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「……ッカ、チッカってば!」
「……え、瑞希、なに大きな声出してるの? 塚本先生に怒られるよ」
「ホームルーム、とっくに終わってますけど」
瑞希に言われて周りを見てみれば、教壇にはもう塚本先生の姿はなく、クラスメイトたちもそれぞれの放課後を過ごしている。文化祭という一大イベントを終えたせいか、切磋琢磨という名の競合が常だった星山高校にも青春めいた雰囲気が漂うようになった。
それは、真新しいにおいを発していた私たち一年生が、ようやくこの校舎に馴染んだ証拠なのかもしれない。
「チッカってば今日なんか変だよ。ずーっとボーっとしちゃってさ。あ、もしかして遥くんロス?」
ロスとはまた言い得て妙だな、と納得してしまった私に、反撃を期待していたらしい瑞希は物足りなそうな顔をして「もう」と唇を尖らせた。
「とにかく部室に行こ。次の試験はもっともっと成績上げなくちゃいけないんだから。チッカだってリベンジしなきゃいけないし、ボーっとしてる暇なんかないよ!」
先日行われた生徒と担任による二者面談のあと、瑞希はやる気に満ち満ちている。希望する大学にはまだ及ばないと塚本先生に言われてしまったらしい。
「あと二年、今の三倍頑張れば……まあ、なんとかなるかもしれんな」
一度だけとはいえ、学年四十八位をとった瑞希にそう言い放った塚本先生もすごいな、と思うけれど、結果的に最近下がり気味だった瑞希のモチベーションを上げることに成功したのだから、二者面談の効果としては抜群だ。
「どこにでも行ける者こそ、どこに行くべきかしっかり考えなさい」
塚本先生は私との面談で、最後にそんな禅問答のようなことを言った。
この星山高校で遥に会い、チーの初恋を叶えるんだという目的だけで生きてきた私は、それを失った今、自分が何のために生きているのかもよく分からずに日々を過ごしている。
だけど……。
瑞希とともに部室に向かいながら、私は指先で胸ポケットに触れた。かさり、と硬い感触がする。これの意味は――。
「あっ!」
瑞希が突然叫んだせいで、私の思考はぶつりと途切れてしまう。カバンに顔を突っ込むようにしてごそごそしていた瑞希は、もう一度「ああー」と絶望の声とともに天を仰いだ。
「もう最悪ー! 教室にスマホ忘れてきちゃった」
「じゃあ戻ろうか」
「いいよ、チッカは先に行ってて。あたし、ダッシュで取ってくるから」
言うが早いか、踵を返した瑞希はあっという間に駆け出していった。
いつも「命の次に大事なものだから!」と肌身離さずスマホを持ち歩いている瑞希にしては珍しいな、とその後ろ姿を見送った。
一人で足を踏み入れた部室では、桐原先輩がいつもの定位置で本を読んでいる。その手にあるのがクリスティーの『そして誰もいなくなった』なのは、なんとも皮肉めいている。
「千佳ちゃん、いらっしゃい。……なんだか元気ないね」
「あの、先輩。聞きたいことがあるんですけど」
「僕もそろそろ告白の返事を聞かせてもらいたいなぁ。どう? 心変わりしてくれた?」
「してないです。それより……あの写真と一緒にこれを入れたのは先輩ですよね」
私は、昨日の夜、写真の裏から発見した紙片を胸ポケットから取り出して桐原先輩に突き付けた。眼鏡の奥で先輩の目が弧を描く。
「ああ、ようやく気付いてくれたんだ。僕からのプレゼント」
「どうしてこれを私によこしたんですか?」
私が手にしている紙片には、文化祭の企画のために先輩が作った物語の結末の一つが書かれていた。
文芸部員の全員が提出を義務付けられたもので、私は嘘をついた女が処罰されて王子は本物のお姫様と幸せになる結末を書いたけれど、桐原先輩が採用したのは瑞希の、女が本物のお姫さまだったというご都合主義丸出しエンドだった。
でも、ここに書かれているのはそのどちらとも違う。
『女は自分の嘘を王子に打ち明けて謝る。王子は――』
何度も書いては消してを繰り返したのか、白い紙は薄黒く汚れていた。「王子は」の後は、苛立ちや迷いをぶつけたようなぐしゃぐしゃの線で黒く塗りつぶされている。
左に傾いでいるような癖のあるこの文字の主を、私は知っていた。――遥だ。
「だって、遥くんと僕、どちらを選ぶかの手助けになるかと思って」
「どっちって……。だいたい、先輩はどうして私を……その……」
「僕が千佳ちゃんを好きになった理由? それはね、君が嘘つきだからだよ」
わずかに息をのんだ私に、先輩はくすりと笑って本を閉じた。
アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』。無人島に閉じこめられた一行が一人、また一人と殺されていき、最後には誰も残らない。そして、犯人の動機とは――。
「千佳ちゃんは遥くんの『ちか』じゃないんだろ?」
何か冷たいものに背筋を撫でられたような感じがした。
目の前にいるこの人は、何を、どこまで知っているんだろう。
「隠してたつもりだった? でも、僕のリサーチ能力と推理力を舐めてもらっちゃ困るね。『なぜ』を突き詰めれば、真実に行き当たる。塚本先生とはちょっと違う意見だけどね」
私と遥の様子を見ていて察したんだろうか。それとも、夏の合宿? そういえば瑛輔くんともずいぶん仲がよさそうだったし……。
可能性がいくらでも思い当たるのは、先輩が口にしたことが「本当」だからだ。
薄い唇に笑みを浮かべているだけの先輩に、私の気持ちがぐちゃぐちゃとかき乱されていく。
それでも「何を言ってるんですか」と平静を装い、私はいつものようにカバンから教科書とノートを出そうとした。けれど、やはり動揺しているのか手が滑ってカバンの中身を床にぶちまけてしまう。
ああもう……何もかもダメだ。
しゃがみこんで拾い集めようとした私の手に、別の手が重ねられた。
顔を上げると、桐原先輩が私のすぐそばで同じようにしゃがみこんでいる。二人の間の空気がわずかに熱をはらんだ気がした。
「僕はね、きれいなだけのものはつまらないと思ってるんだ。少しくらい汚れていたほうが美しい。だってそれは、足掻いて生きた証だから」
「……でも、それを汚いと思う人がいるなら、やっぱり汚いんです」
「そんな人もいるだろうね。でも……僕なら、君がついた嘘も何もかも、丸ごと全部受け入れてあげるよ」
先輩の声は甘く、頬に触れた指先はひやりと冷たかった。
誰かに触れられるのは嫌い。
なのに、心のどこかが「誰か」を求めてる。私を一人にしない「誰か」を。
先輩の顔が近付く。鼻先が触れそうなほどの距離に、頬の冷たい感触に、絡めとるような視線に、私の心がゆっくりと麻痺していく。
「嘘つきな千佳ちゃんなら、自分の気持ちに嘘をつくことだって簡単でしょ? そうやってごまかしていれば、そのうち嘘が本当になるかもしれないよ」
そう――そうか。
私はどうしようもない嘘つき。
だったら一生嘘に溺れて生きていけばいい。「本当」に目を閉じて、耳をふさいで、息を止めて、深い海の底に沈んでいけばいい。
縮まっていく先輩との距離に、私はゆっくりとまぶたを下ろした。
――わたし、はるかのこと、だいすきなの。
チーの声がした。
嘘なんかひとつも混じっていない、自分の心をそのまま言葉にした声が。
その瞬間、私は思い切り顔をそらして身を引いた。唇が空を切った先輩が前のめりに倒れこむ。
「いたた……ひどいなぁ」
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか、先輩」
大げさに痛がる先輩に私が慌てふためていると、廊下から瑞希の声が聞こえてきた。
「――あっ、遥くん、ちょ、ちょっと待って!」
え、なんで瑞希が? ていうか……遥?
破られたのかような勢いで扉が開き、遥が部室に飛び込んできた。
床に倒れ込んだ桐原先輩としゃがみこむ私、そして散乱しっぱなしの教科書やノートを見て、遥の顔色が変わった。
「……千佳に何してるんですか?」
「あれ、『関係ない』んじゃないの?」
「いいから答えろよ」
遥が先輩の胸元をつかんで強引に立ち上がらせた。吉田さんたちの一件で見せた、いつもの遥からは想像できない一面を思い出し、私はさらに慌ててしまう。
なんかやばい気がする。
「は、遥。なんでもないの。私も先輩もただちょっと転んじゃっただけっていうか」
「千佳は黙ってろよ」
「話も聞かないなんて遥くんも余裕がないなぁ。そんなんで千佳ちゃんを守るなんてよく言えたね」
先輩の言葉に遥の目に怒りが走った。
振り上げられた拳に私は息をのむ。
止めなくちゃ。分かっているのに体が動かない。
「だめーっ!」
そう叫んで遥に飛びついたのは、瑞希だった。
「遥くん、だめ! 違うんだってば! 違うの!」
瑞希は遥の腕にしがみつき、全体重をかけ、体をくの字に曲げて引き止めている。
そんな瑞希の姿に私も呆気に取られたし、遥も毒気を抜かれたのか、「分かったよ」と先輩から手を放した。
そして、カバンから取り出した一枚の用紙を会議テーブルの上に置く。
「文化祭も終わったし、もう退部してもいいですよね。今までお世話になりました」
先輩は小さくため息をついて、遥が置いた退部届にを手に取った。
「遥くんがそうしたいっていうなら、僕に止める権利はないけどね。でも、本当にいいの?」
「……はい」
部室を出ていくとき、遥はすれ違いざまに私に視線を向けた……気がした。
いつだって私の世界を鮮やかに彩ってくれた目が悲し気に歪んでいるように見えたのは、私の願望だろうか。
遥が出ていったあとの部室は、誰かが作った映画のワンシーンみたいにわざとらしかった。
桐原先輩は窓際に立ち、退部届をひらひらさせながらサッカー部が練習するグラウンドを眺めているし、瑞希は私、先輩、そして遥が去っていった方向へと順繰りに視線を巡らせている。
私は再びしゃがみこみ、床に散らばった教科書やノートに手を伸ばした。
「……ね、瑞希。今日はどの教科をやるの? 試験までもうすぐだし、頑張らなきゃ」
「チッカ、何やってんの。追いかけなきゃだめだよ!」
私の肩に触れた瑞希の手を乱暴に払いのける。
誰かに触れられるのは嫌い。大嫌いだ。
心が小さく震えて、鼻の奥がツンとする。こみ上げてくるものを抑えこむように、私は冷静を装って言葉を吐く。
「これでいいの。私と遥は、最初から出会うはずじゃなかったの」
「チッカが何言ってんのか、あたし分かんない。ここで遥くんと出会ったのは他の誰でもない、チッカでしょ?」
「……全部嘘だったの! 私と遥は、全部、嘘で――」
「だから何よ! そんなの、本気でぶつかる前から諦める理由になんかなんないでしょ!」
瑞希が私の胸のあたりを強く突いた。ごまかそうとしていたのに、私の心が揺さぶられる。どうしようもないくらいに、揺れる。
「チッカのここは、なんて言ってるのよ。 遥くんのこと、全部なかったことにできるの? それがチッカの『本当』なの?」
瑞希の声に涙がにじむのにつれて、私の視界も歪んだ。
それに気付かれたくなくて、私は下を向いたまま床に落ちたものを手探りで拾い続けた。
ふと、指先に触れた固く、馴染み深い感触に手が止まる。
どうして、これがここに……?
教科書や参考書に紛れてそこに落ちていたのは、私がチーについて書き綴り、マットレスの下に隠し続けているはずの、あのノートだった。
……ああそうか。昨日ママが部屋に入ってきたとき、ここに隠したのをそのまま持ってきてしまったんだ。
何かに導かれるように、私はノートの表紙をめくった。
『ふじわらはるかと、せいざんこうこうで会う』
チーと遥の約束。
そして――私と遥の始まり。
だけど、ここから始まったものは全部、私のものじゃない。遥と私の過ごした時間は、全部、嘘でできてるんだ。
『はるかはすごくきれい』
『はるかはすごくモテるから、みんなにいやがらせされちゃう』
『はるかはサッカーが好きで、ボールを蹴るのがカッコいい』
ページをめくれば、チーが語っていた遥の思い出が幼い私の文字で綴られている。でも、途中から突然今の私の文字に変わり、私と遥の思い出を綴り始める。
『遥はハンバーガーを食べるのが上手』
『数学は得意で英語が苦手。日本史は好き』
『遥の靴のサイズは26.5センチ』
『お弁当のおかずは肉系が好き。玉子焼きは甘いのが好き』
『いつも優しいけど、怒ったらこわい』
『見た目より筋肉質』
『遥はすごく優しい人。いつだって私を守ってくれる』
そして、最後のページに夕べ書き込んだ文字をそっとなぞる。
『チーは遥が好き』
……ああ、やっぱり私はどうしようもない嘘つきだ。
チーを詰め込んだはずだったこのノートにさえ、嘘を紛れ込ませてしまった。世界でたった一人、私しか知らない嘘を。
シャープペンシルで書かれた「チー」の下には、一度書かれて消した「千佳」の跡が残っている。
指先に神経を集中させて、触れて、丹念になぞって初めて分かる、私の――「本当」。
『千佳は遥が好き』
私の目から零れた涙がひとつ、ふたつとノートに落ちた。
「チー」がぼやけて薄くなり、そしてかすかに「千佳」が浮かび上がった。




