感じた。これではアイシャを救えない。俺もまた、アルカナコアに賭けるしかなかった。
鏡に映る自分の顔は青白く、汗が額を伝っている。胸にメスを当てると、冷たい刃の感触が肌に伝わった。
「……これで失敗すれば、二人とも終わりだ……」
自分にそう言い聞かせ、メスを引いた。激痛が走る中、アルカナコアを胸の中に押し込むと、結晶体が青白い光を脈打ちながら体内に吸い込まれていった。
痛みに歯を食いしばりながら、体を起こす。胸の奥で何かが脈打つ感覚が広がり、視界が急速にクリアになった。
「やった……成功した、のか……!?」
呼吸を整えようと胸に手を当てると、心臓の鼓動がこれまでとは明らかに異なっていることに気づく。リズムが一定ではなく、時折異様に早まる。青白い光が胸の肌越しにわずかに漏れ出しているのが見えた。
「これは……アルカナコアが俺の体に……?」
手を開閉し、指先の感覚を確かめる。毒瘴で鈍くなっていた感覚が徐々に戻り、体全体に力が漲るような感覚が湧き上がる。立ち上がり、足元がしっかりとしていることに驚きながら、壁に手をついた。
「視界が……広がっている……いや、光が違う……?」
部屋の中が以前より鮮明に見える。明るさや色がくっきりとし、今まで気づけなかった細かな埃の舞いまで目に入るようだった。
「本当に……成功したんだな……!」
拳を握りしめると、胸の奥で再び脈打つ感覚が広がった。その脈動に合わせるように、体が反応していることが分かる。
だが、同時に不安も湧き上がる。この変化がどこまで安定しているのか、どれほどの代償があるのかは分からない。それでも、今は目の前の彼女を救うことが最優先だ。やるしかない――。
彼女の胸にメスを当てる手が震えた。自分を冷静に保とうとするが、内心では恐怖が渦巻いている。この選択が間違っていたら――そう思うだけで、足がすくむような感覚に襲われる。
それでも手を止めるわけにはいかない。俺は丁寧に彼女の胸を切開し、心臓を覆う薄い膜を剥がしていった。そして、アルカナコアを彼女の心臓に慎重に押し込む。
結晶体は青白い光を放ちながら、彼女の体内に吸収されていった。その瞬間、アイシャの体がびくりと跳ねた。
「アイシャ……頼む……」
祈るように呟きながら彼女を見つめる。
数秒後、彼女の呼吸が穏やかになり、顔に赤みが戻り始めた。
「お兄ちゃん……」
弱々しくも穏やかな声が、俺の耳に届いた。
安堵の息を吐いたその瞬間、アイシャの体が激しく痙攣した。目を見開くと、瞳が赤く光り始めた。彼女の体には青白い模様が浮かび上がり、それが脈打つように広がっていく。
「いや……嫌だ……! 体が……おかしい……!」
彼女は必死に自分の腕を掴み、震える声を上げた。
「落ち着け、アイシャ! 俺がそばにいる!」
俺は彼女を抱きしめようとしたが、彼女の力が急激に増し、俺を突き飛ばした。その衝撃で壁を突き破り、俺は外に転がった。
アイシャの手は鋭い爪に変わり、模様が青白く光を放ちながら動いている。彼女の息遣いは荒くなり、その口からは低いうなり声が漏れた。
「お兄ちゃん……私、変だよ……! どうしよう……!」
彼女の声は震えていたが、次第に咆哮へと変わっていく。その目が完全に魔物のものへと変わり、俺を鋭く睨んだ。
彼女が咆哮を上げ、爪を振り上げて俺に襲いかかろうとした瞬間、体が崩れるようにして地面に倒れた。俺は急いで駆け寄り、彼女を抱き上げた。
その時――
「お前まさか……アルカナコアを……人間に移植したのか?」
震える声が夜闇を裂いた。その一言が村人たちの恐怖と怒りに火を注ぐ。
「禁忌だ! アルカナコアを人間に使うなんて、神への冒涜だ!」
「だから、あの娘が化け物になったんだ!」
「お前のせいで村全体が危険にさらされる!」
次々と非難の声が上がる中、俺は声を張り上げた。
「だったらどうしろって言うんだ!? 祈るだけで彼女が救われるなら、なぜこんな目に遭わなきゃならないんだ!?」
一瞬、村人たちが動きを止めた――しかし、彼らの目に宿る憎しみは消えなかった。槍を構えた男が一歩前に出る。
「邪魔をするなら、お前ごと始末するぞ!」
月光が槍の刃を冷たく照らし出す。
男が槍を振り上げた瞬間、俺は微動だにせず立ち尽くしていた。そして――
鋭い痛みが肩を突き抜けた。槍が深々と俺の体を貫く。男の手が震え、槍を押し戻そうとするが、俺は逆に槍を握りしめた。
男が驚きに目を見開き、手を震わせている。
「お前……!」
俺は震える手で槍の柄を掴み、自分の体から無理やり引き抜いた。血がどくどくと流れ落ちるのがわかる。しかし、痛みを感じる余裕などなかった。
「……やめろ。これ以上、近づくな。」
俺は目の前の男を睨みつけながら、低い声で言い放つ。
「彼女がどんな姿になろうと……俺の妹だ。」
俺の目は決して揺るがなかった。その視線に、槍を持った男も、周囲の村人たちも、一瞬怯んだように動きを止めた。
村人たちは言葉を失い、怯えた目で互いに顔を見合わせる。憎悪に燃える目もあれば、同情の色を浮かべる目もあるが、誰も前に進もうとはしなかった。
「お兄ちゃん……」
弱々しい声が耳に届く。腕の中のアイシャが、震える手で俺の服を掴む。
「ごめんね……こんな姿になって……でも、ありがとう……守ってくれて……」
赤い瞳に涙が浮かび、か細い声が震えている。俺の胸が締め付けられる。
「何を言ってるんだ……お前は俺の妹だ、アイシャ。」
俺は彼女の手を握りしめ、必死に微笑みを作った。
「もう、苦しませたくない……でも……」
彼女の言葉が途切れると同時に、赤い光が再び瞳に宿る。そして、皮膚の模様が淡く脈動し始めた。
「アイシャ……!」
俺が声をかける間もなく、彼女は再び意識を失った。
俺は彼女を抱きしめたまま立ち尽くしていた。周囲の村人たちは、遠巻きに俺たちを見つめているだけで、誰も近づこうとはしない。
血まみれの手を見つめながら呟いた。頭上には聖獣の毒瘴が漂い続け、青白い光が夜空を怪しく染めている。
俺はゆっくりと立ち上がり、彼女を抱きかかえた。
「まだ終わりじゃない……どんな犠牲を払ってでも……お前を救う方法を見つける……」
背後に向けられる村人たちの視線を振り切るように、一歩ずつ歩き出す。
毒瘴の漂う夜空の下、俺は新たな道を進む決意を胸に抱いていた――それがどれだけ困難なものであろうとも。
・禁忌の移植
- アルカナコアを人間に移植する行為。未知の領域であり、危険と倫理的問題から「禁忌」とされる。