第1話「聖獣」(2)
「……これでいいんだな?」
俺は絞り出すように言い、彼に薬草を渡した。
「それでいい。」
商人が鼻で笑いながら荷車を引く。俺はその背中をじっと睨んでいた。
そのときだった。空が突如、異様な暗さに包まれた。
青白い光が空に広がり、不気味な影がゆっくりと浮かび上がる。その形が明らかになるにつれて、胸の奥に嫌な予感が広がっていく。
「聖獣だ!」
別の村人が叫び、周囲がざわめきに包まれる。
空を覆う巨大な存在――青白い光に包まれた翼を持つ聖獣が、村を見下ろしていた。鋭い目はまるで全てを見透かすかのようで、その神々しい姿に圧倒される一方、全身を震え上がらせた。
「なんだ、あのデカさ……見たことないぞ!」
誰かが震える声で呟いた。俺も、商人も、周囲の村人たちも、揃って空を見上げる。
普段目にする聖獣はもっと小さく、森や神域で見かけるそれらは、せいぜい人間の倍ほどの大きさだ。
だが、今目の前にいるこの存在は明らかに違う。翼を広げたその姿は空そのものを支配しているようで、村全体が影に覆われた。毒瘴を纏い、まるで動く災厄のような威圧感を放っている。
「普通の聖獣じゃない……あれは何だ……?」
村人たちが恐怖に顔を歪めながら呟く。
聖獣が再び咆哮を上げた。耳をつんざくその音は空気を震わせ、風に乗って毒瘴が村全体に広がる。濃い瘴気が肺に入り込み、息が詰まるような苦しさを覚える。
「うっ……!」
前を歩いていた商人が突然、胸を押さえて苦しみ始めた。
「毒瘴だ……! 助けてくれ……!」
商人が咳き込みながら俺に手を伸ばしてくる。その顔色は青白くなり、口から血の混じった咳を漏らしていた。
俺はその手を一瞬見つめたが、何も言わずに振り払った。
「おい、助け……ろ !」
商人が苦しげに叫びながら俺に手を伸ばしてくる。その目には恐怖と苦痛が浮かび上がっていた。
俺は振り返り、手に持っていた薬草を彼に放り投げる。
「その『毒瘴に汚染された薬草』で何とかしてみたらどうだ?」
冷たく言い放つと、商人が薬草を掴もうと手を伸ばすのが視界に入ったが、それ以上見る気にはなれなかった。
俺は背を向けて、足を速める。
「待て……頼む……! 」
商人の声が後ろから追いかけてきたが、耳を塞ぐように俺は前だけを見て走った。その時、喉に突然刺すような痛みを感じる。
「……くそ……。」
咳が一度、二度と止まらなくなる。胸が重苦しくなり、身体が軋むように感じる。だが、今は止まるわけにはいかない。
家が見えた瞬間、俺は扉を開け放つ。
「アイシャ! 無事か!?」
返事はない。不安が胸を支配し始める。急いで中を探し回ると、裏庭で倒れているアイシャの姿が目に入った。
「アイシャ!」
彼女に駆け寄ると、体温が異様に高くなっているのがすぐにわかった。顔色は青白く、唇がかすかに震えている。
「お兄ちゃん……苦しい……!」
弱々しい声と、荒い呼吸。明らかに毒瘴にやられている。
俺は彼女を抱き上げ、家の中に運び込む。だが、その途中で足元がふらつく。頭がぼんやりとしてきて、汗が額を流れる。
「……俺まで……か……。」
だが今は俺の体調を気にしている場合じゃない。彼女をベッドに寝かせ、乱れる呼吸を少しでも楽にしようと、周囲に目を走らせる。
「大丈夫だ、アイシャ……。俺が何とかするから……!」
そう言いながら、作業机の引き出しを乱雑に開けた。薬瓶が並ぶ中で、毒瘴の中和に使える解毒剤が目に入る。だが手に取った瞬間、現実が心を突き刺した。
瓶の中身は一回分しか残っていない。
「……これしかないのか……。」
俺の手が震える。迷いのような影が胸をよぎるが、すぐに頭を振った。考えるまでもない。俺がこの薬を使うわけにはいかない。
振り返ると、ベッドに横たわるアイシャが辛そうに顔を歪めている。その姿を見るだけで、選択肢なんてものは初めから存在しないと分かった。
俺は解毒剤を注射器に詰めながら、アイシャの手を軽く握った。
「アイシャ、これを打つからな。少し痛いけど、すぐ楽になる……。」
彼女の瞳がわずかに開き、弱々しくも俺を見つめる。
「……お兄ちゃんは……大丈夫……なの?」
「俺のことは気にするな。」
微笑みながらそう言ったが、俺の心臓は早鐘のように鳴り響いていた。この一歩が、正しい道へと繋がるのかどうかさえ分からない。それでも、彼女を見捨てるわけにはいかなかった。
「ほら、少しだけじっとしててくれ……。」
震える手で注射器を構え、慎重にアイシャの腕に針を差し込んだ。彼女の体が一瞬びくりと跳ねるが、すぐに落ち着く。
「これで……大丈夫だ……。」
そう呟きながら針を抜き、安堵の息を吐く。だが、その直後――俺の視界がぐらりと揺れた。毒瘴が確実に俺の体を蝕んでいるのだろう。
「……庭の薬草を……!」
咳き込みながら立ち上がり、俺はふらつく足取りで家を飛び出した。庭に行けば、まだ解毒剤を作れるだけの薬草が残っているはずだ。それが最後の頼みの綱だ。
だが、庭にたどり着いた瞬間、目に飛び込んできた光景に、胸の奥が冷たく固まる。
薬草の茂みが荒らされ、ほとんどが根こそぎ抜かれていた。そこには村人たちが数人、手に抱えきれないほどの薬草を持ち去ろうとしている姿があった。
「おい、何してる!」
俺が声を荒げると、振り返った村人たちは怯えたように身をすくめたが、すぐに開き直った表情を見せる。
「何って、必要なものをもらってるだけさ。こんな状況じゃ、皆が生き残るのが最優先だろう?」
「これは俺たちの薬草だ! アイシャのために育ててきたんだ!」
怒りで拳を握りしめながら、俺は一歩踏み出した。しかし、彼らは全く悪びれる様子もなく、薬草を抱えた手をさらに強く握りしめる。
「お前だけが家族を救えると思うなよ。俺たちだって生きたいんだ!」
「そうだ! それに、ここはみんなの村だ。お前が独占する権利なんてない!」
「独占だと? ふざけるな……! アイシャがどれだけ手間をかけて育てたと思ってる!」
視界が揺れる中、毒瘴の重い空気が肺を圧迫してくる。村人たちの言葉は耳に入るが、それ以上にアイシャの顔が頭をよぎる。
「返せ……それがなければ、俺もアイシャも……!」
毒瘴の影響で、体の震えが止まらない。頭がぼんやりして、足元がふらつく。それでも、俺はアイシャの顔を思い出して踏みとどまった。
「誰か……誰か助けてくれ……!」
周囲を見回して声を上げたが、村人たちは誰一人振り返らなかった。それどころか、距離を取りながら互いに顔を見合わせ、ひたすら祈るばかりだ。
「神の試練だ……祈れば救われる……聖獣に手を出してはならない……」
そんな声が聞こえてくる。歯を食いしばる。祈りなんかで救えるなら、とっくに救われているはずだろうが!
俺は足元のふらつきを抑えながら、視線を夜空に浮かぶ聖獣に向けた。あの巨大な影、その胸部――アルカナコアが確かに輝いている。それが毒瘴の浄化作用を持つという記述を、俺は文献で読んだことがある。希望があるとしたら、あれだ。
だが、あれをどうやって手に入れる? 聖獣に近づけば、命を失うかもしれない――いや、迷っている暇はない。
震える手で懐からメスを取り出した。解剖の道具が、こんな形で役立つ日が来るとは思わなかった。歯を食いしばり、腹を決める。
「俺がやるしかない……!」
その瞬間、近くの村人が声を荒げて叫んだ。
「待て! お前、何をする気だ!」
村人たちが俺の前に立ち塞がる。震えた声で祈りを唱えながら、俺を押しとどめようとする。
「聖獣に触れるなんて、神への冒涜だ! やめろ!」
「ふざけるな……そんなものに頼ってどうするつもりだ!」
「どうするつもりだって? 俺の妹が死にかけてるんだぞ!」
俺は彼らを睨みつけ、拳を握りしめる。
「お前たちは祈るだけだ。誰も動かない。誰も助けてくれない。それでいて、俺の行動を止めようとするのか!」
「聖獣の怒りを鎮めるには、何もしないのが一番だ……! 神罰が俺たちにも降りかかる!」
「神罰? そんなもので、アイシャを救えるのか?」
怒りで喉が震えた。誰も俺の気持ちを理解しようとしない。この村の人間は誰も――。
「……邪魔するな……!」
メスを握りしめ、村人たちを振り切るように走り出した。足元はふらついているが、止まるわけにはいかない。あのアルカナコアを手に入れなければ――それ以外にアイシャを救う道はないのだから。
「聖獣に近づくな! お前も死ぬぞ!」
村人たちの声が背後から響くが、もう耳に入らない。
「黙れ……もうあれしか希望はないんだ……!」
目の前に広がる毒瘴の風が顔を叩き、さらに息苦しさが増す。だが、俺は目を閉じることなく、聖獣の胸部に光るアルカナコアを見据えた。
聖獣
- 魔物の別呼称でアルカナ聖堂が神聖視している存在。毒瘴を操り「神の使い」と恐れられる。青白い光が特徴。
- 毒瘴を生成・吸収し続ける能力を持ち、体内にはアルカナコアが存在する。
- 出現は「神の試練」とされ、対抗することは禁忌とされる。祈りや儀式で鎮めようとするが効果は薄い。