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これは、私の恋じゃない  作者: ロジィ
「ごめんなさい」を届けに
30/30

 遥と二人でハンバーガーを食べ、すっかり門限を破って帰宅した私を、ママは青を通り越して蒼白な顔で待っていた。


「千佳ちゃん! ああよかった……。どうしてこんなに遅くなったの? ママ、心配で心配でたくさん連絡したのに、千佳ちゃんったら『遅くなる』ってメッセージくれたきり、電話しても出てくれないんだもの。何かあったんじゃないかって……ママ、どうにかなりそうだったわ。もう少ししたら学校と警察に連絡しようと思ってたのよ」


 抱きしめられたとき、首筋に触れた指先は氷のように冷たかったのに、ママの口から漏れる息は燃えるように熱かった。ママの体からは、今日もバターと卵と砂糖が混じった甘いにおいがする。私は、そのにおいを思い切り吸い込んだ。

 嫌で嫌でたまらなかったにおい。だけど、ふわふわと柔らかく温かいこの中にいれば大丈夫だと、無条件な安心感を覚えてしまうにおい。


「でも無事に帰ってきてくれてよかった。今度からはもっと早く帰ってこないとダメよ。さ、お腹すいたでしょう? すぐお夕飯の用意をするわね。そうそう今日は千佳ちゃんの大好きなマドレーヌを焼いたの。ご飯の前にちょっとだけ食べましょ」


 私を腕から解放していそいそとキッチンに向かったママに、私は「いらない」と言った。急に他の国の言語で話しかけられて意味が分からないみたいに、ママは戸惑いを浮かべた表情で私に振り返った。


「私、今日ハンバーガーを食べてきたの。だからお腹いっぱい」

「ハンガーガーって……どうしてそんなもの。千佳ちゃんが食べたいものは何だってママが作ってあげるのに」

「一緒に食べたのは、私の好きな人で――チーが好きだった人なの。チーと星山高校で会う約束をしてて、私はその約束を守るために星山高校に行ったの」

「ちょ、ちょっと待って千佳ちゃん。ママ、千佳ちゃんの言ってること、よく分からないわ」

「その人は私がチーにしたことを知ってる」


 ママが小さく悲鳴を上げ、手で口元を覆った。わなわなと震える指先はまだ氷のように冷たいのだろうか、と思った。でも、その温度を奪ったのは私だ。


「私はたくさんの人を傷付けた。ずっと嘘をついてごまかしていたけど、もうやめる。私、おばさんに会いに行くよ。私がしたこと、ちゃんと謝らなきゃいけないの」

「あれは千佳ちゃんのせいじゃないの。だから全部忘れていいって言ったでしょう? ね? 今日の千佳ちゃん、なんだか変よ。ああそうだわ。今日ね、お隣の杉田さんからロンドンのお土産でいいアッサムの茶葉をいただいたの。ミルクティーにしましょう。きっとマドレーヌによく合うわ」


 ママはぎこちなく笑ってキッチンに入ると、やかんを火にかけた。こちらに向けた背中がわずかに震えている。


「ママ。私、もう決めたの。チーが死んだのは私のせいだって、おばさんは本当のことを知る権利があるはずでしょ?」

「千佳ちゃん、ダメよ。わがまま言わないで。ね、いい子だから。ほら見て、千佳ちゃん。この紅茶の缶、とっても可愛いでしょう? 使い終わったら千佳ちゃんにあげる。だからもう聞き分けのないこと言わないで」


 ママはまるで駄々をこねる子どもをおもちゃであやすように、ピンクに白い花がちりばめられた紅茶缶を見せてきた。

 ママにとって私はまだ五歳の子どもで、クローゼットで一人泣いていたあの瞬間からずっと成長していないのかもしれない、と思った。

 唇を舐めると、遥と食べたハンバーガーの味がした。

 今日は私が食べたいと思ったものをちゃんと選んだし、カウンターでまごつかずに注文もできたし、食べるのだってうまくできた。遥は「まだまだだな」って笑ってたけど。

 今、私の体の中には私が成長した証が詰まってる。他の人から見れば取るに足らないことでも、私は少しずつ前に進んでる。その証拠が私の胃袋を――心を満たしてる。


「今淹れてあげるからね」

「ママ、私はもう大丈夫。だから――」

「ダメだって言ってるでしょっ!」


 ママが手にしていた紅茶缶を調理台に叩きつけた。開けかけていた蓋が飛んで、中から茶葉がぶちまけられ、華やかな香りがリビングにいる私のもとまで漂ってくる。


「あれはもう終わったことなの! 全部全部終わったの! あなたは何も心配しなくていいって言ってるでしょう。あなたはママの言うことだけ聞いて、幸せになればいいの。それがパパとママの幸せなんだから」

「これが幸せなの? 私がついた嘘のせいでみんなが苦しんでるのに? 私はそんなふうに思えない」

「やめて!」


 やかんの注ぎ口からもうもうと水蒸気が上がり、噴きこぼれた湯がガスの火を消した。動かないママに代わって、私がコンロのスイッチを切った。


「――私は、あの子が嫌いだったのよ」


 華やかな香りを含んだ湿った空気の満ちるキッチンで、ママがぽつりと呟いた。

 今度は私がその意味を計りかねて聞き返す番だった。


「あの子って……チーのこと?」

「そうよ。図々しく家に上がってきて、私が千佳ちゃんのために作ったお菓子を食べ尽くすんだもの。あの子の母親も嫌いだったわ。うちにあの子のこと夜まで押し付けて……夕食まで食べさせてやっても『すいませんねぇ』ってヘラヘラするだけ。誕生日のワンピースだって『うちの子にもああいうのを着せたいんだけどね、ほら私シングルで忙しいからそんな暇なくて』とか言われて、仕方なくあの子の分も作る羽目になったの。それに……家族旅行だったのよ。いくら子どもが行きたがっても普通は遠慮するものでしょ。いなくなればいいのにってずっとずっと思ってたの」


 ママの口から私の知らなかった本心がこぼれ落ちてくる。

 あの日、お揃いのワンピースを着て、海だ海だとはしゃぐ私とチーを優しく見つめていたママの心の中にそんな思いが渦巻いていたなんて。


「あなたたちがいなくなって探し回っていたら、海にさらわれた子どもがいるって連絡があったの。花柄のワンピースを着てる小さな女の子。私はね、|あなたじゃありませんように《・・・・・・・・・・・・・》って願ったの。さすがにあの子であってほしいとまでは思わなかったけど。でも、つまりはそういう意味になるわよね」


 ふ、と鼻で笑ったママは急に歳を取ったように見えた。


――千佳ちゃん! よかった! あなたじゃなかったのね!


 バターと卵と砂糖をたっぷり使ったお菓子が得意なママ。

 チーが死んだあの日からずっと不安そうな顔をして必死に私を守り続けたママ。


「分かったでしょう。あれはあなたのせいじゃないの。忘れてしまいなさい。あの人に憎まれるのは私の役目なの。それに、本当のことを伝えて謝りたいなんて……ただのあなたの自己満足よ」


 自己満足、という言葉がチクリと私の胸を刺した。

 私がやろうとしていることは、またおばさんに辛くて悲しい思いをさせて、新しい憎しみを増やしてしまうだけかもしれない。

 だけど――。

 私が背負うべきものは嘘で覆い隠したものじゃなく、「本当」と向き合って生まれた結果なんだ。

 その思った私自身と、そう思わせてくれた人たちのために、私はきっぱりと言い放つ。


「私、やっぱりおばさんに会いに行く」


 ママの肩からふっと力が抜けた。

 嘘みたいに真っ白な天井をあおぎ、そしてぎゅっと目をつぶった。かすかに開かれた唇から震えるような吐息が漏れる。

 私は床に転がった紅茶の缶を拾い上げ、ママの手に――私をずっと守り続けてきたその手に、触れた。

 

「紅茶は私が淹れるよ。ママのマドレーヌと一緒に食べよう」

「そう……。勝手にしなさい」


 ママはふらふらとリビングに行くと、力なくソファにくずおれた。

 やかんに噴きこぼれた分の水を足し、再びコンロの火を点けたとき、玄関のドアが開く音がした。

 私が迎えに出ると、パパはわずかに驚いたような顔をした。


「お帰りなさい」

「……ああ」

「これからママが焼いてくれたマドレーヌを食べるの。パパも一緒に食べよう」

「いや――」

「お願い。一緒に食べよう」


 キッチンからやかんが沸騰を知らせる笛のような甲高い音が聞こえてくる。だけど、私は動かなかった。パパはそんな私に根負けしたように「分かった」とうなずいた。


「じゃあ待ってるから。手を洗ってきて」

「ああ」

「あと……ずいぶん時間がかかっちゃったけど、私、おばさんに会いに行くよ」


 パパが息を呑む。

 目の前にいる私をじっと見つめ、それからわずかに顔を歪めた。


「行くのか」

「行くよ」

「――そうか。気を付けて行きなさい」


 もう一段高くなったやかんの音に急かされるようにキッチンに駆け込んだとき、視界の端に映ったパパは、さっきのママと同じように天井を仰ぎ見ていた。

 それから私たちは久し振りに三人でテーブルを囲み、同じものを食べた。

 ママのマドレーヌは相変わらず美味しかったけれど、甘いものが苦手なパパは顔を二つ目を口にしたとき顔をしかめていたし、私が淹れた紅茶は茶葉が三人分には足りなくてだいぶ薄かった。

 だけど、誰も何も言わず食べ続け、薄い紅茶を飲み続けた。

 おかしな食卓だったけれど、そのぎこちなさの中にはかつての温もりが残っているような気がした。

 部屋に戻った私は、いつもの癖でベッドのマットレスの下に手を差し入れたが、そこにあったのはおばさんからの年賀状の束だけだった。

 そうか、チーのノートはあのまま部室に置き去りにしたんだった。

 遥といっしょにいるときに瑞希から『教科書とか教室の私の机にしまっておいたからね!』というメッセージが届いたのを思い出す。

 白紙の年賀状。

 年末が近づくたびにおばさんはどんな気持ちでこれを買い、娘とよく似た私の名前を記して投函していたんだろう。出すにしても、謹賀新年というきらびやかな文字と干支が描かれた、これでもかとめでたさを押し付けてくるような年賀状なんてものを選んだのだろう。

 スマートフォンに表示された電話番号をじっと見つめたあと、私は「発信」をタップした。

 わずかな間があり、発信音が鳴る。単調に繰り返されるその音に鼓動が速まり、思わず切ってしまいそうになる。

 早く出てほしい。出てほしくない。切っちゃダメ。今切れば間に合う……。

 正反対の気持ちの間で激しく揺れ動き続けた私の心は、途切れた着信音とともに宙ぶらりんで動きを止めた。


「はい」


 聞こえてきた声が私の記憶の底をくすぐる。


「おばさん」

「あんた、カーなの」


 間髪入れず呼ばれた懐かしい名前に、胸が絞られるように痛んだ。

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